第11話 脱出
窓の外は鉛色の空が続いていた。アドラスはヴァークの席に残された小さな写真を何度も裏返した。写真の裏には走り書きのように一行だけ名前がある。「サルヴァ」。筆跡は確かにヴァークのものだ。メティスは端末の波形を指でなぞり、ルーの微弱な生体信号が断続的に外部へ漏れていることを示した。強度は低いが、特定の周波数帯に一致する。VENUSの網に引っかかる可能性があるという警告は、誰の耳にも冷たく響いた。
「長居はできない」マクリルが短く言った。アドラスは深く息を吸い、決意を固める。脱出のためには燃料、偽装書類、離脱航路が必要だが、何よりもヴァークの旧知に当たる人物の助けが必要だった。写真の名前が、彼らの唯一の手がかりだった。
サルヴァを探すため港町の酒場へ向かった。酒場は薄暗く、木の床は酒と油で光っていた。アドラスとマクリル、カルマンは人目を避けるように奥の席に座り、ネイラはルーを膝に抱えて静かにしていた。ルーは最初の夜に丸くなって眠ったが、今は膝の上で体を寄せ、周囲を好奇心で見回している。表情は落ち着いているが、警戒は解けていない。
アドラスはヴァークの写真をテーブルに出し、酒場の空気を読む。客の顔ぶれは雑多で、裏取引の匂いが漂う。マクリルが低く囁く。「サルヴァの名はここで通じるはずだ。だが直接会えるかは別だ」
情報収集は静かに始まった。アドラスは酒場の常連に小さな金貨を差し出し、ヴァークの名とサルヴァの所在を尋ねる。やがて一人の男が小声で教える。「サルヴァなら倉庫街の方だ。女だ。借りを返すなら顔を出せって言ってた」
その言葉を聞いた瞬間、酒場の空気が変わった。背後から冷たい視線が集まり、アドラスたちは気配に気づく。振り向くと、サルヴァの部下らしい数人の男たちが立っていた。彼らは無言で近づき、アドラスたちを囲むようにして立つ。
「サルヴァに会いたいのか」一人が言った。声には命令の響きがある。アドラスは手を上げて落ち着かせるようにし、写真を見せた。「ヴァークの頼みだ。会わせてほしい」
部下の一人が短く笑い、背後の扉を指差した。「案内してやる。だが、サルヴァの機嫌を損ねるなよ」彼らは無言でアドラスたちを連れ出し、酒場の裏手へと導いた。路地を抜けると、古い倉庫の前に立つ女の姿が見えた。背は高くないが、肩幅があり、顔には深い皺が刻まれている。だがその目は鋭く、周囲を一瞬で測るような冷静さがあった。
「ヴァークの頼みか」女は低く言った。声には煙草と古い酒場の匂いが混じる。アドラスは写真を差し出し、短く経緯を説明する。ヴァークの死、箱、ルーの存在。女は黙って聞き、時折指先で顎を撫でた。
「協力はできる」彼女はやがて言った。「だが代償がいる。一つ仕事を引き受けてもらう。俺の手が届かない場所にある荷物の回収を手伝ってくれ、危険だが報酬は相応だ」
アドラスは一瞬ためらった。女の顔に浮かんだ影は、ヴァークが抱えていた何かの重さを示しているようだった。だが選択肢は少ない。アドラスは深く息を吸い、決断を下す。「引き受ける」彼の声は静かだが揺るがなかった。女は短く頷き、名乗った。
「サルヴァだ。よろしく」彼女の名は低く、しかし確かな響きを持っていた
サルヴァの手配した燃料タンクが船に積まれ、偽装書類は古い端末からプリントアウトされた紙片に印刷された。サルヴァは自分の部下を数人連れてきて、座標を示した。回収する荷物は港の北にある廃工場の地下にあるという。そこには残留警備がいる可能性が高い。時間は限られている。
