第四話「『バルムンク王国』」
私がいない間の村は無防備だ、武双させてはいるが、付け焼刃の臨戦態勢……素人が武器を持っただけの状態だ。この馬には悪いが、かなり走らせるしか道はなかった。
「……ヒスイ」
「喋らないで! 舌、嚙むよ」
心の中で、これは親切の為に言ったんだと言い聞かせる。そうだ、死んだら元も子もない……それに死んだら困るのは私なのだ。何が後ろめたい? 何が私の心をうろついている?
「どぉ、どぉ」
丁度いい頃合いだ、休もう。出発からしばらく経ったが、一度も馬を休ませていなかった。そう、死なないように、休ませなければいけなかった。馬から降り、手綱をしっかりと握る。今日の私は運がいい、近くに丁度よく湖があった……馬も私も喉がカラカラだ。
「フゥ……美味しい! ねぇモア……」
――モア。呼びかけて、黙ってしまった自分が情けなかった。何のための明るい自分なのだ、こんなところで遠慮して、空気を読んでどうするんだ。仲直りは、空気の読めない笑いから生まれる事だってあるんだぞ?
(って、喧嘩なんてしてないよね。お前自身の、思い込みだっつの……)
そのせいか、モアは馬の背から降りようとしない。どこか遠くを、まるで天界を思っているかのように感じた。私はそれを見て、この天使にも手綱があればいいのに、なんて思ってしまった。
「……雨」
「っ……?」
視線が、空から私に移される。その表情がやけに悲しげで、どうしようもなく悲観的で……自分が何か申し訳なく酷いことをして、それを無条件に許してもらったような、そんな事を思ってしまう、まさに「天使」の表情だった。
そんな調子で休息は終わり、長い旅路でも会話が無いまま、私たちは並び聳え立つ巨大な壁を目視した。
その王国の名は『バルムンク』。かつて『竜』を人ならざる一撃で倒した大英雄の生まれ育った故郷であり、二本の聖剣の内が一本……その名の通りの『バルムンク』が収められている……というより、『抜けないで突き刺さっている』国である。
「……」
「……」
黙ったまま、遂に城壁からそう遠くない場所にまで来てしまった。それは別れが近いことも示唆していた……根拠も無い今生の別れが、予感と、確信として脳裏を支配していた。
「ここで、降ります」
そう言って、馬からモアが降りた。そのまま私の前を歩いていく、手を伸ばすが、すぐに引っ込んでしまう……。武装した衛兵二人が、丸腰で近づいてくるモアを呼び止めようとする。すると。ばさぁっ! ずっと仕舞われていた翼と光輪が、まるで手品で出てきた鳩のように現れる。それを見た衛兵二人は、互いに合図をし、しばらくすると、門が開いた。
その門に、彼女が吸い込まれていくような気がした。食べられてしまえばもう、元には戻ってこれない……なんだ、この感じ。絶対に彼女を行かせてはいけない気がしてならない。何をしているんだ私は、何故槍を持つ手が熱い? やめろ、考えるな……おかしい、だが、だが――!
