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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
粛生の理編
36/38

三十六題目 「あたしはあたし、ならきみは」と口論義が問う


洒落怖の邪視は好き


        #


 目覚めてはじめに見たのは、どことも知れない天井だった。

 前回の宿とも、またちがう宿であるらしい。身体を起こそうとして、腕があがらないことに気づく。いや腕だけでは、なかった。全身が鉛のように重たく、相当に力を入れなければ、動かない。布団におもりでも仕込んであるのかと、本気で疑った。


「寝てなきゃだめヨ」


 覆いかぶさるように、サワハに止められた。首だけ動かすと、司を囲むようにして廉太郎と踊場もいた。さらに無理して首をねじると、離れた位置で、口論義と、もう一人が膝を抱えて座っていた。少しだけ、安堵と激情が芽生える。

 けれど、やはり小野はいない。いないのだ、という事実が重くのしかかってきて、首が締められているような心地だった。


「御手洗さんによると、開いた黄泉路を直接眼にしたために、穢れが身体に入りすぎたそうだ」

「そっか、それでまた、倒れて」

「ああ。いまはまた御手洗さんの術で、全身にダメージを分散させている。……わかるかい、全身に分散させてなお、起き上がれないくらいの穢れだったんだよ。眼だけに留めていたら、失明どころの騒ぎではなかったとのことだ」

「……そうなんだ」


 司はおとなしく、目を閉じて耳だけに集中した。

 そうすると踊場と廉太郎が、あのあとのことを話してくれた。

 七無が黄泉路へ消えた直後、廉太郎ともども司、喜一もあのホールへ帰還し、踊場たちと合流できたこと。汀も歪みを通じて逃げたこと。

 急いで待機していたタクシーへ戻り、なんとか町へ戻ったこと。口論義も連れて帰れたこと。

 喜一はすぐに病院へ運ばれたが大きすぎる霊障のため手に負えず、踊場が呼んだ御手洗によって機関の手の届く病院へ搬送され、いまは一応容体も安定していること。

 その御手洗も喜一と司の応急処置を済ませてすぐ、機関に呼び出されたのか去っていったこと。


 ……最後に、部屋にいる六人目について。

 薄く目を開けた司の横に位置を移してきた丙は、いたたまれない様子で頭を下げた。


「ご迷惑を、おかけしました」

「……うん」


 否定も、かといって罵倒もしなかった。ただ疲れていて、言葉がなかった。

 七無が用いた札は、恐らく水子を引き剥がし、彼岸へ送るためのものだったのだろう。司への怒りと憎しみで負の気が増し、それと水子の辿る道筋により流出点を示し、丙は操られるまま点を指し、小野は向こうの神を降ろす憑坐となってしまった。

 丙は頭を下げるばかりだった。


「わたくしの不徳の致すところです。言葉もありません」

「……いいよ、もう」


 思うことは、呪うこと。

 祖父を傷つけられた司が丙への思いを止められないこと同様、丙の自責の念も止めることはできまい。であるならば、彼女もまた、生涯を呪いに縛られるといっても過言ではないのだ。……そもそも、牛蒡種という邪視の眼により住みかを追われた彼女は、呪いにつきまとわれる生を送っているのかもしれないが。


「御手洗さんいわく、今後はあの機関とやらが、梁渾、ひいては黄泉の先へ追撃するとのことだよ。間に合うかは、わからないそうだが」

「そう」

「僕らにできることは、終わってしまった。きみの淨眼もこれ以上無理させるわけにはいかないし、そもそも御手洗さんにより封じられた以上、流出点の見極めなどはできない……なんにせよ、いましばらくは休みたまえ、司くん。またのちほど、体力が戻ってから話をしよう」

「……うん」


 踊場から言われて、司はまたまぶたを下ろした。そうしてすぐさま、意識が闇に引きずられ、数時間先まで移された。




 再び起き上がったときには周りにだれもおらず、わずかばかり、気休め程度に動かし易くなった身体を引きずって、司は部屋を出た。ひどく喉が渇いていたので、自動販売機でもないかとうろつきまわる。

