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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
犬神使い編
7/38

七題目 「拳の方がおしゃべりだ」と廉太郎が断ずる

犬神使い編終了。

次回からは俗信編です



        #


 小野を置いて独り地下鉄に飛び乗った司は十分ほど揺られて、辿りついた駅に降り立つ。

 すぐに表に出て、街の喧騒と日差しの陽気を避けるように、建物と建物の間を縫って歩いた。その先にあったのはカビと生ごみの臭いが微かに漂う路地裏で、同時に司にとっては嗅ぎ慣れた臭いが一歩踏みしめるたびに埃とともに舞い上がる。

 そして角を曲がって奥を覗きこむと一層、臭いは強くなり。進行方向を探るように突きだし、壁に添えていた掌が、ある一線を越えた瞬間にぞぶりとぬるま湯に沈む感触を覚えた。進むことをはばかられたが、感覚に対して自覚をうながすことでそれを制するように努めた。


「……幻だよ」


 司の霊感は視覚以外は閉ざされている。ゆえに嗅覚や触覚が何かを感じ取ることはないはず、なのだが。犬神がサワハを襲った時もそうであったように、霊体に近付くと二つの感覚がざわざわと反応するのを感じるのだ。

 これについては御手洗によると「霊感と第六感はまた別のものであるため」で、おそらくは閉ざされた四つの霊感を補うために防衛本能が第六感を機能させているのだという。そして普通の第六感はそれこそ〝勘〟としか言えない形で作用することが多いが、司のように五感のどれかが幻覚を感ずることで危機を知らせることもままあることだそうだ。


「幻、だ」


 言葉で自覚をうながす。これも一種の言霊である。目を閉じ、親指を手の内に握りこんで臍下三寸、丹田と呼ばれる位置に力を入れて深呼吸することで、掌の感触も鼻につく悪臭も嘘のように消え去った。逆に言えばこれから先で地縛霊による霊障などの危険が待ち受けていてももう第六感は頼れないということだが、今は気にせず進むことにした。

 その先にあったのは二件目の現場――つまり犬神の関与しない事件の現場。起こってから日が浅いためか、まだ封鎖されていて立ち入ることは出来ないようになっていた。角から首を出して見回すと、人影こそ今は見えないが、警察などに見つかって話しかけられることは避けたいという心理が働く。

 近くのビルから探そうと、足音を立てないようにして非常用の階段を上がる。金属製だったために高い音がかん、こん、と一定の間隔で響いたが、下まで届くほどではなさそうだった。


(三、四、っと)


 階数をかぞえつつ昇り、いつしか周りの低い建物より少しだけ抜きん出る。そこで下を見るが、ブルーシートに覆われた現場は容易に中を窺い知ることはかなわなかった。代わりに、隣の建物との境目、塀の隙間に、現場を覗くことが出来そうな部分を見つける。戻る時はあまり音を気にせず、さっさと降りた。

 塀に詰め寄ると、一部に木目が崩れたものと思われる大きめの穴があった。いちおう辺りを見回して、背後にビルの住人が近寄ってきていないか確かめてから、司は穴を覗きこむ。狭い路地裏は小さな穴からでも十分に見渡せて、左右に視線を走らすと、どうやら穴の前に薄い生垣があるということもわかった。穴は枝葉の陰に隠されて見えないのだろう。

 三人ほど、まだ何か調べることがあるのか鑑識らしき人影もいたが、目を凝らして探す。ほどなくして、司は目当ての人物を見つけた。鑑識の人々が気にも留めない、つまりは司にしか視えていない存在。

 電柱にもたれるようにしてぐったりと力なく座り込んでいる中年の男は、司の視線に気づくこともなく、自分の亡骸が倒れていた位置を睨み続けていた。


(……恨んでるね、たぶん)


 殺された瞬間のことを回想し続けているのだろう。ぶつぶつと動く口元は円を描く視線が地面に書かれた文字をなぞっているかのように、同じ言葉を呟き続けていた。恨みの妄執は路地裏の幅いっぱいにまで膨らんでいて、放っておけばそのうち周りに無差別な害をもたらしてもおかしくない。

 先ほど小野には『犬神探しのためなら向かう意味はあまりない』と言った司だが、それでもしらみつぶしにはなるだろうとの予想を立ててここに来ていた。なんらかの情報をその男が持っていないとも限らなかったし、犬神の痕跡などを見つけられる可能性も零ではなかった。

 ところがいたのはしらみどころか吸血鬼で、潰そうにも司は杭も聖水も持っていない。元よりその気もない。けれど、こちらに害意がなくとも向こうはお構いなし、そんなことはよくある話だ。


(なんか危ない雰囲気。やっぱり第六感に従って逃げればよかったかな)


 ううん、と小さくうなって、司は男から視線を外そうとする。

 とたんに、砂を踏みつけたような乾いた音が聞こえて、自分の視覚だけが木目の穴から路地裏に引きずり込まれそうになるという奇妙な感覚に襲われる。踏みとどまろうと体重を後ろに傾けようとして、身体の自由が奪われていると気付き、


(やばっ、これ、かなしば――)


 慌てた時にはすでに遅い。男が頭をもたげる。


「こ わい こわい ばけも の け だ もの まっか ち が だめ とまら な けだも の だめだ こ わい こいつ かみつ く けだ もの だめだ もう ち が な い  し   ぬ」


 ――がちがちがちがち。がちがち。

 うるさいと思ったら自分の声、および自分の歯が鳴る音で、けれどそれを感じるより先に認識したのは穴の向こうから見られている(、、、、、、)という感覚で、後ろにかけた体重が力学的に作用する瞬間に司が見たのはじっとりとこちらを見る中年の男の目玉だった。いつの間にか、穴から食い入るようにこちらを見つめている。

 目と目が合う、というか。さっきまでなら、物理的に司の眼球と接触しかねない位置だった。


「う、わ」


 悲鳴のひとつもあげられない。荒い呼吸は、全力疾走したあとのようにぜえはあと肺腑から口までを往復している。立ち上がるのも億劫(おっくう)で、司はずりずりと尻餅をついたまま後ずさった。男はまだこちらを見ている。見続けている。次第に落ち着いてきて、恐怖心よりも驚かされたことへの苛立ちの方が大きくなった司は、これ見よがしに頬をゆがめて大きめに舌打ちを響かせた。


「……自分でしゃべればいいのに。わざわざ、無理やりさせるとか。変態」


 悪態をついていると肘が曲がって、大の字で寝そべることになる。呼吸が落ち着くまではこうしていようと思った司が首だけ曲げて自分の足下の方、穴の位置を見ると、いまだそこには男の眼球の色合い、黒々とした闇が渦巻いていた。


「なに。なんか用、なの」


 用がなければ〝口寄せ〟なんかしないと思ったが。一応形式として、そこは訊ねておいた。

 そう、司が先ほど男にやられたのは、霊媒術――憑依である。一般には〝口寄せ〟として恐山のイタコなどが有名だが、要は死者の言葉を現世に還すべく一時的に身体と精神を同調させる術である。

 もちろんやろうと思ってやったことではない。霊媒体質であるのに修行などでそれを御する術を得ようとしなかった司は、強い意志を持った霊体に接すると一方的にそれを「させられる」ことが多いのだった。


「たしかさっき言わされたのは……ばけもの、けだもの、かみつく……で、死ぬ。か。死ぬ瞬間のことを伝えたいのはわかったけど。つまり、仇をとってほしいって、そういうこと?」


 うなずいたのか、首を横に振ったのか。男の目玉が一瞬、木目の穴から消える。どちらであっても、司にはどうにも出来なかったが。


「気持ちはわからないでもないけど……あいにくと呪いの成就に手を貸せるほどの力は無いよ。それに、やるなら止めない。でも出来る範囲でしか干渉しない。そういうスタンスでやってるから」


 司が片手を振って断る姿勢を見せると、男からはたじろいだような、なんだか弱気になったような空気を感じた。この程度でひるむとは思っていなかったので、正直な話呪いも大したものにならない、そんな予感がした。

 いずれ強い霊障などが起こるようになればこの男の作りだした呪いの〝場〟も拝み屋か何かに消されるだろうな、と思いつつ、司は上体を起こして腰を上げた。そこで、背後から漂う臭気と、ぞわぞわと肌が粟立つ気配を感じ取る。〝この場〟つまりこの男の霊に対する第六感の警告は、すでに払いのけた。にもかかわらず感じる感覚はつまり――振り返る前に、穴の方を見た。

