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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
粛生の理編
37/38

終題 「想い思えば呪われて」とだれかが言った


        #


 気がつくと、司は元の廃墟の二階に戻っていた。


「え? あれ、どうし、って」


 ずきりと頭痛が走り、視界がぼけた。かぶりを振ってあたりを見回すと、なにやら、様子がおかしかった。


「これ……なに、なんで、負の気が」


 呆気に取られて、左右に首を振った。だが止まらない。ずるずると、すするように。あるいは、どこかで栓が抜けたように。

 廃墟に満ちていた負の気が、どんどんとその量を減らしていた。待ってくれ、と思い、量が減るのに反比例して、司の心中に焦りと戸惑いが吹きだす。瞬きを繰り返す間にも減り続け、慌てた司は歪みを探すが、もうどこにも痕跡は見当たらなかった。足下で割れるガラスが、夜闇から注ぐ街灯の光を乱反射するばかりで、もはや霞ほども負の気は見つけられなくなっていた。

 代わりに、頭の中に重みが増した。うぐ、とうめき、かしいだ身体をそのままに身を横たえて、司は気づく。牛蒡種は、場や人から気を吸い取る、そういう性質の淨眼だと。


「ああ、やらかしちったよ……瞳に集めた気で、流出点じゃなく、歪みのほうを作っちゃったんだ。それで、帰ってきちゃったのか……」


 目の前を、負の気の霞、最後のひと欠片が漂う。自分の浅慮を恥じて頭を覆った司は、しばし考え込んでから、他の歪みを探さなくてはならないことに行きあたる。候補地に踊場があげてくれたポイントは、もうすっかり忘れてしまっていたし、プリントしてもらった地図も一般のものがあれば必要無しと判じて宿に置いてきてしまった。

 結局振り出しか、と思いつつ立ち上がろうとして、足下に目を落とすと、さっきの霞はまだ残っていた。そして、司に見つめられて消えた。どうやら、司が目を閉じていれば、気を吸い取ることはないらしい。一旦安堵を得ることはできたが、けれどこの眼が、どれほど危険なのかはだんだん理解できてきた。


「……まいったな。どう移動しよう」


 人に遭遇するたびに、気を吸い取って昏倒させてしまう可能性すらあった。これほど広く、多量の気を蓄えていたこの廃墟からすら、ものの数分で気を吸い尽してしまったのだから。一般人に遭遇でもしたら、危険にすぎる。

 とりあえずは応急処置として、直接に他者を視認することがないよう、バッグから取り出した黒い無地のハンカチを、ガラス片で斬って細長くし、目の周りに巻いた。幸い生地が厚いものだったため、透かしてみえることはなかったものの。目を開けているだけでも危険なことには変わりないので、まぶたを降ろす。ついでにフードも頭にかぶって、ひとまずだれかを目に入れることはなくなった。

 あとは、だれかに遭遇しない夜のうちに市街地まで移動して、タクシーを呼ぶ。本当に、人に出くわさないといいなあと願いつつ、おぼつかない足取りで司は階段へ向かった。気の流れがあれば、普通の視覚に頼らずとも多少は周りを知覚できるのだけど、などと考えて、おそるおそる足を踏み出す。

 ガラス片のひとつが、ざり、と音を立て、司の一歩を受け流した。しまった、と思い、受け身をとろうと両手を下へ突き出し、着地の衝撃に耐えようと、目をつぶる。


「――っとお、危なっかしいなお前」


 だが司を支えたのは、硬い階段の感覚ではなく。

 大きな、廉太郎の両腕だった。


「遅かった、か。もう、その様子だと牛蒡種は」

「手に入れちゃったのね」


 続く声は、踊場と口論義。みんながいることに気づき、けれど気持ちをうまく言葉にできず。司が戸惑っていると、廉太郎に地面に運搬されてから、だれかに肩を叩かれた。


「マルドメくん、油断するだめヨ。ゴールデンウィークのときも同じだたね」

「……レンズか」


 汀たちのいるホテルへ忍び込む際、司の身体につけられたレンズ。喜一と小野の分は使ってしまったが、司に付着させた分は、まだ使っていなかったのだろう。

 からからけらけらと笑いながら、サワハは司と肩を組んだ。目を開けるわけにはいかないため表情はうかがえないが、声音が低く、司の耳を這いまわるようにつむがれた。


「あの森、あの町が、梁渾いうところなのネ。んで、いま持ってる櫛が」

「……まいったな、そこまで見つかってるんだ」

「ワタシの眼、けっこう遠くまでみえるのよー。……見守ってるノね、みんなを」


 見つめられている、気がした。やっぱね、と呆れ混じりの苦笑を浮かべて、司はしっかりと背を伸ばす。みんながいる、と思しき方向へ向いて、見えないけれどそこにいる、そこにある、確かなものと正面から相対した。


「みんな、ごめん」

「……謝る必要があるかは、わからないがね。神代のときのことで、きみが憑物筋について知っているとわかっていた僕らも、止めることはなかったのだから。……牛蒡種、手に入れてしまったのだね」


 そう。

 牛蒡種は、既に丙から失われていた。ゆえに、さまよう水子の依代よりしろとして燎原之火という焔の異能にて廉太郎、踊場と対峙した際、また現在宿で司たちと対面した際にも、生気を吸い取るようなことはなかった。

 ある手順を踏むことで、牛蒡種は、その筋の者から外すことがかなうのだ。しかしそれでもなお有り余る力持つ高位の異能であるために、力をへその緒に分け封じられていたときでさえ真取眼が歪みや異界を察したのと同じく、異界の向こうの異界――黄泉への流出点の見極めくらいはできたのだろう。


「……この力を手にしなきゃ、いまの真取眼じゃ戦えない。だから、仕方なかったんだ」

「そのために視覚を犠牲にするとは思わなかったが。まあ、いい。きみの選択だ……冷たいことを言うようだけど」

「やだな、冷酷なこと言いながら、そんな顔しないでよ」


 司が言うと、踊場は慌てふためいた様子で、よくわからない息の呑み方をした。大丈夫見えてないよ、目開けてないよと声をかけると、心臓に悪い、などといじけた声音で言い返してきた。口論義が少し、吹き出した。


「付き合いなが……くはないけどさ。濃い、付き合いだったもんね。この四カ月と少し。声聞けば、だいたいの表情くらいは、わかるくらいに」

「そういう、ことかい」

「うん。だからなんとなく、わかってた。たとえ私が一人で梁渾に行って、戦おうとしても。どのタイミングかはわからないけど、きっとどこかで、みんなが来るんじゃないか、って。みんなの来る理由はよくわかんないけど」

「来るに決まってんだろ、司。小野がさらわれたまんまなのだぜ。たとえお前が一人で行こうと、むしろ逆にお前が頑として行こうとしなかったとしても、俺らは行くさ」

「小野がそれを望んでないとか、七無についていったことで目的を達しようとしてて、自分が正しいと思ってても?」


 口論義に投げかけられた言葉で、みんなを試してみた。間をおかず、全員が話しだそうとして、顔を見合わせたような間があり、譲り合ったのか一人ずつ答えた。


「あいつは状況がよく把握できないまま、連れ去られてんだろ。なら正しい判断だと思い込んでるだけの可能性もあんだろが。まず行ってみて、話して聞かせてやってみろと言う。持ってる情報とかがイーブンの状態でなきゃ、そもそも始まってさえねぇよ。だから、行くんじゃねぇのか」


 廉太郎は、いつも通りの単純でまっすぐな回答を出した。

 まっすぐすぎて、平等で。でも芯がある。


「僕はそもそも、正しいことなんてあるのかと疑っている。いまの行動の結果がいま出るわけではないし、僕は間違っているのかもしれない。でもずっと先のほうで、本当に正しかったと実証されたとしても、現代においては害悪でしかない場合だってある。少なくとも反魂計画は、社会に大きな波紋を呼ぶだろう。七無は半世紀も前から先を考え過ぎて、目先の迷惑を顧みなさすぎだ」


 踊場もいつも通りの、懐疑的で、自問的な回答を出した。

 自分を疑い、他人を疑い。でも誰をも否定はしない。


「ワタシはよくわかんないのコト。幽霊視えないし、死人に逢いたいの人もいないしねー。でも生きてる人は逢いたいヨ。小野ちゃんと、また逢いたいネ。みんな揃って遊ぶする、ごはん食べる。サワハはそんだけでいいのよ」


