217話〜裏切りの海、鉄の誓い〜
バトランタの城塞に、冷たい風が吹き抜けていた。
戦場の灰はとうに雨に流されたが、領地に満ちるのは平穏ではなく、飢えと不安だった。
その中心で、クヴァルム・バトランタ・フォン・ドゥーエは、一通の手紙を静かに見つめていた。
黒い双翼の紋――第二王子アレクサンドルの封蝋。
「……王都の腐臭が、ここまで届くか」
封を切り、目を通すと、内容は実に挑発的だった。
“交易の失敗は、王女派の軽率さゆえ。我ら第二王子派は、あなたに新たな支援を申し出る。王国の再建のために、賢明な判断を期待する。”
つまり――裏切れ、ということだ。
「……愚か者どもめ」
クヴァルムは手紙を炎に投げ入れた。
燃え上がる蝋の臭いが、硝煙に似ていた。
「シャルロット殿下の信義を裏切れというなら、俺はその逆を行こう」
彼は立ち上がり、指揮官のマルコに命じる。
「準備を整えろ。南へ向かう」
「南、でございますか? ヴェルド=エンへ……?」
「そうだ。失われた船団の真相を確かめる。
あれが“嵐”などという言葉で済むとは思えん」
マルコが頷くと、廊下の奥で重い金属音が響いた。
それは、十の影が歩む音――。
現れたのは、全身を黒鋼で覆った巨躯の兵士たちだった。
二メートルを超える体躯。兜の奥に覗く光は赤い魔石の輝き。
――魔導機兵。
古代遺跡から発掘された、戦場の悪夢。
クヴァルムが領地防衛のために、その存在を明るみにした手の内の一つである。
「マルコ。これを見ろ。人の形をしているが、中身は人ではない。
命令を下す限り、炎の中でも進む。……今回は、それが要る」
クヴァルムはその正体を告げる。
「承知しました。まさか、これを南に……?」
「必要ならば海ごと焼き払う。民を飢えさせた者が誰であれ、必ず裁く」
その声音に、兵たちや使用人の背筋が伸びる。
戦が終わってもなお、戦場の将はその心を失ってはいなかった。
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一方、ヴェルド=エン。
港には沈んだような空気が漂っていた。
焼け焦げた残骸が浜辺に打ち上げられ、波に濡れて光っている。
海の匂いに混じるのは、麦の焦げる甘ったるい臭気だった。
メリッサ・ヴェルドは港の高台からそれを見下ろし、拳を固めていた。
「……十隻の護衛がいて、一夜で全滅。そんなこと、偶然で済むはずがない」
背後で、古参商人たちの声が聞こえる。
「原因調査? もう遅い。取引は破綻した」
「王女派の子爵も沈むさ。奴の領はもはや終わりだ」
「金座は我々が再構成すべきだ。あの女に任せては街が傾く」
彼らの中心で、ガルド・サーヴェンが静かに腕を組んでいた。
もはや彼は何も言わず、ただ勝者のように微笑んでいた。
だがメリッサは、その笑みを一瞬だけ睨み返し、すぐに視線を外した。
怒りよりも先に、彼女には責務があった。
「……情報を集めて。嵐が起きた海域、目撃証言、漂流物、何でもいい」
「ですが、危険です。赤帆団の噂も……」
「承知の上よ。命を賭ける価値がある。彼は、あの子爵は、私を信じてくれた。
なら、私も信じ抜くまで」
メリッサの声は震えていなかった。
それは、王都貴族たちが恐れる“金座の女王”の声そのものだった。
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三日後。
南方航路――“赤い海域”と呼ばれる場所に、一隻の船団が姿を見せた。
バトランタ子爵旗を掲げ、甲板には黒鋼の巨人たちが立ち並ぶ。
波間に陽光が反射し、彼らの鎧を金色に染める。
その光景はまるで、古の伝説に語られる“鉄の軍神”のようだった。
マルコが海図を広げる。
「この辺りが沈没地点です。潮流の関係で、積荷は北西に流れたはず」
「魔導探知を起動。残留魔力を拾え」
ゴーレムたちが一斉に胸部を光らせ、青い魔紋が甲板に広がった。
波の奥に潜む魔力の残滓を探る――それは古代の技術、“魔素共鳴”。
ほどなくして、一体のゴーレムが重低音で警告を鳴らした。
「……敵影、北方。距離三千。動いている」
「海賊か?」
マルコが望遠鏡を覗き込み、息を呑む。
「……赤い帆です。間違いない、“赤帆団”です!」
「やはりか」
クヴァルムの目が鋭く光る。
彼の背後で、マギア・ゴーレムたちが一斉に剣を抜いた。
青白い魔力が刃を包み、空気が震える。
「交戦準備。敵を生かすな」
命令と同時に、十体のゴーレムが海面へと飛び込んだ。
轟音とともに水柱が上がり、鉄の巨人たちが海を駆ける。
赤帆団の船が砲を放つも、弾丸は装甲に弾かれ、火花が散る。
次の瞬間、ゴーレムの一体が跳躍し、片手で船を押し潰した。
「な、なんだあれは――!?」
「怪物だ! 退けぇッ!」
海賊たちの悲鳴が夜風に消える。
燃え上がる帆を背景に、クヴァルムの船が前進する。
「リュシアン・デュラント。お前が裏で糸を引いているなら、逃がさんぞ」
その名を呟く声は、呪いのように低かった。
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その頃、ヴェルド=エンでは――。
ガルドが密談の部屋で報告を受けていた。
「……赤帆団、全滅。海上で謎の鉄騎士の部隊に襲われたとのことです」
「鉄騎士……? まさか、子爵が本当に兵を動かしたのか……?」
報告者が怯える中、ガルドは額に汗を浮かべた。
それは恐怖ではなく、焦り。
「まずい……。計画を急げ。第二王子派に伝えろ。
“バトランタの怪物”が南を制した――と」
「ですが、それは……」
「いいからやれ! このままでは、あの男が王女派の象徴になる!」
ガルドの叫びが部屋に反響する。
そしてその背後――闇の中で、誰かが薄く笑った。
リュシアン・デュラント。
彼は暗がりから姿を現し、冷たい声で言う。
「慌てなさんな。計画は次の段階に移るだけです」
「……次の段階?」
「はい。彼を“英雄”から、“反逆者”にする段階です」
リュシアンの口元に浮かぶ微笑は、蛇のように細かった。
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夜。
クヴァルムの船団は、燃え尽きた赤帆団の残骸を越え、静かな湾へと入っていった。
海面に浮かぶ無数の木片の中に、彼は沈黙のまま立つ。
マルコが近寄り、問う。
「敵は殲滅しました。ですが……生存者の一人が、奇妙なものを持っておりました」
差し出されたのは、濡れた封筒。
封蝋には――黒い双翼。
「第二王子派……やはり、繋がっていたか」
クヴァルムは拳を握りしめた。
その目には怒りもあったが、それ以上に、覚悟が宿っていた。
「……この手で終わらせる。王都の腐敗も、飢えも。
それが勝者としての、俺の代償だ」
波の音が静かに響く中、彼はマギア・ゴーレムたちに命じた。
「次の目的地――ヴェルド=エン。進路を取れ」
その背に、秋風が吹いた。
冷たい潮の香りの中、空の彼方に嵐の兆しが見えた。
そして、誰にも知られぬまま――
鉄と炎の“第二の戦い”が、幕を開けようとしていた。




