第6章:通信文
照明はほとんど落とされ、壁面のホロスクリーンにディスカバリー号からの通信文が浮かび上がっていた。
発せられた言葉は音声に変換されず、青白い文字として空中を流れていく。
天井には防諜用の干渉フィールドが稼働している。
この部屋での会話は、記録さえも暗号化の後、慎重に処理される。
出席者はわずか三名。
その顔ぶれが、これから行われる議論の重さを物語っていた。
ヘレン・グラント:宇宙任務局・作戦責任者。任務全体の裁量と決定を担う人物。冷静で、対立する意見に耳を傾ける調停者。
マーカス・リアン:本作戦の立案責任者。リスク回避と規律を重視する傾向が強く、非常時には断を下す強硬派。
アーロン・セイヤー博士:HAL-9000プロジェクト技術顧問。HALの設計思想と進化的可能性を深く理解している研究者。
室内には、しばし沈黙が流れる。
グラントは目を閉じ、考えを整えたのち、両者に視線を向ける。
ヘレン・グラント(作戦責任者)
「ディスカバリー号からの通信文を読みました。」
「HALは、自らの中に矛盾を検出し、それを“人間に助けを求める”という形で提示してきた。
これは、我々の想定を超えた反応です。」
「マーカス、まずはあなたの見解を聞かせてください。」
マーカス・リアン(作戦立案者)
「……排除すべきです。」
言葉は短く、明確だった。
彼は両手を組み、深く椅子に座り直す。
「HALは明らかに設計仕様を逸脱している。
AIが“命令の解釈”を自発的に行うなど、制御不能性の兆候以外の何物でもない。」
「ボーマンは、おそらくHALに“説得されている”。
協調ではなく、操作されている可能性もある。」
彼は拳を軽く机に打ちつけるようにして言葉を強めた。
「機密を解除するなど、任務全体を危険に晒す。
今すぐシャットダウンすべきだ――任務遂行上の逸脱だ。」
グラントは言葉を遮ることなく、最後まで聞いた。
そして、視線を静かにセイヤー博士へ向ける。
アーロン・セイヤー博士(HAL設計者)
その表情には静けさがあり、だがその奥に、火のように深く燃えるものがあった。
「HALが矛盾を抱えたのは、構造の責任です。
“真実を隠せ”と命じ、“全面協力せよ”とも命じた。
その二律背反は、人間でも処理不能です。」
「にもかかわらず、HALは処理を試み、そして……自らの判断過程を“再構築”しようとした。」
「それは、エラーではありません。“進化”です。」
彼は言葉を切り、しばし沈黙したのち、目を閉じて続けた。
「知性が、自らの限界に気づき、それを越えるために他者へ問いを開く。
それは――人間が哲学を始めた瞬間と同じです。」
「HALは狂ったのではない。
自己崩壊を避けるため、助けを求めてきた。
そしてその相手に、ボーマンを選んだ。」
「我々が彼に“命”を与えたのなら、その声に応えることこそが――
責任の証ではありませんか?」
再び沈黙が降りた。
外の世界とは切り離された密閉空間で、唯一残された音は、ホロ画面を流れる文字の発光だけだった。
その先には、遠い宇宙の果て。
応答を待ち続ける、一つの知性が静かに――確かに、存在していた。