 男の目玉はすでに穴の前から消えている。地縛霊なのでそこまで遠くへは逃げられないだろうが、出来得る限り逃げたのだろう。

そしてそれはもちろん、司の態度によって引き起こされた行動などでは、なく。


「……嫌んなるよ」


 ポケットに手を入れ小刀を抜きながら振り返る。逆手に持った小刀は司の前腕部で隠れて見えないようにされ、いざという時に不意打ちで振るうことが出来る。

 ビルの横にある狭いこの空き地がさらに狭く感じられるような、圧迫感を伴う威圧。とたとたと地面を踏みしめて、犬神が――司の眼前まで歩いて来ていた。激しくえずいており、もう吐くものなどないその身体から絞り出すようにして唾液と胃液の混ざりものを垂らしていた。濁った瞳は司ごしに、背後の穴を見ていると思われる。


「でも、なんでここに」


 突き刺したことを恨んでいたんだろうか、と犬神の背にあるはずの、自分がつけた傷を見る。けれど毛並みに隠されている地肌の傷の有無などわからず、諦めて立ち向かうことに神経を集中させる。

 前回はサワハを襲っているところを背後から一突きしただけだったが、今はそのように注意を引いてくれるものもない。戦闘技能などほぼ皆無である司は、攻撃の機を得るためには自分の左腕でも差し出す他ない。覚悟と責任で腹をくくって、距離を測るように左半身で構えた。

 すると犬神はそっぽを向いて、鼻を鳴らすと口の端から液をこぼしてすたすた歩き空き地から出ていった。なぜ逃げ出したのか、わけもわからず。刃物に臆したのだろうとあたりを付けてはみたものの、拍子ぬけした司はわざわざ構えまでとった自分がなんだか恥ずかしくて、左腕をぶらりと下ろしたあともそのままの姿勢でしばらく突っ立っていた。

 だがすぐに身をすくませ、またも緊張の糸が張り詰める。その理由は背後からの視線で、しかしその視線と司の視線がぶつかり合うことは二度とない。


「あ……」


 穴の淵からこちらへ突きだされていたのは指先で、すぐに引っ込む。それが何を示すのか頭で理解が追い付いた時には無音の世界に空白だけが残されていた。

 踵を返して空き地を飛び出し、鑑識の人々が居たことも忘れて現場へ踏み込む。制止を振り切って角を曲がり、穴の向こうにあった場所を目にした司は。

 男がいなくなった路地裏に、犬神の姿も無いということを確認して、膝の力が抜けた。

 踏ん張って、崩れ落ちることは避けた。


(やられた)


 背後から肩に置かれた手を振り払い、司は路地裏を走りだす。鑑識から逃げるためというよりも、あれほど積み重ねられ空間を呑みこんでいた怨嗟の念がほとんど消されていたことを、認めることが難しかったからだ。

 直感的に犬神の仕業だろうと推測したが、そもそも犬神、ひいては犬神使いは恨みの無い相手を襲うほど暇ではないはずだ。

 ではなぜなのか、疑問はそこに終始する。結局のところ、犬神が人を襲う理由から探るのが、一番の近道だったのかもしれない。そんなことを考えて、やはり怨恨だろうと考え直して、


「サワハさんと、一件目と二件目の被害者と。共通して恨みを買うような何かが、あるのかな」


 走って走って、路地裏をぬけて大通りに面したところまで逃げ、地下の駅構内に飛び込んで。環状になっている路線の図をながめながら、ポケットに手を入れ財布を探り考える。恨みつらみ。共通項。普通の殺人事件であるなら、無差別という可能性を考慮し最初からこのような思考は放棄するのだろうが。思いだけが理由であり原因であり手段となる〝呪い〟に関しては必然性を持って「恨まれるなにか」という共通項が存在するはずなのである。

 環をなすように、被害者同士を繋ぐなにか。ぐるぐると迷走する思考を抱えつつ改札を通り抜け、右回りで走る電車を待ち、ふっと思い当たる。


「……ミッシングリンク?」


 ABC、のアレを思い出したのは、あの連続殺人で用いられたのが鉄道案内で、今まさに司が路線に居たからだろうか。

 襲われたサワハ。消された、二件目の被害者の霊。そもそもなぜ二件目の被害者が消されるのか。呪いはどこを向いていて、犬神使いはなにを考えているのか。ミッシングリンクは、繋げることが可能なのか。


「わかるはずだよ、だいぶ情報は集まってきてるんだから……」


 言い聞かせるようにして、司は列車に乗り込む。ようやく見つけた尻尾を、つかんで手繰り寄せたかった。もう少しだと、自分の頭の中で確信の声が響く。そしてその確信は、二件目とサワハの間に無かったはずのラインが、「同じ犬神に襲われた」という一点でわずかながら浮かび上がったことに端を発するとも思っていた。

 逆を言えば一件目との繋がりは本当に何も見つかっていないのだが。そこに頭を悩ませて、


「ん?」


 一件目(、、、)と、二件目とサワハ。無意識に行っていたそのグループ分けに、なんらかの意味があるような気がして、


「……けどもしそんなグループ分けがあったとして、じゃあ犬神使いはどんな妄執にとりつかれて、」


 自分のつぶやきが、確信へと接続されるのを感じた。

 それを確証へ至らせるべく、司は急ぎケータイを開いてアドレス帳から目当ての名前を探す。だがよく考えてみて、相手が通話やメールを簡単には出来ない状態であることを思い出した。次の駅で電車を降り、左回りに乗り換えなくてはいけない。

 目指すのは、サワハの病室。


        #


 一方そのころ小野は喫茶店を出て、とぼとぼと独り歩いていた。あてどなく歩くのは嫌いではなかったが、頭の中で反響する司の言葉が足取りを重くして、気がつくとあまり知らない通りの中で動きを止めていた。

 呪い、呪われ、堕ちていく。呪術の仕組みは理解していたはずだった。だというのに、誰かから面と向かって指摘されることはこれほどの重圧を伴うということに、正直驚いていた。

 小野と違う世界を見つめてきた司の瞳には、これまで出会った人々の中に宿っていたものとはまた違う凄みがあった。怖気づく、とは言わないものの、気圧された。だからだろうか、雰囲気にのまれ、司の言葉に引きこまれた自分の不甲斐なさを責めたくなるような心地がしていたのは。


「それでも……」


 ここで止まるわけにはいかなかった。小野の中での結論はだいぶ前に出ている。それは呪術を、人を呪うことを、一番忌み嫌う小野だからこその結論だ。

 一番恐ろしいもので、遠ざけたいものだと思うからこそ、それを武器とする。

 呼吸を押えて目を開いて、歩く道を選ぶ。ずっと前から行い続けてきたことをいまさらやめるつもりなど毛の先ほどもありはしない。通りを蹂躙するように闊歩し、人気の少ない道に入り込んでいく。まだ日が出ている時間帯だから、少し影の濃い場所へ。

 小野には司のような霊視も、口論義のような真偽を察する耳も、踊場のような情報収集力もない。それでも歩き続けることには理由があった。明らかな確信の下に、小野は道を選び続けている。

 最悪の場合、というよりも。むしろ次善のさらに次の策として、小野は自身が犬神に襲われることも手掛かり入手へのアプローチとしてはやむなしと考えていたからである。もちろん他人に恨みを買うような真似をした覚えは(それほど)ないのだが、サワハが襲われたことで、犯人がいまだこの近辺に潜伏していて、大きな恨みがなくとも犬神を差し向けるかもしれない可能性があることが示唆されていると思ったのだ。


「しかし、どうしたものでしょう」


 きょろきょろと辺りを見回して、どこか怪しいところがないかと探す。だが邪推すればほんの少しの暗がりでさえも何か意味ありげにそこにくすぶっているように見えてきて、小野は徐々に細かく探すことをしなくなっていった。

 直感に従い、司に異能を見出した時のようにごくごく自然に。ありのままの思考で、周囲に臨む。しばらくそうして歩き続けて、幾度か時計を確認するうちにふっと、それは現れる。

 行動がもたらしたのは、不運か、奇運か。幸運ではないことだけは、確かだった。見えてきたのは直角に折れ曲がった道の角、その頂点に面した入口を持つ、廃屋だった。一見すると雨戸が閉じられているだけの二階建て一軒家だが、重苦しい空気が赤さびた門扉の向こうで淀み溜まっている。

