九題目 「ヌアペンボーラン」とサワハが言って
「最近この辺で〝フォッグマン〟とかいうのが話題になってるらしいのよ」
「おう、こわいよネそれ。蛙男」
「サワハさんフロッグじゃなくフォッグです」
蓬まんじゅうをかじりながら歩く口論義とサワハに追従して進む小野と司は、普段駅と学校を行き来する際には使わない道を歩いていた。夕暮れ時、ぶ室を閉める時間になっても廉太郎と踊場は戻ってこなかったので、会議の場所を移すべくサワハの自宅兼マッサージ屋に行く途中なのである。
「フォッグ、つまり霧男、ですよね」
「ええ。こないだの犬神使いの一件は、表向きただの野良犬による事件だと思われてたみたいだから……世間ではそういうのよりセンセーショナルなもうひとつの事件が注目されてて、その首謀者と目される男のことをネット上では〝フォッグマン〟と呼んでるそうなのよ」
小野からの問いを受けて答え、まんじゅうを嚥下する口論義。ゆるくウェーブした肩まで届く薄茶色の髪をかきあげると、ケータイを取り出してきてれつ研の情報保管庫であるサイト『奇怪事件展覧列挙集』を覗き始めた。
司とさして変わらない背丈の彼女は、つい先日まではセーラー服の中にジャージを着こむというかなり風変りな格好をしていたのだが、だいぶ温かくなってきたからか最近は少し違う格好になった。
セーラー服は放棄して、男子のカッターシャツの上から、ジャージを着ている。下は丈の短いプリーツスカートに紺色のタイツだ。……ジャージさえなんとかすれば、艶やかな表情と流し目の似合う美人なのだが。そう思いつつ、司は春の風に翻るスカートの裾に目線を落とした。しかし振り返る気配がしたので、すぐに顔を上げて口論義と目を合わせる。
「で、サワハは知ってたみたいなんだけど。二人はこの名前、ネットとかで見た?」
問いかけに小野は首を縦に振り、司は首をすくめた。二人の反応を見つつ口論義がにこにこと嬉しそうに笑みをこぼすのは、まんじゅうの味に感じ入っているのか自分が求める不可解な事件に遭遇したためか。両方だろう、との予測は付き合いの浅い司でもたった。
「ウワサ、方々で流れてるね。出るの雨の日、こーみょーな話術で人攫い。捕また人みんな、変な体験させられるのコト、って」
奇妙なカタコトで発言したのは口論義の隣、司の前を歩く彼女、サワハ。
長い黒髪のうち、後ろ髪は全て束ねて毛先を上に向けバレッタで留め、サイドのもみあげの辺りは短く三つ編みにしているという髪形。肌は小麦色で東南アジア系のエスニックな雰囲気を漂わせており、大きな鳶色の瞳の下、表情豊かな顔は少し赤みがさして血色がよい。
そして着ているセーラー服の胸当ての辺りが緩い、というか胸当てをしていない、というなかなかに際どい格好が目立つ少女だった。
「……ごめん、まだ付き合い浅いから、すっと理解できないや。だれか翻訳を」
「がーん。マルドメくん、サワハと間に隔壁を建築中? ひどい。寂しいネ、受け入れられないのサワハは孤独」
「ごめん今のも理解に苦しむ」
「他者理解の努力を惜しんではいけません。出来る限り自分で解読してあげてください」
「……小野ちゃん、翻訳から解読に変わってる。読み方不明の古代文字じゃないんだからそこまで難易度高くないわよ」
と言いつつ、口論義がサワハの言葉を訳すように説明をはじめた。
東区連続誘拐監禁事件。この街の近辺で起きていた事件は、当初そのように味もそっけもなく、ゆえに事件の印象も視聴者に残らないという極めて地味な、それでいて微妙にタチの悪さを感じさせる名前を与えられていた。
だがその事件の首謀者と目される男――『彼』に〝フォッグマン〟との異称が刻まれた時から、今までと一変して事件は誰もが知るものとなった。名前のインパクトから人々が関心を持つようになり、多数の人々によりその事件の異様さが語られるようになったからだ。