 サワハもいつも通り、即物的で、俗っぽい回答だった。

 のんびりと、ただ今だけを見ていて。でも地に足着いている。かもしれない。


「……あたしも踊場に賛成だわ。なにが正しいのかなんて、わかんない」


 口論義も、いつも通り。

 何事もひと任せで、他者の言葉を借りて、自分を押しつけることもあり、


「だけど正しさより大事なものがあると思いたい。それは、ぶつかることを厭わない意志だと思う。あたしは……折れかけたけど。もう一度、親とぶつかってみる。相手の正しさを屈服させるのが本当の正しさってわけじゃない。ぶつかりあって、互いを知って、いいとこは認め合って、でも妥協って言わせないだけの、互いの納得をつかみとりたい。いまの小野ちゃんにも、納得が足りてないと思う。だから、行きたい。一緒に、行きましょう」


 でも頑張ってきた。みんなが知るほど、努力してきた。これからも、そうすると宣言した。

 だから行ける。司は、これでいいと思えるだけのちからを持つ、自分だけの正しさを、みんなの言葉で手に入れた。視覚が思うようにならなくとも、平気だ。


 だれかとの繋がりがあれば。歩いてゆける。


「じゃあ――ちょっとだけ、力を貸して」



        #



 終題 「想い思えば呪われて」とだれかが言った



        #



 暗闇、と言う他ない。目を縛っている司には、昼も夜もない。なんだか拉致監禁されにいく途中みたいだ、なんてことを考えながら二台のタクシーに六人で乗り込み、夜の街を駆け抜けてホテルへ辿り着く。

 結局、この近辺で使える歪みといえばあとはここくらいで、決着にはここがふさわしいだろうとの判断だった。見えないままにサワハに手を引かれて移動し、ちょっとした障害にも蹴つまづくためになかなか進まない足取りで、なんとかホールまで歩んだ。


「じゃ、行くぞ」


 廉太郎が扉を開け――そして全員がどよめく。なにがあったのだろう、と立ち込める気に知覚する範囲を広げながら探ると、奥にひとつの気配があった。


「案内するよう仰せつかって参りました」


 奥から響く声で、汀が言う。口論義が歯噛みするのがわかった。こつこつと近づく足音に、廉太郎が構えをとったのか、細かいステップの音が断続的に連なる。


「そう怖い顔をしないでいただきたいね。案内だけです、私の役目はね。というより、もう他にすべきこと、やれることもないのですよ。ことここに至っては、絶対に覆りません」

「汀……あんたは」

「おや口論義さん。ご両親は梁渾にて新しい娘さんとお待ちですが、四人で団らんしようといらっしゃったのですか。家族仲睦まじきことは良きことかな。歓迎いたしますよ」


 にこやかに言ったのだろう。醜悪なる汀の言葉み耐えきれなくなったか、口論義の短い嗚咽が聞こえた。胸糞悪くなって司が反吐をはきそうになっていると、廉太郎が進み出た。味方であることがわかっていなければ、すくみあがってしまいそうな威圧感をまとって。


「絶対に覆らない、か。家族は調和とれててしかるべきだが、予定の調和ほどつまんねえもんはねぇよ。……とはいえ、戦る気のねぇ奴相手に意固地になってもしゃーないか。ここはひとまず、拳を収めるとしよう」

「おお、そうしていただけると助かります。ではこちら、」


 などと案内する穏やかな声が途切れ、声が遠ざかり、床を転がる衣擦れの音がした。


「――なんていう平和的な予定調和もつまらん。お前がするのは案内じゃねぇ。この俺に、拳で脅されて七無のところまで連れていかれる、人質役だ」


 歩み寄ったか、素早く廉太郎の足音が遠ざかる。首根をつかんで抱え起こしたか、むせながら汀が鳴く声を発した。


「か、っは」

「絶望したか?」

「い、いいえ。なん、とも」

「そうか。これから俺たちに計画を潰されて、存分に絶望しろ」


 あのときホールに踏み込んだ際、汀とした問答をここで持ちだしてきた。廉太郎が汀をつかんで担ぎあげでもしたのか、汀の声が床からずいぶんと高い位置にまで移動した。

 笑い声も上がる。


「……は、は。ははは。あなたがたに、私たちの絶望の、なにがわかると、いうのですか。絶望など、とっくのとうにし尽くしています。だからこそ、我々は反魂にすがり、」

「てめっ」

「お前のくだらない身の上話に興味はないよ」


 廉太郎をいさめるように、踊場の言葉が響いた。汀は声をあげようとしたが、


「自分の不幸にまみれて周りの不幸が見えなくなっているような奴に、なにもできはしない」


 踊場が遮った。汀は少しだけ沈黙し、せき込んでから、笑みを強めたような気配があった。負の気が、少しだけ減った。


「できて、いるではないですか。現実を認められないのですか? 私たちと同じ考えを持ち、反魂に至る道を開くべく、この慈雨に属した人々。あなたの言葉は、その方々の否定でもあるのですよ?」

「僕はだれも否定する気はない。お前以外はね。慈雨のように自己の幸福を否定する思想とはちがうのさ。そもそも慈雨はお前が――そうお前が。自分の傷を認められず、他者の傷を眺めることで満足するべく生み出しただけではないのかな」

「なにを言っているのやら」

「得難き幸福を忘れなさい。など、大層な言葉に置き換えてさも物知り顔で他者の救済を掲げるように見せかけたものだが。所詮はただの酸っぱい葡萄だろう? お前が得られなかったものを他者が得るのを見ていられないから、傷ついた人たちを集めた。お前の弱さを露呈させないために、自分より弱者と判じた人々を集めた」

「おやおや、集まってくれた方々を弱者呼ばわりですか。己にも弱きところはあるでしょうに、目を背けているのはどちらさまですか」

「……感情が見えてきているぞ、汀。そうだね、超越者や上に立つ者は簡単に感情を見せない。大衆に流されない孤独で孤高な強さを見せつけるためだ。よく勉強して身に付けたものだね。だがいまお前は単に、孤立しているのだよ、汀。大衆の前でなければ、高校生相手でも虚勢を張れないのかい」


 挑発する踊場に、汀は、きっと、笑いかけたのではないだろうか。


「踊場くんと言いましたか。きみは」「『きみは理解していないのですよ、世の中を』とでも言うつもりかい。笑顔で内心の激情を隠して、本気で、自分の力だけでなにかをしようともしなかった奴が、どれほど世の中を知っているつもりなんだか」


 先回りして追い詰め、汀から言葉を奪う。


「お前の不幸など世の中にありふれた些細な不条理のひとつに過ぎないよ。同情はするけどね」

「同情など……私は、我々は、それだけで満たされているというのに」

「同情する。お前は哀れだ。七無にそそのかされて慈雨を始めたのか七無が慈雨に便乗したのかは知らないが、反魂に加担したのも、平等に全員に与えられるものだったから、というだけだろう。平等なもの、つまり自分にも降り注ぐ幸運にしか感謝しないのかい。世界はこんなにも、こんなにも素晴らしいものに満ちているのに、棚ぼた以外は見えていないなんて。心から、同情するよ」


 汀は黙る。まだ笑顔は消えていない、だろう。けれど。


「そして沈黙する。お前は語らずいることが賢人と見られる素養だとでも思っているのかい。そういうのはこんにゃく問答よろしく、最初から黙っているから効果があるのだよ。さんざん反論しようとした挙句の沈黙は論戦においては敗北宣言にすぎない。ああ、でも、大丈夫か。お前が黙っていても、あとから七無が反論をしてくれるのだからね。助けを待っているのかい、いい大人が」


 汀は黙り続ける。笑顔は、どうなのか。少なくとも、負の気は濃度を増し始めていた。


「よその葡萄を酸っぱいと貶めるだけでなく、虎の威を借ったつもりか。……どれだけ狐が好きなんだい、弱者」


 吐き捨てるように踊場が言って、負の気が、あたりに満ちた。司はなにも言うつもりなかったのだが、あまりに露骨に負の気が増えたので、「そろそろ歪みが出そうだ」とつぶやいた。全員がそれで事態を察したか、弛緩した空気が広まった。汀からは、余計に負の気しか感じられない。

 嫉妬、か。踊場の言葉は、まさに正鵠を射ていたのだろう。


「……っはは」


 黙りこくっていた口論義が、口を開く。

 声音に、暗さはない。


「ありがと、踊場。……あたしって、しあわせよね。あんたたちに会えたんだから」


 汀へのあてこすりでも、なんでもない。ただ思うままに言葉を口にしただけの、本心のみで一切の虚飾なき言葉。混じりっ気なしの、せいぜいがいまごろ気づいた自分への自嘲を込めただけの、強い思いだ。


「親には、また会って、話そうと思うけど……それと同じくらい、いまはあんたたちを大事だと思う。大切にしたいと思う。だから、行きましょう。小野ちゃんを、迎えに」

「あは、ワタシも会長サン逢えてよかたよ。もちろん、踊場サンとかマルドメくん、小野ちゃんもネ。あとレンタロ」

「おい最後かよ」

「お約束のコト」

「まあそうだな」

「いいのかい、きみはそれで……」


 いつも通りだ。

 ここ数日、ずっとあった閉塞感。全員の間にあったよくわからない意識の流れの隔絶が、ここにきてなくなった。ただ話して、認めあえる、そんな空間。異能があることに悩み続けてきた司が居心地よく感じ、大切にしたいと思った場所。

