助言の実行。⑤ 夜
結局。
挨拶回りを兼ねた街の一周は、予想通り、住人たちの顔色を悪くさせただけで終わった。
案内役の青年がずっと顔面蒼白状態で、がちがちに緊張していたというのも多少はあるのだろうが・・・いや、一目見るなり逃げられたのだから、やはり問題は俺自身だろう。
逃げなかった少数も、ろくに挨拶らしい挨拶もできない状態だったが、それでも自警団の真紅の腕章を見せたあとなら少しは言葉を交わせる者もいた。
それだけ、自警団に対する信頼が大きいということなのだろう。
・・・最後まで、誰とも、視線は合わなかったが。
「強面の旦那、明日は何時に参りましょう?」
「昼過ぎに頼む」
拠点が見えてきたあたりで、それまで黙っていたリーイスが僅かにからかうように声をかけてきた。
リーイス本人は、物静かな性質なのだが、耳が早い。
ほとんど成果がなかった顔見せを終えて、俺たちが鍛錬所まで戻った時には、挨拶回りの先々で起きた騒動のいくつかを街の住人たちからすでに仕入れていたらしい。
その事で一言二言、からかうように案内役の青年に声をかけると、青年は突然顔を真っ赤にして、なにも言わずに、文字通り逃げ込むように鍛錬所に入って行ってしまった。
その背中を目を丸くして見送ったリーイスの口元に、僅かに笑みが浮かんだ。
「青臭い小僧っ子ですなぁ」
そういう声も柔らかく、あの青年を好ましく思っているのが伝わってくる。
まっすぐに歩くのも覚束ず、ひどく頼りない印象の青年だったが、リーイスの様子を見るに、街の住人や他の団員たちからは目を掛けられているらしい。
確かに、こちらの質問にも満足に答えられないほど不自然に緊張した状態だったが、その身体の重心はぶれず、周囲にもよく注意を払っていた。まっすぐに歩けなくともその重心が崩れないのは、基礎となる日々の鍛錬を欠かさず真面目に行っているからだろう。
「あれは、伸びるだろうな」
「・・・小僧っ子が聞いたら、飛び跳ねますな。ぜひ、本人に言ってやってくだせぇ」
まるで自分のことのように、どこか嬉し気な声でリーイスが言う。
本人に言うのは構わないが、果たして、あの青年は明日から鍛錬所に来るだろうか?
今日の様子では、しばらくは来ない気もするが、もし来たなら気にかけておこう、と思う。どのみち、鍛錬所に行くのは、今日と同じ昼過ぎになるはずだ。
明日の午前中は、諮問神官が来る。
馬車に乗ってすぐにイーリスに渡されたマグリスからの連絡によれば、神殿から拠点までは、グレインが隠れて護衛するらしい。
その諮問神官がこの婚姻を認めれば、その場で即署名をし、正式に婚姻が成立する。そのためには、娘にも最低限の受け答えを教えておかなければならないのだが、それ以前に。
その神官が俺とまともに会話ができるかどうかが、問題だ。
いくらあのフローインに気に入られるほど職務に忠実な神官とは言え、俺とは初対面。今日の街の人々の反応からみても、良い印象を持たれることは、まず、ない。
せめて自警団の腕章が、諮問神官にも少しは効果があればいいのだが、そうでなければ、最悪、双方の婚姻の意思確認をする前に逃げられてしまうこともあり得る。
・・・その可能性の方が高そうで、軽く頭痛がしてきた。
「旦那、強面も時には役立つもんですよ」
馬車が止まり、拠点へ戻る道すがら購入したものを持って馬車を降りると、珍しくリーイスがまた声を掛けてきた。
視線を向ければ、そらすことなく、しっかりと目を合わせてくる。
息をついて、一つ頷いて見せれば、リーイスは小さく頭を下げて馬車を走らせ帰っていった。
いつもは余計なことなど、口にしないのに。
・・・そんなに気落ちしてみえたのだろうか。
軽く頭を振って、荷物を一度地面に置く。