「ヒスイ」
熱くなった鉄に水を掛けられたように、私の意識は引き戻される。そして水をかけてきた、美しい天使へと吸い込まれていく。彼女は最後、笑って私にこう言った。
「さよなら」
この建物は、いつ入っても不快だ。
恐らく天使が苦手な『竜』の素材、つまりは『竜骸』の骨が使われているのだろう。常に何かに見られているような、気を抜けば痛みだけが自分を食い荒らすのではないか……そんな本能的な恐怖に襲われてしまう。
「戻ったな」
そんな、悪趣味な建物の最も立派……最も不快な感覚が強い其処に、その男は座っていた。
「自ら戻ってくるとは、珍しい天使もいるものなのだな……『世界をもっと知る』とやらは、もう充分楽しんだという事か?」
黄金。力と祝福の象徴で作られた鎧、それだけでは飽き足らず、金の冠、金の玉座、金のフォークとスプーン。食べる物にまで金粉がかかっているので、金の盃の中身も案の定だった。
素材そのものに祝福が宿る成金趣味に加え、並大抵の力では壊れない『竜骸』の素材を使った建物……そう、この悪趣味な建物こそがハンター総本山である『ヴァルハラ』である。
「答えなくてもいい、俺には全てが分かる。それが例え、神の使徒である貴様の考えであっても、だ」
傲慢な人間っぽい、如何にもなセリフだった。この男は、恐らくこうやってたくさんの人間と天使を殺してきたのだろう。そしてこれから、私もそれの内の一人になるのである。
「さて、俺が最後に問いたいのはただ一つだ……。――あの赤髪の女は、誰だ?」
「……っ、関係ありません! 彼女はヒスイ! 目の色も、髪の色も伝説とは違います! 何より、彼女からは『竜の心臓』の匂いがしませんでした!」
訝しげな眼をするこの男の誤解を、私は解かなければならない。これを解かなければ、恐らくヒスイは殺されるだろう。そこに少しでも疑いが存在しているのであれば、自らの手で彼女を殺しに行くことだろう。
「『竜』は、必ず滅ぼさなければならない。怪しきは例外なく罰する。だが……お前の言葉を信じよう。そしてもう一つ、尋ねたいことがある」
「何でしょうか」
「楽しかったか?」
息が、詰まった。別に、私に同情をしている訳ではないだろう。ただの好奇心で、おまけに皮肉も込めているだろう……でも、私はそれを思い返して、敢えて。
「とても、とても楽しかったです」
「そうか」
表情一つ崩さないまま、男は口にきらびやかな肉を運んだ。それを咀嚼し、潰し、引きちぎり、飲み込む。私もこれから、あの肉のように無残な姿になるのだろうか。
「なるべく苦しまずに還すよう、手配しよう。契約内容は確認済みだ、心配しなくてもいい」
「あの」
「なんだ」
「最後に食べたいものがあるのですが、いいですか?」
「言ってみろ」
私の方を見ることなく、尋ねて来た。ダメ元で聞いたからなのか、話に乗ってもらえたことが不思議と嬉しかった。おかしい話だ、これから殺される私が、あんなもので諦めを付けようとしているなど……。自分自身を笑ってから、私はそれの名を口にした。
「リンゴ、です」
選択肢などない。だって私が食べたのは、あれが最初で最後の食べ物だったからだ。
気になって、気になって。結局まだ私は、聳え立つ壁を見上げていた。村の人たちのことも気になるし、今まさに『竜骸』が襲っているかもしれない……なのに、帰ろうと思えなかった。
(……『またね』じゃなくて、『さよなら』か)
それが、一番深い所に刺さっていた。罪悪感と、根拠の無い勘。それらが私の選択肢から、「村に帰る」を消し去っているのである。理由は無い、確証も無い。ただ物凄く不安で、このまま帰ってしまったら、二度と会えないんじゃないかと不安になっているだけなのだから。だから、私は、今すぐ帰るべきで……。
「ダメダメ、ここは通せない!」
いきなり、武装した見張りのうち一人の張り上げた声が聞こえて来た。何事かとそちらを見ると、そこには全身を使って訴える青年がいた。何やら見張りの言い分に不満があるらしく、納得できていなさそうに激昂していた。口論の末、何と見張りが剣を抜いた! それに物怖じした少年は、頭を掻きむしりながら向こうへ行ってしまった。
「……あっ、待って!」
