216話〜勝者の代償②〜
ヴェルド=エンの金座会議が終わったその夜、都市の中心街は異様な熱気に包まれていた。
戦勝貴族クヴァルム・バトランタ・フォン・ドゥーエと商都の盟主メリッサ・ヴェルドが正式に取引を交わしたと知るや、街の商人たちは色めき立ったのだ。
「麦が動くぞ」「新しい交易路が生まれる!」「王国の税制緩和だって? 本当なら一大事件だ」
夜の酒場にはそんな声が飛び交い、金と未来の匂いに酔いしれる者たちが盃を打ち鳴らしていた。
だが、その中に一人だけ、笑わぬ男がいた。
ガルド・サーヴェン。
ヴェルド=エン創設以来の古参商会「サーヴェン商会」の会頭にして、メリッサが金座の長となる前の実質的支配者である。
今の彼の顔は、酒精ではなく怒りに紅く染まっていた。
「……若造が。戦場帰りの貴族に取り入って、あれほどの決定を独断で通すとはな」
隣に座る部下が、恐る恐る口を開く。
「ですが旦那、彼女の提案で市場は活気づいております。貴族領の鉄や鉱山権、それに新しい交易路……」
「活気など一時の幻だ」
ガルドは吐き捨てるように言った。
「貴族と手を結ぶということは、いずれ王国の鎖が我らの首を締めるということだ。メリッサにはそれがわからん。自由都市は、自由だからこそ富むのだ」
杯を乱暴に置き、立ち上がる。
その目は、もはや商人ではなく、権力を奪われた支配者のそれだった。
「……よかろう。ならば、やり方を変えるまでだ」
ガルドはその夜、密かに街の裏手へと向かった。
港の倉庫群の奥、誰も使わぬはずの古い石倉庫。
そこに、彼の“客人”が待っていた。
「遠路ご苦労。第二王子派の御使い殿とお見受けする」
月明かりに照らされ、銀の紋章を胸に付けた青年がうなずいた。
その紋章は、オルトメルガ王国・第二王子アレクサンドルの象徴である双翼の剣。
「こちらこそ、ガルド殿。メリッサ嬢が王女派と手を結んだと聞いては、放っておけませんのでね」
青年――リュシアン・デュラント。第二王子派の参謀格と噂される人物だ。
彼は冷ややかな笑みを浮かべ、持参した文書を卓上に置いた。
「王都では、第三王女シャルロット殿下の勢いが増しており、特にあの“戦勝子爵”クヴァルムを抱き込んでいるのは痛手です。
あなたの街がその補給拠点になれば、いずれ彼らの財源となるでしょう」
「……わかっておる。ゆえに私は、取引を潰したい。いや、潰すだけでは足りん。メリッサの信用を地に堕とす」
リュシアンの目が細められた。
「興味深い。どのように?」
「簡単なことだ。商人の信頼など、取引の信用で成り立つ。
――その信用を崩す。食糧を積んだ船を一隻、消してしまえばいい」
「……船を、消す?」
「海は広い。川に入る前に仕留めれば問題はない。嵐でも、海賊でも、理由はいくらでもある。
ヴェルド=エンの商船団の一つが行方不明になれば、クヴァルムも商都も互いに責任を押し付け合う。
“商会の女王”などと呼ばれる小娘が、民を飢えさせたとあれば、王都での評判など地に落ちる」
リュシアンはしばらく黙り込み、やがて唇の端を持ち上げた。
「……実に、王都の貴族でも考えぬほど冷徹だ。いいでしょう。こちらからも“嵐”を用意いたします」
「嵐?」
「我らの手駒に、海賊崩れの傭兵団がいます。“赤帆団”と呼ばれている。金さえ払えば、どんな船でも沈める連中だ」
ガルドの目がわずかに光った。
「金は出そう。だが、証拠は一切残すな。
この都市の秩序は紙より薄い。だが、噂は鋼より固く残る」
「お任せを」
