3 未知との遭遇。①
妻を初めて見たとき。
迷子だ、と思った。
マグリスの依頼を受けて10日ほどで分かったことだが。
グレインの妻レインは、これまでの訪れし者とは異なる点が多い。
普通、こちらに来たばかりの訪れし者は、外を怖がり、家の中から出ようとしないことが多いと聞いていたのだが、レインは物怖じも人見知りもしない性質なのか、ほとんど家に居ないといっていいほど、外へ出て活発に動き回っている。
言葉に不自由していないから、ということもあるだろう。
訪れし者は街の言葉が話せない者がほとんどで、時に多少単語を話せる者がいても、明確な意思疎通が出来るようになるには数ヶ月かかるものだ。
だが、レインは流暢に街の言葉を話す。
言葉が話せるから、人々と交流を持つのにも何の支障もない。わからないこと、知りたいと思うことは質問し、本を読んでさらに知識を蓄えていく。
グレインが呼び出された一月ほど前にレインが渡ってきたというから、まだ二月程度だというのに、マグリスの館の住人はもちろんのこと、街中にも次々と顔見知りを増やし、最近では街の商店に出入りする外の商人たちとも交流を持つようになっていた。
そして、出会った全ての者に対して、自分が訪れし者だということをはっきりと告げている。
・・・これでは、純血主義者に目を付けられてしまうのも当然だ。
教育係であるシディアから訪れし者の希少性と危険性を教えられているはずだが、身の危険を感じていないのか・・・あるいは何か目的があってのことか。
そしてもうひとつ。
気づいてしまったことがある。
・・・どうやら、グレインはレインに、落ちた、らしい。
本人はまだ気づいていないようだが、レインの行動のひとつひとつに一喜一憂しながらもそれを押し殺そうとする姿は、シディアに出会ったばかりの頃のマグリスと共通する部分がある。
マグリスよりはましな状態だが、自覚するのも時間の問題だろう。
レインが街の男から、純血主義とは全く無関係の、純然たる恋文を渡されたときは、一般人を本気で狩ろうとするグレインを全力で止める羽目になった。
幸い、レイン自身が既婚者だと相手に伝え、はっきりと断ったから事なきを得たが。
そうでなければ、どれだけ俺が止めようと、翌日には街からひとり行方不明者が出たに違いない。
銀髪に青い瞳という冷めた外見に騙されがちだが、グレインは仲間内で最も感情豊かで、熱い男だ。そして敵に回せばこの上なく厄介な男でもある。
狙った獲物を仕留めるためならば、どこまでも冷徹に幾重にも罠を仕掛けて執拗に追い込み、確実に狩る。
狩りに出始めたばかりの幼い頃はともかく、『獣』を名乗るようになってから仕留め損ねた獲物はない。
そんな厄介な男の物騒な色を含んだ視線が、楽しげに館の男と話すレインに注がれている。
・・・グレインが暴走して余計な被害が出てしまう前に、純血主義の連中を炙り出した方が良さそうだ。
マグリスの望みは、純血主義者を狩りつくすこと。
ならば、それに見合った狩場を整える必要がある。
調べ物をするために館の書庫に籠ったレインをグレインに任せ、マグリスに報告といくつかの提案をしに行くと、見慣れた顔が増えていた。
「フィリウス」
「よう。やっぱり俺も呼び出されたよ」
ヴォルフの勘はよく当たるよなぁ、と笑いながら振って見せるのは、召喚状だろう。
「フィリウスは別件だ」
まだ純血主義者の根を見つけ出していないのに『獣』が3人というのは、いくらなんでもやりすぎだ、と思ったのがわかったのか、マグリスが書類に目を通して署名と判を押しながら言った。
「それにしても、現役の『獣』が4人もひとつの街に固まったら、流石にいろいろまずいんじゃないの?」
「古巣とは、私とフローインがこの街に住み着いた時点で散々遣り合っているからな。文句があるなら、直接言いに来るだろう」
つまり、直接文句を言いにくるまで、聞く気はない、ということか。