風を受けて揺れている衣類を干した紐の位置を少し下げておく。
荷物を持ち直して、拠点の扉の仕掛けを解除し中へ入ると。
「おかえりなさいませ!」
厨房の奥から、娘がパタパタと足音を立てながら笑顔で駆け寄って来る。
黒い瞳と視線があっても、変わらず笑顔を浮かべたままの娘に、なぜか安堵の息が漏れた。
ざっと娘の全身を見回すが、特に変わった点はない。
昼間のように頭から白い粉をかぶったりもしていないし、衣服も昼に見送られたときと変わっていない。
顔色も血色がよく、どうやら何事もなか・・・。
・・・。
・・・・・・何か、ある。
「・・・あれは?」
娘が出てきた調理場の奥、窯を覆うように、何か奇妙な物があった。
視線の先を追って、調理場の方を見た娘が、不思議そうに振り返る。
「『川魚の塩釜焼き』です。今夜の晩御飯にしようと思ったんですが、もしかして苦手ですか?」
耳に何か違和感を感じる名前だったが、おそらく、料理名なのだろう。
嫌いもなにも、何の料理かも分からない。
とりあえず食べられるものが材料であれば、どんなものであれ食べられないことはないし、あの固まりをどうやって食べるのかは気になりはしたが、それは食事の時になれば分かるだろう。
心配そうにこちらを見ている娘に、嫌いではないという意味を込めて首を振ると、ほっとしたように息をついて微笑んだ。
それを様子を見て、気づく。
どうやら、ずいぶん、気を使わせてしまっているらしい。
まだ初日なのだから仕方ないのかもしれないが、あまり負担を掛け過ぎれば、館で見たようにやつれていってしまうこともあり得る。
そうなれば、娘からこの微笑みも消えてしまうのだろう。
それは、嫌だ。
これからしばらくは自由に外出させられない分、せめてこの拠点の中では、不安なく、心地よく過ごせるように。
ただ体を休める場所としてではなく、娘が過ごしやすい環境にするために、改めて拠点の中を作り変える必要がある。
差し当たって。
鍛錬所から戻る際に買ってきた荷物の中から、軽くて小さな洗濯籠を娘に渡す。
不思議そうに首を傾げ、籠と俺を何度も見比べてから、おずおずと受け取ると嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「軽いですね。ありがとうございます!」
礼を言ってさっそく洗濯物を取り込もうと外へ出ようとする。
手伝うつもりで一緒に外に出たが、出てすぐの所で何故か一人で出来るからここで待っていてくれ、と懇願された。
あまりにも必死な様子に曖昧に頷くと、ホッとしたような顔をして急いで洗濯物へ駆けて行く。
やはり、洗濯が好きなのか。
先ほど調整した洗濯紐の高さは調度良かったようで、背伸びせずに一枚一枚丁寧に洗濯物を取り込んでいる。
暫く眺めていたが、まだもうしばらく時間がかかりそうだ。
近づくと手を止めて警戒されてしまうから、その間に他の作業を進めておこうと、玄関の扉の補強板を外す。これだけでも扉自体は大分軽くなるが、このままだと強度がたりない。
昼間に買って来た軽量素材の補強板を取り付け、取り付けていた仕掛けも外し、昨夜、より軽い素材で作り直し小型化したものに付け替える。
更に軽量化すべく、幾つか作業をしていると、籠いっぱいに洗濯物を取り込んだ娘が、今にも転びそうな覚束ない足取りで戻って来た。
生乾きで重いのかと思ったが、手を貸すついでに一枚触れてみて愕然とする。
・・・乾いていても、重いのか。
なぜか奇妙な声を上げた娘が手にとった一枚を取り返し、籠を抱えたまま、一直線に走って物置部屋へ入っていってしまったのを呆然と見送る。
動きは素早い。
物置部屋に入る直前に見えた顔が赤かったのは、まさか、このわずかな距離を走ったから、なのだろうか。だとすれば、街の住人たちよりもかなり体力がないということになる。
