再会
月曜日。早朝。ボクは自宅から出ると、学校ではなく家の三件隣にあるマンションへと足を向けた。
最新鋭のセキュリティを謳い、女性の一人暮らしにもお勧めと不動産屋では言われている築三年のこのマンションだが、ボクの手にかかれば内部に侵入することは何の苦にもならない。
ボクは一階の共通玄関にあるオートロックを普通に鍵で開けると、エレベーターに乗り、三階で降りて、同じ鍵で301の扉を開けた。
部屋は玄関から二手に分かれており、右に曲がればリビングに、左に曲がれば洗面所や寝室につながる構造になっている。
親しい仲にも礼儀ありという言葉もある当然ボクは迷うことなく右に曲がったが、そこで視界に入ってきたのは中学ジャージにぼさぼさ頭で新聞に目を通している大月眞子の姿だった。
「あっ、みっくん、おはよう」
「おはよう。眞子、男女七歳にして席を同じゅうせずって言葉を知ってるか?」
「うん、四書の一つでしょ」
「いいからさっさと準備してこい。あと、そういう細かいボケはいちいち拾わないぞ」
そう口にしながら、ボクは自分の付き合いのよさに内心呆れ返っていた。案の定、調子付いた眞子は勝手にテンションを上げ始める。
「えっー、”そうそう「大学」「中庸」「論語」「孟子」そして「礼記」って、五つあるやないかーい”くらいのノリツッコミ期待してたのに」
「何処の世界に、朝からそんな付き合いのいい人間がいるんだ」
「いやいや、”こうし”ないとわたしの存在理由がですな」
なるほど、”もうし”ないって誓えよとでも言えば一つの形式が完成するのかなど感心するはずもなく、ボクは期待に目を輝かせている眞子を強引にリビングから押し出すと、自分もキッチンに入って、いつもの朝の準備を始めた。
「もう、みっくんは何で、朝から野菜食べさせようとするかな」
今日の眞子とボクの朝食は昨日の内に作っておいた野菜たっぷりの味噌汁と白米だった。ボクは眞子より1,5倍大きい器で同じものを食べていたが、味は可もなく不可もなくという感じだと思う。
ちなみに、食事中にテレビはつけない、これは大月家の家訓らしい。
「別に嫌いじゃないだから、文句言わずに食えよ」
「しかしですな、若人しましては、朝マックなどで小じゃれた朝食に憧れたりするものなのですよ」
「お前、ファーストフードで飯食うと、必ず腹下すだろ」
「く、くださねえし」
「悪い。食事中に品が無かった」
「肉食べたいなー、にーく」
口ではそんなことを言っているが、眞子はあまり肉の類を好んで食べる方ではない。ここ半年以上弁当を作り続けた経験から判断すると、安い肉を美味しく食べられるようにと配慮された濃い目の味付けが舌に合わないらしい。
「じゃあ、今度ハンバーグに入れてやるよ。他の具を侵食するぐらいデミグラがたっぷりかかったやつな」
「まあね、わたしくらいのイケイケ女子高生になりますとね、美容のために野菜はかかせませんからね」
などと下らない会話を交わしていると学校に行かなければいけない時間はすぐにきた。
「鍵とティッシュ持ったか?」
「お前はわたしのみっくん、かっ」
めんどくさいボケをスルーして、ボクは眞子と共に部屋を出た。ボクが鍵を閉めて、眞子が施錠を確認する。いつものパターンであった。
エレベーターに乗っていると二階で女子大学生の田中さんが入ってきた。別に良くも知らないが、このマンションに始終出入りしているボクは、住人からすればそこそこの有名人である。ボクは黙って会釈を返した。
「2人ともおはよう」
「おはようございます」
返事をしたのは眞子だけだった。ボクは極度の人見知りで条件を満たした人間としか碌に喋れないタイプなのだ。
「今日も彼氏くんはスルーか」
「すいません。みっくんは、その、宗教上の理由で、あんまり人とお喋りできないんです」
「分かてるって。駄目なんだろうけど、そう言われるとついイジりたくなっちゃってね。だって2人っきりのときは、けっこう楽しそうにお喋りしてるでしょ?」