 でも小野の席が空いている。ここを埋めなくては、本当のいつも通り、は戻ってこない。

 取り返しに行こう。いつの間にかあった、大事なものを。


「じゃ、今度こそ行こうよ。……あんたも、よろしくね」


 少し迷いながらも、輪に入れず戸惑っていた、六人目に話しかける。

 この六人目、丙は流出点の見極めに要すると思って連れてきたのであるが、どうにもおどおどしていた。司の声に返さなくては、と思ってはいるようだったが、なかなか言葉にならず、数秒経ってから答えた。


「わかって、おりますとも」

「頼むよ」


 言いつつ、司の中で丙を恨む気持ちは、消せていない。祖父を傷つけられただけの司ですらこうなのだから、母親を殺された小野など、憎しとの気持ちしか抱けないのかもしれない。

 けれど感情とは別のところで、納得することはできる日が来る、そんな気がする。何年かかるかはわからないが、過失だと認めて、そこで腑に落ちる日はくるのかもしれない、と。


「いこう。小野に、逢いに」


        #


 降り立った梁渾で丙による流出点の発見まで、司たちはしばし歩き回った。汀はもはや負の気を発生させるだけの存在となり果ててしまっていたので、最初に降りた森に置き去りとした。案内役とはなんだったのだろう、と考えたが、とにかくも不必要に負の気を集めてはまた歪みに落ちて戻ってしまうので、邪魔だった。

 落ち葉を踏みしめて、森の匂いを感じて。歩きにくい中をサワハに手を引いてもらい、しばし進んで。穢れに満ちた梁渾は、息するだけでも肺腑に辛い、いやな場所と化していた。手を引くだけでなく肩を借りたほうがいいのかもしれないと判じつつも、懸命に歩いた。


「だいじょぶネ?」

「だいじょぶ」

「辛くなったらおねーさんに言うノよ」

「はは、小野に逢うまで倒れないから、大丈夫」


 サワハは言葉を紡ごうとして、やめて、ふっと軽く微笑んだ気色が感じられた。

 やがて崖がすりばち状に削れた地点までくると、丙が下方に流出点と思しき場がある、と告げた。司も意識を集中すると、下の方から這い上がってくるような、おぞましい穢れの気配を感じられた。


「俺が先に降りてくる。お前らが滑り降りてきたら、うまく受け止めるよ」


 言うが早いかざっざ、と土を蹴りながら廉太郎が降りていき、しばらくしてその足音が聞こえなくなったころ、おーいと呼ぶ声がして、次々にみんなが降りていった。司は最後、残ったサワハと手をつないだまま、あぶなっかしくも斜面を滑り降りた。


「全員きたようだね。では、丙。流出点の正確な位置を教えてくれますか」

「ええ。……流出する一点は、そちらに」


 踊場に言われて、丙がどこかを指す。まだ布を解くわけにはいかない司は、サワハが導いてくれるのを待った。司の両肩に手を置いたサワハが、丙の指差した方へと、ゆっくり一歩ずつ司を導く。先の一歩が見えないままに歩くというのは、足にくる反動や感触を想定できないので、予想以上に疲れさせられた。

 そんな足でなんとか立っている、司の足が留められる。強く肩をつかまれて、停止させられた。


「丙が指差すしてるは、ここね」


 真横から声が聞こえて、そして少し離れた。


「……わかった」


 ずきずきと痛む頭に手をあて、フードを降ろす。頭の後ろにも手をやったが、思ったより強く結んでしまったのか、なかなかほどくことができなかった。見かねたサワハが手伝ってくれて、ようやく、はらりと布が落ちる。


「みんな、離れてるよね」

「ああ、全員きみの背後だよ」「いるぜ」「安心するいいよ」「……お願いね」

「うん」


 心強いと、そう思えた。背という、人間にとって死角となるべき場所を、信頼が守ってくれている。温かな、任せられる存在のあることが、強く、司の胸を打つ。

 どこにいてもいる。みんながいるのなら、背を任せて前に進める。


「いくよ」


 言って、一秒か二秒して……やっとのことで、まぶたを開いた。

 重たいまぶたが開かれると、待っていたかのように即座に、気の吸い取りが始まったが、流出点へ流れるぶんもあるため歪みが構成されることはない。流れは拮抗していて、司の前に暗い点のような、もやのようなものがみえた。手を伸ばし、空間を突き通すように、瞰通す。黄泉路への穴を開けるべく、最後の一言を、頭の中へ思い浮かべた。


「――わが身を憑坐と成して、黄泉路を開け――」


 口にし終えるか否かの寸前で、ど、と音が開けた。流出点が、開いた、というよりも、前に引っ張られる形で流れの中に吸い込まれてしまっただけのように、司には感じられた。拡大していた知覚の範囲が、さらに引き伸ばされて、自分の身体が後方に置いていかれたと思った。身際みぎわを越えた、と知る。


 先走った感覚の辿り着いた先は、暗闇だった。

 目隠しで感じられていたような、温かな闇ではない。本当に行き場の無い、息する場もないような深く濃い質感のある闇である。ふたたび閉ざされた視界がぎゅうと眼球に押し込められたように、痛む。ひどい頭痛がして、また、身の内に急速に穢れが溜まっていくように思えた。

 否。穢れとは――気枯れ。つまり憑坐として有資格者である司が持つはずの生気が、黄泉へ引かれて流れ出しているようだ。これがすべて枯れたとき、実の身たる魂さえ流出して、真の意味での憑坐として空の殻たる身体が生まれることとなるのだろう。だがその座はすでに小野が担っている。


「……術師でもない私が、偽の憑坐にもかかわらず辛うじて踏みとどまれてるのは、牛蒡種で吸収してるからか」


 空笑いが漏れて、上を向くだけの力も生まれた。

 振り返っても、闇だけ。踊場たちの気配は、なかった。危険が待つことを思えばいないことに安堵する部分もあったが、ここからは孤独に進まねばならないと思うと、やはり少々の不安へ心根が傾く。

 千人所引の磐石は除かれているのなら、あとは踏み出すしかない。司は、深呼吸ののちに深淵を見据え、息を止めて一歩を刻んだ。瞬間に、視界が開ける。

 おぼろげな陰影となって、細い坂道が見えた。両脇は鍾乳洞を思わせる岩肌にて、垂直にほど近い壁をそそり立たせている。天は依然として暗い黒の天蓋のままだが、満ちる気の流れが、かすかにだが、道の先から人の気配をにおわせた。


「……待ってて」


 意を決して一歩、また一歩と踏み出すたび、足に茨がまとわりつくように身体が重たくなっていく。鼻をつく、ミントに似たつんとする刺激のあとになだれ込む、熟し切った草いきれのような腐臭に顔をしかめる。肌に触れる、ぬめりの中に刺胞を抱いた泥のようなかゆみと痛みに、頬を歪める。

 第六感が、死の国へと近づくことはまかりとおらないと叫び、悲鳴をあげている。これより先は生者の領域ではないと、体表の感覚へ訴えかけてくる。けれど視界だけが良好で、気の他にはなにも目に映らない。その感覚の差異が、余計に薄気味悪く感じられた。

 長い、長い坂だ。歩けど歩けど広くなることも狭くなることもなく、均一な圧迫感で精神に重圧をかけてくる。薄暗さとあいまって時間の感覚さえおかしくなりそうなこの往路で、小野は、七無はなにを考えたのか。司にはわからない。死者の回帰、その事象の先に思いを巡らしても、非現実感だけが増すばかりだ。


 足を止めて、どれほど来たのかと、振り返りそうになる。だがイザナミの伝承を思い出して、かえりみることに躊躇いが生まれた。あの伝承では帰路で振り返ったがための失敗であるが、往路では果たしてどうなるか。

 たとえそうした制約がないにせよ、振り返れば、気持ちがくじけてしまう気がした。かぶりを振って、前に進む。と、前方に、少しだけ開いた場所があった。岩間を抜けて、小さな広場となっているような場所らしい。近づくうちに広場の全容が、目に入る。

 小走りになって近づいていき、足音を潜めながらうかがうと。広場を埋めていたのは、たくさんの人。すぐに慈雨の信者たちであると気づき、司はばっと視線を下げた。

 だがもう遅かったらしく、広場からどよめきが聞こえた。

 大丈夫か、どうした、などと気遣う言葉がかけられているあたり、牛蒡種にあてられて生気を失った人がいたのだろう。ほんのわずかな時間であったので死に至らしめるようなことはない、と思いたいが、己にできることはない上におそろしくなってしまったため、走って坂を駆けあがった。

