35:ジャスパー・オーウェンの苦悩(2)
「ノア様。俺はもう我慢できません」
キス禁止令が出されて早3ヶ月。我慢できないジャスパーはノアの執務室を訪れていた。
まだ少し冷たい風で彼の銀髪が仄かに揺れる。
突然窓から入ってこようとする妻の騎士にノアは呆れた視線を送った。
「…ここ2階なんだけど」
「窓のそばに木があればどこにでも侵入できますよ?」
「侵入できたとしても普通はしないんだよ、ジャスパー。次からはエントランスから入って来て。本当に」
「わかりました。次からはそうします」
ジャスパーは窓の桟に足をかけると、ひょいっと室内へと降り立った。相変わらず身軽な男だ。
運動神経皆無のノアには彼の身体能力が少し羨ましい。
ノアは執事に茶を入れるよう申し付けると、仕事の手を一旦止めてジャスパーをソファへと座らせた。
「何かあった?」
「どうかエリザを説得してください」
「何の話?」
「キス禁止令の話です」
「それは無理だよ」
「何故!?」
ジャスパーは勢いよく立ち上がると、声を荒げた。
そんな彼にノアは再び座るよう諭す。
ベストなタイミングでお茶を運び入れた執事は、彼らの前に紅茶とフルーツを並べると静かに部屋を後にした。
「何故ダメなんですか。キスまでなら良いとはじめは言ってたのに」
「君の理性が思っていたよりもずっと、まともに機能していないからだよ。心当たりあるだろう?」
「心当たりしかないです!」
「胸を張って言うことではないからね?それ」
ノアは大きなため息をついてソファの背もたれに体を預けた。
「どうしてそう余裕がないのさ」
「…だって、姫様が可愛いから」
「確かにいつも可愛いけども!モニカのせいにするんじゃありません!」
ブスッとした顔でフルーツを摘むジャスパー。
ノアは身体を起こして足を組むと、頬杖をついて彼をジッと見つめた。
「わかるよ?ここに来てからのモニカの態度見てたら我慢ならなくなるのは同じ男としてよくわかる」
「じゃあ…!」
「しかしだ、ジャスパー。君は祖国にいた時からずっと、想いを寄せる彼女のそばにいたわけだろ?その時は我慢できたのに、何故今はそれが出来ない?」
「それは…」
確信をつくような鋭い視線を向けられ、ジャスパーはたまらず目を逸らした。
しかしノアは逃しはしない。
「君は不安なんだろう?」
「….どういう意味でしょう?」
「モニカはずっと窮屈で惨めな生活をしてきた。それが今はのびのびと羽を伸ばして生活できている。するとどうだい?心に余裕ができて視野が広くなる。今まで見えなかったものが見えてくる。はじめは君しかいなかったはずなのに、いつの間にか彼女の周りには多くの人で溢れてる。君はそれが気に食わなくて不安なんだ。だから関係を進めたくて仕方がない。名前のある関係になって安心したい。違う?」
「……ノア様は本当怖い人ですね」
人畜無害みたいな顔をしてちゃんと鋭い感性を持っている。ジャスパーは顔を歪めた。
「もう少し、一歩引いて見守ってあげたら?今の君は彼女の手足をもいで、一生自分に依存するよう仕向けるくらいのことしそうだもん。怖いよ?」
「そんなに余裕なく見えますか?」
「見える」
間髪入れずに即答され、ジャスパーは居心地の悪さを誤魔化すようにティーカップに手を伸ばす。
そして普段は入れないはずの砂糖を入れて無駄にかき混ぜ始めた。
「自信ないの?」
「…あんまりないです」
「モニカは色んなものを見て、色んな人を見て、それでも最終的には君の手を取ると思うよ?」
「…….帰ります。お仕事の邪魔をしてすみませんでした」
ジャスパーは砂糖を入れた紅茶を一気に飲み干すと窓辺へと向かう。
そして窓の桟に足をかけ、またそのまま飛び降りる。
そのまま綺麗に着地した彼を上から見ていたノアはまた小さくため息をこぼした。
「だから窓から出入りするなってば…」
***
生い茂る木々で日の光が遮られた道を突き進むジャスパーは大きなため息を漏らした。
余裕なんてない。
この国に来てから、モニカは以前より良く笑うようになった。纏う雰囲気が穏やかになった。
そして、綺麗になった。
今、一度夜会に出れば彼女の周りには多くの人が集まってくる。
皆が彼女に好意的で優しい。たまに悪意ある視線を感じることもあるが、帝国にいた時に比べたらヒヨコみたいなものだ。
これから彼女は沢山の人と出会い、そして友情を育むだろう。男女問わず。
そうすれば、きっと彼女は気づく。世の中にはまともな男が沢山いるのだと。
過去の婚約者や兄達のような男ばかりではないのだと。
今まで、まともに味方をしてくれる男がジャスパーしかいなかったから、彼に依存しているだけだったのだと。
「自信なんて、あるわけねーじゃん」
モニカの好意は本当に恋愛感情からくるものだろうか。
ジャスパーには自信がないのだ。




