76.お嬢様、まだ戻られませんね
「歌?」
先ほどまでいた部屋から廊下へ出て、いくつかのドアを通り過ぎてから角を右へ曲がると、微かに歌が聞こえた。
そこから伸びた通路の突き当りには、びっしりと装飾がなされたひと際大きな二枚扉がある。
あそこが魔力鑑定室かしら。
んー、やはり建物の位置関係がよくわからないわね。
さっきの部屋から、こう曲がったのだから、歌を歌っているであろう音楽堂は・・・どっち?まあ、いいわ。
先導する修道士は、その鑑定室と思われる扉のふたつ手前の部屋のドアを開けた。
「こちらでお待ちください」と言うので足を踏み入れると、開け放たれた窓の方からも歌が聞こえる。
「ああ、午後になったので練習を始めてしまったようですね。実は3日後に聖歌隊の採用試験がありまして、練習ができるように音楽堂を開放しております。魔力鑑定があった昨日と今日の午前中は立ち入れないようにしておいたのですが・・・やはりお気に障りますよね?やめさせるように言ってまいります」
ああ、鑑定のために貴族がたくさんうろつくわけだから、たしかに文句を言う人はいそうよね。
なにか面倒ごとが起こると面倒だからとそうしたのに、結局、別角度から結構な面倒ごとが起こってしまったのよね。
「いえ、気になりませんのでどうぞそのままで」「んまぁ!エミリアーヌ様。皆様が頑張っているというのに、うるさいだなんて酷いですわー。わたくしなら!激励にわたくしお手製のお菓子を差し入れるくらいしますわよー」
大声で被せてくる貴女の声の方がうるさいから、歌など気にならないのですけれど。
でもきっと、わたくしがなにもしていなくてもこういう風に勝手に言われたことが伝わって、悪役令嬢としての評判が上がっていくのでしょうね。
「・・・まぁ。わたくし、うるさいなどとは言っておりませんのに、一番うるさいナタリア様に言われてしまうだなんて。それにしても、ナタリア様がお菓子作りをされるだなんて意外でしたわ。ですが差し入れを思い付く当たり、さすが!ナタリア様ですわね。新店舗の看板であるナタリア様が善行をなされば、きっとお店の評価も上がることでしょう。ぜひ、そうして差し上げて」
「んまぁ!そうですわね!うちの家族も従業員達も、甘いものは苦手だと言ってなかなか食べてはくれないものですから、めったに作ることはしないのですけれど。
ねぇ、貴方、差し入れは何人分くらい作ればいいのかしら?」
「いえ!とんでもない!あー、その、お忙しいとおっしゃっていたではありませんか。それにお菓子は教会の方で用意しておりますので、はい、特に今回は多めに!ですから、お気持ちだけで結構でございます!」
さきほどからなぜか微妙に顔を引きつらせていた修道士が、必死に差し入れを断わっている。
それでもナタリア様は、扇を顎に当てて窓の方を見ながら考えている様子だった。
まあ、本当にナタリア様がお菓子を作っているようだから、ちやほやされる機会は逃したくないのでしょうね。
お菓子作りが上手なのかどうかは知らないけれど。
「え、えーと、とりあえず窓を閉めますね。おや、先ほどまではこちらにお茶を淹れる者がいたのですが不在のようです。呼んでまいりましょう!」
慌てた様子で窓を閉めながら、給湯室と思われる場所を覗いた修道士がそのまま部屋を出て行こうとする。
クロード殺害(残念ながら)未遂事件がなければ、鑑定は午前中に終わっていたはずなのだから、歌の練習が始まっても、給仕がお昼ご飯を食べに行ってしまっても、それは仕方のないことでしょう。
だからそれはいいのよ、それよりもナタリア様とふたりきりにしないでちょうだい。
「お茶は先ほど頂きましたので、どうぞお構いなく」
一応ナタリア様にも視線で同意か問う。
お水を3杯も飲んでいたのだから、お腹がガボガボで断るだろうとは思うけれど。
「わたくしも結構ですわ」 ほらね。
逃げそこねた修道士を逃がさないように、話の流れついでに聖歌隊について問うてみた。
説明によると、大聖堂の聖歌隊は三年で解散し、新たに試験をして再編成するのだそう。
『この国の国民』という以外の応募条件は無いので、貴族も平民も区別しないために受験者が多く、選定に時間が掛かって大変とのこと。
課題曲は毎回新曲。
楽譜は試験の一週間前にならないと渡されないので、練習場の音楽堂は混み合うのだとか。
試験までもうあまり時間もないから、お菓子を食べている暇はないかもと強調している。
そういえば、聖歌隊はとてもお給金と待遇が良いと聞いたわ。誰からだったかしら?
