宿屋“大麦亭”
宿に入ると、体格の良い男と目が合った。
「おかえり!」
「ただいま!」
フィネが元気よく返事する。
この宿は入ってすぐが食堂になっており、何人かが食事をしている。
壁には申し訳程度のカウンターがあり、それがフロントのようだ。
フロントに行くと、さっきの男がカウンターの裏に回る。
「お、フィネちゃんの恋人かい?」
「違う、友達。泊まるからもうひと部屋お願い。」
「おっと別の部屋か。参ったな、今日はもう埋まっちまったんだ。フィネちゃんのとこ、二人部屋だから一緒じゃあ駄目かい?」
「いいよ、別に。」
いや待て、今なんて言った?同室?まずいだろ。
「待った。それはまずくないか?」
「「ん?」」
二人から同時に疑問を呈される。
「いやほら、俺は男でフィネは女だ。」
「アタシは気にしないけど。」
「兄ちゃん、冒険者だろ?冒険者パーティが男女同室なんて珍しくもないぞ?」
俺はまだ冒険者ではないが。
しかし、うーむ…ここではそれが常識なのか。
実際問題、部屋はないわけだし、ここでごねてもしょうがないか。
「そうなのか。わかった、同室でいい。」
「決まりだ。初めてのご利用だし、半額でいいぜ。飯除きで銀貨3枚だ。フィネちゃんは4枚な。」
半額で3枚なら通常6枚か?
フィネは割引でもされているのだろうか。
「ほい。」
フィネが銀貨をカウンターに置く。
俺も倣って銀貨を3枚置いた。
「まいど!じゃあ当宿について説明させていただくぜ。まず部屋の場所は…フィネちゃんがいるからいいだろ。鍵は内鍵だけだから部屋から出る時は荷物を持つこと。飯はここ。別料金だから外で食ってきてもいいが、うちは宿泊者にはパンをサービスしてる。湯桶は無料だが申告制の後渡し。お湯が残ってればすぐ渡すし、そうじゃなきゃ次の湯沸しの時間まで待ってもらうって仕組みだ。」
身体を拭くためのお湯か。
聖アロンではバスタブ付の風呂に入っていたからあまり馴染みがない。
「湯桶が必要なら支払いのときに言ってくれ。ああ、支払いはチェックインのとき。チェックアウトは昼まで。シーツは毎日洗ってるから、チェックアウトの時に持ってきてくれると助かる。連泊は5日目から割引だ。以上、何か質問は?」
「とりあえずわかった。」
「おっちゃん、お湯二つ。」
「おう。お湯はあるんだが今は飯時だからな、部屋に持ってくから待っててくれ。」
「はーい。」
男は足早で厨房の方に入っていった。
俺たちは2階に上がる。
「ここだよん。」
扉には見たことのない魚のレリーフが飾ってある。
隣の部屋は鳥、その前は犬だったから、部屋番号みたいなものなのだろう。
中に入るとまず2段ベッドが目に入った。
それ以外は1人部屋と変わらないんじゃないだろうかってくらいの狭さだ。
「イズミどっち使う?」
フィネが鞄の中身を床に広げながら言った。
この部屋にテーブルはないようだ。
どっちとは、ベッドの上下段の話だろう。
「下の段がいいな。」
「じゃあアタシ上ね。ラッキー。」
お互い良い方を選べたようだ。
フィネは道具の手入れを始めたようで、ナイフを拭いている。
俺は荷物を床に置いて終わりだ。整理するものも手入れするものもない。
手持無沙汰なので、さっきもらった革袋から金貨を取り出し、触ってみる。
少しくすんだ金色。
片面には男の肖像が刻印されている。もちろん誰だかはわからない。裏面はムササビだ。
金貨と銀貨はどの国でも通用するように重さの規定があるから、使い慣れた聖アロン帝国の金貨と同じ重量感がある。
銀貨も見てみると、鷲の刻印。裏は握手している手だ。
こちらはわかりやすい。有力都市の連合であるステイナドラーの象徴として握手を選んだのだろう。
しかしすごい金額になった。
向こう半年はまったく困らなそうだ。
アルル蝋が金貨10枚で、雫も合計するとアルル蝋より高くなっていたが、ここまでとは。
元々持っていた革財布に銀貨を入れていく。20枚もあれば十分だ。
残りはギルドでもらった革袋に戻す。
できれば革袋がもう1、2袋欲しいところだ。
金貨と銀貨が混ざってしまうというのもあるし、何より一袋が重すぎる。
――コンコン
ノック音。
お湯が来たのだろう。
内鍵を開けて扉を引く。
「お湯桶をお持ちしました。」
「ユリアナさん!?」
そこには岡持ちを持ったユリアナが立っていた。
私服になっている。
「あ、おかえり~。」
後ろからフィネの声。
驚いた様子はないから、普段から部屋に来るのかもしれない。
「ただいまフィネちゃん。」
ユリアナがちょっと背伸びして、俺の肩越しにフィネに声をかけた。
「ふふふ、驚きました?」
「ええ、ちょっと。」
とりあえず中に入ると、ユリアナも中に入ってきて岡持ちを置いた。
そして鍋蓋が乗った桶を二つ床に置く。
「ここでいいですか?」
「いいよ。ありがとう。」
ユリアナがこちらに向き直る。
「イズミさん、先程はびっくりすることばかりで自己紹介ができませんでしたので改めて。私はユリアナと申します。よろしくお願いしますね。」
「こちらこそよろしく、ユリアナ。」
さっきフィネにからかわれたので敬語を使わないようにしなければ。
「義兄から聞きました。同室になったんですね。」
フロントの男はお兄さんだったのか。
「ああ、一人部屋が埋まっちゃったって。」
「申し訳ございません。」
「いやいや、いいんだよ。泊まれはするしね。」
「フィネちゃんはいいの?」
「問題なしだよ?」
「そっか…あの、イズミさん。」
「はい。」
「女性と同室というのもなんですし、私がここで寝て、イズミさんが私の部屋で寝るということも可能なのですが…」
俺がユリアナの部屋で一人で寝るということか。
ここに住んでいるってことは、普通に私室だよな。
…そっちの方がまずくないか?
