218話〜崩れゆく金座(かなざ)・鉄の影、帝国の囁き〜
ヴェルド=エンの朝は、灰色に沈んでいた。
海から吹き上げる霧が石畳の街路を覆い、鐘の音さえ鈍く響く。
それは、かつて「金の都」と呼ばれた商都の姿ではなかった。
港の倉庫には焼け残った樽と炭化した木片。市場には兵士の姿が混じり、人々は怯えたように声を潜めている。
――十隻の商船が帰らぬまま、三日が過ぎた。
噂はもはや“事実”として街中に広まっていた。
「金座は沈んだ」「メリッサは運を失った」「女王の座は終わりだ」
その噂の中心に立たされている本人――メリッサ・ヴェルドは、金座議事堂の高窓の下に立っていた。
窓の外に見える港は霧に包まれ、まるで世界そのものが彼女を拒むようだった。
机上には報告書の山。漂流した積荷、焼失した証拠、そして……数名の生存者の証言。
「……“赤い帆”を見た。嵐ではなく、襲撃だった……」
指で報告書の端を押さえ、メリッサは深く息を吸う。
「赤帆団。……誰が、彼らを雇ったの?」
その声は小さかったが、部屋にいた補佐官たちは息を呑んだ。
沈黙が続く。やがて、老練の会頭の一人が口を開く。
「……証拠はありません、長。しかし、ガルド殿が以前より海運統制を主張していたのは確かです」
「ガルド殿が?」
メリッサの眉がわずかに動く。
「まさかとは思うけれど……彼は、この街を誰よりも愛していたはずよ」
「愛していた、ですか」
別の商人が苦く笑う。
「人が愛するのは“金”であり“支配”です。愛はいつも、誰かの上に立つ理由になる」
言葉の刃が静かにメリッサの胸に突き刺さる。
その時、扉が激しく叩かれた。
「報告! 旧金座の議員たちが会合を開いております! 内容は……“緊急信任投票”とのこと!」
メリッサの瞳に光が走る。
「……つまり、私を追い落とすつもりね」
補佐官たちが慌てて立ち上がる。
だが、彼女は手を上げて制した。
「いいわ。私が行く」
外套を羽織り、霧の街へと歩み出る。
彼女の足音は静かだったが、その背に宿る気配は、嵐を孕んだ空気そのものだった。
■■■
金座大広間。
天井に吊るされた燭台の光が、金貨のように揺らめいていた。
議員席には二十余名の商人たち。古参、貴族派、そして中立の者たち。
壇上に立つのは――ガルド・サーヴェン。
「諸君、我らの街を見よ。かつて栄華を誇った商都が、今や瓦礫と化した。
十隻の船を失い、王都との取引は途絶え、民は飢えている」
彼の声は、老練な商人のそれではなかった。
まるで、演説に熟れた政治家のような響き。
「責任を取るべきは誰だ? 金座の長、メリッサ・ヴェルドではないのか!」
ざわめきが広がる。
誰かが机を叩き、誰かが頷く。
「彼女は戦勝貴族などという時流に乗り、王女派に与してこの街を危機に晒した!」
「自由都市に貴族の干渉を許した罪、重いぞ!」
「民は食えぬ! 商人は倒れる!」
怒号の中、扉が開いた。
霧の向こうから現れたメリッサは、白い外套を翻し、壇上に歩み出る。
その静かな登場だけで、ざわめきが一瞬止まる。
「……私の責任を問うなら、受け入れるわ」
彼女の声は、凛として響いた。
「けれど、取引を潰したのは私ではない。嵐ではなく、“意図的な襲撃”だった」
「証拠はあるのか!」と誰かが叫ぶ。
メリッサは一枚の布を取り出す。焦げた帆布――赤い染料がわずかに残る。
「これを見つけたわ。赤帆団の残骸。――そして、彼らの雇い主の印章」
取り出された小さな金属片には、黒い双翼の紋が刻まれていた。
「第二王子派の封蝋よ」
会場に、静寂が走る。
ガルドの顔が一瞬だけ強張った。
だがすぐに、彼は笑みを浮かべる。
「……そんなもの、誰にでも作れる。商人が偽印を使うことなど珍しくもない」
「いいえ。これは本物。
――王都からの正式文書に使われる、特製の黒蝋。私が使っていた封蝋と同じ工房のものよ」
ざわ……と空気が動いた。
「つまり、あなたは知っていたのね、ガルド」
「……なに?」
「この紋を、王都のどの派閥が使うか。
あなたほどの商人が知らないはずがない。知らなければ、こんな封蝋を偽造できないもの」
ガルドのこめかみがぴくりと動く。
「証拠もなく、私を――」
「あなたしか知らなかった。
“船団の航路を南に逸らす”提案を出したのは、あなたの部下だけだった」
一瞬の沈黙。
空気が凍りつく。
やがて、ガルドがゆっくりと両手を広げた。
「……見事だ。だが、遅かったな、メリッサ・ヴェルド」
次の瞬間――。
議場の扉が破られ、武装した私兵が雪崩れ込む。
「金座の治安維持の名の下に! メリッサを拘束せよ!」
「ガルド! あなた――!」
叫びも虚しく、刃が閃く。
補佐官たちが抵抗しようとしたが、数で圧倒された。
「やめなさい!」
メリッサの声が響く。
「この街を、血で汚す気!?」
「汚す? もうとっくに汚れている! お前の“理想”でな!」
ガルドが叫び、彼女の前に立つ。
その目は狂気にも似た輝きを帯びていた。
「私は自由を取り戻すだけだ! 王女派にも、貴族にも、誰にも縛られぬ商都を!」
