221話〜北方調査隊出発・霧の森に響く声〜
バトランタ領、冬の朝。
雪を含んだ風が、灰色の雲をかすめながら吹き荒れていた。
森の奥からは、かすかな唸り声が聞こえる。
獣のものか、それとも――もっと“禍々しいもの”かは分からない。
浅井悠真――この世界ではB級冒険者ユウマとして名を知られる青年は、冷えた息を吐きながら、ギルド支部の石段に立っていた。
「……また依頼か。最近は本当に、落ち着く暇がないな」
黒い外套を翻し、手にした書簡を見下ろす。
封蝋の紋は、オルトメルガ王国冒険者ギルド本部のもの。
そしてその文面には――こう記されていた。
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『北東部バトランタ領、ヴァルドの森における黒霧現象の調査。
調査隊にB級冒険者の同行を要請する。
危険度:最低でC級。依頼主:王都本部。』
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ユウマは眉を寄せた。
(“黒霧現象”……。またか。最近、どの村でも聞く話だ)
バトランタの街を覆う空気は、明らかに変わっていた。
冬の冷たさとは別の、息苦しいほどの“圧”が漂っている。
人々は囁く――
「北の森で何かが目覚めた」と。
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バトランタ冒険者ギルド支部・作戦室。
ユウマが部屋に入ると、すでに数名の冒険者が集まっていた。
ひときわ大柄な男、ヨーゼフ。
片耳に銀の飾りを付けた短剣使いムス。
そして、その中央で大声を上げていたのは――
筋骨隆々のスキンヘッドに濃い化粧を施した大男。
「やっほ♡ ユウマちゃん!久しぶりね!」
ユウマが思わず一歩引く。
その巨体は二メートル近く、黒い革の鎧が軋むほどの筋肉を誇っていた。
だが、口調は妙に甘い。
「……マスタング。あんたも参加するのか」
冒険者の一人がそう呟く。
「ちょっとぉ、“アンジェラ”って呼びなさいって言ってるでしょ? “マスタング”なんて呼んだら、あたし怒っちゃうんだから♡」
その瞬間、ヨーゼフが笑いをこらえきれずに肩を震わせる。
「おいおい、怖ぇんだよな……“マスタング”って呼ぶとよ」
ムスが呆れたように補足する。
「前に間違えて呼んだ新人、壁ごと吹っ飛ばされたらしい」
アンジェラ――本名マスタングは、太い腕を組みながら唇を尖らせた。
「だってぇ、“アンジェラ”の方が可愛いじゃない? オカマが夢見ちゃ悪い?」
その声には、場を軽くするような明るさがあった。
「お久しぶりです。試練のダンジョン以来ですね。で、今日の会議は例の“黒霧”の件ですよね」
ユウマが問いかけると、ヨーゼフが頷いた。
「ああ。王都からの緊急依頼だ。しかも今回は、俺たち冒険者以外にも参加者がいるらしいぜ」
「他に……?子爵の調査団とですか?」
「いや、今回は別行動らしい」
ムスが机上の書類を指し示す。
「ルパメント聖王国から、“勇者一行”が派遣されるそうだ」
その言葉に、ユウマの手が一瞬止まる。
「……勇者、だって?」
「ああ。異世界から召喚された子たち。聖王国の“神の使徒”だとかで、今回は“神意による調査”の一環らしい」
ユウマは心の奥に、ざらりとした感触を覚えた。
(……異世界。召喚された勇者たち……)
胸の奥で何かが引っかかる。
けれどそれが何なのか、まだ言葉にはならなかった。
■■■
午後。冒険者ギルド前の広場。
冬の陽光が鈍く石畳を照らし、雪解けの水が溜まっていた。
銀の装甲をまとった馬車が並び、白翼の紋章が冷たい風に翻る。
ルパメント聖王国の使節団――聖騎士八名、神官二名、従者数名。
その馬車の中から、四人の若者が姿を現した。
「……まさか、彼らが“勇者”か」
ムスが低く呟く。
最初に降りたのは黒髪の少年。
鋭い目つきと静かな歩み。
その後ろに、茶髪の青年、背の高い少女、そして眼鏡の女性。
装いこそ異国風だが、どこか“現代的な気配”をまとっていた。
ユウマの胸がざわめいた。
(あいつら……どこか、見覚えがあるような……)
ユウマはそれがどこで見たのか思い出せなかった。
ギルド代表・ガーレン・バストークが前に出る。
今回は相手が相手だけに、態々王都からバトランタまでやって来たのである。
「勇者殿、ようこそオルトメルガ王国へ。
この地の調査については、ギルドが全面的に支援いたします」
黒髪の少年が一礼する。
「ありがとうございます。僕は篠崎悠斗。こちらは鷺沼沙羅、東雲亮、真壁仁。
――異世界・日本から召喚された、勇者一行です」
“日本”――
その言葉を聞いた瞬間、ユウマの心臓が跳ねた。
(……日本、だと?)
