10:姫様と騎士(4)
翌朝、気がついたら床で寝ていたジャスパーは体が痛くて目を覚ました。
すると、ものすごく怪訝な表情で自分を見下ろしてくるモニカと目が合う。
「なんでこんなところで寝てるのよ」
寝癖頭のモニカは、寝転がったままベッドから身を乗り出すようにして床を覗き込む。
どう言い訳すべきか悩んだ結果、ジャスパーはいつも通りの軽口で誤魔化すことにした。
「夜這いしようかと思いまして」
「一応だけど私は皇族だし、他国の王族の婚約者いる身だからさ、そういうの本当にやめたほうがいいよ?下手したら首切られるわよ?いや、本当に」
「なんか、姫様にだけは言われたくないセリフっすね。そんな本気のトーンで叱るのやめてくださいよ」
思っていたよりも本気で叱られたため、彼は戸締りをし忘れていたから窓を閉めに来たら睡魔に負けてそのまま眠ってしまったのだと弁解した。
かなり無理があるいいわけな気もするが、モニカはひとまず納得したらしい。
「姫様、それよか遅刻です。早く着替えて」
「あ、まずい…」
時計を見せられた彼女はベッドから飛び起きて支度を始めた。
着替えるから部屋から出て行けとも言わないあたりが本当にダメな姫だと思う。
ジャスパーは豪快に夜着を脱ぎ始めた主人を置いて自分の部屋へと戻った。
*
雲一つない空の下。朝の新鮮な空気を感じながら石畳の歩道を歩き、モニカは学園へと向かう。
一応、軽く変装しているからか、それとも制服が学園の近くの平民向けの学校と大差ないためか、たとえ道中のカフェテラスで軽く朝食を摂っても誰も気が付かない。
街の人にはやたらと顔のいいお嬢様と従者としか思われていないようだ。
モニカの通学は少し特殊で、王家の車を使う権利もない彼女はたった一人の護衛騎士と共に徒歩通学。普通の貴族子女ならあり得ないが、これがモニカの普通だ。
そしてその途中、学園の大学部に進学している性悪双子姉妹が追い抜きざまに車窓から顔を出して大声で暴言を吐き、結果的に風で彼女たちの髪が乱れた様を半眼で眺めるまでが毎日の通学ルーティーンである。
「…皇家の恥だとは思わないのかしら」
走り去る皇家の紋章が入った車を見送り、モニカは呆れたようにため息をついた。
近くにいる者なら状況はだいたい理解できるだろうが、遠目から見ればあの双子姉妹がやっていることは、車に乗った皇族が通行人に暴言を吐いているようにしか見えないのだ。
「だからお姉様たちは婚約者に結婚を切り出してもらえないのよ」
二人の婚約者は、もう少し君の身分に相応しい男になってから求婚したいとかなんとか言って、結婚を先延ばしにしているらしい。
モニカの知ったことではないが、そんなことも知らずに呑気に過ごしている姿を見るのは少し哀れにも感じる。
「先延ばしにしたところで逃げられるわけでもないのに、相手方も無駄なことをしますね」
「でも気持ちはわかるでしょう」
「すんごいわかります」
ジャスパーはものすごい勢いで首を縦に振った。
「結局、姫様の結婚が1番早かったですね」
「そうね。1番上のエレノアお姉様も結婚は来年だしね」
「姫様って公務の経験とかないでしょ?大丈夫なんすか?ちゃんと公爵夫人の務めを果たせます?」
「そういう機会を与えてもらえなかったんだから仕方ないじゃない。頑張るしかないわよ」
認められていないモニカが皇族として表に立つことはほとんどない。
そのせいか、民の中には第四皇女の顔を知らない人間も多いのではないかと思うほどだ。
「大変ですよ?公爵夫人って」
「大変なことくらい知っているわ。どうして急にそんなこと言うの?今日はすごく意地悪だわ」
「いやぁ、嫁ぐのやめたくならないかなーと」
「ふふっ、何それ」
自分が結婚できないからって、足を引っ張ろうとするのはやめなさいとジャスパーはまた叱られた。
冗談ではないのに何を言っても冗談にしか受け取ってもらえないのは、やはり日頃の素行の悪さのせいだろうか。
