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ケモトピア  作者: 恥丸
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1865年。蝴蝶乃舞

1865年。蝴蝶乃舞

 

 コルシカ島。かつてナポレオンを産んだこの土地で妻のマリーと貧しいながらも暮らしていたファーブル。

 彼は、自慢の庭さきで紅茶を啜りながら日誌を書いていた。緑廊には葡萄の木が絡んでおり、それがコルシカの日差しを遮り、さまざまな生き物が休みに来るのだ。ファーブルは、一区切りついた頃合いにティーカップの指かけに手をかけ、書き損じはないかと推敲のために目はノートに向けたまま、口だけはカップの縁に向けた。そこに、柔らかな布きれがあたる感触と少しばかりの風を感じて、急いでカップに向けると、いままさに飛び立ったコルシカキアゲハが、ファーブルと同じく驚いて乱高下している。

 飛び去っていく蝶に愛おしさから微笑みをその顔のシワに刻む。そんな風にファーブルは虫たちに囲まれ、その虫に好奇心を注ぎ、研究したことを発表して生活する様式も気に入っていた。また、家族にも恵まれた。2歳年上の妻のマリーは、貧乏ながら家計を支え、彼の研究も支えた。そして、次男ジュールはファーブルの最愛の助手であり、独立していった子供達の中で唯一、父の仕事に理解を差し伸べた。

 蝶は生垣の方へと飛んでいく。ファーブルは、その飛翔の原理やどこへ向かうかといったことよりも、ただただ、遊んでいる子供が走っていく様を思い浮かべた。また蝶は驚いた様子で身を翻し、優雅に生垣の外へと乗り越え姿を消した。代わって、息子のジュールの姿に気づいて、ファーブルは首をあげる。


「父さん!お客さんだよ!!」


 庭の手入れを任していたジュールは、土埃や草の切れ端を身につけている。そんな息子が、入り組んだ生垣の陰にいるお客さんとやらに、こちらですと手招きをする。スーツに身を固めた男が現れ、ファーブルを確認すると帽子を取り、胸に置いて挨拶をした。

「どうも、ファーブルさん。私はパスツールという者です。細菌を研究をしています。あなたの助力を求めてやってきました」

 突然の来客。

 ファーブルは、どうぞと日陰の緑廊のベンチへ誘った。パスツールと名乗る男は、6月のコルシカの日差しから逃れられると喜んで陰の中へと入って、ファーブルと対面するベンチへと腰を下ろした。程よい乾燥した熱気だが、今日はそんな熱気を払うほどの風がなかったので、男の額からは粒のような汗が吹き出している。ジュールは、客の引き渡しが済んだという風にまた仕事に戻っていった。彼の背中を見送ったパスツールは「失礼」と言ってネクタイを緩めて、ズボンのポッケからハンカチを取り出し、それで汗を拭い始めた。


「いや、お聞きしたとおり、自然と共に暮らしていますな」

 この自然への賛美なのか、それともこの日差しへの愚痴なのか判別し難いつぶやきをボソッとこぼして、一息ついてハンカチを折りたたみポケットへ再度突っ込むと、「突然の訪問、お許しください。我々は早急に解決しなければならないことがありまして、あなたの知識が必要なのです」と、改めてファーブルの元へときたことを言った。

 ほう、とファーブルはうなづいた。

「政府から、近年猛威を奮っている蚕の病死を食い止めるべく要請があったのですが、しかし私は微生物学者でありまして元より蚕のことなど知らない身であります。そこで昆虫博士とも名高いあなたの元へと虫虫の知識を授けてもらうためやってきたのです」

 ファーブルは昆虫についての論文や書籍が積まれた上に開かれた日誌に手を置き、蚕ですか、とつぶやく。

「政府から私にも要請があれば話は別ですが、もしあなたから金銭を貰っても私は私の研究が残っておりますので、残念ながら協力はできませんな」

「私は、基礎知識を教えてもらえればそれで良かったのですが、そうですか…」

 パスツールは、残念そうに俯いた。

「そうならないように、将来的に昆虫の基礎知識についての教科書を作っておくべきですな。しかし、先生、私からはそのような時間を割く余韻はないにしても、私の助手にならその暇がありますよ。その代わり、私は楽が出来なさそうですがな」

 微笑を称えながら、そうファーブルは言った。パスツールは、助手と聞いて、この貧乏貴族のどこにそんなものを雇う金があるのだろうかと一瞬疑った。

「助手というのは、先ほど庭の草むしりをしておりました私の息子のことですよ、彼も相当な知識を持っておりますし、いつまでも私の手元で働くよりかは自身で研究し体系化を行ったほうがよろしいでしょう」

 ああ、とパスツールは漏らした。

「パスツール先生は、こちらへご滞在で?」

「はい、急を要するので二週間ほどですが。その期間、助手をお借りしてよろしいのであれば助かります」

「どうぞどうぞ、お好きに。少し席を外します、今ほど家族会議を行いますので……」


 ファーブルは、テラスから白い土壁の家の中へと消えていった。その間、パスツールは身体を襲っていた熱が冷めたので、ひとつ腰を起こして立ち上がり、今一度、彼の研究室と思われるこの空間を観察し始めた。蝶が、何匹か追いかけっこのように過ぎ去り、葡萄の木の葉影には小さな甲虫が散見された。パスツールの部屋といえば、普通の研究者の一室と言っていいもので、このように開放感のあるものではなかった。葡萄の実に、カマキリが一匹、ツルッと落ちてしまいそうに片足で引っ付いてるのを見つけて、楽しげにそれを眺めていた彼の元に、足早に歩いてくる女性。マリーだろうと思ったパスツールは、どうも、とまたファーブルにしたように突然の訪問を詫びた。

「それは良いの、ウチの人、何も出してないって言うので、これ、口に合うか分からないですけど……」

 マリーは、菓子の入った皿をテーブルの上に差し出した。

「急いで紅茶かコーヒーをいれてきますわ。どちらがよろしくて?」

「お気遣いなく……コーヒーで」

 それを聞いたマリーは、ニコッと微笑んでから踵を返して家の中へと、ファーブルと立ち替わりで消えていった。すれ違いざま、おそらく「まったくもう」あたりのことを彼に浴びせかけていたように見えた。

「ご足労のところ、何も出してなくて申し訳ないですの。そのうち、ジュールも来ますので、彼に基礎知識を乞うてくださいな」


 こうして、ジュールがやってきて事情を聞くと、喜んで協力することを許諾した。

改稿

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