廃工場は錆びた鉄骨と崩れかけた壁に囲まれていた。夜の闇が深く、風が金属を鳴らす。サルヴァの仲間が先導し、彼らは静かに敷地内へと侵入する。古い監視カメラはほとんど機能していないが、地下へ続く階段の先には不穏な気配が漂っていた。
階段を降りると、湿った空気と油の匂いが鼻を突いた。地下室には古いコンテナが積まれ、埃が舞っている。サルヴァは手早く鍵を開け、奥の一つを引き出した。中には小さな箱があり、ヴァークの暗証装置と似た刻印がかすかに見えた。箱の表面は黒光りする鉱物の粉で覆われており、触れると冷たく、微かに振動するような感触があった。
「これだ」サルヴァは箱を抱え上げると、顔に一瞬だけ苦い笑みを浮かべた。そのとき、地下の奥から金属の擦れる音がした。警備が戻ってきたのだ。ライトが階段を照らし、複数の影が滑り降りてくる。
だが彼らの前に現れたのは人間ではなかった。廃工場の警備は、古びたロボット群で構成されていた。錆びた外装に古い識別灯が点滅し、関節部から油が滴る。だが動作は機敏で、無数のアームが伸びて襲いかかってくる。警備ロボットは無機質な音を立て、地下室を暴れ回った。
戦闘は瞬時に激化した。カルマンが先に飛び出し、相手の一体を押し倒す。マクリルは冷静に動き、狭い通路を利用して相手の動きを封じる。アドラスはネイラを守りながら、サルヴァと共に前へ出る。サルヴァは片手で箱を抱え、もう一方の手で短剣を振るった。彼女の動きは無駄がなく、長年の経験が滲んでいる。
ロボットは数で押してくる。鋭いアームが火花を散らし、油の匂いが鼻を突く。メティスは端末を操作してロボットの制御信号を解析し、短時間の妨害を試みる。だがロボットはあまりに数が多く、破壊しても別の個体が代わりに動く。地下は金属音と叫び声で満たされ、火花が暗闇を切り裂いた。
その混乱の中で、サルヴァの部下の一人が重傷を負い、床に倒れた。血が油に滲む。サルヴァは一瞬だけ立ち止まり、仲間の顔を見た。彼女の目に迷いが走るが、すぐに決意を固めると仲間と箱を抱えて走り出した。アドラスは彼女を追い、二人は狭い通路を抜けて外へと飛び出した
外に出ると、夜空に小さな黒い影が浮かんでいた。偵察艇が低空で旋回し、スポットライトが地面を撫でる。彼らの存在は冷たく、計算されたものだった。サルヴァは短く舌打ちをし、アドラスに向かって言った。「行け。俺が足止めをする」
だがその瞬間、倒れた部下が苦痛で呻き、血が止まらない。カルマンが駆け寄り、応急処置を試みるが、傷は深い。そこへレアが駆け寄り、手際よく包帯を当て、止血を試みる。彼女の動きは冷静で確かだ。簡易の止血帯を巻き、傷口を押さえ、呼吸を整える。部下の顔色はわずかに戻るが、まだ危険な状態だ。
「これだけじゃ足りない」レアが端末を覗き込み、低く呟く。回復の見込みは薄い。ネイラは顔を歪め、ルーを抱き上げ何かを訴え掛けるようだった。ルーは一瞬周囲を見回し、そして負傷したサルヴァの部下の胸に顔を押し当てた。低く喉を鳴らすと、周囲の空気が微かに震え、傷口の血がゆっくりと薄くなっていく。
ルーの癒しは確かに効いた。サルヴァの部下の呼吸は安定し、血の流れは穏やかになった。仲間たちは驚き安堵の息を漏らす。だがその直後、ルーの体に異変が現れた。体温が急速に下がり、呼吸が浅くなる。目の輝きが薄れ、力なくネイラの腕に沈み込むように身を委ねた。
メティスの端末のログは赤い警告を示し、数値が急激に変動する。ルーは深い疲労に襲われ、しばらく動けなくなるだろうという結論が出る。ネイラは泣きそうな顔でルーを抱きしめる。アドラスは拳を固め、窓の外の黒い点を睨む。追跡は続いている。燃料は限られている。サルヴァの姿は見えない。
