助言の実行。② 朝
起き抜けに転げ落ちそうになった娘は、顔を真っ赤にさせたまま寝台から抜け出し、少し迷うようにウロウロしたかと思うと、物置部屋へ入っていった。
眠そうな様子もなく、足取りもしっかりしているから、昨夜の酒気も残っていないのだろう。
酒気が残っているようなら、よく効く飲み物を作ってやるつもりだったが、その必要もなさそうだ。
日の出までは、まだ時間がある。
もう少し体を休ませるために、目を閉じる。
昨夜のうちに、危険な物や取り扱いが難しい物は全て地下室に放り込んだし、地下室自体は細工を施して閉じておいたから娘が間違って入ってしまうこともない。玄関以外の扉もある程度軽くしたから、多少は扱いやすくなっているはずだ。
玄関は素材から変えなければならないが、それは今日神殿に書類を提出しに行く時に調達できるだろう。自警団入団の手続きは午後でいい。
目を閉じたまま今日の予定を確認していると、娘の気配が物置から調理場に向かった。
調理場の使い勝手は、俺にはよくわからないから昨夜は何も手を加えていないが、娘にとって使いやすいようにシディアが抜かりなく整えていることは間違いない。
水を汲む音、燃料が爆ぜる音、包丁とまな板がぶつかりあう音。
その合間に響く、軽やかな足音。
音や気配に敏感な『獣』には不快で眠りの妨げになるはずが、聞いているだけで、眠りを誘うほどに穏やかな気分になってくる。
一人の時には決してしない物音を、不思議に思いながら聞いていると、今度は良い香りが漂ってくる。
パンが焼ける香り。
シディアが朝に好んで飲むヴィリス地方の茶の独特な香り。
それに何かとても甘い香り・・・これはマグリスがよく食べている果物を甘く煮たものだろうか。
この香りも、心地よい。
微睡みながら、その音と香りを楽しんでいると、不意に軽やかな足音が寝室の前まで動いて来て、止まった。
ためらうような気配の後、足音を忍ばせて、娘が寝室に入ってくる。
・・・いまさらか?
笑いそうになって、不自然にならないように口元を引き締める。おそらく、部屋の前まで来てから俺が目を閉じていることに気がついたのだろうが。
部屋に入ってから足音を忍ばせても無意味だと、教えてやるべきだろうか?
娘は、こちらに緊張が伝わってくるほど慎重に近づいて来ると俺のすぐそばで立ちどまり、掛け布団をほんの少しだけ引っ張った。
「あ、あの・・・朝ですよ?」
緊張のせいか、囁くような吐息混じりの声。
起こそうとしているのか、起こしたくないと思っているのか。
おずおずと何度か話しかけてくるのだが、こんな小さな声では誰も起こせないだろう。
目を閉じたまま動かずにいると、ためらいがちに引っ張っていた手が、軽い音をたてて掛布を叩く。
「朝ごはんできましたよ、起きてみませんか?」
遠慮がちに提案するように響く声は、先ほどよりはだいぶはっきりと聞こえるようになってきた。
だが、まだ起きる気になれない。
それどころか、もう少しだけ、横になっていたいような気がする。・・・睡眠はもう十分に足りているはずなんだが。
「ご飯、冷めちゃいますよー・・・旦那さまー」
起こそうとしているというよりは、起こすことを諦め始めたらしい娘の声に、どこか残念そうな音が混じりだした。
それでも、俺を呼ぶその声だけは、なぜかひどく甘く響く。
不思議に思いながらゆっくりと目を開けると、驚いたように見開かれた黒い瞳とぶつかった。大きな瞳の中に、無表情な自分が映りこんでいる。
「あ。お、おはようございます!」
「・・・おはよう」
やけに元気がいい挨拶に、何気なく挨拶を返すと、瞳の中に俺を映したままの娘が嬉しそうな、柔らかな微笑みを浮かべた。
「ご飯できてますよ、一緒に食べましょう!」
手を伸ばせば届く距離。
無意識に手が動きかけたその一瞬、娘はパタパタと足音をたてて出て行ってしまったのだが。
・・・なぜか、ひどく惜しいことをした気がした。
手早く着替えて食卓につくなり並べられた朝食は、美味かった。
献立がシディアやマグリスが好むものばかりだったのは、教師役の影響だろう。
食事に集中している娘の様子を伺うと、俺と二人きりで食卓を囲んでいても、ゆっくりとだが、良く食べている。
昨夜は酔っていたようだし、ほかの連中もいたが、今は一滴も酒を飲んでいないはずだ。
それでも昨夜とほとんど食欲が変わらず、今朝のように俺を見て微笑みさえ浮かべられるのは、娘が本当に俺の存在に耐えられる、ということで。
それが、何より重要だった。
俺が食べ終わったあともまだ一生懸命小さな口を動かしている娘を眺めながら、外から聞こえて来た馬車の音に意識を向ける。マグリスからの迎えの馬車が来たのだろう。
娘が最後の一口を飲み込んだのを確認し、これから出かけてくることと昼には戻ることを伝え、そして外には決して出ないように言い含めておく。
不思議そうにしながら頷いたあとに、少し首をかしげた。
「お洗濯しようと思っていたんですけど、庭に出るのも駄目ですか?」
「洗濯は、風呂場で。昼に干せばいい」
確かに今日は洗濯物を干すにはちょうどいい、良い天気になりそうだ。
庭にも出るな、という意味で首を振るとものすごく残念そうな表情になった娘に妥協案を出すと、嬉しそうに顔が輝やいた。
この娘は感情が全て表情に出るのか、非常に分かりやすい。
「他に必要なものは?」
「特にないです。あ、お家の中をお掃除しても構いませんか?」
頷いて見せると娘は早速食器類を片付けるべく動き始めた。
何を取ろうとしたのか、棚の少し高いところに手を伸ばして届かず、椅子を引っ張っていく。
ちょろちょろと動き始めた娘を眺めていると、急かすような馬の嘶きが聞こえてくる。
出かける支度を整えてから、もう一度外に出ないように念を押すと、両手に洗剤が入った容器を持った娘がなぜか自信たっぷりに笑ってみせた。
「分かりました、家の中をピカピカに磨き上げておきますね。いってらっしゃい!」
元気な声で送り出されて、外に出る。
扉を閉めて手早くいくつかの小さな仕掛けと、拠点周辺に巡らせてある仕掛けを作動させた。これで少なくとも外から侵入されることはない。
一通りの作業を終えて、待たせていた馬車に近づくと、帽子を目深にかぶり白いひげを蓄えた老人が御者台で小さく頭を下げた。
「おはようさんです、『獣』の旦那。お館でよろしゅうございますか?」
「ああ。・・・リーイス、しばらく頼む」
あまり街の人間に拠点を知られたくないこともあって、マグリスが俺たちに迎えを寄越す時は、このリーイスという老人かその息子と決まっている。
今日から自警団に所属することになるが、グレインの忠告に従うなら昼も夜も食事時には拠点に戻らなければならない。
近いうちにボウドゥを連れてこようとは思うが、星消えが終わったばかりで気が立っている状態では、街に連れて来れない。
となれば、必然的にリーイスの世話になることになる。
「・・・へぇ。頼まれました」
驚いたように目を瞬かせていたリーイスは、帽子の奥で笑うと、馬を走らせた。
小さくなっていく無骨な拠点を、一度だけ振り返る。
・・・扉以外にもいろいろと買い足す必要がありそうだ。