「でもまずその呼称の由来から説明するわね。霧男ってのは別に、お天気の悪い日に現れるからってだけじゃないの。ロンドンじゃあるまいし、日本の平地じゃ霧なんてあんま出ないしね。ではなぜレインマンと呼ばれなかったかというと……帰ってきた被害者の語るその男の姿に対する証言が、ことごとく違ったからよ」
現時点までに起こった誘拐監禁事件は五件で、そのどれもで、である。犯人とされているのはある時は小太りの男、ある時は背高のっぽの男、ある時は中年の男、と性別以外の共通項が見当たらない男どもであり、だというのに事件内容は導入部である被害者への誘い文句を除き、全て細かいところまでそっくり同じだというのだ。
「つまり男の容姿が霧のごとく変幻自在、ってこと?」
「そゆことヨ。たぶん、犯行をパクって猿真似るの人がたくさんなのカモー」
「それは無いのではないでしょうか? 微に入り細を穿つほど丁寧に再現するには、それこそ最初の犯人から犯行手順を聴きださなければならないのですから。わたしとしてはたくさんのフォッグマンがいて、彼らがグループで犯行に及んでいるのだと推測しています」
「あたしも小野ちゃんに同意。で、肝心の彼らが何を行っているかというと」
誘拐監禁、である。それも連続している。
フォッグマンは雨天の日に現れ、言葉巧みに五人の女性を誘いだして狭い場所へ案内し、そこで数時間にわたり拘束して解放する、という意図のよくわからない犯行を繰り返していた。
だが連続して事件が起これば周囲も警戒し、なんらかの処置を取るものだ。それら対策をくぐりぬけて達成されていく犯罪は、実害はさほどではなくても『自分たちの領域をいつの間にか侵されている』という気持ちの悪さがべったりと残る。薄気味悪さを感じつつも、司は疑問に思った点を口論義に質問した。
「ていうか、ふつう事件内容が同じならそうそうみんな引っかからないんじゃないの? 警戒するだろうし」
「司くん、知らなかったくせによく言うわね……それに、ことがそう簡単に防げるなら、振り込め詐欺はとっくになくなってるわよ。逆に言えばフォッグマンの怖いところは振り込め詐欺と同じで、巧みな話術で警戒心を解き、被害者の心理を誘導しちゃうってとこ」
「頭イイの人たち、集まてるのカナ?」
「そんな気がするよね」
「ただ目的があまりにもつかめないのですよ。そもそも事件性が薄いものでして、拘束されている、と被害者が気付くのはフォッグマンによって案内されてのち、かなり時間が経ってから。しかもその気になればいつでも出られる程度の、監禁よりも軟禁と形容すべき状態だったそうです」
口論義から引き継いで、小野が説明を続けた。
「一件目はネットカフェの個室シアター。二件目は市内のあるアパートの一室。三件目がカラオケ、四件目でホテル、五件目では、まあ、歓楽街のサービス施設と、いいますか」
ごにょごにょと語尾が縮こまっていったが、司にもだいたいどこのことを言おうとしているかはわかった。すかさず司はフォローをいれた。
「言いにくいなら無理しなくても」
「へ? マッサージ店ちがったの? それとも……小野ちゃん、お仕事でサワハたちのしてるは言いにくいものだたノ……」
「あ、いえ、その。サワハさん、このマッサージ店というのはですね」
「はいはいあんま掘り下げない。サワハ、あんたもホントは半分くらい知ってて言ったでしょ」
「バレた?」
わりと普通のイントネーションでつぶやき、ふっと笑ってサワハは髪をかきあげた。小野はバツの悪そうな顔をして無意識なのか司の方を向いて、慌てて目を逸らした。司に話の続きをうながされ、小野は咳払いで催促に応えた。
「とにかく、少人数で閉じこもるタイプの個室で、全ての事件が起こってたと」
「……ええ。加えて言うのなら被害に遭ったのは若年層の女性ばかりで、警戒はますます強まっているとのことです。その甲斐あってか、この五件までは三日と間をおかず連続して行われてきたそうですが、ここ一週間は何も音沙汰なしです」
「軟禁の状態は、どんなだったの?」