 幸いにも廊下に出て階段を下りてみたところ見つけられたので、財布を探って小銭を出し、ボタンを押す。屈んで取り出した紅茶のプルタブに爪の先をかけて、なかなか開かないことに苛立った。指先が震えて、いる。


「……くそ」


 ほんの数日前だ。谷峰からの帰り道、サービスエリアで小野に告白をしてしまってから。まだ数日しか経っていない。

 加えて言うなら、つい昨日だ。つい昨日、小野と、気持ちを通わせることができたばかりだというのに……だというのに、司たちの周りは刻々と変化を続けており、いまやこんなところにいて、二人の間の隔たりは途方もなく大きくなってしまった。距離としても、心情としても……けれどあそこで、もし仮に丙を討滅しても流出点や黄泉に支障がなかったとして、司は止めず、いられたのだろうか。

 ただ見守ると言い続けて、それは小野を信じるからこそだと己に言い聞かせ続けてきたけれど。単なる思考放棄に他ならず、これまで自分のしてきたことは間違いだったのではないだろうか。

 廉太郎の言っていた、「好かれる人」と「必要とされる人」という言葉の重みが、背に、腹に、のしかかる。


「……もし、すみません」


 うずくまって、開かない紅茶を抱えたままでいた司に、背後から声がかかる。邪魔になっていたのだと判じ、すいませんと謝りながら離れる。


「もし、大丈夫ですか」


 追いすがる言葉がかけられて、ようやく司は振り向いた。

 前髪を長く垂らし、火傷の痕を隠した丙が、いたたまれない様で、声をかけたことを後悔しているように、口元を押さえて立っていた。唐突に現れた彼女に、心の準備ができていなかった司は、とっさのことできつい視線を向けてしまった。

 どうにもならないことだったろうに、という冷静な思考が心中に満ちるまでにさして時間はかからなかったが、丙が司の敵意を認識するまでには十分すぎる数瞬だった。


「ごめん」

「いえ、謝らずともよいのです、わたくしには非難されて然るべき理由というものがあるのですゆえ」

「…………あのさ、少し、話いいかな」


 どう返答されるかと内心で心配しつつ言うと、丙は司に流されるままうなずいた。近くにあった階段を下りると赤い絨毯に覆われたロビーになっており、表玄関が見えていた。その一角にあったソファに腰掛け、ローテーブルに缶を置いて、なんとかプルタブを開けた。

 正面に腰かけた丙は、肩幅をなるだけ縮こまらせようとしていて、かなり硬くなっていた。仕方のないことだとは思うし、互いに、立ち場が立ち場だ。慣れ合うこともできないだろうとは思う。少なくとも数年は。

 けれどこれでは話が進まないので、意を決して、身を乗り出す。


「あのさ。丙」

「はい」

「――あんた、牛蒡種、どこに捨てた?」


        #


「牛蒡、か」


 自室に戻っていた踊場たちは、部屋の隅でじっとしている口論義を見つめながら、布団に座った廉太郎の話を聞いていた。廉太郎も口論義が気がかりでそちらを見ていたが、彼女自身から「いまは小野のことを心配してあげて」と言われたため、なんとも動けずにいた。

 サワハでさえ黙り込んだ室内、なにも話すことなく沈黙を保つのが我慢ならなくて切りだした話題であったが、幸いにも踊場の知識がある話題だったらしく、会話に発展を見せようとしていた。


「ああ。たしかごぼうだかごんぼだかって、喜一のじいさんが言ってた」

「なるほど。そのように強い霊力を持って生まれ、なおかつ丙午の生まれで迫害され逃れてきた身の上だったからこそ、あの水子たちを受け入れる器となれたわけか」

「そいつは一体なんなんだ? なんやら、大層な力の持ち主みてぇに七無の野郎も使ってたけどよ」

憑物筋つきものすじ、というの、覚えているかい?」


 いつだったかに聞いた覚えのある単語で、廉太郎は頭をひねった。けれどさほど興味を持ってそれら伝承などの話を聞いたことがなかったため、ついぞ思い出すことはできなかった。踊場が嘆息と共に説明する。