脱出は混乱の中で始まった。船は急いで離陸し、雲の裂け目へと突入する。偵察艇は追跡を開始し、機銃の閃光が遠くで見える。メティスは必死にルーの信号をノイズで覆い、マクリルはエンジンを全開にする。アドラスはネイラとルーを抱え、胸の中でルーの小さな体の鼓動を確かめる。
今回、サルヴァの部下の一人が道案内としてアドラスたちの船に乗り込んでいた。彼は負傷を負いながらも、脱出のために最後まで協力してくれた。
「サルヴァは無事に脱出できただろうか」
アドラスがそう言うと、サルヴァの部下が「ボスなら大丈夫だ。こんなの日常茶飯事さ。」
そう言い終えたころ、船の通信に呼び掛けがあった、マクリルが警戒しながら応答すると、「無事に脱出出来たみたいだな」とサルヴァの声が聞こえたきた。
「ああ、あんたの部下のお陰だ。」マクリルがそう答えると、サルヴァは少し笑った。
「案内させた部下を回収する。座標を送るからそこで落ち合おう。」
サルヴァはそう言うと通信を切った。
合流後、サルヴァは負傷した部下を見ながら唇を噛んだ。
「部下の命を救ってくれて感謝する。その子がいなければこいつは死んでいた。」
「この生き物について何か知ってるか。」マクリルが尋ねたが、サルヴァは首を横に振った。「こんな生き物は見たことない。おそらく実験で作られた生物だろう。」
サルヴァはそう言うとアドラスに向かって、「この箱の回収は元々ヴァークからの依頼されたものなんだ。中身が何かは聞かされていないが、おそらくその生物と関係があるんだろう。おまえ達が持っているべきだ。」
彼女は箱をアドラスに手渡し、目を合わせた。「気をつけろ。VENUSはしつこい」
そう言うとサルヴァは仲間と共に去っていった。船内には静かな余韻だけが残った。
船内で箱を開けると、中には黒光りする小さな結晶が納められていた。表面は滑らかで、光を受けると深い青緑の輝きを放つ。メティスは端末を取り出し、結晶の微量成分を分析する。結果は簡潔だが衝撃的だった。結晶は既知の鉱物とは異なる構造を持ち、微弱な生体電磁信号を発する性質がある。
「これは単なる鉱物じゃない」メティスは低く言った。「生体信号を増幅する性質がある。ヴァークはこれを何らかの目的で手に入れようとしていた。兵器か、治療か、あるいは別の用途かもしれない。だが確かなのは、これが外部センサーに引っかかる原因の一つになるということだ」
アドラスは結晶を手に取り、冷たい感触を確かめる。ルーの存在とこの鉱物の関係はまだ不明だが、箱がVENUSの関心を引いた理由は少し見えてきた。ヴァークは何を守ろうとしたのか。何を隠そうとしたのか。問いは増えるばかりだ。
船が星の海へと進む中、追跡の影は完全には消えていなかった。無機質な通信室で、若い隊員が冷静に報告する。
「部隊長、対象の生体反応を確認しました。成人男性一名、幼児と思われる女性一名、及び未確認生体一体を確認。未確認生体は幼児に強い反応を示しています。追跡継続を要請します」
部隊長は短く命令を下す。報告は事務的だが、その内容は重い。ルー、ネイラ、アドラスの存在がVENUSのデータベースに刻まれた瞬間、彼らの逃避行は新たな段階へと入った。
船内の灯りが柔らかく揺れる中、アドラスは窓の外の星を見つめた。ルーはネイラの腕の中で浅い呼吸を繰り返し、時折小さな夢のように足をぴくりと動かす。メティスは端末のログを再確認し、疲労の回復時間と今後のリスクを計算する。燃料は限られている。VENUSの追跡は続く。だが彼らは一歩前に進んだ。
アドラスは拳を固め、静かに誓った。目の前の小さな命を守ることが最優先だ。船は星の海へと進み、追跡の影を背に、次の目的地へと向かって。




