ことの始まり
『夜咄ディセイブ』を見て、何か書きたくなったので。
色々と雑だったので修正(3/6)
六時限目の終了を告げるチャイムが鳴った。
ボクは机の前に開いてた古文の教科書とノートを学校指定のバッグにきっちりと仕舞いこむと、黒板に書かれたサ行の変格と四段の活用を見分けるためのちょっとしたコツが消されていくのを、何をするでもなくぼんやりと眺めていた。
「行きましょうか、四条御言」
そろそろフルネームで呼ぶの止めてくれないかな。そんなことを思いつつ、ボクはエルナの声に合わせた席から立ち上がると、1年C組の教室から出た。
クリーム色のビニール素材が引かれた廊下には、少しばかり終了が遅れたD組の第一陣とおぼしき学生の固まりが存在していたが、二つある階段の内A組側の方を利用すれば、何の問題もなく二人で歩けそうだった。
廊下を歩いていると、いくつもの悪意がボクらに向けられたが、そんなものにいちいち反応していては身が持たない。ボクはそれらの悪意にいちいち反応して身体を震わせているエルナの手をぎゅっと握ると、出来る限りの早足で目的地へと急いだ。
クラスの人間はこの一週間ですっかりボクとエルナが一緒に行動することに慣れたようだが、その狭い世界の外に出れば、まだまだボクたちは圧倒的に異端だった。
しかし、それは無理もない話だとは思う。
何せ、彼女は美人なのだ。それもとびっきりの。加えて、生粋のドイツ人でもある。
あえて難点を挙げるなら、エルナは日本人が外国人に聞いてまずイメージする金髪碧眼ではなく、黒髪に黒い瞳の持ち主だったが、その美しさはその程度の瑕疵をねじ伏せて余りあるものだった。
何というか、普通の人間とは造形の精度が違うのである。
もちろん、物理的に小顔であるとか色白であるとか、そういった要素を数え上げることは出来る。まつげは驚くほど長く、唇は艶やかで、握った手の心地よさと言ったら筆舌につくしがたいほどだ。
しかし、彼女の数多ある美点を全て数え上げたところで、彼女自身の足元にも到底及びはしないだろう。
細部に神が宿るという有名な格言があるが、そういう意味では明らかにエルナ・アーレントには神が宿っていると言えた。対して、ボクは中肉中背のどこにでもいる冴えない男子高校生なのだ。
「どうかしましたか、四条御言?」
「見れば見るほど、不釣合いだなと思ってね」
ボクは二階から一階に降りるか階段の折り返し地点で立ち止ると、そこに設置された鏡に映る自分の姿を見て、しみじみとそう思った。だが、その物思いは鏡に急に映りこんできた影によってあっけなく中断された。
「みっくん、部活行くの!」
叫びに合わせて、ボクの背中には重い衝撃がやってきた。高校一年生といえば身体は十分に成熟した大人である。その身体が1、5メートル程度の高低差をものともせず、ボクの背面に体当たりしてきたのだから、なかなかの非常事態だと言えたが、ここで悲鳴など上げては格好がつかない。
「眞子、これは危ないからもうするなって言ってるだろ」
ボクは小生意気にも弾力ある二つのかたまりを背中に押し付けている眞子の頭を空いている左手で掴むとあらん限りの力で振動させた。
「みみみみっくん平気そうだよ」
「ボクはともかく、他のやつにやったら怪我人が出るだろ」
「ばかだなぁ、わたしがみっくん以外にやるはずないじゃないいいいい」
「誰にもするな。そして降りろ」
「断固拒否であります」
その言葉通りボクの首しっかりと眞子の両手が巻きついてくる。無理に剥がすことも不可能ではないが、そうしたらそうしたで面倒が発生するので、ボクは諦めて眞子をおぶったまま部室に向かうことにした。
「大月さんは流石ですね」
エルナがそう言ってボクの手を握っていない方の手で示したのは、職員室の前に張り出された二ヶ月前に行われた全国統一模試の学内順位だった。