「呪われていたり、はたまた使役していたり。そうした動物霊に憑かれているといわれる血筋のことだよ。狭い村落の中では、呪いを用いて支配階級にいたり、逆に〝犬つき〟〝狐つき〟などと揶揄され、ひどい扱いを受ける側であったり。大体二極化されているね」


 蔑称だから使うなよ、と言いつつ、踊場の言葉で廉太郎はようやく思い出す。


「神代か」

「あのときに話題に出したね。ようやく思い出したかい。……まあ神代は実際のところ、七無によってあの狐の呪いを借りうけていただけらしいから、厳密な意味での憑物筋ではないのだろうけど。牛蒡、牛蒡種と呼ばれる彼らもまた、同じ憑物筋と呼ばれるものたちなんだ」


 邪視、外国でいうイビルアイの訳語として南方熊楠により作られたこの言葉は、睨むだけで相手に災厄を招く力のことを意味する。この、見るだけで災難を被る、という物語の形式は、人目を気にせよという寓話とも考えられるが、世界中に散見される。


「魔眼のバロール、コカトリスバジリスクくらいなら、多少ゲームをやるきみなら知ってるだろう」

「見ただけで死ぬ奴と、石化しちまうあれか」

「牛蒡もあれの類型さ、南方熊楠の十二支考という本で紹介されている。対象を見る、それだけで生気を奪い取り、災厄をもたらす。同族には効かないそうだが」

「そりゃ、そんな眼を持ってたら、追い出されもするわな……」

「さあてね、実際には迫害するための理由づけに過ぎなくて、そんな魔眼は存在しなかったのではないか、とも考えられているよ。伝承など、恐れさせるためか恐れるためのものが多いのだから。しかし……最終的には、存在するのだと思うよ。人の畏れる心が、ないものをあるように、現実へ肉付けさせる。僕らは、そんなものにいくつも出逢ってきたじゃないか」


 廉太郎は考え込んで、迫害というものに思いを巡らした。

 被害者ぶるつもりは毛頭ないが、たとえば廉太郎が受けたような見た目への扱い、きっとそんな、些細で単純なことの積み重なりが、そこへ続いているのではないか、と感じた。


「ただ、それならおかしな点があるのだけどね」


 踊場は座イスに腰掛けたまま茶をすすり、ちらと廉太郎をうかがった。考え事から帰ってきた廉太郎はうん? と首をかしげて応じ、踊場もまた、鏡映しに首をかしげた。それから、真剣な面持ちで、口論義のほうへ目を戻した。


「同族でもない僕らは彼女の視線にあてられて、どうして無事だったのか」


        #


 夜半過ぎ。深く濃くなる闇にあたりが覆われ始めたころ。

 布団を抜けだした司は、夕食前にフロントへ預けておいた荷物――といっても財布に携帯電話に地図程度を詰めたフラップバッグだが――を受け取ると、薄暗い車道へ出て行って、行きかう車の中にタクシーがないか探した。宿の料金は立て替えという形ながら御手洗が払ってくれたそうなので、出ていくことに差し障りはない。


「――あー、でも、まだしんど」


 ゆらゆらと歩きながら、危なっかしいと自分でも感じながら。

 縁石の上にたたずんで、眼前を過ぎゆくヘッドライト、去りゆくテールランプを見送る。ポケットに入れた小刀に触れて、少しだけぐらつく頭を押さえこんだ。それから、昼に買ったのと同じ銘柄の紅茶を出して、プルタブを開ける。今度は、震えなかった。

 地図を確認したところ、この宿は先日の場所からそう遠くはないらしい。であるならば、司の所持金でも移動できるところに、小野と入った歪みのある住宅が、あるはずだ。そこから、移動することにした。