幸か不幸か眞子が何かを答える前に、エレベーターは一階に到着した。
「じゃあ、2人ともいい一日を」
別に大して答えを期待していたわけでもないのだろう。田中さんはエレベーターから降りるとさっさと行ってしまった。
「悪い人じゃないんだけどね」
「分かってるよ。悪いな、嘘つかせて」
「みっくんに、本当のことを言わせるよりずっといいよ」
ボクたちは駅までの道を横並びで歩き始めた。
「ところで、そろそろ、みっくんって呼ぶの止めにしないか?」
「何でそういうこと言うかな。部長だって幼馴染にそんな風に呼んでもらえるなんて、みっくんはリア充爆発だって言ってたよ」
「部長の言うことを信じるなよ。世間一般では、そういうことはしないんだ」
「世間なんて知らないよ。あんな、UFOにさらわれたパパとママを探してくれもしない人たちのこと、何で気にしなくちゃいけないの?」
「眞子、外でそういうこと口にするなって言っただろ」
ボクのアドバイスに眞子は口をとんがらせた。この話題はボクたちにとっての致命傷ようなものだった。
「外じゃないもん。みっくんの前だもん。だって、みっくんがわたしに教えてくれたんだよ。パパとママはUFOにさらわれたんだって」
涙目になりかけている眞子の頭を軽く叩くと、ボクは今出来る最高の笑みを彼女に向けた。
「そうだったな」
眞子は伊達や酔狂ではなく真剣にUFOが自分の両親をさらったのだと信じていた。むろん、事実は違う。彼女の両親はどこにもである交通事故で命を失っただけのことだ。
しかし、その事実すら眞子にかかれば政府による隠蔽になってしまう。今まで何人ものカウンセラーがあらゆる手段で彼女の説得を試みたようだが、現在のところ、それが成功した試しはないようだった。
まして、無力な高校生であるボクに眞子の説得など出来るはずがない。ボクに出来ることは言いだしっぺの責任として、彼女が出来るだけ生きやすいように取り計らうことくらいのものだった。
「そうだよ。いつかわたしとみっくんの手でパパとママを取り戻してみせるんだから」
「──そういえば、ここら辺で何か事件とかなかったか?」
その話題を続けても特に得るものもないので、ボクは強引に話を変えた。実際、気になってもいたのだ。自分でニュースや新聞を確認した限り、土曜日の夜のことは何一つ報道されていないようだったから。
「事件?特に無いと思うけど」
「そうか、ならいい」
毎朝全国版と地方版を合わせて7紙を読む新聞フリークが知らないと言ってるのだから、ニュースにはなっていないのだろう。ボクはそう納得すると眞子の頭を軽く撫でた。
「褒められたでごわす」
自分の頭を自分で撫で返すという無意味な行為をしている眞子に、何か言ってやろうと思ったがボクはそれを飲み込んだ。駅に到着したからである。
ボクは何も言わずカバンからマスクを取り出すと、きっちりと自分の口にそれを装着した。気休めにしかならないが、条件を満たさない人間と会話を成立させないための処置だ。
「悪いな」
「いいってことですよ」
ここから学校に着くまでボクと眞子は一言も会話を交わさなかった。
「後でね」
高校の玄関の前で、ボクと眞子はいつものように別れた。
別に疚しいことがあるわけでもないんだけど、二人でいると人間強度が下がるからな。誰に言うでもない言い訳を口の中で遊ばせながら、ボクは上履きに履きかえると、階段を登り、自分の教室へと向かっていった。
教室の中は、いつもより妙に騒がしかった。
コミュニケーション的な意味でも、物理的な意味でもクラスの中に話す相手をもたないボクには、その理由を知るすべはない。ボクは妙にゴミゴミしかった机の上を適当に払うと、ホームルームが始まるまで寝ることにした。
「ほんと、空気悪くなるから、さっさと教室来るのやめてくんねえかな」
「いや、俺、逆に尊敬してるよ。始業式から今まで一言もクラスで喋ってるとこ見ねえもん、四条の馬鹿。いや、うざいけどさ」
「っち、あいかわらずシカトかよ」