「ドアおよび鍵が開かないように接着されていたようですね。ただ、それ以外は何も。外部との連絡手段も断たれておらず、被害者が身体の自由を奪われることもなく。しばらくフォッグマンと会話して、気が付いたらいなくなっていて、どうしたものかとしばし時間を潰したあとで軟禁状態に気付くというものだそうです」
「なるほど、さっぱりわからない。いま聞いた情報だけだと、『意味不明な状況に焦る女の子を見るのが好き』っていう性癖の持ち主だとしか思えないや」
「そんな性癖こそ意味不明ですが……世の中は広いですからね。司さんもお気を付けください」
「だからこっちには来ないって。たぶん」
ちょうど話が途切れたところで前を歩いていた口論義とサワハが足を止め、あとを追っていた小野と司も立ち止まる。司が前を覗きこんでみると、通り沿いのバスの停留所には四、五人ほど並ぶ影があった。後ろを見れば腕時計を見てから走ってくる影もあり、間もなくバスが来るのだろうと考えられる。
口論義は開いていたケータイの展覧列挙集を熱心にスクロールさせており、横から小野もちらちらとそれを覗いていた。手持無沙汰の司は行き先にある停留所を数え、サワハに質問した。
「サワハさんの家までバスでどれくらい?」
「十五分くらいだネ。停留所八つ目。そーそ、マルドメくん。今日はうち、トムヤムクンとホイライヌンとガイヤーンだヨ。食べてく?」
ぐっと親指を立てて自分の後ろを指すポーズをとって、サワハが言った。司が腕時計を確認すると、たしかに時刻は夕食にほどよい頃合いにさしかかっていた。
「そんな、今日はじめて行くのに、ごちそうになっていいの?」
「食べてくはマルドメくんだけちがうよ。会長サンも小野ちゃんもだからネ、一人増えてもいーの別に」
「ならお言葉に甘えさせてもらうけど。ところでホイライなんとかと、ガイヤー、とか言うのは、一体なに?」
きびすを返したサワハはあっはっはと笑い声をあげて、前方に見えてきたバスを指差して口論義の袖を引っ張りつつ、司に答えた。
「ホイライヌンがコウモリでガイヤーンがザリガニよー」「え」「ウソ言わないの」
小野と一緒にケータイを見ていた口論義がサワハの胸に突っ込みをいれた。
ジョークとはいえおそろしいメニュー発表があったからか、司は微妙に周囲の視線が自分たちに集まっているのを感じた。が、しかし様子がおかしい。あきらかに眉をひそめている者も見受けられて、ひそひそ声が聞こえてきた。その中には、「きてれつ研の……」という囁きも混じる。
「?」
「大丈夫ですよ、司さんのことを言っているわけではありませんから」
ちょいちょいとつついて自分に注意を向けさせる小野がそう言った。だとしてもきてれつ研と聞こえた以上は、自分に無関係と思えないと食い下がってみる司。すると小野は財布からバスカードを取り出しつつ、「冬にいろいろあったのですよ」と答えにならない解答を出した。
「……そういえばこの二人と平日、ぶ室以外の場所で一緒にいるのって初めてだけど……」
「わたしは冬の時点ではまだ中学生だったのであまり認識されませんでしたが、お二人は在校生でしたので。先代会長の赤馬さんともども、少々有名なのです」
口論義の場合服装が、サワハの場合は日本人離れした顔立ちが、さらに言うなら二人ともそれなりに容姿が整っていることが目立つ要因である気もしたが、あまり言わないでおこうと司は思った。
ぷしーと音を立てて止まったバスの扉から、人影が吸い込まれていく。流れに乗って小野も乗りこんでいったので、司はあとを追いかけた。
#
サワハたちが一家三人とスタッフ二人で回しているのだという店は『タイ古式マッサージ サワダ』と形作られたネオンが無駄に煌々と輝いているビルの二階にあった。一階のアパレル関係の店を素通りして階段をのぼった四人は、二階のドアにかかっている『ヌアペンボーラン!』と行書体で書かれた札を横目で見つつ、サワハ一家が住まいとしている三階の部屋に向かった。ちなみに対面の部屋には、一階の店の主が住んでいるという。