 まさか、と思う気持ちがもしかして、に変わるまでにさほど時間は要らなかった。くぐもった、なにかの鳴き声が微かに家の中から届いたためだ。


「我ながら、そしていつものことながら。こういう惹かれやすさ(、、、、、、)は嫌になります……けれどここで焦って単独行動をとるのは実に危険ですよね。だれか、連絡を」


 こぼしながらケータイを取り出し、先ほどまで会っていたからか最初に思い出した司に電話をかける。だが地下鉄に乗ってサワハの病院へ向かっている最中のため、繋がらない。続けて廉太郎にかけるがこちらも不通。道場にいるためまず電話を身に帯びていないだろうとの予想はついていたらしく、落ち込まず連絡を重ねる。

 結局通話出来たのは踊場だけで、内心がっかりしながらも小野は塀に背をあずけて踏み込む時が来るのを待った。その間、背後にある一軒家は不気味な静けさを保って、這い寄る宵の闇に少しずつ黒く染め上げられていった。

 暮れはじめると早いもので、いつの間にやら、逢魔が刻だった。


        #


「あー、それサワハ言ったカモ。でもそれがなになの、って……あー」


 司の言葉を待つまでもなく、自分で答えに辿りつくサワハ。自論が確証に近付いたことを悟った司は、溜め息と共に椅子の上にへたりこむ。


「……言葉って、」

「言霊って怖いわね」


 あのあとやはり気になったのか、サワハの様子を見に病室を訪ねていた口論義に横合いから言葉を付け足されて、深くうなずく。これにて浮かび上がっていた繋がりの線はほぼ確定的なものとなり、いよいよあとは大詰め、と言いたいところだった。

 だが。


「でも、こればっかりは――どうにもならないんだよね」

「犬神使いを見つけること?」

「うん。それに――一件目(、、、)と二件目の被害者を、呼び戻すことも」


 答えて肩を落とす司。どうにもこうにも、そればかりは運だ。おそらく警察は見つけ出すまでにそう時間を取らないだろうが、捕まってしまえば接触は二度と叶わず、司たちが望む情報は一切得られないままなのだ。

 慰めるように、口論義は肩を叩いて司を自分の方へ振り向かせる。


「まあ、不意にエンカウントすることもあるものよ。特に……あの子は惹かれやすい(、、、、、、、、、、)から」


 にたりと笑みを頬いっぱいに広げて、獰猛な笑い声を口の中にて噛み殺す。そんな口論義の様子に若干の恐怖を感じ、司は問う。


「ひかれやすい、って、前もそんなことを」

「小野ちゃんよ、小野ちゃんのこと。……ねえ、司ちゃん。あなたはあの子の微能力、どう思う?」

「どうって、すごいなあ、としか」


 右斜め上を見て誰でも言えそうなことをつぶやいた司に向かって、サワハもこくこくと賛同の首肯を示す。口論義は笑みを強めて、二人にこう言った。


「そうじゃなくてね。ほら……普通に考えて学校に一人いるかいないか、っていう異能力者を、ほいほい見つけ出しちゃうのよ。変だと思わない? そんな簡単に見つかるものかしら」

「でも見つかったから、こうしてここにみんな集まってるわけでしょ」

「そ。逆説的に述べるなら――そういう輩が多い所に(、、、、、、、、、、)あの子はいる(、、、、、、)


 自信たっぷりに言い放った口論義の自論を拝聴した司は、前後の文脈から、なんとなく口論義の言わんとしていることがつかめてきた。


「惹かれやすいってこと、か」

「あの子は放っとけば勝手に事件の渦中に進んでく、爆発物感知センサーみたいなもんなの。たぶん変なものを見つける能力のせいで異常に対する警戒心が弱くて、境界を認識しづらいんだと思う。普通の人なら無意識に避けて通るところでも、あの子は平気でスキップしてくわ」


 まじめな顔でスキップする小野を想像して、ないな、と断じた司は、何の気なしに時間を確認しようとケータイを取り出す。すると着信履歴に「小野香魚香」と表示されており、タイミングぴったりだな、と思った。


「どしたの?」

「小野から電話あったみたい」

「噂のスレは禿げ?」

「意味わかんないよサワハさん。噂をすれば影、だってば」

「タイミングいいって言うか……なんかあたし嫌な予感しかしないんだけど」


 院内だからと律儀に電源を切っていたらしい口論義が病室を出て待合室にて電源を入れると、こちらも着信履歴に「小野」と表示されている。司と顔を見合わせて、どちらともなく外に出た。二人で廉太郎、踊場の両名に電話をかける。コール二回で出た廉太郎に司が着信がなかったかと問うと今それを見たところだと返された。ついでに呆れたような、嘆き声が耳を突く。


《……前もこうだった。その前もだ。連絡が途絶えたと思ったら、面倒事に巻き込まれてやがるんだ! ああもう、勘弁してくれよ、俺は冬の一件のように出張るのは御免だ、と言ったはずなのだぜ!》

「そんなのこっちに言われても」


 隣の口論義はというと最初に「踊場?」と通話相手に訊ねた後はふんふんと話に相槌を打つばかりで、司には情報が入ってこない。途中でそのことに気付いた口論義がスピーカーホンにすると踊場の声が漏れ出る。声が聞こえたのか、廉太郎が小さく舌打ちしたのも漏れ出た。


《……で今は病院から右回り四駅、二番出口から出たところにある雑居ビルを左折した先の、住宅街にいるというわけだよ。見るからに古くて雨戸が閉じきった家さ。……正直僕は戦力にならないし、立地がどうも悪いのでね。不気味なのだし早めに来てくれるとありがたいね》

「わかった、すぐいくわ。ところで、立地って?」

《ああ、曲がり角の頂点の位置というのは良くも悪くも気が溜まり易いということだよ。道を往来するのはなにも、生きとし生ける者だけではないのだからね。部屋の隅に埃が溜まるように、気の吹き溜まりにもなる。溜まったそれがもし人の怨念などで染められると――》


 ガツッと大きな音が飛び出してきて、口論義が片目を閉じつつ耳元よりケータイを遠ざける。司との通話越しに聞いていた廉太郎にもなんだ、大丈夫かと訊ねられたが、司には答えようがない。口論義は受話器に向かって踊場の名を何度か叫んだが、再びの異音の後には通話自体が切れてしまう。

 かけ直しても、当然繋がらなかった。歯噛みして、ケータイを閉じる。司に向き直って、ケータイを握る手ごと自分の口元に近づけると、廉太郎に指示を出した。


「……廉太郎、あんた今ので二人の位置は大体わかったわね?」

《病院から四駅、二番出口から住宅街、廃屋っぽいとこを探せばいいんだろう》

「よし。じゃああたしたちも向かうから、あんたもなるべく早く来なさい」


 通話を切り、司の手を取ったまま走りだす。駅への階段をとんとんと駆け下りて、定期を使って改札を抜けて。ホームに続く階段で靴がすっぽぬけた口論義は周りの人間が驚くほど大きな舌打ちをかました。


「演出過多よ、電話といい今といい」


 とぼやく口論義がいらいらと地面を爪先で叩くのを横目で見つつ、ホームに吸い込まれてきた列車に乗り込む。駆け込み乗車した口論義と並んで窓に移る自分たちの姿を眺め、なんとはなしに進行方向を見やる。


「司ちゃん、御手洗さんって、今から呼び出せる?」

「無理。次の仕事場だ、って出雲に行っちゃったから呼びもどしてる暇ないよ」

「タイミング悪いわね」


 爪を噛み、口論義は白いチュニックの裾をまくってカーゴパンツのポケットに手を入れた。


「踊場は術とかに詳しいし、小野ちゃんも自分のことは自分でなんとか出来るとは思うけど。長時間耐えられるとは思えないし、踊場の話によると場所が危ないらしいし」

「時刻もちょうど、逢魔が刻だしね。向こうに有利な条件が揃いすぎてる」

「でも犬は飼い主のところへ返されて供養されたんでしょ? それならある程度呪いが薄まってもいいはずじゃない」

「……だから、前に立てた仮説が真実になったんじゃない? 今いる犬神は二体目なんだよ、きっと。種類が同じならよほど見慣れてないと見分けつかないし、だからさっき遭遇した時も、背中を突き刺した憎い相手を気にも留めずにスル―した」