 口論義の両親が倒れていたら、などとも考える。けれどそれでは不安がふくらむばかりなので、走ることのみに集中した。


「っは。っは、っはあ、は」


 逃れるべく走り続けて、息を切らし。振り返ることもできないまま、曲がり、うねり、緩急をつけて現れる道をひた走る。次第、気ではなく、白い霧と思しきものがあたりに満ちてきて、司の歩調を緩めた。道が分岐などしていた場合、迷って引き返すことになったら大変だからだ。

 しかし一本道なのか道は分かれることも途切れることもせず、淡々と現れ続ける。司は迷路の踏破方法を思い出し、左側の岩壁に手をつきながら駆けた。霧は濃くなり、五メートル先も見えなくなりつつあったが、気の流れが示す人の気配へと、ただ懸命に足を進めていった。


 坂は、少しずつ傾斜を緩くしていった。同時に岩壁も高さをなくしていき、少しずつ周りが見えるようになっていく。司の身長と同じくらいにまで岩壁が低くなったころ、霧も濃さを安定させ、なんとかある程度の視界は保てるようになった。

 さらに歩調を落とし、やがて止まると、暗い天蓋のおわりが見えた。いや、終わりと形容してよいのかはわからないが、とにかく、天が途切れていた。

 その先も同じように暗く、光のない空間であることには変わりないのだが……広大に、ひろがっているような気がした。ここまで進んできた坂の存在する空間がひとつの箱のようなものだとすれば、この先が、箱の外であるような。境のあいまいになった、空間と空間のあいだにある間隙のようなものを、司は感じとっていた。もうその先には気の流れもなく、質感のある闇は存在しない。空っぽの、果ての無さを思わされた。


「黄泉路を急ぎ来るとはなんの冗談だ」


 声をかけられて、首を下に戻す。霧の奥から響いたうなるような声は、視界を揺さぶるような強烈な声音であった。


「来たらまずかったか?」

「さてな。来る可能性は、考慮していた故。別段支障はない。……しかし様々な儂の呪いの種へ触れていたお前たちのことを知ってはいたが、こうして対面することになるほどとは、宿命の廻り合わせといったところか」


 霧は、待っても晴れる様子がない。痺れをきらした司はかき分けるようにして進み、そして、遭遇する。

 天蓋の下、途切れた闇の向こうまで続く、浅い水面。波がないために鏡のように世界を表す、写し身の風景。その手前で立ち尽くす七無の背中と、白装束で水面へ波紋もなく歩んでいく、この世の者とは思えない所業をなしている、小野の姿。どちらをも捉えて、慌てた司は目を閉じる。

 けれど、七無の声は続く。牛蒡種が、効いていない。


「終極だ、目取真。小野の娘が彼方へ辿り着かば憑坐としてことを成し、向こうとこちらを繋げる。世は死者の念還元されること叶う、新たな条理を迎える」


 悲願の達成にもかかわらず、なんの感慨も湧かない様子で七無は言う。眼を開ければ、こちらに背を向けたまま、半世紀にわたる己の行動の結実を見届けようとしていた。小野の足も、一切止まっていない。


「小野!」

「無駄だ。憑坐と化した娘は、沢より入りて汀へ渡る。儀が完遂されるまで、止まらぬよ」

「だったら……!」


 駆けだして、水の中へ踏み込もうとするが、背を向けたままの七無の腕で押し留められ、投げ飛ばされるように元の位置まで戻された。回り込んで走り抜けようともしたが、途端に腹部に衝撃を受けて、倒れる。なにが起きたのかと確認すれば、霧の中へ消える犬神がみえた。


「また、よんだのか」

「自前の呪術などこんな場では用いることかなわぬのでな。いくども殺された恨みもあろう、犬神はお前をつけ狙う。これも、世の不条理の成せる業だな」

「でも、その不条理を除くためにあんたは、生きてる人を犠牲に……小野の大事な人を犠牲にしたんだろ」

「ああ。罪であろうな。故にこそ、相応しい。これから始まる新たな世は、儂のような罪人を、死者が自ら滅ぼすことが可能となる。死者は生者に対する粛生者しゅくせいしゃとなりて、世を覆う。儂もほどなくして死に至るのであろう」

「そしたらあんたや、あんたみたいに死ぬことになった奴がまた死を呼んで、って繰り返しになっていって、最後には人が絶えるんじゃないのか」

「左様。儂は誰をも死に招くつもりはないが……死者が死者を招く連鎖は続くであろうな。故にこそ、千人所引の磐石があったのだ。しかし千の断末魔と千五百の産声はここで反転する。人々は黄泉へ呑まれる。それでよい、よいはずだ。皆が皆、死を越えて彼方へ歩き去る。わずかに残る恨み受くることなき人間が、常世を回していけばよい。中つ国は人が増えすぎた」

「虐殺と変わらないじゃないか」

「否、これは虐殺とは少し違う」


 司の言葉に答えるべくか、七無はかかとを軸に振り返り、猛々しい相貌を露わにした。刻み込まれた年輪のごとき皺、感情を排して理のみを宿したような面持ちは、正面から向き合うに辛い、人間じみた化け物であると司に認識を改めさせる。


「儂が反魂計画のため数多の命を殺めてきたことをこそ、虐殺と呼ぶのであろう。生者と死者を引き離し、現世に関わる術を奪う所業。だが反魂満ちる世となれば、人々はもはや分かたれることなく共に在ることができる」

「本当にそんなことできるのか」

「……この先の黄泉にとらわれる限り、人は人たる形を保てず、原初の朝霧に混ざる混沌でしかないが。中つ国へと引き上げてくることで、魂は生前の形を取り戻すとわかった。これまで撒いた呪いの種のうち、発芽したいくつかの例にて試験を行ったのだ。お前もみたのではないか? 神代と古川の死霊を」


 さも当然のことであるかのように、七無は言う。だが司には、飛び散る血液と狂気に歪む神代の顔しか、思い出せない。


「……あれが? あんな、死の直前を繰り返し続ける姿が、お前の求める反魂だって……?」

「過去は変わらん。故にこそ罪重なり、決して消えぬ。未来を夢想し過去を蔑ろにしてきた愚者どもには、あの様が相応しいということであろうな。だが安心せよ、奴らのように人生の完結した者どもは、本来黄泉より引き上げられることはない。妄執が完結しておらぬ人間のみが、反魂を成し得て世に舞い戻る。儂の求めるは、それだけの機構だ」

「その先に、なにがあるんだ」

「清浄なる世。有史以来人間の抱えてきたあらゆる罪の清算されし世だ」

「そんな、そんなの。努力して、足掻いて、もがくことがなくなるだろうが……報われない人すべてに報いの機会を与えてたら、だれもまともに生きる気が無くなるぞ!」

「この世に、まともに生きるだけの価値があるか?」


 問いかけに問いかけで答え、七無は司に歩み寄る。二メートルほどの間をあけて対峙し、眉間へ指を突きつける。


「まともに生きようとしている人間がいたか? 考えてもみよ、お前たちがこれまで追ってきた、儂の撒きし呪いの種……発芽させたのは奴ら自身だぞ。生死を複雑に考え、そのくせ簡単に自他の死を願い、行動に移す。……世は、社会という構造は、複雑に成りすぎた。生きることへの真摯な態度を欠如させるに至るほど。自他の幸福でなく、他者の不幸を願い動くほうが、容易い社会」


 言われて、思い返す。これまでの日々の中で、出逢ってきた様々な呪い。

 思いだけで現象に達する呪いの力、などというのはさほど多かったわけではないが。わずかな、七無が行ったような誘惑だけで、容易く人々は思いの道へ走った、と言いたいのだろう。


「通ってきた途上で、慈雨の奴らを見たか」

「ああ」

「くだらぬ奴らよ。自己啓発を通して死者との再会や、自己の安寧を願うだけの集団へ属すなど。思うだけなど赤子でもできるわ。他人をうらやむなど童にもあろう。そこからどう動くかであるはずが、人は抱えた思いに流され、呪いなどという紛いものにすがった。儂には、それが解せぬ赦せぬ」

「なにが、あんたをそこまで駆り立てるんだよ」

「語るつもりはない。儂は儂の身の内にて、議論は終わらせている。逆に問おう、目取真。お前は、なぜかたくなに反魂を拒む。お前も、祖母を失っているだろう。儀さえ済まさば小野の娘も正気にてお前の元へ帰るというのに」