ただいまー、おじゃましまーす、お邪魔します。声をかけながらあがっていく三人に続き、踏み入れる司。表札にはしっかり「沢田」とあった。
「待て待て、待って」
「どったの、マルドメくん」
「今さっき二か所ほど突っ込みどころが」
「ヌアペンボーラン、はタイ語でタイ古式マッサージのことを表してるのよ」
「会長ちがう、それより少し前」
「ひょっとして、バスで盗撮被害にでも遭いましたか……」
「小野もちがう、も少しあと」
「ただいまヨ、おとーさん」
「おう、ヨーヤク帰ったカ、美鈴」
「ほら今あったよ、突っ込みどころあったよ」
なにがなんだか、と言った風な表情で司に向かって首をかしげる三人。加えて一人、奥から玄関へ現れた、あごひげをたくわえ、長い黒髪を額を見せるように後ろへ流しひとまとめにした大男が、どうやらサワハの父親らしい。
アロハシャツから覗く浅黒い肌の色はともかくとして、顔立ちは日本人らしさがある。サワハとも似ているが、彼女の持つエスニックな雰囲気を形作る要素としてはそれだけでは足りない気もした。
「……あ、そっか。つまりお母さんの方が」
「ところで美鈴、美幸まだ終わらないイ? 仕事まだしてるカイ?」
「おかーさんまだお仕事ヨー」
「あ、やっぱり突っ込みどころだった」
いったん納得しかけた思考が、サワハ父によってまた逸らされた。いいかげん不審に思ったのか、小野が表情を曇らせた。
「……先ほどから何をおっしゃっているのですか、司さん」
「いや……だってみんなずっとサワハサワハって呼んでたから……話し方もカタコトだし、てっきり東南アジア圏の人なんだと思ってた」
「その呼び名は最初、サワハ言い間違いしたからなのヨ。自己紹介で噛んだので、みんなワタシを『サワハ』だと思ったのコトよ。沢田美鈴・純日本人。が、正解」
「長ーく、タイに一家でいすぎたのコトが失敗だたな。美幸、私、日本語ヘタに。美鈴生まれたも日本語教えられなかった。すまないね」
「いいヨいいヨ。キャラ作るのしなくて済んだカラネ」
「ははははは」
「あははは」
サワハ一人ならばなんとか耐えられるこの喋りも、両側から浴びせかけられると本格的に頭の中で処理が追い付かなくなり、なんだか身体を揺さぶられているような、自分が異国に来たような、奇妙な感覚を司は味わった。
「あ、頭が、重いような」
「……そのうち慣れるわよ。それより、ここで食べられるトムヤムクンは絶品だからね。楽しみにしとくといいわ」
「トムヤムクン食べるといっしょに会議ヨー。ぷらちゅむー」
奥に駆けて行くサワハ。すれ違う形で、片手をあげて微笑んだサワハ父はサワハ母を呼びに行くのかドアを出て下の階に下りていった。現実は受け入れなくては、とよくわからない諦めに似た思いを抱きながら、司もそっと靴を脱いであがらせてもらった。
奥のリビングは赤や橙を基調とした暖色でコーディネートされたインテリアが並び、手狭な空間ではあったものの圧迫感などはない過ごしやすい部屋になっていた。低いソファに腰かけた三人にサワハがハーブティーを出してくれて、それを呑み終えた頃には食卓にトムヤムクン、アサリの香菜蒸し、鶏肉の炭火焼が出てきた。謎だった二つのメニューの正体が良く知る食材でできていたことに、司はちょっぴり安心した。
「じゃ、いただきますカナ」
サワハの両親はまだ仕事とのことなので、四人だけで食事をとることにする。いただきましょう、と小野がつぶやいて手を合わせ、口論義も箸を持ったままだが手を合わせていただきますと早口で言った。司もそれらにならい、箸を取る。
香辛料が日本のものとはちがうのか、トムヤムクンは辛いだけではなく複雑な味わいだった。魚介類のうまみが出ているとか、コクの中にある奥が深いとか。司は料理漫画などで見たセリフでも並べてみようかと思ったが、手を止めてわざわざそんなことを喋る気にはならなかったということがなによりも味の良さを示していた。
