40:モニカの王子様
気がついたら自分の部屋にいたモニカはベッドから飛び起きてあたりを見渡した。
赤く染まった空を背に、窓辺に腰掛けて本を読むジャスパーの姿が視界の端に映る。
「…おはよう?」
「おはようございます」
「えーっと、いつ帰ってきたの?私」
「30分前くらいですよ?」
寝ていたのでそのまま運びましたと、ジャスパーはシレッと言った。
途中から車に乗っただろうが、姫抱きされて街を歩いた可能性を考えると起こして欲しかったとモニカは嘆く。
「ねえ、姫様。俺に何か聞きたいことありません?」
「へ?な、何?急に…」
聞きたいことはいろいろあるが、聞く勇気のない彼女は狼狽える。
これはもしや、この前の女性との関係を話してくれるのだろうか。
聞きたいような聞きたくないような。どうするのが正しいのかはわからず、百面相するモニカ。
そんな彼女の様子に、ジャスパーは思わず吹き出した。
「…かわいい」
そう小さく呟くと、出窓に本を置き、彼はモニカの方へと近づいた。
夕日のせいか、少し顔が赤い。
そしてモニカのベッドの端に腰掛けると、彼女に優しく微笑みかけた。
「不安にさせてしまいましたか?」
「な、何の話?」
「ブライアンさんに聞きました。俺、浮気したと思われてたんですね」
ジャスパーは少し寂しそうに、浮気なんてしてないと言う。
モニカは気まずくて視線を落とした。
すると突然、開いたバルコニー側の窓から、ブワッと急に風が吹き込んできた。モニカは咄嗟に強く目を閉じる。
「びっくりしたー。大丈夫です?姫様」
「大丈夫だけど、髪が…」
ゆっくりと目を開いたモニカは、突風で乱れた髪をあせあせと整えた。
ジャスパーはそれを手助けしようと彼女の髪に触れる。
細く柔らかい髪からは、以前彼が好きだと言ったシトラスの香りがした。
昔はもう少し甘い香りを好んでいたのに。自分が好きだと言ったからだろうか。そう思うと、嬉しくてたまらない。
「無理だ…」
気がつくと、ジャスパーは無意識のうちにモニカを押し倒していた。
モニカは目を丸くして彼を見上げた。
「姫様。俺は姫様以外なんて考えられないです」
そういう彼の表情はどこか切なげで、辛そうに見えた。
「今はまだ詳しく言えないけど、姫様が見た彼女とは何もないよ。それだけはこの命にかけて誓える」
「…うん」
「不安なら彼女を紹介します。会えばそういう関係じゃないことはすぐにわかると思うので」
「大丈夫よ。そこまでしなくても、大丈夫」
「そうですか?」
「うん。わかるよ。ちゃんとジャスパーの顔を見たらわかった」
自分がどれだけの想いを向けられているのかが、よくわかる。
彼の美しい紫の瞳に宿るのは、狂気にも似た痛くて熱く、そして重い感情。見られているだけで息が苦しくなるほどの想い。
モニカはジャスパーの頬に手を伸ばした。
「私、自覚が足りていなかったのかもしれないわ。貴方にどれほどの愛されているのかをちゃんとわかってなかったのかも」
深い愛情を向けられている自覚はあったが、ここまで重いものであることは自覚していなかった。
こんな苦しそうに自分を見つめる男が、他の女に靡くわけがない。
モニカは頬に触れていた手を彼の首元へと滑らせると、自分の方へと引き寄せた。
「大好きよ、ジャスパー」
楽しそうにそう言う彼女に、ジャスパーは胸が苦しくなる。
「好きって本当に?」
「本当よ。疑ってるの?」
「少し」
「どうして?」
「だって、姫様は俺しか知らないから…」
モニカの自分に対する感情は、ただの依存ではないのか。他にもっと紳士的でそれこそ王子様みたいな男が現れたら、そちらに傾いてしまうのではないか。
ジャスパーは震える声でそう話した。
すると、モニカは子どもをあやすように彼の背中をトントンと優しく叩く。
「依存しているかについては否定できないわ。けれど、私が貴方以外に傾くなんてありえない」
「どうしてわかるんですか?」
「だって、実際に本当の王子様にあってもなんとも思わなかったもの」
公爵夫人として出席した夜会で会った他家の令息も、ノアの兄である国王も皆、とても紳士的で素敵な男性だったが何も感じなかった。
手の甲にキスされても、ダンスを踊っても、相手が自分に対して好意を持っているような熱い視線を送ってきても、ちっともトキメかない。
触れて触れられて心臓が早鐘を打つのはいつだってジャスパーといる時だけだ。
「だからね、私の王子様はずっとジャスパーだけよ」
モニカの言葉が嬉しかったのか、ジャスパーはぎゅっと力一杯モニカを抱きしめた。
そんな彼にモニカは大きな子どもみたいだと笑う。
「子ども扱いしないでください」
「してないわよ」
「嘘です。少し馬鹿にしてます」
「ふふっ。少しだけね」
「ほら、やっぱり」
「だって可愛いんだもの」
よしよしと自分の頭を撫でるモニカにジャスパーはなんとも言えない気持ちになった。
こちらの気も知らないで、随分と余裕だ。
彼は小さく舌打ちして、彼女の首筋にかぶりついた。
「ひゃっ!?」
「誰が子どもだ」
耳元で低くそう囁かれたモニカは、一気に顔を赤く染め上げた。
なんとなく、押してはいけないスイッチを押してしまった気がする。
ジャスパーは何も言わずに、彼女の耳に、頬に、額に、瞼に優しくキスし始めた。
「ま、待って!何する気!?」
「色々」
「色々って何!?」
含みのある言い方だ。色々してしまったらもう完全にアウトではなかろうか。
モニカはエリザの名を叫ぼうとした。しかしそれは彼の口で塞がれる。
なんという早技。油断も隙もあったものではない。
(キス禁止!!)
