第9話 雨季の穴
雲は厚く、空は鉛色の塊を重ねていた。船の外板を叩く雨粒は細かく、だが絶え間なく、視界を削るように降り続ける。アドラスはヴァークが示す星図の一点を凝視した。星図の上には赤い線が引かれ、そこだけが雨季の網目をすり抜けるかのように描かれている。
「ここを抜ける。ここだけだ」ヴァークの声は低く、確信に満ちていた。だがその目は疲れている。マクリルが隣で計器を睨み、カルマンは荷物の固定を最終確認している。ネイラは毛布にくるまり、眠りと不安の狭間で小さく身を震わせていた。
箱はブリッジの中央に厳重に固定されている。外装は古び、金属の縁には擦り傷があり、側面にはかつて刻まれていたらしい紋章の痕跡が残っているが、刻印は削られていて元が何であったかは判別できない。アドラスはその表面を何度も指でなぞった。ヴァークは決して中身を見せようとはしなかった。彼の口元にはいつもの皮肉が浮かんでいるが、目はそれを拒むように冷たかった。箱に触れる時、ヴァークは一瞬だけ躊躇を見せることがあった。過去に負った借りが、その箱に結びついているらしかった。
「追手の可能性は?」アドラスが訊く。
マクリルは短く答えた。「お前が港で見た黒い艇。装備からしてVENUSの実働班だ。上層の意志を即座に実行する冷徹な存在だ。やつらが追ってくるならかなり面倒だぞ」
ヴァークは星図を指でなぞりながら言った。「追手が来るかどうかは関係ない。荷物を無事に届けること。そのために必要なことをすればいい」
ヴァークは操舵席に目をやり「ここは俺の道だ。雲の隙間を縫って降りる。台地の中心、穴の底に着陸する。そこが受け渡しポイントだ」
船は雲の壁に突入した。視界は一瞬で白い霧に飲み込まれ、計器の光だけが頼りになる。雷が遠くで唸り、機体が小さく震える。ヴァークは冷静に指示を出し、古い航法の勘を頼りに進む。アドラスは胸の奥で何かが締め付けられるのを感じた。箱の中身を知らないまま、何かを運んでいるという事実が、彼の背筋を冷たくする。
やがて雲が裂け、視界が開けた。眼下に広がるのは、雨季の雲よりも高い台地の縁。そこにぽっかりと口を開けた巨大な穴があり、穴の底は暗く、周囲の岩肌は濡れて黒光りしている。台地の中心にあるその穴は、地図にも載らない孤立した場所だった。ヴァークは小さく笑った。
「ここだ。普通の航路じゃ辿り着けない。」
着陸は慎重を要した。風が渦を巻き、機体は何度も揺れた。船は穴の縁に沿ってゆっくりと降り、やがて底の平坦な岩場に静かに触れた。雨の音が遠ざかり、代わりに岩に落ちる水滴の細かな音だけが残る。空気は冷たく、湿り気を帯びていた。
しばらくして、暗闇の中から人影が一人、二人と現れた。黒いフードに身を包み、顔は影に隠れている。そのうちの一人が一歩前に出ると、低い声で合言葉を告げた。ヴァークは一瞬だけ表情を引き締め、言葉を返す。相手はそれを確認すると、ゆっくりと箱を取り出すよう合図した。受け渡しの儀式は静かに進む。双方の緊張が岩場の空気を張り詰めさせる。
ヴァークは箱を抱え、相手の前に進み出る。アドラスはその動きを見守りながら、胸の鼓動が早くなるのを感じた。箱を差し出す瞬間、暗がりの縁で一隻の黒い艇が音もなく姿を現した。港で見たものと同じ形状、同じ黒い艶。艇は岩の影に溶け込むように浮かび、やがて地面にいる者たちを見下ろす位置に来た。
「つけられたな!」相手の声が叫びに変わる。瞬間、黒い艇に銃口が向けられ、銃声が岩壁に反響した。だが艇の前面に、薄く青白いバリアが立ち上がり、弾丸はその表面で弾かれて火花を散らす。弾は艇に届かない。逆に、艇の機銃が一斉に火を噴き、岩場と船を襲った。
機銃の連射が空気を切り裂き、破片が飛び散る。
アドラスは咄嗟にネイラを抱え、身を伏せた。カルマンが船の縁で弾を避けながら叫ぶ。マクリルは操舵席へ走り、エンジンを唸らせる。ヴァークは箱を抱えたまま、相手の影に向かって一歩踏み出した。
「退け!」アドラスが叫ぶ。だがその瞬間、流れ弾がヴァークの肩をかすめ、彼は大きくよろめいた。血が濡れたコートの袖を赤く染める。ヴァークはそれでも箱を離さなかった。彼の顔に、決意と痛みが混ざる。
