26.絶命の裁量
山の向こう、雲間に隠れて太陽が姿を表す。
それと同時に日咲と采加は洞窟の前に到着し、そして愕然とした。
洞窟の入り口となる穴の前に、体長二メートルはありそうな黒いクマがうずくまっていた。茫然と眺めていると、穴の中から小グマが出てきた。
大きい方は親だろう。
のしっと身体を起こし、我が子を穴の中に追いやる。
「日咲、どうしよう」
采加の目には涙が溢れていた。日咲は唇を噛み、熊を見つめる。
「子グマが出てきたってことは、中に人はいないって事よね。海吏、出て行ったんだ」
「どうしよう、ここ以外に隠れる場所あるかな?」
「少し離れたところに大樹があるけど、今動くのは危険すぎる」
朝日が差し込んできた森の中は暑く、汗が首筋を伝った。
「采加、リュックの中にナイフあったよね?」
「あるけど……え?」
「クマくらいなら、私でも倒せる」
采加のリュックから小ぶりのナイフを取り出して、胸の前に掲げる日咲。采加は慌ててその手を掴んだ。
「いやいやいや、クマってすごく強いって図鑑に書いてあったよ?」
「あんたが持ってる図鑑は、人間が堕落生活してた時代のものでしょ? 私のほうが強いと思う、たぶん」
ジリっと足を踏み出す日咲。
「こっちに気づかれる前に心臓を刺せばいい。もし気づかれたとしても、クマくらいなら……勝てる、んだけど」
ナイフを持つ日咲の手が震える。采加はその手を自分の両手で包んだ。
目配せをした日咲が、ナイフを地面に落とす。
「同じだ、私……自分の身を守るために他の命を奪おうとしてる。海吏のこと、説教できる立場じゃなかった」
「それは、同じじゃないよ。あの人の場合は殺す必要なかったでしょ?」
「でも、もしここで私があのクマを殺したら、結果は同じことになる。理由はどうあれ、私は自分のために別の命を奪ったことになる」
「……じゃあ私がやる」
日咲からナイフを奪い、采加はじっと熊のいる方向を睨む。
「バカ言わないで、采加にはできないよ」
「日咲にできるなら、私にもできる」
「采加は地底人でしょ?」
「そんなの関係ない。私だって日咲を守るって決めたの。だから、日咲のつらい気持ちは私が全部引き受ける」
「采加!」
肩を掴まれ、采加は日咲と向かい合った。
「采加には無理だよ、だからやめて」
「でも」
「いなくならないでよ……采加まで、私から離れていかないで。本当に私が大切なら、私を守りたいなら、一人にしないで、ずっとそばにいてよ!」
采加にしがみついて涙を流す日咲。采加は胸に熱くこみ上げるものを感じ、ナイフを持つ手を下ろした。
守ろうと思った、守らなければと。
海吏に代わって私が、彼がそうしたように今度は私が命をかけて。
泣き崩れている日咲の姿が、海吏を失った日の彼女と重なった。
あの日、機人に襲われた日、海吏の命と引き換えに日咲は助かった。
その代わり、日咲の心は壊れた。
泣いて泣いて泣き崩れて、そしてようやく修復する事ができた。
『采加がいたから』
そう言って、日咲は笑ったのだ。
「そっか、私の責務は……」
采加はナイフを床に置き、日咲の体を抱きしめた。
「ごめん、日咲。そっか、私がするべきことは、日咲の命を守るんじゃなくて……日咲の心を守ることなんだね」
「私の命を、守る?」
「だってどうやっても私は、身体的には海吏さんに敵わない。だけど日咲の心に寄り添うことは出来るよ。いなくなった海吏さんの代わりに、日咲を笑わせることができる」
「……代わりとか、そんなこと思ってない……そんなこと言わないでよ」
ぎゅっと、日咲が采加の身体を抱き返した。
朝日はすでに顔を出していた。
暖かい日差し、明るい風景。
「このまま死んじゃってもいいかも」
それは日咲が発した言葉か、それとも采加のものかわからない。
涙で滲んだ采加の眼前に、親グマが覆い被さってきた。
逃げることも、抵抗することも忘れていた。ただ日咲を抱きしめて、クマを見上げる。
ちょうどその時、太陽の光を白い影が遮った。
「……うそ」
タイミングが良すぎて、采加は目の前にいる人物の存在を信じることができなかった。
不審に思った日咲が顔をあげて目にしたものは、
「こんな場所でなにしてる? ……主」
淡々とした抑揚のない声、あいかわらず無表情を決め込む海吏の姿だった。