高一から高三までの全ての生徒が同じ内容の試験を受けることを売りにするソレで、この学校で一位を取った人間の名前をボクは言いたくない。それはおよそ知力という概念に対する侮辱だと思うからだ。
「みっくんも褒めてくれてかまわんのぞよ」
理Ⅲというのは語尾が”ぞよ”のやつにA判定が出るのか。この国の大学試験制度の疲弊にボクは何とも言えない気分に襲われたので、何度か腰を横に素早く振ってもまだ落ちる気配を見せない背後の荷物を振り落とすことにした。
「エルナ、先に行っててもらえるかな」
「分かりました、四条御言」
ボクはエルナを先に行かせることで自由になった両手で、眞子のわき腹を思い切りくすぐってやった。
そのとき、ボクが耳元近くで聞くはめになった奇怪な音は、前に暇つぶしに聞いたアフリカの民族楽器のそれに近かったが、職員室から出てきた先生は、背中からずり落ち廊下に大の字になりながら深呼吸を繰り返している眞子の姿を見ると、口の中でもごもご何かを言って職員室の中へと戻ってしまった。
高校始まって以来の東大進学予定者様か。
中学の頃はそれなりにこのキャラで周りにも受け入れられていた眞子だったが、近頃はすっかり腫れ物扱いが定着している。本人は気にしたそぶりは見せないが、それが本当ではないことが分からないほど短い付き合いでもない。
「お前、学校楽しいか?」
「うーん、みっくんたちと遊ぶのは楽しいかな」
「そうか──」
それ以上に何か言う台詞が思い浮かばず、ボクは未だに床に寝転がっている眞子を置いてとぼとぼと歩き出した。
しかし、ゆっくりとした歩きが災いして部室に着くちょっと前に眞子に追いつかれてしまった。彼女はくるくると回転して進みながらボクに訊ねてきた。
「えっくん、今日も愛の告白されるの?」
「たぶん、されるだろうな」
「らぶらぶですな」
「当てられるとよくないから、眞子はちょっと下がってろ」
「ほーい」
いちじるしく気力が減少する返事をスルーすると、ボクは立ち止まって目的地に通じる扉のノブに手をかけた
オカルト研究部。
達筆でそう墨書きされた看板が異彩を放つその部屋の扉を開けた瞬間、
「|イッヒハーベディッヒゲルン(あなたが好きです)」
紅に髪の色を変化させたエルナが両刃刀を何のためらいもなく振り下ろしながら、ボクに毎度おなじみになった愛の言葉をぶつけてきた。
だが正確にボクの首筋を狙っているらしいその刃は、狙いの遥か手前で停止してしまっていた。
「|イッヒリーベディッヒ(愛しています)」
更なる愛の告白を受けて、電灯の光の下で怪しく光る刃が徐々にボクの方へと近づいてくる。しかし、その進行は本当に微々たるもので、このまま一日続けてもエルナの刃がボクを傷つけることが無いのは部室のいる誰の目から見ても明らかだった。
「残り8,2センチってとこやね。さすが巫女姫、確実に記録を更新してきはるわ」
口元を扇子で隠しながら、部室の窓側一番奥まった席に座っている黒髪ショートカットの女性が感想を漏らすと
「アホらしい。いいいかげん、諦めればいいのに」
その隣の席でノーパソをいじっていた金髪ツインテールの少女が馬鹿にするようにそう呟いいた。
「お邪魔しまーす」
エルナとボクの膠着した状態にしびれを切らしたのか、眞子がボクたちの身体の間を器用に通り抜けて、部室の中へと入っていく。
どうしてこんなことになったのだろうか。
満面の笑みでボクに呪文のように愛の言葉を囁き続けているエルナを眺めながら、ボクは今の自分の状況を想った。
そう始まりはあの満月の夜だった──
*
人生には致命傷というものが存在する。
そう書いたのはかの西尾維新だっただろうか。
あるいは入間人間だったかもしれないが、そんなことはどうでもいい。
大切なのは、それがボクにとっては間違いなく真実であるということだ。
まあ、戯言だけどね嘘だけど。
