29:そもそもそんな権限がないという話
結局、夕方までノアと城内をフラフラしたモニカは、赤くなった空を背に部屋へと戻った。
『今日は自分の部屋に泊まれ』とノアはしつこく言ってきたが、彼女はそれすらも振り払い、勢いよく扉を閉める。
薄暗い部屋を見渡しても、当然の如く護衛の騎士の姿はない。
「良かった。ちゃんと出て行ってくれたんだ…」
駄々をこねて残っていたらどうしようかと思っていた。だから、ジャスパーの姿がないことに心の底から安堵した。それは確かだ。
けれど、心の奥底から湧き出てくる、彼が残っていなかったことに落胆する気持ち。
(きっとこんなに長い時間、そばを離れたことがなかったから寂しいだけよ)
モニカは気持ちを誤魔化すように、テーブルの上に置いてあったいちごを一つだけ口に運んだ。
昨日の昼以降まともに食べていないからか、とても甘く感じた。
「ノア様ったら、本当に頑固なんだから…」
モニカは大きな独り言をこぼしながら、窓を開けて外の空気を取り込む。
生ぬるい風が頬を撫でた。あまり気持ちの良い風ではない。
結局、ノアは何度言っても婚約の解消を承諾しなかった。命の危険があるというのに、本当に義理堅いことだ。
「…明日、従者の方に直談判しよう」
従者の男なら主人を危険に晒すわけにはいかないと、ノアを説得してくれるかもしれない。
何としてもノアと距離を取らねば。モニカはグッと顎を上げた。
「大丈夫。一人でも大丈夫」
自分の身くらい自分で守れる。
もし、守りきれなくて死んだとしてもそれは仕方のないことだ。それが自分の寿命。
むしろこの宮殿でこの歳まで生きながらえることができた事の方が奇跡だ。
そう思うと、それだけ自分は大切に守られてきたのだと言うことを実感する。
「大丈夫、何とかなるわ。大丈夫」
ノアとの婚約がなくなれば、次はどこの誰と婚約するのだろう。さすがに4回目の婚約破棄となれば、貰い手がないかもしれない。
そう考えると、そろそろエロ親父の後妻として売り飛ばされてもおかしくはない。
けれど大丈夫だ。怖くはない。
モニカは自分に言い聞かせるように何度も大丈夫だと繰り返した。
「あ、残ってる荷物確認しとかなきゃ…」
ジャスパーの残りの荷物を確認し、それを彼の実家に送る手配をせねばならない。彼女は彼の部屋へ入った。
モニカの部屋より少し小さい部屋には、ベッドとクローゼットと小さな机しかない。非常に質素だ。
皇族の護衛を任されるほどの腕前があり、しかも貴族の子息なら、たとえ末席でも本当はもっと良い部屋が割り当てられるはず。
(私がジャスパーをこの部屋に閉じ込めたんだ…)
いつになく後ろ向きになる思考。
モニカはフルフルと頭を振り、吸い込まれるようにジャスパーのベッドに寝転んだ。
まだ微かに残る彼の匂いに安心する。
シーツに包まった彼女は頭に刺していた銀の髪留めを取り外すと、それを握りしめたまま少し目を閉じた。
きっとこんな所を見られたら、『姫様は本当に俺のことが大好きですね』とか何とか言って揶揄われる。それから、『そういうことするなら襲いますよ』とか言って軽率に触れてくることだろう。
ジャスパーに触れられるのは嫌じゃなかった。
あの手の温もりが、もう恋しい。
「…ジャスパー」
モニカは無意識に彼の名を呼んだ。すると、
「はい、何ですか?姫様」
彼によく似た声がして彼女はベッドから飛び起きた。
「寝てたんですか?まだ寝るには早いと思いますけど」
「な、なんで…?」
目の前にいたのはエリザに車椅子を押されたジャスパーだった。
彼はケロッとした顔で首を傾げる。
エリザは空気を読んだのか、兄に何かを耳打ちして部屋を出た。
いるはずのない彼が目の前にいることに、驚きと動揺が隠せないモニカ。何とか言葉を絞り出したが上手く話せる自信がない。
「…な、んで…まだ居るのよ…」
「何でって言われましても…」
「あ、貴方のことは、もう解雇したわ。騎士団に行ってきた。だから…」
「何言ってるんですか?解雇なんてできるわけないでしょ?」
「…へ?」
何を言っているのだこいつは。今朝、解任の手続きをしてきたばかりだと言うのに。
モニカは怪訝な目でジャスパーを見た。すると彼は、何故かニヤリと口角を上げる。
「いやぁ、俺も失念しておりました。だから思わず、姫様の言うことを聞いてしまいそうになっちゃいましたよ」
「な、何よ…何が言いたいのよ…」
「姫様。この城では第四皇女モニカの名義で出される申請は全て却下される仕組みになってるの忘れたんですか?」
「そ、そういえばそうだったかもしれない…」
そういえば昔、ジャスパーが護衛についた頃。
彼が自分にとって大事な存在になるのが怖くて、近くに置きたくなくてモニカは何度も解任の申請を出したことがあった。だが、それが通ることは一度となかった。
そのことを失念していたモニカは落胆したような、それでいて安心したような大きなため息をついた。
「さっき確認したら、4つに裁断されてメモ用紙になってましたよ?」
「…そう」
「姫様には護衛の騎士を選ぶ権利もなければ、解雇する権利もないんですよ。ちなみに、俺には異動を願い出る権利も異動を拒否する権利もあります」
「…何それ。腹立つわね」
つまり、ジャスパーが自分から辞めない限り、彼は永遠にモニカの騎士でい続けることができるわけだ。