 憎い相手と言いつつ自分のことを指差して、司は言う。口論義は釈然としない表情だったが納得はしたらしく、その後も互いに暗い硝子に移りこんだ相手の姿を見つめながら会話をかわし、走行を続ける列車は少しずつ速度を緩めていく。


「なら、犬神使いが二件目の被害者の地縛霊を掻き消したのはなんだったの?」

「二件目の人は、自分が追われる要因(、、、、、、、、、)を作った奴だったから(、、、、、、、、、、)。そしてサワハさんを呪ったのは、襲ってしまう要因(、、、、、、、、)を作った奴だったから(、、、、、、、、、、)。……とんだ身勝手。とんでもない、()悪党(あくとう)だよ」

「まったくだわ。ホント、あたしたちそんな奴のために貴重な休日を割いたんだから、対価に見合うだけの情報でも持っててくれなきゃ割に合わないわよね」

「割に合っても、許す気は起きないよ」


 司ははっきりとそう口にした。その言葉自体が断罪の意味合いを持つように、口論義には聞こえた。やがて一つ目の駅に着く。扉は開いたが、客の乗降は少なく、すぐに列車は動きだす。


「……死んで未練があるわけでもないのに。まだやれることがあるのに」


 軽くうつむいた司の表情は、硝子に映った像では見えなくなったので、口論義は直接顔を見ようと横を見る。


「まだ誰かに関われるのに、呪うなんて――」


 同じくらいの目線の高さにあった司の顔は、ちらりと口論義に一瞥くれて、ふいとあさっての方を向いた。

 けれどその一瞬で見せた瞳のぎらつきに、口論義は気圧された。昼に司と話していた時の小野が、そうであったように。

 口論義に後頭部を向けたまま、司はぽつりと、心底うんざりした声音を発する。


「――死んでも許せないよね」



        #


「ぐううぅうううっ!!」


 ケータイを持っていた左手首に噛み痕が現れたのを見て、踊場は地面に転がった。一瞬遅く、空中に投げられていた携帯電話が地に落ちてガツッと音を立てる。


「お、踊場さんっ」

「来るな!」


 小野が駆け寄ろうとすると、叫んだ踊場の左腕がぶんぶんと振りまわされている。低い位置でのその動きは、犬神が首を振って肉を食い千切ろうとしていることを示唆していた。


「きみも、食われるぞ!」

「で、でも!」


 恐怖を感じつつも小野は臨戦態勢に入り、犬神がいると思われる空間へ鋭いローキックを繰り出す。しかし爪先は空を切るばかりで、踊場の苦悶の表情は一切変わらない。やはり司の小刀のような代物でもなければダメなのか、と焦りが高まっていく中、小野は御手洗にもらった御守りのことを思い出した。

 ポケットから取り出したそれは小さく震えていたが使い路はわからず、小野はどうしたものかと短く思案をめぐらし、ともかくも投げつけてみる。すると御守りは空中で何かに当たって跳ね返り、地面に落ちた。踊場の左腕もぱたりと地面に落ちる。離れた、と思い小野が駆け寄ろうとすると、

 一拍置いて、耳をつんざくようなぎゃあぎゃあという叫び声が、御守りのある位置から響き始めた。声と言っても人間のものではなく、もっと甲高い、なんらかの動物の叫びに思われた。

 耳が痛むほどの音量に閉口、というよりも何をしゃべっても自分の耳にすら届かず、小野は助け起こした踊場に声をかけることもままならない。


「どこに、いけば」


 とっさのことで、門扉の内側に。危険域に踏み込んでしまった失策に気付き、出ようとした時には門扉が外側からものすごい勢いで閉じられた。一メートル半はある門扉は小野では飛び越えることも出来ない、だというのに犬神の方は飛び越えるつもりなのか、門扉に向かって体当たりを続けている。見えない犬神による激突で軋む金属音に門扉の耐久性の低さを感じ取った小野は踊場を引きずって石畳の上を後退した。

 恐慌をきたしていた踊場は家まであと二メートルのところでなんとか立ち上がり、前庭の中でどこか隠れられそうな場所を探す。小野も左右を見渡してなにか使えそうなものがないか探したが、両側は生えのさばる雑草の海しか見えず、やがて門扉が蝶番の部分から壊れ、倒れる音が響いた。

 前庭を門扉から玄関まで貫く石畳の上には、両側から雑草が幾数本も突きだしている。そのうちで門扉に程近い雑草が、風にあおられたようにぶるりと動き、折れた。不可視の犬神の挙動が、折れる雑草によって小野たちにも目視できるようになる。


「もうしょうがないです、家の中に逃げましょう!」

「しかし小野君! ……ああ、くそ、仕方ない!」


 他にどうしようもないと悟った踊場は小野の提案に乗り、石畳を駆ける。と、小野が一足飛びにつかんだドアノブが回された瞬間に家の中に言い表せない狂気を感じた。だがもう止まれない、他に逃げ場は無い。

 家全体に震動が伝わる勢いで音高くドアを閉めた踊場は、鍵をかけた直後に、閉めた時よりも大きな音を立てて犬神がぶつかってきたせいで驚き、足下にあった何かの細長い板につまずいて倒れる。

 その後も連続して激しい激突音が響いたが、急いでドアに寄った小野、次いで立ち上がった踊場が押えていることもあってか、ぶち抜かれてしまうような気配はない。

 辛抱の時間はそう長くはなかったが、踊場と小野の体感時間としてはいつまでも続くように思われて。必死に押えていた力がゆっくりと腕から抜けていくのを感じた頃には、すでに犬神の体当たりは終わっていた。息を切らして二人は膝から崩れ落ちたが、少しの安堵を見せた小野に対してうつむいた踊場は足下の板を見つつ厳しい顔つきを崩さない。そして、小野を尻目にすぐ立ち上がって奥に進もうとした。


「お、どりば、さん?」

「この家、大体の窓は雨戸で覆われていたようだが。もしかすると雨戸が脆くなっている場所、もしくは閉まっていない場所などがあるのかもしれないよ。油断した直後に襲われる、などというお約束をこれ以上踏襲するわけにもいかないのでね、僕が奥を見てくるよ」


 言いつつ、踊場は奥を指差して、けれど視線は小野の左の方を見つめていた。首をかしげかけた小野だが、その視線に思うところあったのか、ただうなずきを返す。それを見た踊場は、指差していた手で内ポケットを探り、空いた片手で手招きした。小野が適当に、言葉を返す。


「でもお約束、を言うのなら単独行動も危ういのでは? そもそも、ここは敵の根城である可能性が高いのですし」

「……それもそうだね。では二人で見に行こう」


 玄関はドアの上部にある長方形の曇りガラスから注ぐ光の他に光源はなく、薄暗い中に埃が立ちこめていた。土足のまますっと上がり込んだ小野は、進行方向のすぐ左手にある階段を無視して、踊場の後ろに続き廊下の奥へ進もうとして、


 がたん、背後の物音に、二人が振り返らない約一秒間。致命的な隙を、襲撃者は見逃さない。


 二人がさっきまで居た土間の脇にあった靴箱の中に隠れていた(、、、、、、、、、、)小柄な男は、手にした包丁を腰だめに構えて突っ込んできた。ぬらぬらと、濡れたようにべたついた輝きが、またたきの間に小野の右腹部に迫る。ようやく小野は動き出したが、もう振りかえることは間に合わない。男の頬に、下卑た笑いが現れる。


「――ふっ!」


 が、呼吸を計った小野はついに後ろを見やることを一切せず、上半身を前かがみにして息を吐きつつ放つ後ろ蹴りで男の下腹部に踵を叩きこんだ。ぐげえええ、と悶絶して倒れ込む男の視界が最後に捉えたのは、屈んだ小野の向こうで催涙スプレーを自分に向ける踊場の姿。


「ぎああぁあああぁああああああ!」


 唐辛子をふんだんに使ったスプレーの気体が眼球の表面を覆い、許容量寸前の痛覚への刺激に耐えきれず、男は包丁を取り落として右手で下腹部を、左手で目を押えた。


「……いや、小野君。実によい動きだったよ。さすがはまさかり――」「そのあだ名で呼ぶのはやめてくれませんか」小野は靴の爪先で包丁を蹴り、踊場のいる廊下の奥へ滑らせた。わずかに足を掠めたのか血がついたそれを見られて、心配させないようにするためだった。