「ふう」

「……そんなに疲れているのに、どこへ行くの」


 背後から声をかけられて、けれど司は振り向かなかった。行き交う光の流れだけに集中して、タクシーが通るまで待つ。それだけだ。


「隣、いいかしら」

「……どうぞ」


 許しを得てから腰かけたのは、口論義だった。人のこと言えた顔か、と思わず返しそうになるほど、疲れ切った表情で、縁石に腰かける。夏の風にあおられた髪が揺れて、一瞬の光にまたたいて流れた。ちょっとだけ顧みた司だが、ほかには、誰も連れてきていないらしい。


「よく、わかったね。出ていこうとしてる、って」

「自分が同じことしたからよ。なんとなく、雰囲気でわかったわ」

「なんだ。じゃあ、目的については、ばれてないんだ」

「それはどうかしらね」


 かまをかけているとも、そうでないとも見える顔で、口論義は司を見据えた。


「かまかけても無駄だよ」

「やぁね……あたしも、踊場ほどではないにせよ、民俗学を学んできてるのよ。異能についてまったく知識がないわけじゃないわ。――牛蒡種を、手にするつもり?」

「手に入れるって、丙が眼球に持ってるものを?」

「否定しないのね」

「遠回しな否定だったでしょ、いまの」

「そうは思えなかったわ。まあ、あたしの言葉が両方ともかまかけただけなのは、認めるけれど」


 逸れない視線に、司は黙り込むしかなかった。ひょうと風が吹きすぎ、タクシーが一台去っていった。もうそれを目で追うこともできない。眼球の奥から前頭葉にかけて根を張っているような鈍い痛みに耐えながら、司は光に過敏な眼を、そっと閉じた。


「止めにきたの」

「いいえ。ただ聞きに来ただけ」

「なにを」

「きみが、牛蒡種の力で、なにをしようとして、その先になにを求めているのか」


 ただの質問にすぎなかったが、答えるまでに、間を要した。なにをしようと、というところまでは簡単に答えることかなう質問であったが、その先のことまで問われるとは、思ってもみなかったのだ。

 乾いていく互いの間の空気に耐えられず、唇を湿らせようと紅茶の缶をあおろうとした。だが口元に届く前に口論義に缶は奪われ、目を開けたときには中身はすべて飲み干されてしまった。間を維持できなくなって、司は、思いつくままに言葉を話すことを強いられた。


「小野を助けにいくついでに、七無の反魂計画を止める」

「どうして」

「小野は、騙されてた。偽名を使ったことの他は、どんな方法でかはわからないけど。七無に騙されて、丙を消そうとしてた。元はと言えば丙を操って小野のお母さんを、そしてじいちゃんを傷つけたのは、七無だったのに。騙されて、利用されて、挙句に反魂だなんて、そんな計画に手を貸すことになってる。それは、まちがってると思うから」

「……そうね。あたしも、間違ってるとは思う。騙されてるとは思うわ」

「間違いは、正されなきゃいけない。なにより、じいちゃんを傷つけられたことが……すごく憎い。生きてる人を傷つけて、ないがしろにしてまで死者の念を還元することが、そんなに大事かよって思う」

「まったく正論だわね。……でも」


 司の言葉を遮って、口論義は立つ。そのまま、車が横切らない瞬間を狙って、車道に躍り出る。ぎりぎりまで車体をひきつけてから避けようとでも言うのか、ゆっくり、ゆっくり反対側の歩道へ出ていった。