モニカへの嫌がらせのおかげでモニカの騎士をやめずに済んだと彼は言う。
解雇だと言い張り、ジャスパーを拒絶したくせに、そもそもそんな権利すらなかったモニカは恥ずかしさのあまり、頭からシーツを被った。
「お願い。私の騎士を辞めて。貴方の意志で辞めて」
「嫌です」
「お願いよ。私はジャスパーを失いたくないの。お願い…。あなたも覚えているでしょう?ハビーを、リアを、サリーを…」
これ以上そばにいれば、また危険な目に遭うかもしれない。
シーツの中で話すから、声がこもる。
モニカの悲痛な声色にジャスパーは呆れたようにため息をついた。
「じゃあ、俺の目を見て言ってください」
「……」
「姫様。本当に俺の事、要りませんか?」
「…要るとか要らないとかじゃないの」
「俺は、俺のことが必要かどうかを聞いています」
「…言えるわけないじゃない。意地悪言わないで」
「姫様こそ、辞めろなんて意地悪なことを言わないでください」
なかなか頷かないジャスパーに、モニカは意を決してシーツから顔を出し、ジッと彼を見据えた。
すると、ジャスパーのほうもジッと彼女を見つめる。
「やめてよ…そんな目で見ないでよ…」
そんなに強い眼差しで見つめられたら言えなくなる。取り繕えなくなる。『要らない』なんて言えなくなる。
「姫様…」
「要らない…なんて、言えないよ。だってそんな事、本当は微塵も思ってない。言えるわけないじゃん」
モニカはその宝石のような碧の瞳に涙を溜めて、震える声を絞り出した。
そんな彼女にジャスパーはフッと優しい笑みをこぼした。
「じゃあ、そばにいても良い?」
「そばにいてほしいと思うよ。でも怖いの。そばにいて、貴方を失ってしまったらと思うと、怖いの…」
「俺はそう簡単には死にません。忘れたんですか?シャンデリアの下敷きになっても生きてる男ですよ?」
「次はわからないでしょ?」
「次なんて起こさせませんよ」
「………」
「姫様。俺にとっては姫様の側にいられない事の方が怖い。俺がいない間に姫様に何があれば、俺はこの国の王侯貴族みんな殺しそうです」
「……怖いこと言わないでよ」
「嘘じゃないですよ。今まで姫様をいじめてきたやつは全員、首を切り落として城門に吊るしてやります」
「…狂気すら感じるわね。ここは宮殿よ。口を慎むことをお勧めするわ」
モニカは不敬極まりない、なんなら叛逆とも取れる発言をするジャスパーに呆れたようにため息をつく。
こんな発言、誰かに聞かれたらどうするつもりなのだろう。
すると、ジャスパーはジッと真剣な眼差しでモニカを見つめた。
「姫様は俺の全てですから。姫様がいれば何もいらない」
「…大袈裟よ」
「大袈裟じゃありません。本当に心からそう思ってます。俺の貴女に対する想いはみくびるもんじゃないですよ?」
「重いのね」
死ぬまで側を離れないとジャスパーは笑う。その笑顔はどこか闇を孕んでいて、少し怖い。
しかしそんな彼につられて、顔も綻んだモニカも大概だ。
「ねえ、姫様。俺は今、自分で姫様のところに行けません」
「そうね」
「だから、姫様が来てください」
ジャスパーは大きく両手を広げた。
モニカはゆっくりとベッドから足を下ろすと、一歩一歩、彼に近づく。
そして彼の腕の中にすっぽりと収まった。
「姫様はもう少しわがままになってください」
「十分ワガママ姫だと思うわ。怪我をした貴方を手放してあげられないんですもの」
「手放してほしいなんて思ってないから、それはワガママにはなりません」
中腰になり、いつもは見上げるジャスパーを見下ろすモニカ。
ジャスパーは優しく彼女の頬に触れると、親指の腹でその血色の良い唇をなぞる。
「姫様、俺が今ものすごーく我慢してるのわかります?」
「……何となく」
「ご存知かと思いますけど、俺はそんなに我慢できる方じゃないんですよね」
「基本的にはカケラほどの理性しかないものね」
「だから、嫌なら殴り飛ばしてでも離れてもらわないと困るんですけど」
「……」
「逃げてくれないとキスしちゃいますよ?」
悪戯をする前の子供のような笑顔で、ジャスパーはそう聞いた。
これは冗談だろうか、それとも本気なのだろうか。判断がつかない。
いや、判断がつかなかろうと今はまだノアと婚約中の身なのだから、ここは『馬鹿なことを言うな』と叱責するのが正解だ。
けれど何故か、モニカは何も言えない。
逃げなければならないのに、動けない。動きたくない。
心臓の音がうるさい。
「姫様?」
真っ赤な顔をして固まるモニカにジャスパーは首を傾げる。
このまま攻めればキャパオーバーで倒れかねない気もする彼は、少し残念そうに彼女に触れる手を離した。
「ははっ。冗談ですよ。何を期待して…」
「えっ…」
「え?」
冗談だという言葉に、ひどく落胆したような表情を見せたモニカに、ジャスパーは大きく目を見開いた。
「冗談じゃ、嫌、ですか?」
「……それは、その…」
「ちゃんと言ってくれないとわからない。いいの?」
「……」
「姫様…ねぇ…」
「に、逃げてないのが答えには、その、なりませんか?」
「…なります」
ジャスパーはもう一度彼女の唇に触れると、右手を首元に添え、自分の方へと引き寄せた。
モニカもそれに抵抗はしない。彼女は自然に目を閉じた。
日が落ちかけた頃、グーっという腹の音を聞きながら二人は何とも言えない残念な雰囲気の中、触れるだけのキスをした。




