第10話 断罪
彼は泣いていた。まるで悪夢のような世界になってしまったことに。
けれど、いつまでも泣いてばかりではいられない。そう思った彼は、立ち上がる。
「皆の者、我らに勝利はない。敵に“意思の支配者”であるアスティンェルがいる限り。……しかし、それでも立ち上がる同志がいるならば、立ち上がってくれ。我と共に、彼の敵を討ち亡ぼすのだ」
民は、咆哮をあげた。空気が激震するかの如く大音声で、喉の奥が張り裂けそうなほど。
彼らは知っている。いま、上空で佇む我らの天使が嘘をつかないことを。嘘などつけない天使であることを。だからこそ、その言葉に嘘偽りはないのだと、確信を持っている。
つまり、我らに勝利の目がないことも理解している。それでもなお、彼らは彼に続いた。これまでの行いが、彼に還ってきているのだ。信頼という形で。忠誠という形で。
「しかし、我は共に行けぬ。我は、微かな望みを賭けて天空にある評議会を抑えなければならない。その場を支配し、守護することが出来るのであれば、まだ勝ちの目は残っている」
彼らの前に、微かな希望が残される。
それはたった一つの、糸よりも細い希望である。
「この地を皆に託す」
彼がそう言い残すと、また雄叫びがそこかしこであがった。
何があろうと、彼が帰るまで守り抜いて見せる、と。
彼――“契約の支配者”の“役目”をその身に宿すジェイスティングルーは、これから向かう場所を強く睨む。その場を支配できれば、一縷の可能性は残っているのだ。民の戦闘も、これで報われるかもしれない。
そう思うと、彼の戦いは絶対に負けられないものだ。
「さて、行くか」
2対の翼を大きく羽ばたかせ、大空に舞い上がる。巨体を持ち上げた翼は、優に1枚の長さが身長よりも長い。
空を駆り、彼は眼前に迫った評議会へ突入するため、さらに速度を上げた。――が、体が違和感に包まれかと思えば、評議会の外へ放り出される。
「やはり……。シュピーゲルもそこまで能無しではない、か。それにあちらには、アスティンェルもいる。奴がいるならば……」
このくらいは必ずしてみせる。
アスティンェルに対しての信頼や信用は、もはや全天使の中ではトップである。なぜなら、彼は造物主の意思でもあるのだ。
そして、アスティンェルの次に信頼があるのは、やはり彼だろう。“契約の支配者”なのだ。約束は違うことがないし、言うことに関しても嘘は全くつかない。
「出てきたらどうだ? “循環の支配者”……オペテウィリス」
ジェイスティングルーがそう問いかけると、歪んだ空間に包まれた評議会に、ぽつんと1人の天使の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
彼の名は、オペテウィリス。大方、シュピーゲルやアスティンェルにここを護るよう言われているのだろう。でなければ、戦時にこのようなところへ来ようとは思わないはずだ。
「やはり、わかりますか? これでも気配は殺していたんですがね」
「何を言うか。我々、上位天使がここに居ない以上、この技を使うのは其方しかおらぬ」
ジェイスティングルーにとって、この事態は想定されたものだ。下界で繰り広げられている戦争で、アスティンェルの能力は何か不測の事態が起こったときには必須。そして、指揮官たるシュピーゲルはここに来ない。
となれば……残るは1人。中位天使の中でも最上位である主天使を冠するオペテウィリスしかいない。
……厳密にはもう1人、いるにはいるのだが、彼を止められるほどの力は持ち合わせていないのだ。
「さすが、智天使なだけはありますね」
「誰でもわかるだろう。上位天使でわからぬ者など、シュピーゲルだけだ」
「違いない」
シュピーゲルは少し、頭のネジが足りていないのだ。それは、味方であるオペテウィリスも認めるところである。ではなぜ彼の味方をするのかと言えば、やはり自由が欲しいからだ。
自由。それは、天使が渇望してやまないモノ。
「私はここを守護するよう命じられているので、護りきって見せますよ」
「其方がその気なのであれば、こちらとしては全力で排除するのみ」
「できるとお思いですか? ……アスティンェル殿がいない現状では、不可能でしょう。しかも、あの方は私どもの味方です」
「可能だ。でなければ、こんなところには来ない。我が何の勝算もなくここへ来るとでも思っているのか? 見くびられたものだな」
ジェイスティングルーは知っていたのだ。オペテウィリスがここを守護していることを。予測はここへ来る前から確信に変わっている。そして、事実となった。
「いえ、見くびってなどおりません。……ですが、断罪できるのはアスティンェル殿のみ。アレは造物主の力の顕現。あなたができるとは、とても思えません」
確かに、確かに人前であの力を見せたのはアスティンェルだ。だが、だからと言って、他の上位天使が真似できないとでも、本気で思っているのだろうか?
ジェイスティングルーは彼を鼻で笑う。それは大いに間違えている、と。上位天使であれば、造物主の力の顕現――断罪できるのだ、と。
ただしそこには、こう注釈が入る。
「確かに上位天使を断罪できるのはアスティンェルのみ。――しかし、シュピーゲルは気付いていないようだが、彼奴と我、上位天使であれば、中位天使と下位天使を断罪できる。そしてそれは、中位天使も同様だ。つまり、其方は下位天使を断罪できるだけの造物主の力を顕現できるのだ」
この事実は、おそらくアスティンェルも知っていることだろう。味方であるオペテウィリスにさえ伝えていないということはつまり、彼はいまだに迷っているということがわかった。それを知れただけでも、ジェイスティングルーにとっては朗報である。
「さぁ、始めよう。我が其方を断罪するか、其方が我から逃げ続けられるか」
――闘争の始まりだ。
彼は、告げる。
『其は辰に在り 雛別せぬ麟天に別れを』