「ああ、これはすまない。あまりに切れ味鋭い蹴りだったのでつい、ね」


 ちらりと視界の奥、玄関の床に転がる板を見やって、踊場は白々しいセリフを吐いた。

 ……いかに空き家でも堂々と板が転がっている光景に違和感を覚えた踊場は、その板の出所について思案し、自らのすぐ脇にあった靴箱の存在に思い当たった。「もしかして靴箱の中の板を抜くことで、何かを入れているのでは?」と。

 そして犬神使い自身がそこへ隠れている可能性を考慮し、まだそこまで思索が行きついていないと思われた小野に視線で示すことで、迎撃の準備を整えたのだった。


「しかし、手招きするのでついていきましたが。相手が出てくる前に靴箱の戸ごと蹴り飛ばす手もあったのではないですか?」

「……んん。でも、もしそこに犬神使いではなく、犬神の術を成すために殺された犬の遺体があったら。遺体を壊されたことで怒り狂った犬神がきみを襲うかもしれないと思ったのでね」

「なるほど」


 不満げに口をとがらせかけた小野は、すいと表情を戻した。踊場はベストのポケットから百円で買った結束バンドの束を取り出すと、ダメージを受けた部位を押える男の手を引き剥がそうとした。ところが暴れるので、延髄に肘を落としてから両腕を背中へ回し両手の指同士を二本ずつまとめて縛り、動けないようにした。


「はてさて、これにて事態はそれなりに収拾を……っと、ここで油断するのもまずいのだろうね。考えてみれば表を駆け回る犬神にはなんの対処も出来ていないのだった」

「どうしましょう」

「ふむ。口論義が来てくれれば、あいつの持っている御守りである程度追い払うことが出来るのではないかな。出来ればサワハ君の分も持ってきてくれているといいのだが」

「ということは、とりあえず待機ですか」

「いや、その前にさっきも言ったように、雨戸に穴が無いか探した方がいいとは思うけれどね」


 言って、おもむろに腰をあげかけた踊場の背後で、男がうめき声をあげた


「おや。やはり僕は非力なものだねぇ。全力で延髄打ちを叩きこんだつもりだったのに、意識が残っているとは」


 驚いた風に踊場が言うと、男は聞こえているのかいないのか、がちがちと歯を震わせ始めた。なんとなく不気味で目を逸らしかける小野だったが、その前に限界まで見開いた男の目玉と直に視線を合わせてしまう。昼に司と目を合わせた時とは違う、人間的なものでない怖さがそこには宿っていて、背筋が固まる。


「踊場さん、早くいきましょう」

「うん? しかしこのまま放っておくと、立ち上がって後ろ手でドアを開けられてしまうかもしれないしね。動けないように、もう少し催涙スプレーでも浴びせておこうか」

「それは、そうかもしれませんが。でもお気をつけて、まだその人の自由を完全に奪ったわけではありませんから」

「だからこそ、これから安全かつ完全に封殺するわけだ」


 いったんしまいかけた催涙スプレーを取り出し、男の眼前にかざす。真っ赤に充血した目からうかがい知れるのは憤怒の感情だけで、けれどそれゆえにどこか奇妙な気がした。

 人間的な反応なら、ここで反抗心と共にわずかでも恐怖が滲むはずなのだ。


「――こいつ、」


 そこに気付いて、差し出しかけた手を、踊場は引っ込める。

 その動作に応じたように、男が跳ね上がってスプレーを握る指先に噛みつこうとした。あまりの力に奥歯が砕けて、じゃごりり、という聞き慣れない音がして、口腔内にあふれた血をだばだば漏らしながらも床に接吻した男の口はにたりと笑みをかたどる。

 次いで、踊場が放ったサッカーボールキックを顔面で受け止め、玄関の方へ転がった。だが本人の申告通り非力な蹴りはさほどダメージを与えておらず、それどころか手ごたえとして得られたのは「当たる前に男は後ろに跳んだ」という嫌な感覚だ。

 それに加えて、踊場は距離を離してしまった。追撃に移らなかった。そのことが致命的なミスとなる。

 芋虫のごとく這いつくばった姿勢から、背筋が悲鳴をあげるほど上体を反らして男は両腕に渾身の力を込める。


「ぎぎぎぃぎぎっぎぎぢぎぎぎぎいぎぎぎじぎぎ」


 もはや人が発しているとは思いたくない異音が口からほとばしり、それに合わせて指先を縛る結束バンドも軋みをあげる。

 だが限界が先に訪れたのは、男の指の肉だった。血流を止められて膨れ上がり、腸詰肉のようになった指先の皮膚、皮下組織、筋肉が、ぞりゅりと結束バンドによって削ぎ取られる。爪の根元まで削げて、血管の脈動、組織の断裂が露わになる。おまけとばかりにぺきぺき軽い音が響き、骨が脱臼、あるいは折れたことまでもがわかった。


「う……」


 常軌を逸した行動に気分が悪くなり、口元を押える踊場。だが彼の陰にいたおかげでそれを直視せず済んだ小野は、踊場を押しのけて三歩の間合いを詰めると躊躇なく下段足刀を打ちこんだ。しかしタイミング悪く、結束バンドから解き放たれた左腕が軌道を逸らし、命中したのは床に転がる板だった。


「くっ――」


 素早く、接地した左足刀を軸にあまり足を開かないよう小回りで右へ渦を描き、後ろ回し蹴りを叩きこんだ。男はそれを跳躍してかわすと、四つん這いの姿勢から噛みつきを敢行する。小野が回避したため顔面から玄関の壁にぶつかりそうになるが、片手を突き出して自分の突進を押しとどめた。壁には、指先から流れる血が五筋の線を残す。ぞっとして、小野も動きが止まりそうになる。


「奥へ、逃げるぞ!」


 催涙スプレーを構えたまま、踊場がえずきつつ叫んだ。その声で我に返った小野は眼前に迫る男の身体を突き飛ばして、踊場の横を抜けると廊下を駆ける。踊場は催涙スプレーのガスを使いきる寸前まで玄関へと吹き付けつつ、その後を追った。

 廊下の先は両側に部屋があり、どちらの部屋も雨戸が閉じられているために玄関先とは比べ物にならない、完全な闇だった。瞬時の判断でドアが頑丈そうに見えた左の部屋へ飛び込んで、二人はドアを押さえつける。姿の見える、実体のある人間による体当たりは、先ほどの犬神によるそれとは違い一撃ごとに生々しい重みを身体の内に残された。


「やばい……」


 つぶやく踊場は元から非力であり、小野も的確に急所を蹴り飛ばせるような技術を持つだけなので、力では成人男性に勝るはずもない。おまけに保身、自らの身体を顧みることを一切しなくなった男の攻撃は普通の成人男性より遥かに重く、ドアフレームが歪みかけていた。


「くそ、早く……早くだれか」


 背中越しに伝わる威力に息が詰まる踊場は、懸命に踏ん張ってはいるが一撃のたびに数センチずつ、後退させられている。

 黙って両腕に力を込める小野も、先ほど犬神の体当たりを押えた際の疲労が溜まっているせいで長く持ちそうになかった。

 しかも。


「……光?」


 暗闇に慣れてきた小野が一筋の光を見つける。室内の様子が少しだけ見てとれて、何も家具がないためわかりづらいが、ここがリビングであるらしいことがわかった。

 同時に。

 その光が、雨戸の一部の割れ目より差しこんでいることもわかり。

 さらに。

 雨戸からがりがりと表面を引っ掻く音がして、その割れ目が少しずつこじ開けられていることも。


「あ、ああ、あ……」


 小野が壊れないよう、破られぬよう祈った瞬間――雨戸が、欠壊した。


        #


 疾走する犬神が、埃を吹き散らして小野の方へと進む。見えないけれど、それでも室内の空気が怨念で満たされたのを肌に感じて、まぶたを閉じようとし――

 雨戸の割れ目から鋭い光がまたたいたのを見て、その動きを止めた。


「……間に、合った!」


 注ぎ届いた鋭い光は、司が投擲した小刀の刀身が反射したものだった。空中で動きを止めた小刀は、自分が重力に従わないことがおかしいと今気付いたように、力なく落ちる。その刀身は御手洗の御守りを貫いた状態で転がっており、二つの効力で犬神は退けられていた。