「……あなたの言う自由は、“あなたの支配”のことね」
メリッサの静かな言葉に、ガルドの顔が歪む。
「拘束しろ!」
私兵が近寄る。
だがその瞬間――。
地面が、低く唸った。
重い震動。窓が揺れ、燭台が鳴る。
「な、なんだ……地震か!?」
「違う……これは――」
轟音。
大扉が外から吹き飛ばされ、光の中から“鉄の巨人”たちが現れた。
全身を黒鋼に包み、赤い魔石の眼を光らせた十の影。
――《マギア・ゴーレム》。
兵たちは一斉に悲鳴を上げ、後退する。
その奥から、ゆっくりと一人の男が歩み出た。
バトランタ・クヴァルム・フォン・ドゥーエ。
鎧の肩を陽光が照らし、彼の影が広間を覆う。
「……遅れたな、メリッサ」
彼の声が響くや、場の空気が一変した。
ガルドが顔を引き攣らせる。
「ば、バトランタ子爵……何故ここに……!」
「貴殿が奪った“信頼”を取り戻しに来た」
クヴァルムの背後で、ゴーレムたちが静かに剣を構える。
商人たちは凍りつき、兵たちは腰を抜かす。
メリッサだけが、彼に一歩近づいた。
「来てくれたのね……!」
「船団の仇は討った。赤帆団も、第二王子派も繋がっていた。だが、この街が敵に渡るのは許さぬ」
「街……が敵に?」
「――ガルド・サーヴェン。貴様が、第二王子派と通じていたことは明白だ」
クヴァルムの目が、鋼のように光る。
「貴族と手を結ぶ商人を非難しながら、王子派と手を組むとは。滑稽だな」
ガルドは後退しながら叫んだ。
「違う! 私は、この街のために――!」
「ならば、民を巻き込むな」
剣がわずかに動くと、空気が裂けた。
だが――。
その時、外から銃声が響いた。
「敵襲! 東区から火の手が!」
伝令が駆け込む。
「帝国の旗が――ラーバント帝国の偵察隊です!」
「帝国、だと!?」
クヴァルムの顔が一変する。
ガルドが凍りつく。
背後の影の中から、一人の男がゆっくりと進み出た。
細身の外套、鋭い目。
それは、ガルドの側近として仕えていた書記官
――だが、その胸元には帝国の銀徽章が輝いていた。
「まさか……お前、帝国の……!」
「“帝国商務局第七課”、ラーバント密偵、カイル・ローデン」
男は淡々と名乗った。
「ご安心を。陛下の命により、王国の内乱を“促進”させに来ただけです」
「促進……?」
「混乱は、我らに利益をもたらす。
あなた方が争えば、どちらが勝とうと、王国は疲弊し、帝国は再び立ち上がれる」
その言葉に、場の空気が一気に凍りつく。
メリッサが息を呑む。
クヴァルムの拳が鳴った。
「貴様ら……! この街を戦場にする気か!」
「いえ、子爵。あなた方がもう戦場を“始めている”」
その瞬間、遠くで爆音が響いた。
港の方向。炎の柱が上がる。
「爆薬です! 倉庫が――!」
カイルは静かに微笑んだ。
「帝国は、ただ火を点けただけ。燃やすのは、あなた方自身ですよ」
刹那――。
クヴァルムの剣が振るわれ、閃光が走った。
だが、カイルの姿はもうそこになかった。
残ったのは黒い煙と、嘲笑のような囁きだけ。
“戦は終わらない。終わらせる覚悟を持たぬ限り、永遠にな”
■■■
数刻後。
港は炎に包まれていた。
避難する人々の悲鳴。焦げた木の匂い。
マギア・ゴーレムたちは火の中に踏み込み、崩れる建物を支え、子供たちを救い出していた。
だが――その光景を見上げる民の目には、恐怖が宿っていた。
「……怪物だ……!」
「鉄の悪魔が街を歩いてる……!」
救っているのに、恐れられる。
それが戦の現実だった。
クヴァルムは黙ってその声を聞いていた。
彼の背に、火の粉が舞う。
「……これが、俺たちの代償か」
隣に立つメリッサが、炎を見つめながら呟く。
「それでも、守らなければ。
帝国の思うままにはさせない」
クヴァルムは頷いた。
「俺は戦場を知っている。
――だが今度の戦は、剣よりも“信義”で戦わねばならん」
二人の視線が交わる。
その奥に、同じ覚悟の光が宿っていた。
夜空に昇る炎が、二人の影を重ねる。
やがて、遠く海の向こう――。
帝国の都ラップランドでは、一人の男が報告を受けていた。
黒衣の将、ゼム・フォルクライン。
帝国軍王国侵攻軍の元指導者にして、“敗戦の梟”と呼ばれた男。
「ヴェルド=エンが燃えている、か」
「はい。王国南部は混乱状態にあります」
ゼムは微かに笑う。
「ならば、我らは風を吹かせるだけでよい。
焦げた麦の香りが、王都に届く頃――王国は自ら崩れる」
その目には、冷徹な光。
「“商都戦役”――次の戦は、そこから始まる」
■■■
夜が更け、港の炎が静まり始めた頃。
瓦礫の中で、クヴァルムとメリッサは立っていた。
焦げた麦の匂いの中、風が吹く。
「あなたは戻るの?」と彼女が問う。
「いや。もう少しここにいる。
この街を“戦場”にしないために」
「ありがとう」
「礼はまだ早い。……これからが本番だ」
クヴァルムは空を見上げた。
そこには、雲の切れ間から覗く満月――
まるで、血のように赤く染まっていた。
その光が、瓦礫の海を照らす。
“裏切りの海”の次に来るもの。
それは――“鉄の戦場”だった。
──続く。