「まちがってても騙されてても、当人がそれを正しいと思っていたら、どうにもならないわ」

「七無は、そうかも。じいちゃんと同じかそれ以上の齢に見えたし、いまさら考えを変えるなんて、ないだろうね」

「ちがうわ。小野ちゃんの話よ」


 鋭い目つきでこちらを見る口論義は、後ろ手を組んで、風にあおられる髪の毛をそのままにしていた。車が行きかう風圧で、髪がなびく。司は固まった。


「小野が、正しいと思うわけない。だってお母さんを殺されてるんだよ? おまけに騙されてて、」

「でもそのお母さんも、反魂によって帰ってくる、と説明されたら?」

「……え」


「踊場たちと、御手洗さんとの話を横で聞いて、あたしも今回のことの顛末はだいたい理解したわ。歪みを求めて七無が各地に計画の芽を仕込んでたこと、慈雨が歪みを生んできたこと、それが反魂の下準備だったこと、他にもいろいろ、ね……そこで思ったのよ。七無が何年もかけてこの計画を進めてきたのは、最後にはいちおう、計画の中途で犠牲にした人々も、反魂でこの世に呼び戻せると思ったからじゃないか、って。これは直接の罪滅ぼしにはならないけれど、罪悪感の軽減には、役立つ考えじゃないかしら」


「この世に……いやでも、そうかもしれないけど、だからって身体を失って、死んだことには変わりない。逢えると言われたって」


「だから、まちがいではあるのよ。騙されて加担させられてもいる。でも、不謹慎なたとえをするんだけど、喜一さんが亡くなったとするわよ。きみ、反魂に少しも希望を抱かないと言える? そりゃ元から原因は七無なんだから、マッチポンプにもほどがあるとは思うでしょうけど。それでも、自宅に放たれた火を見てたら放火魔が出てきて『消しましょうか』って言ったら、断る?」


 紅茶の缶を、車道越しに投げる。司に渡す気だったのか、そうでないかは知らないが、とにかく缶は司から離れた位置に落ちた。互いに、取りに行くこともしなかった。


「二度と会えないと思ってた相手との、ただ一度の再会のチャンス。悪感情とか敵愾心とか復讐心はあとから実行するために残しておくとしても、逢いに行きたくなるのが、人間ってもんじゃないの」

「会長」

風鈴かざりよ」


 短くたしなめて、また車道を横切って戻ってきた。司はなにも言えない。


「夏休み前に言ったじゃない。もう、会長は小野ちゃんに譲ろうって……あたしは風鈴、口論義風鈴、ほかのだれでもない、そうでしょ?」


 疲れ切っていた顔に、方向性の定まらない活気が、あふれはじめていた。

 人はそれを狂気、あるいは惑乱と称する。


「会長でしょ」


 そう理解しながらも、司は受け流すことなく、真っ向から対峙した。息を呑んだ口論義は、司の呼称をすりつぶすように歯ぎしりを響かせ、震え混じりに吠え声を洩らす。


「あたしはあたし」

「知ってるよ」

「代わりなんてないはずで」

「そうだよ」

「たった一人の」

「あなたしかいないよ」

「……なら……、どうして……!」

「あなたはあなただよ」


 断じて、司は崩れ落ちる口論義の前に膝を折った。

 あふれだした感情は嗚咽となってこぼれ落ち、口論義は、すべてを失ったような目をして、頬にこびりついた涙の跡に、またちがう筋を築いた。

 司も口論義同様に、踊場や、その他の人から聞いていた。去り際に語った汀の言葉の通りならば、口論義の両親はもはや慈雨なくして精神の安定をはかることかなわず、辛い記憶から目を逸らすため過去に蓋をし、そのせいで記憶と一緒に生活から失ってしまった娘の代わりを生み、この数年の間に育てていたらしいこと。

『まちがいで、騙されていて、けれど当人にとっては正しい』――その言葉も、正しいが、まちがいで、騙しであるのだ。自分に対しての。


「……だから小野に、他の人に、自分の境遇を重ねないで。会長は、風鈴さんは、風鈴さんでしかないんだから。小野や、他の人にまで当てはめないで。周りを見失わないで。だってそれでいいんだよ。みんながみんな、物事に対してちがう正しさを抱いてるんだ。そしてそれでも、風鈴さんはみんなに慕われてて、みんなが風鈴さんの努力を知ってて、だから――会長って呼ぶんだよ」


 見計らったように、タクシーが来るのが見えた。司は片手をあげて、タクシーを停めた。口論義は泣き続けていたが、泣くことができたのだから、さっきまでよりは大丈夫だろうと思った。あとで、踊場を呼ぼうと、携帯電話を取り出す。