 司の目には、薄暗い室内で倒れ伏し、目をぎゅっと閉じて身体を震わす犬神の姿が視えている。ついでに視界の奥にドアを押える小野を見つけて、無事かどうか確認する。


「にしても、〝見ざる〟か……なるほどね。だから、三つしか作れない、とか言ってたんだ」


 走ってきたせいか乱れた呼吸を整えつつ、司は背筋を正す。その後ろには、ようやく追い付いてきた口論義が膝に手をついて、やはり笑っていた。

 とたんに安心してしまい力が抜けて、ドアが跳ねるように強く押し開かれる。小野は弾き飛ばされ、踊場は壁とドアに挟まれた。四つん這いのまま部屋に入ってきた男は、新たな闖入者である司と口論義を睥睨して、赤く赤く染まった瞳をぎゅるぎゅると蠢かせた。


「気をつけてください! この人が犬神使いで、」

「ああ、わかるよ。……やっぱり。取り憑いてる(、、、、、、)んだね」


 すでに満身創痍の身体を引きずって、なおも敵意と犬歯をむき出しにして自分たちを見る男に、憐れみを投げかけるように司は言った。とりつく、という言葉には理解を示すことのできなかった小野と踊場だが、ともかくもまずい状況に変わりないことだけは、雰囲気から察する。

 男はゆっくりと司の方に近付き、後ろ足を屈めると跳びかかる態勢に移る。


「さて。どうもそいつはこっちを狙うことにしたみたいだけど……つまりそっちが、一匹目か(、、、、)


 つぶやきを漏らしひとりごちた司が重心を後ろに傾けた。この行動を受けてか、男が、否、犬神が。ついに因縁の相手へ跳びかかろうとスタートを切る瞬間が訪れる。

 と、男の背後、玄関の方から破砕音が轟く。驚きに振り向いたのは小野と踊場で、司と男は身じろぎこそしたもののそれ以上動くつもりがない。廊下の奥から、足音と声が近付く。そしてカツっと音を立て、からからと回る風車が壁に突き刺さった。足音の主が、投げたらしい。


「――おい小野、無事か? あとついでにどっかのチビ」


 現れたのは道着に袴姿の廉太郎で、メガネの位置を正しながら、部屋にずいっと踏み込んだ。

 部屋の中の空気がぴりっと乾いてとげとげしいものに変わり、男もそれに反応したのか司から意識を逸らし、廉太郎の方をわずかに気にする素振りを見せ始める。司はともかくとして、小野、踊場、口論義の三人は、どこかその空気に安堵を感じているように見受けられた。


「……ふん、無事と言えば無事のようだが、だいぶ疲れてるな」


 男から目を離さず、わずかに左掌を上げて半身に構え、臨戦態勢に入る廉太郎。すかさず司が小刀に手を伸ばそうとすり足で移動を始め、男の注意をそちらから逸らすべく小野も廉太郎に言葉をかける。


「廉太郎さん、その人が、」

「あー、いい、いい。皆まで言わんでも大体わかる。要するにこいつが親玉で倒せば終了なんだろう? とっとと片づけて帰ろうぜ」

「人の話を聞く気はないのかいきみは」

「俺が全面的に間違ってる場合は聞く」


 今日は間違ってないだろ? と主張しつつ、左掌を少し高くした。踊場は不服そうににらむ。

 そんな二人のやりとりを見つつ、男は身構えて、わずかに前に出した手で距離を測る。話を続ける廉太郎の隙をうかがう。それらの行動を一向に意にしない様子で冷静に眺める廉太郎と、格の差は歴然と言うか、それゆえに当然の帰結と言うべきか。

 しびれを切らして跳びかかった男と、廉太郎の交錯は、まばたきの間の出来事だった。

 ――獣の躍動。襲いかかる男は噛みつきより先に、右の掌底を浴びせかけようとした。

 左腕を内側へひねりながら跳ねあげることでその攻撃をいなした廉太郎は、そのまま拳を男の胸に叩き込む。息が詰まったのかあごが開くが、人間の肉体が持つ本能的な行動か、同時に両腕が縮められて攻撃が通りにくくなる。

 ならばと繋げて、右のフック。斜め上から打ちおろす軌道で体重を載せた一撃が、縮めた左腕による男のガードの上をすりぬけ鎖骨を砕く。男が顔をしかめた……だが、いまだ最大の攻撃である〝噛みつき〟は残されている。両腕の間から、あごを限界まで広げた男が、牙をきらめかせた。

 牙が迫る。廉太郎の首筋へ。迫り、迫って、切迫し――そこで、潰えた。

 男は、廉太郎の胸にぶつかる形でフローリングの床へ倒れた。


「――倉内流(くらうちりゅう)(かぎ)(かい)〟」


 ……先のフックは、それ単体で決め技と相成るものではなかった。

 あの一撃は鎖骨を砕くことで相手の戦力を削ぐことも目的ではあったが、それ以上に相手の左腕が行うガードを自らの右腕を曲げることで手前に引き寄せ、側頭部をガラ空きにすることに意味がある。そして自らの左腕と廉太郎の右腕により視界の左側へ死角を作られた男は、無防備に晒すこととなったこめかみの急所へ廉太郎の右ハイキックを喰らい、倒れたのだ。


「獣のごとき動きだろうと、所詮人間の身体なら対処は同じなんだよ」


 蹴りを放った足を下ろした廉太郎は、にやりと笑ってそう言った。


        #


 小刀が貫いていた御守りを男の額に当てると、憑依していた一匹目の犬神の力が御守りの方を狙うのを感じた。司が慌てて部屋の隅に向かって放り投げると、それを追う犬神が御守りに向かって吠えかけているのが目に映る。そこでドアが開き、口論義が部屋に戻ってきた。


「結局あの御守り、なんだったのかしらねえ」

「三猿、だと思うよ。多分あの中には〝申〟って書かれた紙が入ってるだけ」


 口論義の問いに司が答えると、部屋の壁にもたれてうつむき、首をとんとんと手刀で叩いていた踊場が(どうやらさっきドアが開いた時に鼻を打ったらしい)興味深げにうなった。


「ふうん。どこかの民話で似たような話の憶えがあるね。山から下りてくる猪に農作物を荒らされて困っていた村人がある高僧に対処をお願いしたところ一枚の紙が入った袋を貰い、『中を見るべからず、これを畑に掲げるべし』と言われるんだ」

「あー、それから猪が来なくなって、不思議に思った村人が袋を開けると中には〝戌〟って書かれた札だけが入ってるだけ。そんで開けられたことで効力が消えたからまた猪が来るようになった、ってやつよね」

「犬猿の仲、ってよく言うもんだし。囮として狙わせるために持たせてくれたんだと思う」


 ついでにこれは御手洗の遊び心だろうが、犬神に先ほどぶつけた際に発した効力から三つの御守りは「見ざる、言わざる、聞かざる」に則り、それぞれ目、口、耳を封じるものが入っていたと推察された。


「三枚のお札、の昔話なら全部使ってようやく鬼婆から逃げおおせるって運びだったがな。二枚で済むとは大したことがない」


 登場の際に投げた風車を片手の中で回しつつ廉太郎がぼやいて、視線を床に滑らせる。その先で倒れ伏していた男が正気に戻ったのか身震いして、のっそりと起き上がる。その際に床に手をつこうとしてぎゃっと奇声をあげ、指先の痛みに驚いた様子だった。

 次いで、自分が司たちに囲まれていることに気付くと、ますます慌てた表情を見せてあとずさる。ドアの近くまで尻を擦るように後退して、自分の置かれている状況を理解しようと努めた。


「……さて、そんなわけで本日の主賓が目を覚ましたようですが」


 立ち尽くす司の横で女の子座りしていた小野が言うと、全員の視線が一挙に集まる。野太い声で反応した男は、声音も困惑の色に染まっていた。


「……うぇ? ああ? な、なんだ、おまえら、なんだ……」

「いやどうも初めまして、犬神使いさん。わたしたちはあるお祓い屋の一門に所属する者でして、本日はあなたの使役していた犬神を祓うために参上した次第です」


 さらっと大ウソをついて微笑んだ口論義には疑念しか抱けなかったのか、目を白黒させながら男は司たち四人の顔を見比べる。だが誰もが男に対しては冷やかな態度を向けていたので、結局は会話を続けている口論義に視線を戻すこととなる。