とはいえ辛いことには違いなく、汗をかいた四人。デザートにと、サワハは冷えたタイ風のおしるこを持ってきてくれた。ココナッツミルクとサツマイモが甘みのベースとなったそれは、だんごと共に呑みこむと喉の奥でじんわりとやわらぐ素朴な味を示す。
最後にまたハーブティーを淹れてもらい、四人でほうと溜め息をついた。
「……で、今日なにしに来たんだっけ」
「フォッグマンについて話し合うのでしょう」
「ああそうか」
すっかりくつろいだ気分になっていた司を対面に座る小野がたしなめる。しかしそう言う彼女自身もソファに深く腰掛けて、眠たそうな目でハーブティーに口をつけていた。
「でもさ、ここまでで集まった情報だと、もちろん変な事件ではあるけど超常現象や呪術が関わるものには思えないよ?」
「そうかしら。被害者の話では『フォッグマンが突然いなくなっていた』とあるのよ。このあたりがきな臭い。なにかさせられたのか、監禁中どうしていたのか、と問われると、彼女たちは途端に押し黙って『よく覚えてない』と証言した……怖い思いをしたから記憶を封じられた、というよりも霞がかってて思い出せない、というのに近いそうよ」
「全部五人の狂言っていう可能性は?」
「それも考えられなくはないでしょうが。けれど」
いったん言葉を切って、小野は展覧列挙集を自分のケータイで開くとそこに記載されているフォッグマン事件についての詳細をとうとうと述べた。
「連れていかれて、部屋に通され、テーブルをはさんで向かいに座って雑談に興じながらテレビを見たり音楽を聴いたり。取りとめの無い話を続けて、途中フォッグマンが一時間に一度のペースで三回トイレに立ち、戻ってきた時には被害者の左隣に腰かけ。そうして話し続けて、気がついたらフォッグマンがいない。またトイレだろうと思ってしばらくは適当に時間を潰し、待ち続けて、ようやくおかしいと気づいて部屋を出ようとするとドアが開かない――ここまでです。ここまで細かい点が、すべて五件に共通して起こっているのですよ。面識もない五人がこれらの行程を完璧に模倣し証言するというのは、少々難しいのではないでしょうか」
「たしかに……っていうかそんな細かい情報どこから」
「踊場サンはどこからかともかく情報拾ってくるのコトよ。知るの詳しくするはあぶないよ、って追い払われちゃうからどこから集めてるはわかんないケド」
「なんかこわいなぁ。でもやっぱり、呪術ありきの事件ってわけでもなさそうに思えるよ」
司の隣でサワハが肩をすくめた。斜め前で足を組み、頭の後ろで手を組んだ口論義は、机の上に放置していた自分のケータイを一瞥してふうと鼻で笑う。
「ま、あたしたちが確証バイアスに陥っている可能性も否めないわね」
「なにそれ、確証バイアスって」
「反証を潰さずに、自分の仮説に肯定的な情報ばかりを見ることよ。見たいものだけ見て、それ以外の、仮説に対する反証は『例外的にそういうこともある』で済ませること。占いは当たるのが普通だと先入観で思いこんでたら、外れた時は『そういう日もある』で済ませるでしょ? あたしたちはそれぞれに追ってるものがあるから、変なことがあれば結びつけたくなっちゃう。それが確証バイアスに陥ってるのかも、って言ってんの」
「つまり、こじつけ」
「そうね。でも実のところ、ここ最近起こった事件で追えそうなものといったら、近くで起こってるこの事件くらいしかないのよ。あとこういう風に他人をだまくらかして踏み込むようなことをする奴は、ちょっと気になるっていうか」
「自分たちの身も危ないかもしれないもんね」
「そ、そんなとこよ」
うわずった声を出して、口論義もティーカップに手を伸ばした。静まった室内にはこち、こち、やけに大きく柱時計の音が響く。何気なく司が見上げてみるとすでに八時過ぎで、今からここを出ても家に帰ったら九時を回っているだろうなと計算した。
「では概要も説明しましたし、今後はフォッグマン事件を追うということで方向性は決まりですね」
