I Get A Kick Out Of You
今年出した本を文庫化することになって、木ノ瀬くんが打合せをするため住居兼仕事場にやってきた。
「先生、竹倉からこれを預かってきました」
「ありがとう……おおう」
私が箱を開けてつぶやいたのが聞こえたのか、木ノ瀬くんが不思議そうにこっちを見る。
出てきたのは神谷先輩サイン本とメッセージカード。うーん、まさかノリで言ったことが実現するとは。
出版される1週間前のこと。
「蒼葉先生、神谷先生の新作が出来上がりましたのでご自宅にお送りしますね。それで先生から伝言なのですが“本にサインしてやろうか”だそうです……すいません、必ず自分が言ったとおりに伝えるようにと言われまして」
電話の向こうの灯ちゃんの困った顔が目に浮かぶ。
「いいわよ。神谷先輩に丁寧な言葉遣いされると不気味だし。そうねー、じゃあサインとメッセージカードもつけてもらおうかな~」
「うふふ、わかりました。先生に伝えておきます」
-そして今日、私の手元に本のほかに“瀬戸の次回作には、俺が感想と帯を書いてやる。ありがたく思えよ”と、学生時代に見慣れた神谷先輩直筆のカードがある。
「先生、どうしたんですか?さっきからニヤニヤして」
「ん?灯ちゃんが神谷先輩の新作を送ってくれるというからサインとメッセージカードもつけてってノリでお願いしてみたの。先輩もノリがいいから」
そう言って私は木ノ瀬くんに本とカードを見せた。するとなぜか彼はちょっと面白くなさそうな顔つきでカードを手に取った。
「そういえば、先週もミステリー編集部にいらっしゃいましたけど竹倉だけではなく森川編集長ともお知り合いですか?」
「私、大学時代はミステリー研究会にいたの。森川編集長と神谷先生はそこの先輩だよ」
「僕は先生がミステリーを読むなんて知りませんでした。部屋の本棚に資料はありましたけど、小説は置かれていませんよね」
「別の部屋にずらっと並んでいるよ。灯ちゃんが担当だった頃は彼女もミステリー好きだから、打合せを終えるとよくミステリー談義に花を咲かせたっけ」
私が笑いながら言うと、なぜか木ノ瀬くんはさっきと同じような表情をしたけど、いったいどうして……あ、もしや無駄話をしすぎたか。
「木ノ瀬くん、無駄話してごめんね。打ち合わせしよっか」
「はい。先生は……」
「私がどうかした?」
「いいえ、なんでもありません。打合せしましょうか」
そういうと木ノ瀬くんはカバンからタブレットを取り出して、文庫版についての資料を私に見せてくれた。
打合せを終える頃には、もう外が暗くなっていて時計を見るともう夕飯を食べてもおかしくない時間になっていた。
「先生、お疲れさまでした。文庫版での訂正は特にないようですので順調に進みそうです」
「木ノ瀬くんもお疲れさま。遅くなってしまったけど、これからまた会社に戻るの?」
「いいえ。ここのところ残業が続いたので今日は直帰です。そうだ、夕飯一緒にどうですか?」
「木ノ瀬くん、別に私に気を遣って夕飯を誘わなくてもいいんだよ?せっかくの直帰なんだし、のんびりしたらどう。彼女と食事とかさ」
「僕は彼女なんていませんが、いったいどうして僕が彼女持ちってことになっているんですか?」
「え。そうなの?木ノ瀬くんっていろいろソツがないからてっきりいるもんだと思ってた」
なるほど彼女がいないから、よけいにお嬢様方が牽制しあうわけだ。なんか木ノ瀬くんって森川先輩みたいになりそう……あ、“俺みたいってなんだ”って先輩から怒られそうだな。
「先生にそんな誤解をされていたなんて、僕はショックです」
木ノ瀬くんが珍しくため息ついてがっかりしている。うわー、なんかすごく罪悪感が。
「木ノ瀬くん、ごめんね。でも余計なお世話だけどさ、もし彼女が出来たらちゃんと周囲の雑音から守ってあげてよね」
「ええ、もちろんそうします。ところで先生、僕と一緒に夕飯行きますよね?」
そう言った彼の顔は、さっきのがっくり感はどこへやら。いつもの自信たっぷりの涼しげな顔つきになっていた。気持ちの切り替えはやっ!!
「……さっきの態度はまぼろしか」
「僕は立ち直りが早いんですよ。さ、何を食べに行きましょうか」