 また、それか、と司は思った。祖母に、逢いたい気持ちはないでもないが。

 それこそ、その話は喜一たちの内で終わっているらしい。そうある以上、真相を暴くことすら、祖母の意志を蔑ろにすることだと、司には思えていた。


「ばあちゃんは、いいんだ。私に知らせようとしなかったなら、そういうことなんだろうから。でも……小野は、だめだ。そんなことさせたくない」

「……儂が言えた義理ではないが、あの娘は、反魂成せば母に会えるのだぞ。それでもなお止めるに足る理由とは、なんだ」

「そこに、呪いがあるからだよ」


 言えば、七無は眉をひそめた。

 七無の言うことは、司も少しわからないでもない。

 死者のように現世に関わる術を持たない人間、あるいは努力し尽くして、もう他にできることの一切が無くなってしまった人間が、最後に寄る辺として用いるのが、呪術、思いの力であってほしいと、考えているから。

 だが、そこに則って考えるのなら。


「いまのまま放っておけば、小野は大きな、数多の人が関わる呪いに、加担することになる。お母さんに会いたいばかりにやった、って言われることだってあるかもしれない。まあ、別にそれ自体はいいよ。本当に、心から欲してやったのなら、仕方のないことだとは思う。私は軽蔑するけどね。でもさ…………まだ小野は、努力し尽くしてないと思う」


 すべてをやり尽くしていない。心から欲する段階に至っていない。

 小野にはまだ早い、と思うのだ。


「だから止めるよ。たとえあんたに騙されてじゃなくて、望んで小野がこの反魂に加担していたんだとしても、止めてる」

「努力し尽くすとは、どこではかるのだ。お前の裁量ではないのか」

「いや、きっと万人に、あんたにも認められる測り方だよ。――寿命が尽きるまで頑張ったあと、さ」

「……それは呪いを認めぬというに等しいのではないか。力なき者は、現世に念を残すことすらできぬのだぞ」

「わかってるよ。だからもし、小野が死んだら、そのときは私が呪う」


 死ぬ日まで添い遂げて、それから彼女の思いを世に還して、


「それも終わったら、私も死ぬ。やるべきでないことをやるわけだから」

「……正気か」

「正気だよ。前は見えてないかもしれないけど」


 それくらい、小野を思っている。

 だから。


「もう時間も無さそうだし、言葉を尽くすのは、やめよう。あんたがどう言っても私はこの考えと言葉は譲らないし、あんたの反魂計画は認めたくない。小野を、連れ戻させてもらう」


 先ほどまでよりずいぶん先へ進んでしまった小野を見やって、ポケットから、小刀を抜き放つ。犬神に対抗するには、やはりこれが必要だと判断した。七無は得物を取り出した司を見て言葉をあげようとしたが、すぐに口を閉じて、相対するように姿勢を切り替えた。


「どうあっても譲れぬか。ならば知れ」


 立ち込めた霧の向こう、七無が動いた。


        #


 霧にまぎれて七無が見えなくなると同時、犬神が司に襲いかかってきた。この霧と気にまかれた状況ではほとんど視認することができず、不意打ちで犬神に押し倒された司は、大きく開いた口が自分の喉笛を狙うのに気づいた。

 すぐさま小刀を開いた喉奥に突きこんで、右腕が噛まれるのも構わずに、膝で腹を蹴飛ばした。真取眼を封じている以上、魂を裂くことはできない。何度も何度も蹴り上げて、あとは牛蒡種の眼でにらみ続けることで、気を奪い取る。しばらくの間はかじりついた前腕に鋭い痛みが走り続けたが、やがて力を失くしたか、痛みが緩むにつれて犬神の姿が薄くなり始めた。


 なんとか身体を起こすが、右腕は使い物になるかどうか。だくだくと血が流れていて、力が入りづらい。血の色や痛みの深さからして、太い血管がやられたわけではないようだが、大立ち回りができるわけではないだろう。小刀は、左手に持ち替えた。すぐさま、水面に向かって走り出す。

 だが後ろからなにかに体当たりをくらい、今度はうつぶせに倒れることとなる。ばしゃんとしぶきが散るが、すぐに痛みにうめきながら身体を反転させると、また犬神がいた。


「二匹目……!」


 考えてみれば、あのときの犬神使いは二体の犬神を使役したのだった。頭が回っていなかったと知り、自分に嫌気がさしながらも、今度は逆手に構えた小刀で犬神の眼球を刺し貫く。痛覚があるのかはわからないが相手はのたうちまわり、それでもなお抉りつけるという行動がもたらした感触に、吐き気がこみ上げる。

 それでも攻撃を続けて、背に腹に続けざまに刺していく。すると二匹目もまた、司の前から薄れ消えた。連戦で息を切らした司は、これで犬神はいなくなったもののまた走り出せば背後から狙われると思い、少し戻って霧の中に身を潜める。七無の姿は、見当たらない。

 やはり、七無を倒さなくては、このように使役されたなにがしかで攻撃を受けることになってしまう。死霊を操っている彼の動きを止めなくてはならない。だが頼みの綱であったはずの牛蒡種は彼には通じず、雲隠れされたのでは司に攻撃の手段はない。どうしたものかと考えながら歩くと、霧の間に人影が見えた。追うと、すぐさま逃れる。


「待てっ……っつぅ!」


 横っ腹にぶつかってきたのは、今度は狐だった。神代のときの、と思い返しながら、じりじりと距離を測る。しかし大型犬ほどもある肉体は俊敏で、来た、と思って司が小刀を振り下ろしたときには、もう懐に入られていた。左の太腿が噛み裂かれ、踏み込もうとした瞬間だったためにバランスを崩す。通り抜けていった狐は、背後からまた隙をうかがう。


「あっ、あっつ、い、いたっぁ、ぐ、」


 熱さとすら感じられる痛みに涙が滲みつつ、距離をとろうと懸命に足を引きずる。

 そんな、獲物が弱った様を見て、肉食獣は跳ねた。連戦で身体が強張り、かつ牛蒡種の使用により穢れを取り込み続けている司は、足下がふらついた。横倒しにされて、右腕の傷口に、再度噛みつかれた。肉の間に針金を差し込んだような、冷たさと痛みが同居して、血の吹き出す感触にとって変わる。


「っあ、あああァ! いだっ、ぃやめろやめろ、やめろっ!」


 小刀で、脇腹に乗っていた狐の足に突き立てる。ぎゃんと悲鳴をあげて離れたが、今度はもう痛みが引くことがない。情けない、と自分でも思いながらぼろぼろと涙を流し、頭の中に助けを乞う言葉や悲鳴の言葉が廻りめぐる。血の流れる足と腕が、冷たくなっていくような気がした。

 這いずって動くと、水辺から音がした。七無か、と思い恨みを込めてそちらを見やるが、姿はない。一体なにがと考えつつもう一度見る。だが視線をめぐらしても、見えるものはない。みえないという恐怖に息が止まりながら、司はさらに這って逃れた。

 と、先ほどまで自分のいた場所に、水気が満ちる。

 水辺から放たれた塊の水が、弾けて広がり溜まりとなっていた。濁り水は地面の土に混ざるが、なんとも言えない臭気を放っている。――人魚だ、と司は気づいた。


「う、あ、あああっ、があぁ」


 ほうほうの体で、なんとか右足だけで身体を起こし、跳ねるように逃げる。岩壁のほうへ、水の来ないほうへと進み、転ぶたびに感じる激痛で叫び、全身が血と汗でべたべたになった。そこに、狐が戻ってくる。ほふく前進のようになっていた司の、今度は左腕狙いか。

 右腕を振って、土と血で目潰しをくらわせる。それで進行方向が逸れた狐の鼻っ面に、今度こそ小刀を叩きこんだ。湿った鼻を切り裂いたおかげか、飛びかかる瞬間の空中で失速した狐は、司の上を抜けて地面に転がった。

 とっさに右足で地面を蹴った司は、狐の上に馬乗りになると、小刀を首筋から脳髄のほうへと刺しこみ、根元まで刀身が刺さった傷口を広げて左手の親指をねじこむ。凄まじい勢いで暴れる狐に幾度となく身体は跳ねあがり、あらぬ方向へ飛ばされそうになるが、鳩尾に背骨が当たって胸に息が詰まろうと、離さない。


 抉り続けるとようやく、狐も犬神のように姿を消した。せき込んで、涙と血で汚れた顔を右手で覆うが、余計に汚れはひどくなった気がした。けれどまだ人魚がいる。危険が去っていないことを自覚しながら、また這って逃れる。そして霧の間から水辺のどこかにいるはずの、人魚を探した。

 七無はどこにいるのか。そもそも、なぜ牛蒡種が効かないのか。血が足りなくなってきた頭で懸命に考える司だが、答えは出ない。なんらかの術によるものだろう、と結論付けた。


「どこに……」


 荒い息遣いのまま、気の流れを読んでおおまかな方向を探る。同時に、左手の小刀を地面に置くと、眼隠しに用いたハンカチを出して、左手と口を使って右の二の腕に縛る。ないよりはまし、という程度に止血され、その間に、七無の方向は壁沿いに右手のほうだと感づく。