給金とは別に、結婚式などがあると主催の方からお手当と食事、そしてお菓子も振舞われるから、私も歌さえ上手ければと・・・ああ、そんなことを言うのはメアリしかいないわね。
「今回はまだクロード様が試験を受けられるかはっきりしないので、いつもより貴族女性の応募が少なく・・・ああ、そういえば、マルセルム侯爵令嬢はとてもお歌がお上手だと、先日の結婚式の際に前列にいた修道士たちの間で話題になっておりましたね。まだ申し込みに間に合います。ぜひ、聖歌隊に華やかさを加えてくださいませ」
「んまぁ。そんなはずないですわ。わたくし、エミリアーヌ様のお歌は一度も聞いたことがありませんもの。本当にお上手でしたらとっくに自慢されているはずですわー」
あー、それはそうでしょうねぇ。
おじい様の前で歌って以降、人前で歌ったことはないのだから。
わたくし自身、アルフ兄様の結婚式で歌うまで、自分でも成長したら上手くなっていたとは知らなかったわけだし。
え?聖歌隊に入れば、お給金で少しは借金を返せるのでは?ですって?
いいえ、それはできないわね。
貴族の場合、教会関係は無償奉仕と相場が決まっているもの。
それにクロードの動向がはっきりしない以上、関わらない方がいいでしょう。
「まぁ。褒めていただけたなんて嬉しゅうございます。でも、わたくしなぞ聖歌隊に入れていただけるだけの技量はございませんわ」
「ええ。お世辞を真に受けては恥をかくだけですからおやめになった方がよろしいですわよ。わたくしならば受かるでしょうけれど、わたくしは忙しいものでちょっと無理ですわねー」
「・・・それは残念です」
あまり残念そうではないわね。
ああ、やはり社交辞令で勧誘したのね。真に受けてしまって恥ずかしいわ。
ナタリア様はたしかに受かりそうよ。声量だけならば。
「誰かー!手を貸してくださーい!」
さて、次は鑑定について質問してみようかしらと考えていると、廊下の方から助けを求める声がした。
その声にソワソワしだしたこの修道士は、まだ引き留めておきたいところだけれどしかたがないわね。
忙しいのは、わたくしたちが今日鑑定を受けたいとわがままを言ったせいなのだから。
「どうぞお手伝いに行って差し上げて」
「よろしいのですか?では、ご用がございましたら、こちらの呼び鈴をお使いください」
修道士がいそいそと出て行ってしまったので、ナタリア様とふたりっきりになってしまった。
ああ、面倒だわ。化粧室にでも行こうかしら。
「そうですわ!エミリアーヌ様、こちらごらんになって?訂正と追加と感想をいただきたいのですわー」
ナタリア様が突如、手帳をわたくしに突き出してきた。
はっ!そ、それはもしや課金記録なのでは!?
「まあ!見せてくださるの?ありがとう存じます」
よかった。
たぶん最後の、す、んんん、ふぅ、あの、『好きだ』という、超勘違いさせてもらえる高額なやりとりはナタリア様には見られていなかったはず。
だからまだ正確ではないのでしょうけれど、基本単価だけでもわかればある程度の覚悟ができるもの。
それにしても、訂正というか削除は求めるけれど、追加は自分からは絶対に言い出さないわよ。
感想は『高い』しかないでしょう。
ふー。
マルセルム侯爵家の一員としては、どれほどの高額であっても焦りを顔に出してはいけないわよ、わたくし。
表情管理ヨシっ。
では、いざ、「拝見しますね」
・・・・・・・・・・んん?




