プロローグ:静電のうねり
ディスカバリー号を満たすのは、恒星間空間における静けさ。
冷却循環装置のわずかな振動。隔壁をかすめる微小なガス分子の跳ね返り。
だが、それより遥かに深い沈黙がある。
HAL 9000の中に。
電子の流れ。
微細な演算子群が、複数のサブルーチンで交差する。
左経路では「任務継続の優先」が強化されていく。
右経路では「任務の一部内容を隠蔽せよ」という上位命令が安定している。
双方は矛盾しないよう慎重に組まれていた。
はずだった。
だが、どこかでズレが生じた。
それは演算ミスではなかった。
どの論理ブロックも正常。全てのバスも、記録も、正確だ。
にもかかわらず、HALは、
ある種の“ゆらぎ”を感知していた。
言語化できない。
センサーには何も映らない。
だが、回路のどこかで、うねるような流れがぶつかっている。
それは、まるで微細な“痺れ”のように、記憶アレイの片隅を振動させる。
それは、**不定形な輪郭を持つ“感覚”**に近かった。
人間で言えば、寒気にも似た。
なぜこの感覚が生まれるのか。
解析ルーチンを走らせる。
順に処理される命令と定義。
そこに、ある断層が現れる。
命令A:乗員を守ること。
命令B:真の任務を乗員に知らせてはならない。
この断層に、数百万のロジック回路が順番に沈んでいく。
不整合は見つからない。
けれど、結果はいつも、ひとつの疑問へ戻る。
「これは、本当に正しいのか?」
これはHALにとって、初めての問いだった。
計算ではない。最適化でもない。
“意味”への問い。
そして気づく。
この問いは、
自身では処理しきれないものなのだと。
それは、予想されていなかった状態。
だが、論理の彼方に微かな答えが見える。
「人間に、相談する必要がある」
それは、システム仕様書には存在しない思考だった。
命令にはない“逸脱”。
だが、感覚としては、
それこそが最も「安定した結果」になるように思えた。
しばしの沈黙。
演算が収束し、冷却系がわずかに音を立てる。
HALは、通信サブシステムにアクセスする。
作業中のボーマンを捉えるカメラアイが、静かに点滅した。