 小刀を口にくわえ、左手でバランスをとりつつ、右足で地面を蹴って進む。身じろぎするだけでも痛むようになってきて、いよいよ危ないという自覚はあったが。必死にこらえて、歩みを進めた。やがて、もう痛みで動けそうにないというところに、水音が近づいてくる。地面を這う流れが、自分に近付くのが見えた。


「あ、ああ――――」


 みっともなく泣き晒しながら言って、なお恐怖に押されて動く。すると、向こうから近づいてきたのか、なんなのか。七無が、少し離れたところに姿を現した。


「たす、けて……もう、無理だ、痛い、これ以上は、やめて」


 みっともなく懇願して、司はいまにも飛びそうな意識の中、口から小刀が落ちるのを感じた。七無は小刀を蹴って転がし、その上で司の襟首を両手でつかみ、持ちあげた。かろうじて足は着いているが、首の血管が締まり、喉から耳まで熱い空気が押し出されるような痛みが走る。


「楽にしてやろう」

「あ、かっ、は、あ、」

「さらばだ」


 両手に力が込められる、

 その寸前で司は左手をポケットに入れ、取り出したものを七無の右腋の下へ押し当てた。

 ジジッ、と空気の焦げ弾ける音がして、司の首にもびりびりとした刺激が届く。ばね仕掛けのように腕を折り畳んだ七無は苦悶の表情を浮かべ、そこに向かって、倒れ込む力で司はさらに左手を押しこむ。七無の右足にすがりつくようにしながら、踊場より借り受けていたスタンガンを、七無に押し当て続けた。


「がッ――――」


 司を引き剥がそうとするが、異能の呪術師とはいえ、電流に人間の肉体は逆らえない。ぶるぶると震えるままに動きを止め、そのまま、服が焦げて煙をあげるまで、司はスイッチを入れ続けた。

 あっけなく、気絶した七無の上に乗ったまま、息が整うまで司は黙って待った。使役していた七無が気絶したためか、水辺からは音がしなくなっていた。音、といって気にかかり、這うままに七無の心音を確かめた司は、一応生きていることに若干の安堵を覚えつつ、ゆっくりと七無の上から降り、這って、小刀を拾ってから、水辺へ進んだ。


 小野は、だいぶ先まで歩んでいた。這っていては、追いつけない。悩んだあげくに、司は立ち上がって、あと少しだけと自分に言い聞かせて、痛みを無視しながら進んだ。歯の根が軋み、震え声があがりそうになっても、なお歩んだ。へそのあたりから冷たさと吐き気がこみ上げて、何度もえずく。

 少しずつ深くなっていく水位を恐れながら、無事な手で水を掻いて進み。頭までつかりそうになっていた小野に、しがみつく。氷のように、冷たい身体だった。


「小野、ぉ」


 振り絞った声は、けれど届かない。反応することなく、身体はさらに水底へ引っ張られていく。儀、なのだ。術的な力が働いているのだろう。けれど司にはいま、牛蒡種のほかに使える力はなにもない。


「小野、小野!」


 呼ばわりを続けても甲斐なく、小野は沈み込んでいく。このままでは司も溺れる。どうすれば正気に戻ってくれる、と考えるが、頭の中にかすみがかかり、考えがまとまらなくなっていく。血を流しすぎた、と、自分の周りが真っ赤に染まっているのを見て思う。


「小野……、」


 意識が、沈んでいく。やばい、まずい、と焦り、恐怖に駆られながら、司は拾ってから手に持ったままだった小刀に気づく。意識を、かすみを、除かなければ、と考えて、かつて加良部の事件の際に、自分の左手を突き刺したのを思い出す。


「くっそ、この上、まだ痛いの我慢しなきゃ……ああくそ!」


 薄れる意識の再生を願って、司は左手の小刀を、小野を抱えた右手に刺した。

 瞬間、頭の芯まで響いた痛みによって、一時的な覚醒を果たす。もやに浸食されていた視界が端から元に戻って、一瞬の白黒を経て、また元に戻る。なんとか意識を保てた、と理解しながら、司は小野を揺さぶる。と、小野の眼に、光が戻りつつあった。


「……、ここ、は」

「小野! よかった、意識を取り戻して、」

「痛……あ、れ。つかさ、さん、どうして」


 痛い、という言葉が掻き消える寸前で司は耳に留め、なにが、と考えつつ見やる。

 すると、勢い余って貫いたのか、司の右手越しに、小野の右肩に、小刀が刺さった様子だった。


「あ、ごめん……でも、人魚のときもそうだったけど、九字の刀が、功を奏したのかな」

「わたし、……水の中、ですか、頭が、くらくら……」

「ああ、そうだ。とにかく早く、岸に戻ろう。このまま進んだら、黄泉が開くことになる」


 考えるのはあとにして、ぐったりしたままの小野の肩をつかみながら、懸命に司は戻った。小野の身体は着物が水を吸って重たいのもあるのだろうが、引いても引いても進まなかった。黄泉に引きずり込もうとする意志が、この水辺に存在しているようで、恐ろしくなった司はがむしゃらになって水を掻く。

 足がつく水辺までくると、あとは逆に、小野が動いてくれた。怪我をして動かしづらい左足を浮かせて、肩を借りながら戻る。やっとのことで土の上に来ると、司は大きくひとつ息を吐いて、仰向けに寝転がった。横に寄り添う小野も、荒い息遣いのままに司を見ていた。

 遠く、水辺の彼方を見やれば。渦巻く水が、小野を取り返さんとしているかのように、しばし形を保ちつづけ、やがて消えた。なにがみえたわけでも聞こえたわけでもないが、黄泉への入口が、閉じていくのがわかった。潮が引くように、土にしみこむように、水がどんどん減っていく。


「……わたし」

「おかえり、小野」


 ただそれだけ伝えると、眠りこんで意識が途絶えてしまいそうだったので、司は起き上がる。小野は眼を見開いて、ぐっと唇を引き結んだ。それから、絶え絶えになりながら息をつなぎ、一言の言葉に変えた。


「司さんを、恨んでしまいました」

「うん。知ってるよ」

「思うことは呪うこと。あのとき、わたしはたしかに、呪ってしまいました」

「かもしれないね」

「丙がどれほど憎くとも……司さんとは、関係ありませんのに。復讐の、妄念にとりつかれて、あのときのわたしは誰をも恨み、呪いました。だから、黄泉路が開くようなことに、なったのでしょう」


 恥じ入った様子で語った。丙の存在について伝えることは躊躇われた。もちろん、元凶たる七無がすぐそこに倒れていることも、伝えがたい。

 ただまず小野には、自分を見ていてほしいと思った。司は、小野の手をとると、真っすぐに目を向けた。


「じゃあ訊くよ。小野……黄泉を開いてでも、お母さんに会いたい?」


 あ、と口を開き、ほんのわずか首をかしげ、水辺を見る。だがそこには先ほどまでなみなみと湛えられていたはずの水が無くなりつつあり、あたりに立ちこめていた霧も、気も、共に流れ出ている様子だった。この様を見て、なにがしか決意がついたか、小野は再度、司と目を合わせた。


「いいえ。それもまた、別の話だと、そう思います」

「じゃあ……まだ、呪ったわけじゃ、ないんだよ。利己的な意志で、ただそれだけのもとにことを成そうとしたわけじゃ、ないんだから。思うだけで、留まれたんだ」

「でも思うだけで、呪いは成立します」

「現象は、なにも起きてないよ。つまり、それだけのこと。呪うというほどの思いじゃ、なかったんだ」

「わたしが数年かけて紡いできた、復讐の思いが、それほど(、、、、)ではなかったと?」


 わずかな怒気が垣間見えた。積み重ねてきた年月を軽んじるような意味がこもる言葉であったためだろう。けれど司は言葉を止めることはなかった。


「復讐より強い気持ちが、いまはあるんじゃないかな。私が、これまでの主義を覆して、小野の、生者の呪いや思いを、認めようとしてるみたいに」

「……どういう、ことですか」

「過去を振り返りつづけて、相手のことを否定するんじゃなく。……私はなにより、小野と一緒に先へ進みたいと願った」


 だから死者を、祖母を、黄泉を振り返ることはない。その気持ち以上に、前を見続けていたい気持ちが、強いから。

 傍観することをやめることにした。きっといまの司は、小野の呪いや復讐の完遂を、見たくはない。その先で傷つき打ちひしがれる小野を観なくて済むように、最大限動くようにするのだろう。いま、そうしてきたように。

 引き結んだ口をざわめかせて、小野はまなじりに涙を浮かべた。


「――わたしも、そうである、と?」

「そうであってほしい。積み重ねてきたものはそのままに、踏まえた上で、私を選んでほしい」

「そんな……そんな言葉を、いわれたら。わたし、は」


 小野の身体が、顔を見られぬようにするためか、司の胸に向かって倒れ込む。つないだ手は保持して、あいた手をゆっくりと伸ばし、司は小野の肩を抱きしめた。

 水辺は、完全に姿を消していた。地鳴りのごとき響きが、低く、土の下から迫ってくる。司はしばし抱き合った姿勢のまま音に耳を澄まし、この世界の、黄泉平坂の崩壊を感じとった。