そんな他愛のない想念を遊ばせながら、ボクは夜道を歩いていた。足取りは実に軽かった。通学カバンの中には、ブックオフで全て100円で買い揃えた未読のシリーズもののラノベが入っているのだ。
曜日は土曜日。
これから誰にも邪魔されずに読書に耽れると思うと、駅から家へと向かうボクの足取りは自ずとスキップじみてくるのだった。
駅から自宅までの大まかに分けて三本あるルートの中で、その道を選んだことに特に理由があるわけではなかった。
強いて言うなら、その道が墓場の横を通る関係上、満月を見るのに適していたからかもしれないが、ボクは別に天体観測を趣味にしているわけでもない。結局は何となくというのが正確なところだろう。
人気が無いことは気にならなかった。街灯は十分に備え付けられていたが、わざわざ夜にその道を歩きたがる人間は少数派だったからだ。
最初に異変に感づいたのは鼻だった。
人生で今まで一度も嗅いだことのない異臭がしたのだ。
だが、ボクは足を止めなかった。
それが何かが焼けている臭いなのは分かったし、酷い臭いではあったが口で息をしてすぐに通り抜ければ、何の問題も無いと思ったからだ。
次に異変を感じたのは肌だった。
10月にも関わらず、真夏のような熱さを皮膚に感じたのだ。
しかし、ボクは足を止めなかった。
何かが燃えているのは臭いの時点で分かっていたし、きっと生ごみに放火した輩でもいたのだろうと気楽に考えていたからだ。
最終的に異変を感じたのは目だった。
ボクの目の前に、それはそれは美しい少女が横たわっていたのだ。
だから、ボクは足を止めた。
下心があったわけではない。これは後から思い返しても間違いない。
何せ、その美しい少女には頭しかなかったのだ。彼女の首から下は完全に燃え尽きて、元は骨だったとおぼしき黒い炭が地面に点在しているだけだった。
自分が嗅いでいた臭いが人が燃える臭いだと認知した瞬間、ボクの胃からは自動的にすっぱいものがこみあげてきた。
醜態をさらさずに済んだのは、精神力というよりは昼に高校が終わってからずっとブックオフを回っていたため、ろくに吐くものが無かっただけことに過ぎない。
今すぐこの場所から走り出すべきだ。なけなしの知性はボクにそう告げていた。
だが、満月の光に照らされた少女の頭部は、そうであるからこそか、信じられないほどに美しかった。
気が付くと、ボクは少女の頭部の前に跪き、その唇をじっと見つめていた。
雪のように白い肌と鮮やかな対比をなすような紅い、髪、そして唇。
魅せられたように少女の顔が近づいていき、唇と唇が触れようとする少し前で、ボクはぴたりと動きを止めた。
「|イストダーイエマンド(誰かいるの)?」
他に誰もいないはずのその夜道に、ボク以外の声が響いたからだ。
それが生きているはずのない少女から発せられたものであることは意外なほど簡単に受け入れることが出来た。そういうことがあるなら、こういうこともあるだろうと現実感を完全に失った頭で思っただけの話ではあるけれども。
再び声がその少女の頭から漏れた。
今度は先ほどの意味不明ながら意図を感じさせるようなものとは違い、うめき声のようでもあり、悲鳴でもあるような声だった。恐れでもあり、怒りでもあり、悲しみであるような声だった。
ボクはそれを聞いて全身があわ立った。
断末魔の叫び。間違いなく少女が発した音はそう呼ばれる類のものだったからだ。
彼女は死のうとしている。
その認識がボクを貫ぬき、そして次の行動を決めさせた。
生憎ボクは緊急救命のノウハウは全く持っていなかった。だから、ボクは自分に出来る精一杯をすることにした。
「大丈夫。君はその程度の傷では死なないよ」
少女の耳元でボクは笑ってしまうほどの子供だましを囁いた。
きっと世界中の人が今の言葉を聞いたら、ボクのことを鬼畜と思うか、あるいは狂人だと判断するだろう。
だが、ボクは鬼畜でもなければ狂人でもなかった。
そして何より、嘘つきではなかったのだ。