そう言ってリュシアンが立ち上がる。
彼が倉庫を去ると、夜の静寂が戻った。
しかしその静寂は、嵐の前の静けさに他ならなかった。
■■■
数日後、ヴェルド=エンの港では、交易船の準備が進められていた。
積み込まれるのは小麦、豆、干し肉、塩――クヴァルムの領へ向けた三ヶ月分の救援物資。
出航前に港へ姿を見せたメリッサは、指揮官たちに細かい指示を与えていた。
「護衛は十隻。航路は沿岸寄りで。海賊避けの旗も掲げておきなさい。……あの子爵殿を、私は裏切れない」
彼女の横顔は静かだったが、目の奥には燃えるような決意があった。
ヴェルド=エンの商人である前に、彼女は人として、約束を果たそうとしていた。
だがその決意を、遠くから見つめる影があった。
黒衣の男たち――ガルドの配下である。
その視線は冷たく、まるで獲物を見定める蛇のようだった。
「今夜、赤帆団が動く。航路を南へ逸らすように誘導しろ。嵐を装う」
「了解です。……ですが、本当に沈めるのですか?」
「慈悲をかければ、次は我らが沈む。情けを商売に持ち込む者から順に、淘汰されるのだ」
ガルドの声は、かつて金座を率いていた頃よりもはるかに冷たかった。
■■■
夜。
月が雲に隠れた瞬間、海の上で閃光が走った。
轟音。
火の矢が、暗闇を裂く。
炎が麦の樽を包み、黒煙が天に昇る。
護衛船が応戦するも、どこからともなく現れた赤帆の船団が、三方から襲いかかる。
「ヴェルド=エンの旗を降ろせ! 積荷を渡せば命は助ける!」
「断る! ここで退けば、民が飢える!」
若き船長の叫びとともに、船は最後まで抗った。
だが多勢に無勢――船団は次々に火に包まれ、炎の海と化した。
夜明けには、漂流する木片と焼け焦げた麦袋だけが、波間に揺れていた。
■■■
数日後。
ヴェルド=エンに沈痛な報せが届く。
「……第一船団、全滅。積荷の大半は失われ、生存者は数名のみ……」
報告を受けたメリッサは、唇を噛み締めた。
会議室には重苦しい沈黙が流れ、古参商人たちが一斉に彼女を見る。
「言っただろう、貴族に関わればこうなると!」
「損失は莫大だ! 金座の資金が尽きるぞ!」
「ヴェルド=エンを巻き込んだのは誰だ!」
怒号と非難の渦。
だが、メリッサは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……必ず原因を突き止めます。誰が、何のためにこの交易を狙ったのか。
そして、約束は果たす。クヴァルム・バトランタ・フォン・ドゥーエを、私は裏切らない」
その決意の光に、一瞬だけ沈黙が戻る。
だが、その隙をつくように、ガルドが立ち上がった。
「口では何とでも言える。だが結果がすべてだ。
金座の長としての責任を果たせ、メリッサ・ヴェルド。
――あるいは、席を譲ることだ」
彼の声には、勝利の確信が滲んでいた。
■■■
その夜。
バトランタ領に届くはずだった麦の代わりに、届いたのは一本の手紙だった。
封蝋には、黒い双翼の刻印。
クヴァルムはそれを手に取り、沈黙した。
背後で、彼の側付きが不安げに言う。
「……閣下、これは」
「第二王子派か。……なるほど。まだ、戦は終わっていなかったようだな」
その瞳に宿る光は、戦場にいた頃のそれだった。
炎の中で鍛えられた、鋼の意志。
「メリッサを……守らねばならん」
静かに立ち上がると、窓の外には秋の風が吹いていた。
それはまるで、新たな嵐の前触れのように、冷たく、鋭く彼の頬を撫でていった。
――戦の代償は、まだ終わらない。