まるでボクの机が蹴られたかのよう振動があったが、気のせいだろうと思い、ボクは更に眠りを深めた。
「やめろって、こいつ大月の親戚か何かなんだろ。睨まれたら馬鹿みたいだろ」
「あいつもキモいけどな。あの歳で、UFOとかマジで言ってんだろ?アレ。天才少女とか言ってるけどよ、ただの池沼だろ、アレよ」
「まっ、それは同意。けど、顔は悪くないじゃん。美人じゃないけどカワイイ系っていうの」
「アレだよ。UFO見ましたとか言ったら、一発ヤラせてくれるんじゃねえの」
「それも悪くないけど、今は留学生でしょ」
「ああ、アレな。すげえ美人らしいな。佐藤のやつが職員室でちらっと見たって言ってたけど」
「うちの担任と話込んでたらしいから、このクラスで確定でしょ。俺の一物が黒船を撃ち落すときが来たわ」
「うぜぇ、アレだよアレ。彫り深いし、外人なら俺の方がモテるだろ」
指示代名詞多すぎ、お前は若年性痴呆症か。
ツッコミにしては文字数が多すぎたな。ボクは心の中で反省した。
それはそれとして、クラスの喧騒の理由が分かって割と満足したので、ボクはトイレに行くことにした。立ち上がったとき、前方で喋っていた2人に何故か睨まれたが、日本人のDNAに刻まれたことなかれスマイルで、ボクはその場をやりすごした。
トイレは小だったので、すぐに終わったが、本鈴までまだ10分ほど時間が残っていたので、ボクはあてどなく廊下を漂流した。中学のときの友人と1人すれちがったが、立ち止まるでもなく軽い会釈を返し合うだけで終わった。
昔はそこそこ仲良くしていたつもりなのだが、高校に入ってからのボクの立ち位置が決まるにつれて、自然と疎遠になったのだ。人間変わるものだというのが、おそらく、お互いの感想だろう。
二階を端から端までゆっくりと三往復したところで、やっと本鈴がなった。急ぐでもなく教室に戻ると、まだ担任は来ていなかった。
教室で留学生に関する話題が飛び交い続けること3分ほど、やっと前方の扉が開いた。その瞬間、それまで喧騒に包まれていた教室がさっと静かになったが、教室に入ってきたのが、担任の坂上教諭だけだと分かると、不満の混ざったざわめきが教室の中に満ちた。
「お前ら、ちょっとは担任は敬えよ」
「先生が、パツキンの美人だったら考えます」
坂上教諭の軽口に、クラスのムードメーカーである酒井がすかさず茶々を入れ、軽い笑いが起きた。
「前向きに検討しておこう。まっ、どうやら、お前らも分かってるようだが、うちのクラスにドイツからの転校生が来ることになった。日本語はかなり喋れるようだが、慣れない土地だ、出来れば色々と気を配ってやってくれ」
「美人ですか?」
酒井を中心に何人かがそう意味あいの声をあげた。
「俺がそれを言うとセクハラになるからな。お前らが自分で判断してくれ。アーレントさん、入ってきてくれるかな」
その声に合わせるように、前方の扉が横にスライドした。
そして、長い沈黙がクラスを包み込んだ。
ボクの高校の女子の制服は割とこの辺ではダサいことで有名だった。白いシャツに緑を基調としたチェック柄スカート、冬にはシャツの上に胸に小さな校章が赤い糸で刺繍された黒いセーター。
オーソドックスではあるが、ある種のやぼったさは拭いがたいそんな制服。
だが少女が着ればその程度の汚点は何の問題にもならない。
彼女は制服からはみ出た場所だけで十二分に美しかった
自分と同じ人間とは思えないほどに小さな横顔と細い手足。他の場所など考えられないと言わんばかりに点刻された強い意志をうかがわせる黒曜石のような瞳。
腰まである滑らかな黒い髪をはためかせ、まるで天上を歩くような優雅の挙措で、坂上教諭の横でくるりと回ったその人は、疑いようもなく、土曜日の夜にボクが出会ったあの美しい少女だった。
見つけた。そう呟いたのはボクだったのか彼女だったのか。
ボクに分かったのはただ、いつ間にか黒かったはずの彼女の髪が、赤く、紅く、炎く、染まっていることだけだった。