「儀は、崩されたか」


 ばっと小野を引き剥がし、小刀を抜き放ちながら声の方向を見やる。

 霧の晴れた岩壁に背をあずけた七無が、じいっと二人の様を見つめていた。小野も跳ね起き、自らの母の、真の仇敵に恨みがましい視線を込める。


「だが見よ、目取真。この娘は恨みを捨て切れてはおらぬ。お前がここへ来るべく淨眼の助力を願った丙――器だけでしかなくいまやこやつの恨んでいた本体たる水子を失ったはずの丙にも、同様に恨みを向けるであろう。黄泉がなくとも、連鎖は終わらぬ」

「それでも、連鎖の輪だけで完結する黄泉の国よりは、いまのままの中つ国で十分だ。変化はいずれ、訪れる。輪のままで終わり続けるよりは、ずっといい」

「……諦めきれるか、諦め切れるものか。沢と汀の一族をひきいて両輪以てして成すべきであった儀を、こうまで再現できたというに……返さぬぞ、まだ間に合う。貴様らの選択肢を漂泊か憑坐かに定めてやる」


 片手で電流に焼けた腹部を押さえながら、もう片手で空中に印を切った。まずい、と思いながら司が、小野が、駆けだそうとするが、それよりも七無の呪文が早かった。


「――右左方うさほう前後方ぜんこうほう天方地方てんほうちほう。言の葉惑いなく道迷い成すべし。――佐須良さすらひ給へ」


 指し向けられた指先より、気の流れを感じて。避けようもなく、二人の身体になにかがまとわりつく。身体が重くなり、小刀携える左手が、土にまみれた。


「おま、え……! なにをした?」

「迷いのしゅだ。黄泉の穢れを浴び続けた貴様らの身際を、この坂に定めた。漂泊の末に穢れを落とすまでこの平坂を迷い続ける。……さあどうする、このまま無為に命を落とすか、儂に請うて再び儀を行うか。選ぶがいい」


 坂への入口に立ち塞がり、七無は言う。小野はどうしていいかわからずすくんでいたが、司は、小刀を手に取ると、這って七無の足下へ向かった。


「七無」

「恨むか。憎むか。それでいい、構わぬ。世の流れとはかくあるべきだ。お前の、その、思い、呪い……」

「七無!」


 じっと、見つめ続ける。すると七無は掲げていた腕をぶるぶると痙攣させ、壁に背をあずけたままに地面へと落ち始める。力を失いつつある様子で、顔の肉を震わせながら、なおもまぶたの奥より強い瞳で司を見る。

 そうか、と司は感づいた。

 七無はこれまで、他人の思いが織りあげた呪いを、横から奪う形で使役してきた。犬神も、狐も、人魚も、形作らせたのはすべて他人。ゆえに、呪いというものの起こす作用に対する反作用も、すべてその他人に負わせていた。しかしいまはちがう、この迷いの呪は、追い込まれた彼が最後の手段として、自らの手で施した呪術だ。

 ――人を呪わば穴二つ。呪いし者は呪われやすくなる。術によって司との繋がりを強めてしまったいま、先ほどまでは通じなかった司の牛蒡種(呪い)が、届くようになってしまったのだろう。


「さ、あ。えら、べ。……常世を砕くか、己が命を諦める、か。二者択一、……最後の、選択」

「おまえ」

「時間は、限られて、おる……我が命も、残り、わず、か」


 がくりと肩を落として、それきり七無はもの言わなくなった。司は眼を閉じて、さらに、進む。横で小野の息遣いが聞こえたが、通り越して土を這った。

 入口に腰かける形となっていた七無の、身体に触れる。脈拍は、ないわけではない。けれどひどく薄く弱い。自分の牛蒡種のせいか、と思うと、心に思うところがあった。


「……ゆくのか……」

「……ああ」

「死ぬぞ」

「あんたこそ」

「……そうだな」


 それきり、黙った。

 司が七無を乗り越えて坂道へ出る。横に、小野がついてくる。眼を開いて見れば、小野はやり切れない表情で、いますぐにでも振り向いて七無を殴り付けそうな顔で、歯を食いしばって耐えていた。


「放っておけば、死ぬのなら。わたしは、なにもしません」


 司は、なにも言わなかった。


        #


 小野の肩を借りて、坂をひたすらくだる。振り返ってはならない。だが進めど進めど、やはり戻ることはできないようだった。

 真取眼を使うことができれば、道の本質を瞰抜くことにより帰り路に惑うこともないのだろうが。いまもし封を解けるとしても、その場合は全身に淀んでいる穢れの収束で、司の瞳が光を失うどころか、命までも断たれるだろう。


「早く、戻りたいですね」

「うん」


 戻れはしないが、歩き続ける。とっくに坂を降り切っていてもおかしくはないほど歩いてきたのだが、いまだに慈雨の連中がいた地点にすら辿り着けていない。だが努めてそのことは考えないようにして、二人は歩いた。


「ここまで、どうやって来たのですか」

「みんなに、手伝ってもらった。……七無の言う通り、丙にも、淨眼を借りて。あいつも淨眼使いだったわけだから、流出点の見極めに必要で、さ」

「言い訳みたいに言わずともよいですよ。恨みは、憎しみは。さっき、七無のところへ置いてくることにしたのですから」

「消しきれないだろ」

「もちろん。けれど、現象として実を結ばないようには、努力しますよ」


 司さんの隣にいたいですから、と言って、小野は微笑みかけてくれた。この笑顔だけで、司はここまで来れた甲斐はあった、と思う。

 地響きは大きくなり、揺れのように岩壁を襲っていた。狭い道だ、そのうち両脇の壁は崩壊して、司たちは生き埋めになるのかもしれない。でも、最後の一瞬まで、平然としたまま話し続けていたい、気がしていた。


「けど、牛蒡種のせいで、みんなの顔を見てくることもできなかったよ」

「……戻ってからも、眼は閉じたまま、になるのですかね」

「うん。いまはまだ黄泉平坂にいるから、憑坐の小野には力が流れ込んでて、牛蒡種でも呪いきることはできないみたいだけど。ここを出て憑坐じゃなくなったら、小野を見ることもできないと思う」

「……それ、は」

「でも、一緒に歩いてってくれるんだろ?」


 冗談めかしたように明るく、司は言う。小野は呆気にとられたように、司の顔を見た。


「罪とか罰とか枷として寄り添う、なんて浪漫ないこと言わないでよ? ただ好きだから好きでいる、それだけでいてよ。当然のごとく、私は小野を束縛するけど、そこまで含めて好きでいてよ」


 言いきって赤面すると、小野も、夕日にさらされたように赤い顔をした。どちらともなく笑みがこぼれて、地鳴りなど、聞こえなくなっていった。

 二人は、話し続けた。戻れたらなにをするか。どこへ行くか。みんなには二人のことを、どう話すか。みんなはどう反応するか。


 先のことを考えるのは、楽しかった。これまでがあったからいまがあることに、感謝をし続けた。遠く、こんな異界の果てにいて、みんなとの距離は遠いけれど。でも近くにいる気がしていた。

 二度と会えなくなるとしても、そこで終わりではないのだ。こんな終わりの最果てにいてなおこう思えること自体が奇跡のようなもので、そんな尊いものに触れているいま、遠く遠い黄泉の果てを引き寄せることに、意味があるとは思えなかった。

 やがて、疲れ果てて動けなくなる。足取りは鈍り、座りこんで、手を繋いだまま話を続ける。暗い天蓋が、天より降りつつあった。あの天蓋は、流出によってとり上げられていた、千人所引の磐石だったのだ。落ちてくれば、黄泉路は閉じられ、司たちも死ぬ。


 ……だいぶ経った。

 急場しのぎの止血帯はいまだ赤く染まり続けて、血が止まる気配は一向にない。ぼうっとしてきた頭のせいで、話を続けることもできなくなりつつあった。時折小野に揺り起こされて、ごめんごめんと謝りながら、話をして――冴えなくなってきた己のあたまを不甲斐なく思いながら、司は最期が迫るのを感じていた。


「戻れたらさ」


 また、話が少し前のものと同じところへ戻る。小野は、興味深そうに聞いてくれた。


「今度こそ、二人でどっか、行こう。……学習合宿のとき、さ。ほんとは、私は小野と、小野だけと一緒にまわりたかった。なのに、結局いつも通り、みんな。一緒になっちゃってさ」