そう訴えようと彼女は顔を逸らせて、口を開けた。しかし声を発する間もなく、また強引に口を塞がれる。
やはりかなりの手練れだ。破廉恥だ。さすがは歩く公然猥褻物。
(やばいやばいやばい!!)
少し開いた唇からぬるっと舌が入り込んできた事に驚きつつも、無意識的にそれにぎこちなく答えている自分が恥ずかしい。
ダメだと分かっているのに、本気で抗おうとしていないことがわかられているのか、彼の目がうっすらと細くなった。
(くそッ!コイツッ!!)
その余裕が腹立たしいモニカは彼の胸を押してなんとか煩悩の渦から抜け出した。
「あ、危なかった!!」
本気で流されるところだった。モニカは広いベッドの壁の方まで後ずさると、肩で息をして呼吸を整える。
そんな彼女に、ジャスパーは悪い笑みを浮かべた。
「姫様には早すぎましたかね?」
「子ども扱いしないでと言いたいところだけど、それを言うと『じゃあ出来ますよね』ってなってなし崩しに続きをすることになりそうだから言わない」
「良く分かっているじゃないですか。さすが姫様です」
「貴方の考えなんてお見通しよ」
「俺のことを分かっててくれて嬉しいです。でも残念。そう返さなくても続きはします」
ジャスパーはじわじわとベッドの上を這い、モニカに近づいてくる。
モニカは壁と一体化しそうなくらいに背中を壁に押し付けるも、それ以上逃げ場はない。
「ほんとダメだからね!?」
「どうして?」
「私は人妻だから!」
「人妻に手を出すって、なんか興奮しますね」
「そういうことを言ってるんじゃないのよ、ばか!」
「大丈夫です。子どもができるような事はしませんよ」
そう言うと、ジャスパーはモニカの髪を一房とり、その毛先に口付けた。
格好をつけて言うセリフではないと思う。モニカはドヤ顔の彼を半眼で見る。
「いや、そういう問題ではないかと…」
「そういう問題ですよ。まあ、子どもができるような事以外は全部しますけど」
「じゃあダメだって!ほんとだめ…ひゃあ!!」
艶かしい手つきで、ジャスパーはモニカのワンピースの裾からそっと手を差し入れた。
ひんやりとした彼の手の温度に、モニカは意図せず甘い吐息を漏らす。
(まずい。本気でまずい)
煩悩とは伝染するらしい。
煩悩に支配されている目の前の男に流されて、自分の脳まで煩悩に支配されそうだ。
ジッと見つめてくる熱を帯びた紫の瞳が悪い方へと洗脳してくる。
「だ、だめだよ…本当に…」
「ダメばっかり言われたら傷つく」
「でも…」
「俺は姫様の本心が聞きたい」
「ほ、本心…?」
「姫様はしたいの?したくないの?どっち?」
「どっちって…」
言えない。言えるわけがない。けれど、彼の目は言えるまで逃さないと言っているようだった。
どう答えても、なし崩しに関係が進んでしまいそうな気がしたモニカはぎゅっと目を閉じた。
するとその時。シュッと二人の間を何かが通る。
ジャスパーは驚きのあまりに大きく目を見開いた。
彼が恐る恐る、窓とは反対側の壁の方へと視線をやると、そこには何故か矢が刺さっている。
「チッ。外したか」
窓の方からドスの効いた低い声が聞こえて、彼が勢いよく振り返った。
開け放たれた窓とバルコニー。そしてその先にある大きな木と人影が一つ。
「それ以上姫様に手を出してごらんなさい。お兄様の脳天に風穴を開けて差し上げますわ」
夕日を背にお仕着せを身に纏った妹が吹き矢を構えている様子に、ジャスパーは絶句した。
「吹き矢なんてどこで習得したんだよ…」
彼は妹がわからない。