一度、娘の体力と腕力を含め身体能力がどの程度のものなのかを調べる必要がありそうだ。
そんなことを考えながら扉を付け替える作業を終えると、しばらくして、娘がおずおずと物置部屋から出てきた。
洗濯籠は置いて来たらしい。
「あのっ、鏡、ありがとうございましたっ」
「あれは、リーイスの妻からだ」
息は上がっていないようだが、まだ顔が赤い。
どこか緊張した様子で礼を言って来た娘の大きな瞳が、初めて聞く名前に不思議そうな色を浮かべた。
「リーイス、さん? どなたですか?」
「御者だ。明日、会わせよう」
今後もしばらく馬車が必要な時には、リーイスが迎えに来ることになる。
それに近いうちに、シディアが開催する訪れし者たちの勉強会にも参加することになるのだから、明日、紹介しておいた方がいいだろう。
「じゃ、その時に鏡のお礼を言わせてくださいね。お夕飯の準備は出来ていますから、ご飯にしましょう!」
夕飯は、昼のスープに肉を足して煮込んだ物と、固めに焼いたパンに、柔らかい果物と塩漬け野菜を刻んで混ぜたリッシュと呼ばれるに南方の街の料理。
そして、あの謎の物体。
そのまま食卓に置いたあとに金鎚を持ちだしたから何をする気かと思ったが、割った中から出て来たのは、よい香りのするふっくらとした魚だった。
その魚自体はよく市場で見かける類のものだったが、独特の生臭さが消えていて、全く別物のように美味かった。
つい食べ過ぎてしまったが、娘もよく食べていた。
食後には、この街の特産の一つである鉄でできた茶器で湯を沸かし、茶を淹れる。
爽やかな香りが特徴の茶葉は、この鉄器で沸かした湯で淹れると香りに深みが増し、わずかに甘味が出てくるのだと、娘がさえずるように楽しげに説明しているのを聞きながら、ふと、首をかしげた。
・・・この香り、どこかで?
この茶葉自体は大陸中で普通に飲まれているものだが、鉄器は一般には普及していない。
普段は街に長期滞在する事がないから、深みを増した香りも、舌と鼻腔に僅かに触れるような柔らかな甘味も、初めて味わうはずのものだった。
それなのに、どこか、懐かしい。
記憶を掘り起こそうとしても、それはまるで湯気のように淡く、すぐに消えて行ってしまう。
確かめるように何杯も飲んでいるうちに、不意に小さな手が、そっと茶器を持つ手に触れてきた。
「旦那さま。あまりお茶を飲み過ぎると、眠れなくなっちゃいますよ?」
温かい、小さな手。
たどるように視線を動かすと、いつの間にか食卓の上を片付け、風呂にも入って来たらしい寝巻き姿の娘が少し困ったように、眉を下げていた。
ずいぶん茶に集中してしまっていたらしい。
器に僅かに残っていた茶を飲み干し、小さな手が器を受け取ろうとするのを制して、片付ける。
「じゃ、えっと、あの、私、先に休みますねっ。おやすみなさいっ!」
昨夜は多少酔っていたとはいえ、「旦那さま」という呼び方を変えることも、一度は同じ寝床で寝た後で寝室を別にして欲しいとも言い出せないらしい。
挙動不審になりながらも、俺が寝る前に先に寝ることにしたようだ。
俺が寝室に道具を取りに行った時にはまだ眠れていなかったようだが、しばらくすると、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
娘が眠ったのを確認してから、道具一式を手に立ち上がった。
今夜のうちに、拠点の中を全て、作り変えよう。
音をたてないように作業をしていた俺が、娘に諮問神官への受け答えを指導し忘れたことに気づいたのは、翌朝、軽量化した扉の前で青ざめ、手が震えている諮問神官の姿を見た時だった。
・・・リーイス。
この強面は、全く、役に立たないぞ。