彼はここにきて初めて自分の素行の悪さを反省した。
***
学園に到着し、モニカに送られる視線は主に好奇の視線だ。
どこかから漏れたのか、まだ公表されていないノアとの再婚約の話や、この前の浮気騒動の話を聞こえるくらいの声で皆がヒソヒソと話している。
ちょっと睨んだだけで怯むくらいなら、せめて聞こえないところで話せば良いのにと、モニカはつくづくそう思う。
「ジョシュアもオフィーリアも普通に学園に来ているらしいわよ」
「図太いっすね」
噂話に耳を傾けながら歩く彼女は、さっき聞こえた話をジャスパーにする。
二人とも、今でも悪いのはモニカだと吹聴しているらしい。大半は相手にしていないが、中には彼らを突いて自分に報復させようと企んでいる奴もいそうだなと彼女はため息をついた。
「もう少し穏便にすませるべきだったわ」
「俺も止めるべきでした」
「笑い転げていたものね、貴方」
「いやぁ、流石に真っ昼間から、しかも学園で不貞行為だなんて面白過ぎたもので」
「普通に考えればあり得ないからね」
ジャスパーは思い出し笑いをしつつも、しばらく警戒するように気を張っておくとモニカに約束した。
「では、また後で」
「……」
教室の手前まで主人を送ったジャスパーはニコッと胡散臭い笑みを浮かべ、彼女に頭を下げて立ち去ろうとした。
しかし、モニカは彼の袖を掴むと『ちょっと来い』と強引に物陰まで連れ込む。
「何すか?遅れますよ?」
ジャスパーは険しい顔で自分の袖を掴む彼女の手をそっと払うと、二歩後ろに下り距離をとった。
さっき反省したばかりなので、『物陰に連れ込んで何をする気ですか』とは言わない。決して。
「ちょっと屈んで」
「なんで…」
「いいから」
モニカにそう命令され、ジャスパーは彼女に目線を合わせる。
すると、彼女は彼の右頬に左手を添え、右手の人差し指と中指で眉間の皺をほぐし始めた。
ぐりぐりと押される眉間は少し痛い。
「昨日からずっとここにシワが寄ってんのよ」
「痛いです、姫様」
「なんかあったの?」
「ちょっとお腹痛いだけっす」
「そういう嘘はいらない」
不機嫌の理由を言わないジャスパーに苛立ったモニカは、今度は両頬を掴み、無理矢理顔を上げさせてその紫の瞳を覗き込む。
「本当にどうしたの?」
「大したことではないので、姫様は気にしないでください」
「嘘よ。結構大した問題でしょう。貴方が顔に出すなんて」
「すみません、気をつけます」
「気をつけるとかじゃないの。それほど深刻な問題を抱えているのなら話してみてよ」
「いや、大丈夫です、本当。ちゃんとしますから」
「大丈夫じゃなさそうだから聞いているのよ。何か心配事?私にできることはある?」
嘘をつかせないためか、彼女は一瞬たりとも目を逸らすことなく、瞬きもせず彼の瞳をジッと見つめた。
多分、彼の様子が変な事を本気で心配しているのだろう。本当に誤魔化されてくれない人である。
逃げられないと思ったのか、ジャスパーは両手を上げて降参のポーズを取った。
「やっぱり、姫様には敵いませんね…」
その目で見つめられると弱い。
彼は自分の顔に触れるモニカの手を取ると、その甲に唇を落とす。
「姫様。ご婚約、おめでとうございます」
「何よ、今更ね」
「昨日言えていなかったので」
ジャスパーは『姫様の婚約が寂しかっただけです』と言って、本当に少し寂しそうに笑った。
決して嘘ではないけれど、大部分を省いたその言葉にモニカは一瞬だけ怪訝な顔をしたが、とりあえずは納得してくれたらしい。
彼女はジャスパーの銀髪をわしゃっと撫でまわして、『婚約しても私の一番は貴方よ』と花のように笑った。
残酷だと思う。
その言葉に深い意味はなく、ただ彼女の1番近くにいるのが自分であるというだけのこと。彼女の1番の理解者が自分であるというだけの、何の意味もない言葉。
頭ではわかっているのに、その一言でありもしない事を期待してしまう。
ジャスパーは咳払いをするふりをして、赤くなった顔を手で隠した。




