38:溢れて止まらない
夕食を食べ終え、別棟へと帰ってきたモニカは、湯浴みを済ませて自室のバルコニーで夜風に当たっていた。
まだ少し湿った髪を乾かすにはちょうど良い風が彼女の頬を掠める。
「またやってる…」
すぐ下の庭で剣の鍛錬をするジャスパーが視界に入ってきたモニカは、その様子をじっと見つめた。
帝国にいる頃と比べ、格段に平和な日常を手に入れたのに彼は今も腕を磨くことを怠らない。
一度何故なのかと尋ねたことがあるが、その時はモニカを守る役目を誰にも取られたくないからだと、冗談か本気かわからない口調で返された。
本気でも冗談でも嬉しいから良いけれど、もう少し気を抜いても良いのにとも思う。
「姫様、暖かくなさらないとお風邪をひきますよ?」
音もなく現れたエリザはモニカの肩にカーディガンをかけた。本当に忍びのような侍女である。
スペックだけ考えれば、オールラウンダーな彼女はある意味兄よりも上かもしれない。
そんなことを考えながら、モニカは隣に並んだエリザを見つめた。
「ひ、姫様…。そんなに見つめられては興奮してしまいますわ」
「興奮とか言うのやめなさい。羽織り、ありがとう」
「どういたしましてです」
鼻息が荒くなったエリザに、モニカは肩をすくめた。相も変わらず変態である。
「お兄様を見ていらしたのですか?」
「まあね」
「姫様、もしかしてお兄様と何かありました?」
「どうして?」
「なんだかお元気がないように感じますわ」
心配そうな表情で顔を覗き込んでくるエリザ。
なんとなく彼女の目が見られないモニカは視線を庭に落とした。
「別に、何も無いわ…」
むしろ、何も無いから、何もなくなったから落ち込んでいるのだ。
けれど、そんなこと言えるわけがない。
「キス禁止令、解除しましょうか?」
「…どうして?」
「何となくです」
何となく、モニカの憂いについては察しているらしい。エリザは何とも言えない表情をした。
しかし、モニカは静かに首を横に振る。
「大丈夫よ。良い機会だからね。約束の時が来るまでは、お互い節度ある行動をしなくちゃ」
本当は禁止令を解除しても触れてくれないかもしれないのが怖いだけ。
今ならまだ、禁止令を出されているからと言い訳ができる。
「姫様。今のお兄様はちょっと色んな感情が溢れ出して、不器用になっているだけですよ?」
「何よ、いろんな感情って」
「それは、いろいろです」
だから何も心配しなくて良いと、エリザは眉尻を下げて笑った。
***
「…まーた、窓開けっ放し」
木をつたい、モニカの部屋のバルコニーへと降り立ったジャスパーはポツリとつぶやいた。
夜風に当たりながら眠るのが心地よいのだろうか。
ひんやりとした夜の風が、後ろから彼の背中を押す。
ジャスパーは寝息を立てるモニカに近づくと、ベッドの傍に座り込み、ジッと彼女を見つめた。
長いまつ毛と通った鼻筋に陶器のような白い肌。そして薄らと色づくピンクの唇。
キス禁止などと言われても、もう衝動が抑えきれない彼はモニカに近づくことさえままならない。
想いを返してくれた今、指一本でも触れてしまえば全て欲しくなる。
きっと、そんな事を思いながらいつも自分に手を伸ばしてきているなんて、彼女は想像もしていないだろう。
ジャスパーは顔を伏せ、深くため息をついた。
モニカとジャスパーでは明らかに熱量が違う。
気持ちを返すなら、同じだけ返して欲しい。
祖国を出てから、そう強く思うようになった。
どんどん欲が深くなる。一度外れた箍は修復不可能だ。
「ほんと、嫌になる」
こんな余裕のない自分が、ジャスパーは気に入らない。
「んん…」
寝返りを打ったモニカは彼の方を向いた。
綺麗な大人の女性に近づいてきたが、寝顔はまだあどけない。
ジャスパーは彼女の前髪を避けて、額に軽く口付けた。
「おやすみ、姫様」
胸の中に渦巻く、綺麗とは言えない感情に乗っ取られないうちに彼はまた、窓から出て行った。
その日、モニカは久しぶりに良い夢を見られたらしい。