「異議なーし。というか小野ちゃん、それ会長であるあたしのセリフじゃない?」
「ですね」
「夏終わたら会長の二番手決めるの時ネ。ワタシとレンタロはやる気ないないだカラ、やっぱ次の会長、小野ちゃん?」
きょろきょろと三人を見回すサワハは、司に目を止めたあとで、口論義に向き直る。視線でバトンタッチが行われたのか、口論義も膝に頬杖をついた態勢で司に目を止めた。
「司くんやる気あったりしないの?」
「めんどくさいから、いいよ。あ、それと小野なら会長似合いそうだし」
「自分の理由にとってつけて推薦しないでください」
「だって他に理由ないし」
胸を張って宣言すると、小野は呆れたのか額を押えた。サワハは足をぱたぱた振りながらころころと笑い、口論義は苦笑いを噛み殺していた。
「じゃ、とりあえず本日の会議は終了! 明日からは各自情報集めに精を出すこと。あと勉強に自信が無い人は、ゴールデンウィーク明けにある中間に向けて勉学にも励むといいわ」
「げ」
サワハと司のうめき声が重なった。顔を見合わせた二人を見て、小野が憐れみをこめてぷっと吹き出した。すぐさま司がきっと睨みつける。
「二人まとめて一笑に付すってのはひどいんじゃないかな、小野」
「あ、いえ。二人まとめて、ではないのです。サワハさん現代文以外は成績良い方ですから」
「え、じゃあ笑われたのはこっちだけ……」
ますますもってひどい話だった。
「ちなみに自慢じゃないけどあたしと踊場も成績悪くないし、小野ちゃんも入学時の成績は五位以内に入るらしいわよー」
「ちなみにメガネなのに、レンタロは成績ずんどこのどん底ヨ」
「いや、メガネなのに、って。ステレオタイプな形式を現実に当てはめないであげようよ」
とりなすように司が両手を突き出すと、小野と口論義の目線が一局集中して司に襲いかかった。
「司さんは学ランのボタン開けてることが多いですし、素行不良という括りで言うところの成績悪い人間のステレオタイプに思えますが」
「廉太郎くんもたまに指定のセーター以外の時があるし、登校時には変なもの乗ってくるし。素行不良の典型よね、司くんと同じく」
「……まともにセーラー服着てるの見たこと無いあんたらには言われたくないよ……」
「ほっとけ。ジャージはあたしのポリシーなのよ」
「セーラーはごわごわして重い感じがして、動きづらいので」
そのうちこの研究会、服装の乱れが原因で活動停止させられるのではないかと思えてきた司だった。と、ぴんぽろぱんぽろと電子音が鳴り、腰を上げたサワハがキッチンの方に駆けて行く。壁に埋め込まれたモニターの表示は四十五度と出ており、どうやらお風呂をわかしていたらしい。
「お風呂わいたネ。どーする、最初入るは誰からカナ? はい、じゃーんけーん、」
「いや入らないしもう帰るし」
片手を振ってきっぱりと断った。キッチンからリビングに面したカウンターに顔を出して、サワハは下唇を突き出しつまらなそうな顔を見せた。
「えー? マルドメくんお泊り用意してこなかったノ?」
「そんな話、今日一度も出てこなかったじゃん」
「明日から連休よ? そんで夕方から友達の家を訪ねるって時に、お泊り会じゃないわけないでしょ」
「会長は用意してたの?」
「や、このうちにお泊りセット置いてあるのよ。プチ家出用」
傍迷惑な、と司は部外者ながら思わざるをえなかった。正面を見て小野はどうなのかと視線で問うと、「朝道場に寄った際に、汗をかいた時のための着替えを取ってきてます」とのことだった。
「帰る今日中なら、お風呂だけデモ入ってくカ?」
「自宅の風呂の方が落ち着くから。遠慮しとくよ」
「そう? もったいない。風呂あがりにサワハにマッサージしてもらうと天国なんだけどねえ」
「五分で百円ですけどね」
「銭湯のマッサージ機みたいな値段だね……」
そのうち機会があればお願いしてみよう、と司は言って、サワハの家をあとにした。
連休が、はじまった。
ゴールデンウィークでも休暇無しのブラック研究会に所属してるんだがもう駄目かもしれない