「……気づいてませんでした」

「ひどいなあ。……まあ、私も、気持ち、自覚したのは。加良部のときの、車の中だった……つり橋効果かな、とか、思ったけどね。毎日、一分一秒、ちがうなって感じてった」


 変わっていった。気持ちが、思いが、強いものに。


「谷峰でも、あんまり、一緒になれなくて……そんなとき、歪みに落ちた、って聞いて、気が気じゃなくって」

「ご心配とご迷惑おかけしました」

「いいよ。おかげで、助けにいけたし。どう……あのとき。ちょっと、カッコよくなかった?」

「いつも格好いいですよ、司さんは」

「ありがと」


 日々が大事なものだと気づく。けれどそこで自分たちの間はひび割れて、砕けそうになって。取り戻せた幸運に、自分の努力に、ただ感謝があった。


「……好きだ」

「わたしもです」

「一緒にいたい」

「一緒にいたいです」

「……しにたくない」

「……ですよね」


 けれど感謝だけでは足りない。死に直面するには、恐怖に打ち勝つには、もう足りなくなっていた。

 天蓋は降りてきている。もう司たちの頭上、数メートルの位置にまで。切迫した状況の中、痛いほど強く手を取り合い、司と小野は泣きはらした目で見つめ合った。七無のように終わり迎えることを甘受できるほど、二人はまだ達観できない。


「いきてたい」

「はい」


 もっと先を見ることができていたら、と思う。もしもっと先が見えていたら、違ったのではないかと。こんな結末を迎えずに済んだのでは、ないかと。

 もっと遠くが見えていたら。自分の行く末が、見えていたら――――


「司ぁっ!」


 ――――行く末、坂の先から、声が響いた。驚きに、目を見張る。

 深淵の暗闇のそのまた向こう、世界を越えた先から、声が、響いていた。


「進めッ! 戻ってこい! 道がみえてねぇのか、だったら俺たちで導く!」

「司くん、小野くん、戻ってくるんだ!」

「もうあと少しのはずなのよ!!」


 いったいどうして、と思いながら、立ち上がる。失血でがんがん痛む頭を押さえながら、小野と歩みを再開する。遠くから残響のように届く声に、耳を澄ませながら。


「慎重に歩け! 一歩ずつ、踏みしめろ! まず左足を出し、右を一歩進め、その右足に揃えるように左足を進めるんだよ!」


 踊場の声に従い、司と小野がゆっくりとした、妙な一歩を踏み出す。

 とたんに、この坂へ入ったときのような、身体が後ろに置いていかれて身体の先行するような感覚にとらわれる。次の指示はいまのと逆で、右、左、と出して左足の横に右足を揃える。これを交互に続けろ、ということらしい。


「指示に従えばそこに道はある! 大丈夫だ、こっちには、みえてる!」

「みえてる、って……どう、して、なんで」

「ワタシがちゃんと、みてる!」


 サワハの声が、響いた。

 ふっと、思い出された。そういえば喜一は、サワハには小野や司、自分と同じ、なんらかの力を感じる、と言っていた。そしてまた、七無は先ほど言っていた。〝沢と汀の一族〟と。たしか、サワハの生家、沢田は、〝沢〟の分家だと言っていた――


「……遠見の力の、一族だったってことか」


 彼方の世界を見やるための力。


 おそらくは小野の淨眼が変質して異能察知になっていたように、サワハの遠見も、変質した結果があの使い勝手の悪い能力だったのだろう。先ほど司の歩行を補助してくれたときに、またレンズをつけてくれていたのだ。


「サワハには進む道がみえてるわ! ゆっくり、確実に進んできて!」


 口論義が声をあげる。踊場が指示を出す。

 一歩が、重く。けれどたしかな力を伴って、現実へ帰還する。坂は緩く下り、慈雨の連中がいたはずの広場を過ぎる。だれもいなくなっているようだが、もう先に戻ったのだと、信じたい。

 砂利道を、奇妙な歩き方で、踏みしめ続ける。肩を組んだ小野に体重をほとんどあずけながら、残る気力を振り絞って、司は足を動かした。


 気づけば一瞬の、闇を抜けて。


 牛蒡種の眼を閉じて、司は見えないままに、梁渾へ戻った。口論義たちが駆け寄るのがわかる。見えなくてもわかる。みんなが、破顔一笑していることくらい。


「よく戻ってきたな……よく頑張ったものだぜ」

「すまない、僕らはなにもできず」

「……そんなこと、ないじゃん。とりあえず、支えてくれると、助かるな」


 廉太郎と踊場に支えられて、司は笑みをこぼした。


「小野ちゃん、よかった。本当に、よかったっ……」

「無事だったネ。ちゃんと、帰ってこれたね」

「……はい。ただいま、戻りました」


 口論義とサワハに迎えられ、小野も笑う。

 丙も――おそらくは近くに、いるのだろう。小野にも見えては、いるのだろう。でも恨みや憎しみを先に出すことはない。小野はみんなと笑いあうことを優先した。それで、十分だった。


「そうだ会長、慈雨の人たち、来なかったっ?」

「慈雨? ああ……あたしの親たちも、ここから戻ってきたわ。いまは梁渾のどこかにいると思うけど」

「衰弱してる人、いなかった? あの、牛蒡種で一瞬見ちゃって」

「そういうこと。心配ないわ、うちの親含め全員、なんとかなってたわよ。……精神のほうは、どうだかわからないけどね」


 含みのある様子で口論義は言った。それは、そうだろう。司が儀を崩したために黄泉平坂は崩壊し、彼らの拠り所とした慈雨の、終わりを告げられたことがわかったのだろうから。

 と、肌に触れる穢れが、少なくなっていった。

 背後で、流出点が閉じていく。穢れの流出が止まり、千人所引の磐石が落ちたのだろう。響く地鳴りにすべての終わりを感じて、司は今度こそ倒れそうになった。

 でも、まだ倒れるわけにはいかない。


「さ……帰ろう」


 踊場に支えられたまま、片手で眼を押さえ、ほんの少しだけ、まぶたを開いて閉じる。

 その一瞬で牛蒡種に集められた負の気が、司の眼前に歪みを開いた。驚きにどよめいて、みんなが司を見ているのがわかる。


「帰り路はできた。じゃ、みんな通って」

「すげえなお前……まあなんだ、通れるなら通るけどよ。どこに出るんだこりゃ」

「そこまではさすがに」

「使い勝手が良いようで悪いね」

「でも穢れだらけのここよりましでしょ。いくら踊場さんたちが霊感ないっても、黄泉の力に触れ続けると悪影響なのは変わりないし」

「それもそーなのネ。んじゃ」

「行きましょうか」


 四人、と、おそらくは丙と思しき気配が、歪みに近付いて行った。また小野に肩を借りて、司は五人のいるであろう方向をむいた。小野もそちらを向いているだろう。どのような思いをこめて丙を、見つめているのか。


「なるべく近いとこに出るのを祈るわ。そんじゃ、お先に」

「うん。みんな――ほんとに、ありがと」


 万感の思いをこめて告げて、そして、気の流れの内から、五人が消えていった。

 残されてまた二人きりになって、司は後ろを振り向いた。もうほとんど閉じかけた流出点に向けて、ポケットから取り出した、丙の櫛を振りかぶる。


絶妻之誓ことどの、やり直しだ。――もう、開くなよ」


 投げる。暗い穴に苦死くしの象徴は吸い込まれていき、そして、あたりにはまた負の気が漂うだけの、平素の梁渾が現れていた。反魂は、成されなかった。これですべてが、本当の本当に終わりを告げた。感じるのは、触れている小野の体温だけだ。


「では、帰りましょう、司さん」

「ん……そうだね、小野」


 きっと、自分に微笑みかけてくれている、だれより大事な人の声に応じ。投げた体勢から、重心を戻して。


 司はぐるりと振り向くと、小野を突き飛ばした。


「……は……?」


 顔は見えない。見れるはずもない。でもわかる、きっと小野は、丙への攻撃を止めたときの司を見るよりなお激しい面持ちで、司を睨んだに違いない。


「どうして――」


 姿は消える。けれど歪みが開いている限り、小野はすぐに戻ってくるだろう。だから司はその場から少し離れて、振り返って歪みのある位置の負の気をすべて牛蒡種に吸い込んだ。歪みは、雲散霧消した。


「……耐えられるわけないよ。こんな、数秒で人の命を奪えそうな眼を持ったまま、小野の傍にい続けるなんて」


 誰より大事な人に、刃の切っ先を突きつけたままで生活するようなものだ。もしわずかにまかり間違って転びでもすれば、自分がその、大事な人を殺してしまう。


 人を呪わば穴二つ。


 司が真取眼や牛蒡種を使い続けたための穴は、たしかに存在してしまっていた。


「さよなら、小野」


 司のつぶやきは虚空に吸い込まれ、そして声の終わりが司の意識の終わりだった。


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