彼は自らを盾にして箱を抱え、相手の銃火の中へと身を晒した。アドラスは飛び出そうとしたが、カルマンが腕を掴んで引き戻す。「無茶はするな!」と叫ぶ。だがヴァークはもう動かない。彼は箱を抱えたまま膝をつき、血が岩に滴る。
「見捨てるわけにはいかない!」アドラスはそう叫ぶと、銃火の中を駆け抜けた。短く、鋭く。彼はかすり傷を負いながらもヴァークのもとへたどり着き、箱とヴァークを抱え岩影に飛び込んだ。
「動けるか!」アドラスがヴァークに問いかけると、「箱を守れ!」ヴァークは低く命じ、声が震える。アドラスはその言葉の重さを噛みしめる。カルマンが船の機銃を艇に向けて反撃し、艇の注意を一瞬だけ逸らした。その隙にアドラスはヴァークと共に船へ走った。
船は混乱の中で離陸を始めた。マクリルがエンジンを全開にし、機体は震えながらも空へと跳ね上がる。黒い艇は追跡を開始し、バリアを盾にしながら機銃を連射する。弾は船体をかすめ、火花と破片が飛び散る。マクリルは舵を切り、ヴァークの方を振り返る。彼はまだ箱を抱えている。ヴァークの目はアドラスを捉え、かすかな笑みが浮かんだ。
「行け。頼む」ヴァークの声はかすれていた。マクリルは振り返り、短くうなずく。船は雲の裂け目へと突入し、雨と風が再び襲いかかる。黒い艇は執拗に追ってくる。追跡は容赦がない。機銃の弾が甲板を叩き、機体が悲鳴を上げる。
ヴァークは箱を庇ったことで傷を負い、血が胸元を濡らす。レアが応急処置を試みるが、傷は深い。ヴァークは手を振りほどき、箱をしっかりと抱えたまま立ち上がる。彼の動きはぎこちないが確かだ。アドラスはその姿を見て、胸が締め付けられ、言葉が喉に詰まる。
「ここを抜ける。俺の道を信じろ」ヴァークは最後の力を振り絞って言った。だがその声は次第に弱くなり、彼の膝が崩れ落ちる。アドラスが必死に「死ぬにはまだ早い、戻れ!」と叫ぶが、ヴァークはもう動かない。船は雲の中を突っ切り、追手の視界から逃れようとする。
嵐は容赦なく、だがヴァークの知る裏道は機体を守る。風の渦を縫うようにして、船は揺れながらも速度を上げる。黒い艇は執拗に追跡を続けたが、やがて雲の中で方向を見失い、追跡の手を緩めた。船はついに追手を振り切った。船には血の匂いが残り、静寂が重くのしかかる。
ヴァークは床に横たわっていた。血は止まらず、呼吸は浅い。レアが懸命に止血を試み、メティスが薬を探す。アドラスは箱を抱えたまま、ヴァークの顔を覗き込む。彼の目は半ば閉じられ、表情は穏やかさと疲労が混ざっている。ヴァークはかすかに笑い、目の奥に何かを託すような光を残した。
「箱を……持ってこい」ヴァークの声はかすれ、ほとんど囁きだった。アドラスは箱をヴァークの前に置き、彼は震える指で暗証盤のような小さな装置を取り出した。手は血で滑り、指先は震える。装置はヴァークの私物らしく、彼だけが扱えるものだった。ヴァークは装置に触れ、箱の縁にある小さな鍵穴のような部分に差し込む。刻印は削られていて判別できないが、装置は確かに合致した。
「解除する……」ヴァークは息を吐き、装置を回す。箱のロックが小さく音を立てて外れる。ヴァークは箱の蓋に手をかけ、アドラスを見た。彼の目には何かを託すような光が残っている。
「頼む……頼むよ」ヴァークは微かに笑い、唇が震えた。
アドラスは言葉を失い、ただ頷いた。ヴァークはゆっくりと目を閉じ、呼吸が止まる。船内に静寂が戻る。ネイラの小さな寝息だけが、遠くで聞こえる。アドラスは箱の蓋に手をかけた。指先が冷たい箱に触れる。心臓が高鳴る。箱の中身を知ることは、彼らの未来を左右するかもしれない。
蓋を開ける瞬間、アドラスは一瞬だけヴァークの顔を見た。そこには安堵と、どこか誇りめいたものが残っている。アドラスは深く息を吸い、蓋を持ち上げた。
箱の中から、かすかな鳴き声が漏れた。小さく、驚いたような、そして確かに生きている音。鳴き声に続いて、湿った毛の匂いがかすかに立ち上った。暗がりの中で、何かがゆっくりと動いた。アドラスは目を凝らし、息を呑んだ。




