没落した貴族の軌跡(12)
カトレアとフリールの逃亡生活は長く続いた。二人が幸せな毎日を過ごしている間のここ数年の間に、ケレムは着実に追い詰める為の根回しを欠かさなかったのだろう。何処へ逃げても面が割れていて、直ぐに追手が二人を捕まえようと追いかけた。
そして、カトレアの体調は日々悪化していく。来る日も来る日も追いかけられ、彼女の体はボロボロだ。それでもフリールを不安にさせないようにと明るく振る舞い、この子は絶対に護ってみせると逃げ続けた。
そうして二人が辿り着いたのは、他国と交易をする為に使われる船が並ぶ港だった。
「お母さん。船だよ。あれに乗れば海の向こう……追手のいない国に逃げれるよ」
「ええ。そうね……」
掠れた声でカトレアは答え、安心させる為に無理して笑みを浮かべてみせる。そんな母親の姿が悲しくて、でも、フリールも負けじと笑みを見せた。
お母さんを心配させたくない。フリールもまた、母であるカトレアを安心させてあげたいのだ。
「どの船に乗るのが一番……あ。あの船……知ってる。昔本で見た事ある。煙獄楽園の船だ。お母さん。私達、きっと逃げきれる! あの船に乗れば、あの男もあの男の部下も私達を追って来れないよ」
「……ええ。きっと……そうだわ……」
カトレアは限界だった。長い逃亡生活で病気は悪化しているのに薬も無い。
フリールは何度か薬を盗もうとも考えたけど、そもそも薬なんてものは病気や症状で変わってくる。何を盗めば良いのかも分からなければ、関係無い薬を飲ませて逆に悪化させてしまうかもしれない。だから、母の為に薬を盗む事も出来なかった。
その結果が今だ。カトレアの体はもう限界で、考えたくも無いけれどいつ死んでもおかしくは無い。それでも希望はあるのだと信じて、フリールはカトレアを背におぶってここまで来た。だから、消え入りそうなカトレアの声を聞いても、悲しんで泣いたりなんてしない。笑顔を見せて、もう少しだよと話しかけ、煙獄楽園行きの船の貨物室に何とか潜入した。
「お母さん。煙獄楽園に着いたら、まずはお医者様を捜そうね。お金を直ぐには払えないけど、もう逃げる必要が無いんだもん。きっと大丈夫。私が頑張って稼ぐから、お母さんは心配しなくて良いからね」
「ほら。お母さん。船が出発したよ。早く着くといいね。何日かかるのかな? 明日かな? 今日中だと嬉しいね」
「お母さん……。出発してから……もう二日も経ったね。でも、様子を見てきたけど、まだ周りは海ばかりだったの。あ。それより見て。お母さん。今日はハムを取って来たよ。一緒に食べよう」
「ねえ。お母さん。いつ煙獄楽園に着くのかな?」
会話とは言えない一人だけの会話が続いていく。
カトレアの意識はある。だけど、もう返事はしてくれなかった。それでもフリールは話しかけ、一人だけの会話をした。お母さんが死なないように。話しかけて自分の声を届ければ、きっとまだ生きてくれると信じていたから。
そうして船が出港して三日目となった時だ。もう喋る事が出来ないと思っていたカトレアが、か細い声で「フリー……ル…………」と名前を呼んだ。
「お母さん!? お母さん。お母さん。私はここにいるよ。私は、フリールはここにいるよ」
フリールは涙を堪え、笑顔を見せる。すると、今まで何の反応もしなかったカトレアが、薄っすらとだけれど笑みを見せてくれた。
フリールはそれが嬉しくてカトレアの手を握り締め、自分はここにいるのだと必死に伝える。
「ごめ……ね……。貴女……に……辛い思……かり…………をさせ……て…………」
「そんな事無い。こんなの全然平気よ。私お母さんが思っているよりも強いのよ」
辛くないわけが無い。でも、そんな弱音で心配させたくない。だから、フリールは母親を安心させたくて、笑顔を作って答えてみせた。
「あな……に……渡した……い物…………ある……の」
「私に渡したい物? 何かな? えへへ。嬉しいな。どんな物なの? お母さん」
「に……つの…………か……に……日記が……」
「え? 日記……?」
フリールは不思議に思い乍らも、周囲を見回した。でも、荷物なんて無い。そもそも逃げる時に重いものは邪魔だからと置いて来た。だけど、フリールは一つだけ思い当たった。
「もしかして……」
カトレアがいつも身に着けている衣装。その内ポケットには書物が入っていた。フリールはその記憶を頼りにカトレアの衣装の内ポケットに手を入れて、そこに入っていた物を取り出す。
「日記だ……」
「こんな……物しか……残……て…………あげ……られな……くて……ごめ……ね……。大……好き……よ。フリー……ル」
その日記は自分が死ぬ事を察して、カトレアがフリールに残してあげられる唯一の物だった。本当はもっと我が子の為になるものを残したい。でも、それが叶わない。願う事なら、この子が幸せになりますようにと想いを込めて、最後にもう一度フリールに笑みを見せて、カトレアは息を引き取った。
「お母さん? ……嘘。嘘だよね? お母さん! お母さん! お母さん! お母さん!」
カトレアは優しい笑みを見せて死んだ。大好きな娘、フリールの腕の中で。
フリールはカトレアを抱きしめ乍ら、止まる事の無い大粒の涙を流し、泣き叫んだ。