「いえ、それは悪いですよ。それに冒険者の男女同室は普通なんでしょう?」
あ、また敬語になってしまった。
ユリアナの眉が少しだけ上がる。
「それは3人以上のパーティの話ですっ!うちは壁が薄いので2人きりで泊まるのは壮年の夫婦だけですよ。」
3人以上…フロントマンにはうまく言いくるめられてしまったようだな。
まぁフィネも気にしてなかったしなぁ。
しかし壁が薄い、か。
そういうのを懸念されているのだろうか。
「フィネとは友達だからそういう心配はないよ。」
「あ…そういう意味ではなくっ」
慌てるユリアナ。仕事中とは別人のように表情がころころ変わる。
「すみません。フィネちゃんは人懐っこすぎて心配になってしまって。」
「いえいえ、あれ?ギルドではアドルフィンさんって呼んでなかった?」
「仕事中でしたので。あ、今も仕事に見えるかもしれませんが、宿の手伝いは好きでやってるだけなので。」
「そうなんだ。」
「はい、両親と姉夫婦が経営してて、私は基本的に住んでるだけです。」
姉夫婦…つまりフロントマンは義理の兄ということか。
「それで外で働いてるんだ。」
「ええ、一人暮らししようとはしたんですが、姉に反対されてしまって。」
「ねぇねぇ、アタシ先にお湯使ってていい?」
フィネが桶を持って言った。
「あ、ごめんなさい、長居しちゃって。冷めちゃうわね。」
「話してていーよぉ。ってかさ、アタシがユリアナの部屋に行って、イズミとユリアナがここで寝るっていう手もあるよ!」
「フィネちゃん!?何言ってるの!?って何脱いでるの!仕切りを置いて!」
上着を脱ぎ始めたフィネをユリアナが止め、ベッドの脇に立ててある仕切りを部屋の真ん中に動かした。
「拭いて~。」
フィネはなんだか眠そうな声。
「しょうがないわね…。」
世話を焼くユリアナ。
この二人は思ったより仲が良いらしい。
身体を拭き終わると、いや、拭かれ終わると、フィネはもう寝かけていた。
無防備すぎやしないかと思いつつ梯子を上らせて寝せる。
「いつもこうなんですか?」
ユリアナに聞いてみる。
「いえ、今日は帰りも遅かったですし、特別疲れたんでしょう。でもイズミさん、私には敬語なんて使わなくてもいいんですよ?」
「あ、また敬語になってたか。意識してないんだけど、ユリアナにはなぜか敬語が出ちゃうな。」
「あら、どうしてでしょう。」
「どうしてでしょうね。あ、また。」
「ふふふ、お二人はいつからお友達なんですか?」
「今日です。」
「今日!それは素敵ですね。じゃあ知り合ったのは?」
「それも今日。」
「え…?以前どこかの町でパーティを組んでいたとかではなく?」
「いいや、今日初めて会ったんだ。道に迷った俺を町に案内してくれた。」
ユリアナから笑顔が消える。
冒険者ギルドでも一度見たが、蝋燭の火が消えるように一瞬で表情が変わっている。
「……イズミさん、今までフィネちゃんは冒険者登録はしてくれなかったんです。今日みたいに、冒険者でなくても素材の納品はできます。でも依頼扱いの方が報酬が高い場合もあるので何度も勧誘したんですが頑なに断られていて。」
「そうなのか?俺は冒険者志望だとは言ったけど、一緒に冒険しようって誘ってきたのはフィネの方だよ。」
「あらそうなんですか?」
「ああ。」
「フィネちゃんから…」
「…参考までに、どんな出会い方をしたんですか?」
ユリアナはギルド職員だし、イトジゴクのことは隠しておきたい。
しかし嘘を吐くのも嫌だな。
「…秘密だ。」
「秘密?」
「…うふふ、そうなんですね。」
何やら嬉しそうなユリアナ。
耳打ちをするときのように口に手を付け、小さな声で続ける。
「フィネちゃんは、誰とでも仲良くしているように見えますけど、いつも一人なんです。イズミさんはかなり懐かれたんですね。」
「懐くって。確かに小動物っぽいけど。」
「例えるならなんですか?」
「……猫かな。」
「ですよね!私もそう思います。ですけど、本人に言っちゃだめですよ。」
「どうして?」
「自称“狼”ですから。」
「狼はないだろ。」
笑ってしまう。
「でも本気で言ってましたよ?」
「そうか、じゃあそこをからかうのは止そう。」
「それが良いですね。ふふ、なんだか安心しました。」
「ん?」
「イズミさんはまだ不思議なところが多いですけど、悪い方ではなさそうで。フィネちゃんのこと、よろしくお願いしますね?」
「…ええ。」
何か含みがあるような気がするが、素直に頷いておく。
「それじゃあ、私はそろそろ…。明日は冒険者登録ですよね。お待ちしています。」
「あ、はい。よろしくおね…よろしく。」
「はい!」