私は、見張りに目を付けられないように追いかけた。こちらに気付いていないらしく、ぶつぶつと何か呟きながら壁を睨んでいた。私はその人の肩に手を置いた、するとビクゥっ! 飛び上がり、ひっくり返ってゴロゴロと……しりもちをついたような形で、その少年は私を見上げていた。
「な、なんだこの野郎! 今日はもう諦めるよ! ほら、帰るから……」
「違う違う! 私はここの人間じゃないし、なんなら君と同じこの中に入りたい人間だよ!」
何を言っているんだ自分は、って言うか今自分は何がしたいんだ? 矛盾した意識、定まらない目的を追いかけながらの私を、少年は不審そうに見て……それからむくりと起き上がった。
「入る方法なんて俺は知らないね。このお高い壁のせいで、忍び込もうにもできないって訳だ。仮に壁を登り切ったとしても、対飛竜砲を撃たれてお終いだよ」
「そう……なの。ごめんなさい」
「別にあんたが謝る事ねぇだろ。んで、アンタはなんでここに入りたいんだい?」
ストレートに聞かれても困ってしまう。何をしたいのか、どういう目的で何をしたいのかも分からないのに、私はこの人に話しかけてしまったのだから。
「……えーっと。て、天使の友達が最近できてぇ……その子がこの国から勝手に抜け出てきちゃったらしくて、それを私が送ってきたんだけど。……お別れ‼ 言えなかったから、もう一回会ってお別れ言いたいなぁ、って……」
「……お前、頭大丈夫か?」
「え?」
突然の激昂。一歩二歩、踏み出してくる少年の気迫に押されて下がりそうになる。踏みとどまったが、胸ぐらを掴まれた。酷い形相が、私の視線に釘付けだった。
「お前は、自分の友達を売ったんだ! さっき『勝手に抜けて来た』って言ったな、あれは逃げて来たんだよ! いいか、よく聞け。天使が地上にいるのは大体二通りの理由しかない。一つは《神》からの命令があって、何かをしなきゃいけない時。そしてもう一つは、契約の為に無理やり呼び出された時! そして後者の場合、天使は契約後……」
「――どうなるの」
「『竜骸』に、生きたまま喰わされる。契約を変えられたり破棄されないために」
思わず、叫び出すところだった。抑えた自分は、まだ理性を保っている。
『……ヒスイ』
何度も、何度も彼女はSOSを出していたのではないか?
思い返せば何か言いたげな顔だった、とても大切なこと……それに対して目を背け、勘違いしたまま無視していたのは、誰だ? 私だ、私しかいない。
『さよなら』
彼女は、『またね』とは言わなかった。いいや、言えなかったのだ。また会う時までに生きてなどいられないから、これで会うのは最後だったから……。彼女は、最後まで『たすけて』を言わなかった。彼女は私の反応を見て、「巻き込んではいけない」と思ったのか? 勘違いだけで、命の恩人を処刑台に追いやるような、私に対して?
「く、そっ、たれっ!」
怒りが槍先へと伝わっていく。地面に突き刺さったそれは、無駄な力を周囲にばら撒く……地面が少し割れ、それらが進み、やがて壁へと伝わっていく! 人一人が通れるぐらいの穴が開き、少年は再び腰を抜かした。
「名前、まだ聞いてなかったね。私はヒスイ、ヒスイ・ジークフリート」
「えっ、はっ……? ちょっと待て、ジークフリートって、お前まさか!」
「あんたの名前は!?」
八つ当たりだという事は分かっている。だが、余りにもやるせない……不甲斐ない、許せない、何のために鍛えた、何のために、あんな自分のことしか考えていないような村で練習してきたんだ。いつか来てくれる『友達』を護りきるためだろう!? 馬鹿野郎!!
「……ジーク」
「そう。良い名前ね……よく聞きなさい、ジーク。あんたをこの国に入れてあげる、私の人質としてね」
「はぁ!? 何言って……」
「その代わり、手伝って」
槍先を眉間に向け、協力を強要する。申し訳ないが、こうする他に方法が無いのだ。私は奥歯を食いしばりながら、ジークの目の奥を眼力で射抜いた。彼は舌打ちをし、そのまま立ち上がって頷いてくれた。――もう、後戻りはできない。
(私はもう、帰って来るかどうかわからない人を待ったりしない。今度は私の方から、迎えに行ってやるんだから!)
決意、過去への決別、約束を破る。それらの単語を全てひっくるめて、飲み込んで、私は『バルムンク王国』に不法侵入した。