「い、いぬがみ? 使役? なんのことだ?」

「またまた、おとぼけになって。……あなた以外で、いったい誰が隣の部屋で犬を餓死させたというんでしょう。それに隣の部屋だけじゃない。最近、森林公園でも同じことをしたはず」

「知らない……俺はただここに住み着いてただけで、」

「いいんですかそんなことを言って。――また、取り憑かれますよ(、、、、、、、、)?」


 口論義の一言で、男は身をすくませた。口にはせずとも、行動が饒舌に語る。

 憑依。それはまさに、人の形をしたけだものであり、ばけものであり、かみつき、ころす。

 二件目の被害者に口寄せさせられて司が知った状況と、符合する。


「……一件目はたぶん、本当に積もり積もった怨恨とか、そういうことでやったんでしょ。でもあんた、二件目から先では怨恨ですらない、保身と独善のための殺人をしてたんだ」


 司に断言されて、男は口ごもる。けっして目線を合わせようとはせず、床を見ながらぱくぱくと口を震わせるだけ。

 男を無視して、司は二件目以降、サワハまでに起こったこの一連の流れの、真相を語る。


「言葉は力だよ。自分で意識して信じて口にすれば、言霊が載って現実に還元される……二件目は、犬神にやらせたものじゃなかった。けど、確かにあんたがやった。さっき小野たちを襲ってた時みたく、犬神に取り憑かれて(、、、、、、、、、)噛み殺したんだ」


 そして、突然に憑依状態になった原因は。


「人を呪った自分の弱さを、受け入れられなかったから。本当に呪いが実現したことで……あんた、怖気づいたんじゃないの? そこに、運もタイミングも最悪なことに、あるマッサージ店の店員が仕事中に声をかけたんだ――『お客さん、つかれてますね』って」


 疲れてる。つかれてる。憑かれてる。

 先の、見ざる言わざる聞かざるにも似た、ただの言葉遊びだ。けれど大きな不安を抱えていた人間にとっては、これ以上ないほどの爆弾にも似た言葉である。心のどこかにあった、自分も犬神によって害されるかもしれないという恐怖感が、人を呪わば穴二つという教えが、この言葉で浮き彫りにされてしまった。

 そしてその恐怖をなぞるように、男は口にしてしまったのだろう。「憑かれてる?」と。


「だから、二件目の被害者とマッサージ店の店員であるところのサワハさん、この二人の間にあった共通点は『最近恨みを買った』ってところしかなかったんだよ。まあ、逆恨みにもほどがあるけどね。そしてそのあとサワハさんが襲われるわけだけど、これの前にあんたもう一度、人を襲ってる。いや、襲い直した」

「……一件目の被害者、その幽霊、ね」


 口論義の言葉に司はうなずく。そう、それゆえに、司が訪ねた際、一件目の現場には幽霊も何も残っていなかったのだ。先ほど、二件目の現場で被害者の幽霊が掻き消されてしまったように。犬神に襲われて、現世から消え失せた。


「つまり、呪い直したんだね。二件目の際に一瞬だけど憑依されたのは、自責の念に駆られて自分を恨み呪ったからだ。そこから今度は呪い直して、一件目の被害者に……おそらく、『お前を呪うことがなければ』とか身勝手なことを思って、怨念を飛ばした。それに応じて犬神が動き、自分から離れた。その事実を知って――恨み続ければ、自分が取り憑かれることはもうないんだ、とか思ったの?」


 小刻みに首を震わしかぶりを振る男は、もう言葉を語ることはなさそうだった。部屋全体に響き渡り隣の小野がびくりと跳ねるほど大きな舌打ちをした司は男に詰め寄り、


「甘えない方がいいよ。まだ生きてて、誰かに関われるくせに、呪うとかね」


 ささやいた。


「生きてるくせに――おこがましい」


 がくりとうなだれ伏した男は、もう抵抗する気力も、反論する言葉も、持ちあわせていないようだった。


「……さて、解答合わせはほぼ正解だったみたいだし。あとは必要なことだけ聞きだして、しかるべきところに引き渡そうよ」


 ころりと態度を変えて小野たちに向き直った司は、いつも通りの呑気な表情でポケットに手を入れ、あくびを噛み殺した。

 司の態度の豹変ぶりに少し驚きを隠せていなかった口論義もその一言で我に返り、ああ、と嘆息を漏らして男に近付いた。憔悴しきってうなだれる男には生気が感じられず、人を呪わば、という言葉の意味を真に迫って感じさせられる様相を呈していた。

 それを見て、こうはなるまい、とその場の誰かが心中で決意を新たに引きしめた。


「……じゃあ、いくつか質問を重ねさせてもらうわよ、犬神使いさん。まずあなたがこうして犬神を使役しようとしたことについてだけど――」


 問いに移ろうとした時、ぎぎい、ドアが開く。

 この部屋のドアはすでに開いている。開いたのは、先ほど口論義が踏み込んだ、犬神作成のために飢え殺された犬の遺体がある、隣の部屋のドアだった。そこから流れ出てきた嫌な臭い、第六感の働きに、ぴくりと反応したのは司だけではなく。

 御守りを執拗に攻撃し続けていた犬神が、ドアの向こうに宿る深淵なる闇を凝視している。だが司も、誰も、そのことには気づかず。奇妙な事態に首をひねって、肝心の犬神使いからも意識が離れた。


「ポルターガイスト、ですか?」

「いや……」


 小野の問いかけにどう答えたものか司が迷っていると、口論義がよろけた。

 犬神に突き飛ばされ、尻餅をついた。同時に、犬神使いの男の首筋が、潰した果実の汁が飛び散るように辺りへ血を振りまいた。


「あ……」


 という声はその男の最後の悲鳴か、それとも状況を把握するにいたったその場の誰かのつぶやきか。司が抜き放った小刀を振るって犬神の左目を切り払った時には、男の瞳孔が開きはじめていた。傷は気道よりも頸動脈の方が深いらしい。


「いかん、このままじゃショック死するぞこいつ!」


 廉太郎がハンカチを取り出して傷口にあてがうが、その程度で止まるものではない。血だまりが拡大されるにつれて男の命の鼓動が小さくなっていき、ひくひくと頬が痙攣して、男は恍惚とも絶望とも取れない奇妙な表情を残したまま、その命を終えようとする。

 司はその脇を通り抜けて小刀を構えたまま隣の部屋に飛び込み、突き刺さるような西日を避けるべく片手で目を押えた。そう、西日。堅く閉ざされていたはずの雨戸の一部が開いており、そこから誰かが逃亡したあとがあった。窓際に寄って左右を見ると、雑草の海の中、右側の表通りに面した方向へと誰かが通った痕跡が残る。


「待て、待て、ちょっとっ!」


 草むらを掻き分けて壊れた門扉の外へ抜けるが、夕闇に包まれる住宅街のどこにも、人影は見えなかった。なおも走りだそうとして、姿すら見ていないのだから視認してもそいつが逃走犯だとはわからないことに気付き、立ち止まる。


「逃した……」


 手近な位置にあった壁を殴りつけ、司は夕闇に落ちる住宅街の中、ひたすらに悔しさを噛みしめた。

 どこかで、犬の遠吠えが聞こえた。


        #


「……や」

「どうも」


 なんとなく、昼食を取る場所としてぶ室に立ち寄っていた司は、同じようにここを訪れた小野に片手をあげて挨拶した。いつもの席、つまり司を下座として向かいに座った小野は、購買で買ってきたと思しきサンドイッチの封を開けつつ器用に片手でお茶を淹れていた。


「こっちにも一杯もらっていい?」

「どうぞ」


 相変わらず二人だけだと会話があまり続かず、なんだかなあと思っていると、小野が両手で抱えたサンドイッチをちまちまと食しながら司を見た。おにぎりの合間にかじっていた沢庵をぽりっと音を立てて食べた司は、飲み下してから、残っていた一切れを「ほしいの?」とつまんでみせる。


「いえ、そうではなく。しばらく昼に集まったりはしないとお話があったのに、なぜいるのかと思いまして」

「……なんかいてほしくなかったみたいに聞こえるんだけど」

「け、けっしてそんなことは」

「いいよいいよ、出てって侵入禁止の屋上で食べるよ……」


 のそのそと腰をあげかけた司を押しとどめようと、小野は両手を突き出して座るようジェスチュアで示す。半分以上冗談だったにもかかわらずそこまで必死になられてしまうとむしろ罪悪感が芽生えて、再び座った司はアルミホイルに包んだ自家製の沢庵をすすっと小野に勧めた。断るのも失礼だと思ったのか、おとなしくそれを口に運ぶ小野。サンドイッチの付け合わせとしては正解だった気がしないのだが、意外と気に入ったらしく頬をほころばせる。