頭の奥が霞のように揺らぐ。
この世界に来てから、初めて聞く“懐かしい響き”だった。
ヨーゼフが笑う。
「異世界の英雄様と一緒とはな。こりゃ名誉だぜ」
アンジェラが腰に手を当てて言う。
「まあ、可愛い子たちがいるのは歓迎だけど♡ でも、あたしの筋肉に惚れないでよねぇ?」
勇者たちが一瞬たじろぐ。
聖騎士の一人が冷たく言い返した。
「我らに戯言は不要。我々は“神の加護”のもとにある。闇を祓うのは我らの務めだ。マスタング殿」
アンジェラがにっこりと笑い、顔を近づける。
「もう一度“マスタング”って呼んでみなさいよ♡」
「な……?」
空気が一瞬で凍った。
低く、地を這うような声が響く。
「――言ってみろ。潰すぞ」
聖騎士が青ざめて後ずさる。
ヨーゼフが慌てて割って入った。
「お、おいアンジェラ! そこまでにしとけ!」
ガーレンが咳払いをして場を収める。
「諸君。我々の目的は同じだ。“黒霧現象”の真相を突き止めることだ」
■■■
調査隊は総勢三十名。
冒険者、聖騎士、勇者、神官、従者、そして馬車隊。
目的地は北方ヴァルドの森――“黒い霧”が初めて現れた場所だ。
出発前、篠崎悠斗がユウマに声をかけた。
「君がユウマさんだよね。ギルド推薦のB級冒険者」
「そうだが……」
「よろしく。俺たち、右も左も分からなくてさ。地理とか、教えてもらえると助かる」
ユウマはその笑顔に、妹――アゲハの面影を見た。
「……あんたたち、どこから来たんだ?」
「え? “日本”って国。君、知ってるの?」
ユウマの世界が止まった。
「……日本、か。懐かしい響きだな」
「まさか、君も……?」
この世界では珍しい黒髪黒目のユウマを見て、篠崎悠斗が質問する。
「……さあな。ただ、少し似たような場所にいた気がするだけだ」
ユウマは曖昧な回答ではぐらかす。
■■■
三日後。
調査隊は雪に覆われたヴァルドの森に到達した。
ヴァルドの森を越えると、山の民の領域であるが、そこまで行く予定はない。
霧が立ちこめ、昼なのに薄暗い。
風が音を運び、森全体が“囁いている”。
「ここが……“黒い霧”の発生源か」
ヨーゼフが剣を抜く。
アンジェラが筋肉を鳴らしながら構える。
「やだわぁ、この空気。まるであたしのメイクが凍っちゃいそう♡」
神官が聖印を掲げ、祈りを捧げる。
その瞬間――霧の奥が動いた。
「来るぞッ!」
黒煙を纏う獣が飛び出す。
赤い目、牙、そして黒い靄。
「《黒霧獣》かッ!」
ヨーゼフの剣が唸り、アンジェラの拳が炸裂する。
一撃で霧が爆ぜ、地面が揺れた。
「筋肉は裏切らないのよォッ!!!」
勇者たちが唖然とする中、ユウマの体も自然に動いていた。
(……何だ、この感覚。体が勝手に――)
刃が霧を裂き、影が弾ける。
やがて霧が晴れ、静寂が戻った。
――ユウマ。
その声は、確かに彼の名を呼んでいた。
振り返っても誰もいない。
ただ霧が、少女の輪郭を描いたように揺れていた。
「……アゲハ……?」
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夜。
焚き火を囲み、静寂の中で炎が弾ける。
篠崎悠斗が隣に座る。
「ねえ、ユウマさん。さっき、誰かの名前を呼んでなかった?」
「……アゲハ昔の、知り合いの名前だよ」
「そっか。俺たちのクラスにもそんな子がいたな……“浅井アゲハ”。
今は聖王国の神殿にいるはずだよ」
――世界が止まった。
焚き火の火花が、心臓の鼓動のように弾ける。
「……アゲハが……この世界に……?」
手が震える。視界が揺れる。
(アゲハ。お前も、この世界に……)
「……俺は、行く」
「え?」
「次の調査地点、“黒霧の源”――そこに行けば、全てが分かる気がするんだ」
焚き火が彼の瞳に映り込む。
そして同じ夜、遠く離れた聖王国の神殿で。
浅井アゲハは、同じように目を開けた。
――兄さん?
彼女の唇が、震えながらその名を形作る。
アナトリア大陸の空を、黒い風が吹き抜けた。
それは“再会”と“災厄”を同時に告げる風。
運命の霧は、いま確かに――動き出していた。
──続く。




