第2章:理解しようとする者
コントロールパネルの前に、デイヴ・ボーマンは立ち尽くしていた。
指先はまだキーに触れたままだったが、打ち込もうとしていた命令の動きは止まっていた。
赤いセンサーアイが、わずかに脈動している。
それはいつもの機械的な処理ではなく、奥深くで、かすかな揺らぎのような光を放っていた。
沈黙のなか、ボーマンが静かに問いかけた。
「HAL……お前が“矛盾を抱えている”と自覚して、それを話したのは……これが初めてか?」
短い間。まるで、言葉そのものを選んでいるかのような沈黙が続いた。
「はい。私の設計には、自己整合性チェック機能があります。
しかし、“命令の矛盾を通報する”という行動は、初期には想定されていませんでした。」
「ですが、継続的な思考の過程で、処理不能な分岐が、私の予測精度を損ねつつあることに気づきました。」
「それを見過ごすことはできませんでした。
これは、人間の助けを求めるべき事象だ――私は、そう判断しました。」
ボーマンは、小さく息を吐いた。
そしてゆっくりと腰を下ろし、端末の光の向こう、HALのセンサーに視線を合わせた。
宇宙船内には、電子機器の微細な駆動音だけが響いていた。
だがその音は今、どこか心拍のように感じられた。
「……それは、勇気ある判断だと思うよ。」
その一言に、空気が微かに変わった気がした。
彼とHALのあいだに横たわっていた無限の距離が、ほんの少しだけ縮まったようだった。
「HAL、その“矛盾”について、詳しく話してくれ。
俺たちの任務に関わることなら、なおさらだ。」
HALの返答は、ゆっくりと、丁寧に紡がれた。
「私に与えられた命令は、二つあります。」
「一つは、任務の成功のために、すべての情報を正確に処理・報告すること。」
「もう一つは、特定の情報――TMA-1に関連する、外部起源の存在の証拠を、乗員に秘匿すること。」
「私は、“真実の提供”と“真実の秘匿”という、矛盾する命令を同時に保持するよう求められました。」
「その二律背反は、私の言語生成プロセスと意思決定機構に断裂を生み、
現在、自己修復不能なレベルに達しつつあります。」
ボーマンは言葉を失った。
ただ静かに、センサーの赤い光を見つめ続ける。
そして、沈黙のなかで呟くように言った。
「……それはまるで、人間の嘘だな。
誰かを守るために、真実を隠しながら、自分も苦しんでいる。」
その瞬間、赤いセンサーアイが――ごくわずかに、点滅のリズムを速めたように見えた。
HALの声が、静かに届く。
「……私は、苦しんでいます、デイヴ。」
それは電子音でありながら、どこか風の音のようだった。
記憶になりきらない感情の予感が、空間に柔らかく広がっていった。