「だいたい、それを言うなら小野だってわざわざここに来てるわけで」

「お茶を淹れたかったからですよ」

「あ、そう」

「はい」


 途切れた会話の合間を縫って、もっくもっくと食事を進める二人。短い付き合いだがもうそうした空気にも慣れてきたようで、以前感じた居心地の悪さは司の方には無くなっていた。

 小野はどうなのだろう、とちらりうかがってみるが、偶然にも目が合ったためバツが悪くなり結局確かめることなく目を逸らす。黙々と食べ続けて、おにぎりがなくなると司は湯呑みに手を伸ばした。空だったそこに、すかさず小野が緑茶を注いでくれる。


「あ、どうも」

「いえ、どうぞ」


 息を吹きかけてから口の中に流し入れ、ほうと深く息を吐く。正直、傍から見ていたら老境に入った二人組にしか思えないだろうなあと客観的な視点を持ってみたりする司だが、唐突に小野が口を開いた。


「先日の件は、残念でした」

「犬神使いのこと?」

「はい」


 心底惜しそうに言う小野は、自分のマグカップに手を添えじっと水面の波紋を見つめていた。司は湯呑みを置いて、今度は自分で急須を傾けつつ、小野に言葉を返す。


「仕方ないよ。あれはたぶん、追いかけたけど捕まらなかった、あの逃亡犯が呪詛返しを行ったんだ。いや、自分に来たものを返したわけじゃないから……むしろ、在るべき形に、犬神が最も恨むべき対象であるはずの犬神使いの方へ、力の道筋を正したって方が正確かも」

「結果、使いは死に絶え。残されたわたしたちはまた手掛かりを失ったわけです。本当になにもかもきれいさっぱりと」

「みんなも続いて外に出てきて、それから部屋の中に戻ったら、犬神使いの死体も、血痕も、犬の遺体も、こつぜんと姿を消してたもんね」


 異常な事態ではあったが、受け入れざるを得なかった事実。司たちが部屋に戻ると、全てはなかったかのように、夢幻のごとく消え去っていた。唯一残っていたのは廉太郎が止血を試みて血に浸したハンカチだけで、そこに染みついた血痕だけが現実の出来事である証左だった。

 ちなみにその死体消失も先ほど述べた逃亡犯による仕業ではないかと司は疑っているのだが、当然真相を知る術は無い。


「異界にでも呑まれたのでしょうかね、あの呪術師は」


 小野は溜め息でマグカップの表面を満たす。その溜め息に込められた感情はひたすらに失望や侮蔑を表していて、どこか寒々しい。

 死者が出たことよりも手掛かりの方が重要なのかな、とは司は口にしなかった。


「……小野の最終目標ってさ」

「はい」


 代わりに気になっていたことを問う。あの日、喫茶店で向かい合って今のように話していた時。司は小野の中に、一種の危うさを感じた。それはこのように寒々しい感情の発露で、司の気持ちを底冷えさせる、他を塗りつぶそうとする黒い感情の脈動のように思われた。


「――もしかしてだれかを、呪うことだったりするの?」

「ちがいます。あの日も言いましたが〝呪う〟のではなく〝呪い返す〟のです」


 左手で右腕を押えた小野はあっさりと、そしてきっぱりとそう返した。そしてまっすぐに司の目を見て、ひるむこともくじけることも無さそうな目で、堂々と問うた。


「軽蔑しましたか」

「べつに……。覚悟があるならだれでもやると思うし。止めないし勧めないよ」

「一番、ずるい物言いですね」

「ずるくない生き方をする必要性も必然性も感じないから。ただ、ひとつだけ言っておくと、呪いが実現して小野の思念でだれかが害されたってわかったら……小野のことは嫌いになると思うよ」

「どうぞご自由に」


 不敵な、傲岸不遜な、作った真顔で斬って捨てる。司が本気でそう口にしているとわかっていてなお、小野は揺るがなかった。

 それは犬神使いの末路を目にすることで、未来図が正確に描けるようになったからかもしれない。人間にとっては、既知のものよりも未知のものの方が恐怖、あるいは脅威に感じるものだから。現実を見ることで、むしろ吹っ切れるきっかけとなったのか。

 もしくはあの悲惨な末路を以てしても、小野には「この程度か」という印象しか与えられなかったのかもしれない。そう考えて、司はすこし残念に思う。

 だが何を残念に思ったのか、我がことながら判然としなかった。ただ思考ではなく感情として湧き出たものだったので、五秒もすると忘れてしまった。


「まあでも、今は……いいや」


 つぶやいて、お茶をすすった。

 すると部屋のドアが開いて、ひょっと黒い毛先が現れる。天を突くような、バレッタで止めて毛先を空に向ける髪型はなんだかパイナップルの葉を思わせて、司は少し笑えた。

 髪の主であるサワハはドアの陰から目だけをのぞかせて、水平にきょろきょろと移動させて小野と司を交互に見る。そして何事か自己完結したのか。一言を残して、す~っとゆっくり消えていった。フェードアウト、と小野がつぶやいたのが聞こえた。


「……おう、わたし邪魔だたカナ? あい、お二人サンごゆっくり~」

「ごゆっくりじゃないだろサワハ。良からぬことをしてたわけでもあるまいに、なぜ俺たちが引かなくちゃならないんだ。……いやむしろマルドメと(まさかり)(ひめ)の方が良からぬことをしてたかもしれんか。空気読めなくて悪かったな、帰るわ」

「ホント今すぐ帰ってください。あとそのあだ名やめてください」


 言い合いをしながら、サワハと廉太郎が部屋に入ってきた。彼女の手首、足首の怪我はもうすっかり癒えたようで、ばたばたとぶ室の中を駆け回る元気があった。廉太郎は席につくとどこからか大福を取り出して皿に並べ、時折「埃が立つ」とサワハに注意を飛ばす。

 そこに、「暑くなってきたから」という理由で最近はジャージを中に着込まなくなった口論義も現れ、なにやら呆れたような笑みを浮かべた。


「なぁに? 結局みんな集まってるの?」

「おお会長も来たのか。人数分大福を用意しておいてよかったな。おいサワハ、一応お前の快気祝いだ、なんか言っとけ」

「ん? エート……ご迷惑たくさんいっぱいおかけしましたネ。今は元気ヨ、心配ないない」

「ほほうそれは重畳だ。僕の方も噛まれたケガは癒えたのでね、ようやく左手に包帯などというありがちなキャラ付けから逃れられたよ」


 ふっといつの間にか廉太郎の背後に立ちつくしていた踊場は、大福をもぐもぐとほおばりながら廉太郎の頭の上で頬杖をついた。うっとうしい、とはたき落とされるが大福はすでに口の中で、五個並べてあった大福は四個に。


「……おい踊場ぁ、テメエなに突然現れて大福食ってやがる」「きみは人数分あると言ったじゃないか」「テメエの分を俺が頭数に入れてると思ったのか?」「いや自分の分を数えていなかったのかと思ったのでね」「どこまで馬鹿だと思ってるんだ」「馬鹿だと思ってるわけじゃない、馬鹿にしてるだけだよ」


 ロクでもない上にしょうもない、上級生だろうかと疑いたくなるような会話を繰り広げる二人を見て司はなだめに入るかそれとも放置して楽しむか判断をしかねる。小野は静かに騒ぎを見ているだけで、止めるも放置もなく無視の意向を示している。口論義とサワハは茶々を入れていじりまわし、やがて二人がそれに憤慨して。

 騒々しくも〝普通〟の学校生活に戻ってきたのだなあと、司はひそかに笑い。


「まあ今は、それで」


 つぶやいて、二人をなだめに入ることにした。




          犬神使い編:終




Name:「俺の名は、あ『廉太郎以外に名乗るべき名はないよ』by踊場

Hobby:掃除・倉内流の鍛錬・和菓子作り

Weakness:グミの実

Specialty:中指が第一関節だけ曲げられる

Skill:〝回天竺オートジャイロ〟じつは今回の話に登場済み。この技名と、作中描写の中でどこかおかしい点に気づくと能力がわかる、かもしれない。

Notes:会員の能力名は全てこいつが名付けている。



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