フィリウスもそれがわかったのか、小さく肩をすくめただけで、好奇心一杯の視線を俺に向けてきた。
「で、そっちはどうなんだ? グレインの奴も、結婚したんだろう? 女房ってどんな人?」
矢継ぎ早な質問に、マグリスへの報告がまだだったと思い出し、簡単な報告とグレインの状況、それを踏まえたいくつかの提案をすると、フィリウスが嘘だろう、とつぶやき、マグリスは満足げな笑みを浮かべた。
「ヴォルフに続いて、グレインまでか!」
「シディアの言った通りになったな。思ったよりも、早かったが」
自慢げに愛妻の名前を出すマグリスに、フィリウスは気の毒そうな目を俺に向けてくる。
「今は抑制出来ているみたいだけど、グレインだし、それもそう長くは持たないだろうなぁ。どうすんの、これから」
確かにあれは長くは持たないだろう。すでに一回切れかかっている。
あの調子なら、純血主義の連中が何かしらの動きを見せた途端に泳がせることを忘れて大物に繋がる糸を叩き切られてしまいそうだ。
「そう心配する必要は無い。後ろの大物を釣り上げなければ、いつまでたってもレインの安全が確保できないことくらい分かっているさ。落ちたのなら、なおさらな」
「でも、グレインだよ? どっからくるの、その自信は」
フィリウスが胡乱な目でマグリスを見ると、にやり、と年長者が年下をからかうときのあの独特の笑みを浮かべた。
「お前たちもいずれ分かるさ。己の持ち得る全てを捧げたいと思えるような、たった一人に出会えたなら」
グレインは、強くなるぞ。
と、マグリスは楽しそうに笑っている。
フィリウスと顔を見合わせて、軽く肩をすくめた。
そういう相手が本当に居るとも思えない俺たちには、わかるはずもない。
それとも、いつか、俺やフィリウスも出会うのだろうか。
己の全てを捧げたいと思うような相手に。
マグリスのように、己の過去も現在も未来も全て相手のためにあるのだと豪語するようになるのだろうか。
そして、出会う前よりも、もっとしなやかな強さを手に入れるのだろうか。
・・・想像も付かない俺には、無縁の話だ。
書庫へ戻る途中、中庭を一望できる二階の回廊で見つけた仕掛けに手を加えながらとりとめもないことを考えていると、妙な気配を感じて、ふと、手を止めた。
危険なものではない。
ただ、なぜか妙に気になる気配。
中庭を見下ろしてその気配を辿っていると、木々の間から、黒髪の見慣れない娘が出てきた。こちらでは珍しい日の光に煌くような黒髪に、一瞬レインかと思ったが。
その顔を見て、確信する。
迷子だ。
この場に居ることにどこか違和感を感じさせる娘は、大きな黒い瞳いっぱいに不安げな色を浮かべ、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていて。
途方に暮れたように辺りを見回すその姿は、見知らぬ場所に戸惑う幼子のようで、親とはぐれた小動物の子供にも似た、弱々しい風情だった。
この館は、丘陵に沿って建てられているため、建物ごとに階が違っていたり、同じ建物内でいきなり二階が中庭になっていたりする。全体的に迷路のような造りになっていて、館の住人であっても迷ってしまうことがあるのだという。
この娘も、自分がどこから来たのかわからなくなって、戻れなくなってしまったのだろう。
少し気にかかって声をかけようかとも思ったが。
開きかけた口を閉じる。
迷っているといっても所詮、館の敷地内。命に関わるような危険はない。
館の中には住み込みの使用人も、泊り込みの役人も大勢いる。そのうちその中の誰かが娘を見つけるだろう。
・・・少なくとも、初対面の人間には必ず怯えられてしまう、自分のような見知らぬ男に声をかけられるよりは、その方がいいに違いない。
あんなに弱々しい娘では、声をかけた途端に驚き怯えて気絶されるか、下手をしたら命まで落とされてしまいそうだ。
娘のためにも声をかけることなく、その場を後にしたのだが。
・・・不安に揺れる大きな黒い瞳が、やけに鮮明に記憶に残っていた。