 開いたドアに乗り込もうとしたそのとき、最後に、口論義が問うた。


「……あとひとつ、問わせて」

「はい」

「……あたしの場合は、両親が、精神的にしか死んでない。だから、反魂にもなにも感じない、けど……司ちゃんは、逢いたい人、いないの」

「いるよ」


 そっけなく、返した。だが内心は穏やかではない。

 死に目にも会えなかった祖母。理由はわからないが、二目と見られないような様で死したという、喜一を含めてただ二人だけの、司が家族と認識できた人間。あれだけ育ててもらったのに、本当に、言葉ひとつかけてあげられず、別れたひと。


「でも――〝 〟は、反魂は、要らない」


 強く告げて、ドアを閉じた。

 聞き慣れない言葉があったと気づいたか、口論義が顔をあげたのが、バックミラーで確認できたが。すぐに出してくれと、司は言った。途端に背筋を撫でる、ぬるく、硬い、異形の者どもの感触があった。運転手が一瞬身震いしたのを見て、やっぱり、と頭を掻く。

 封を、解いた。生まれてこのかた続けてきた封を、いまこそ自分の身の内から解き放つ。




 しばし経って、歪みを抜け、さまよう町の中。穢れに満ちたこの場は長くいるに耐えられないと感じつつ、丙が居住に用いていたという、がらんどうでなにも物がない、モデルルームのような部屋に入り込む。そして家探しの真似ごとをして、畳を裏返し、床下深くまで潜った。

 爪の間を土で黒く染めながら掘り進むと、果たしてそこに、あった。


くしか……」


 丁寧な細工がなされた、鼈甲べっこうでできた櫛である。これを、小刀の鞘を使って、直接に触れないよう慎重に慎重に掘り出すと、畳を返して入ってきた位置まで持ってきて、一度踏みつけた。物体を物理的な下位に置くことで、拾得物の呪いが上位に来て浸食されることを防ぐためのまじないだ。

 ……〝牛蒡種〟の名の由来は、牛蒡の種のごとくつきやすい(、、、、、)ことから来ており、裏を返せば、一度手に入れてしまえば取り除くこと難しい、扱いの難しい異能である。

 これを御するためには、いまの司の真取眼では、力が足りない。かといって全身に分散させてやっと立てる身体である現状、真取眼の戒めを解くことは己の死を意味しかねない。


 だから、封を解いた。


 これまで一度も使ってこなかった、己の一部を出すことで。

 すうと、息を深く吸い込む。胸一杯に溜めた空気を、喉で震わせ、言霊を乗せ、表に出す。

 それだけだが、それだけを、司はこれまで一度もしなかった。自分で自分を呼ぶ――()としても、一人称(、、、)としても、自分を呼ぶことを避けてきた。物の怪に、位置を悟られぬために。


「……名を、ここに名乗ろう」


 すなわち、〝真取る目を司る〟。

 その形を成すためだけに、司と名づけられた。そして司は本当の名――〝忌み名〟を、隠し続けて生きてきた。己の名を知られることは個を識別されることで、呪術において、強い影響下に晒される危険性を生むからだ。

 ゆえに己の名を呼ばれることのないよう、己でも呼ぶことのないように、生きてきた。忌み名を知る家族にさえ、本当の名では呼ばれない。日常において苗字で呼ばれることをいとうのも、そのためである。

 彼岸に連れ去られぬよう、此岸しがんに繋ぎとめるためのもやいがその名。存在を認めるための名により存在を消す矛盾。有無を言わさず狭間を示し、姉兄であるはずの一恵と啓二に連なることなき、孤独の名。

 無いということに気付きそれを示す時、そこに無という概念は消える。だが知らなければ無いままだ。

 司の名はそうして消された。同時に存在を得た。


 人来てふと来て――否。

 一ときて二ときて三では無し。連なることなく数は無し。

 さりとて読みは〝つかさ〟でなく。賜りし詠みは〝かず〟で在り。

 数無き名にしてかずを持つ。しかして力をつかさどる。

 空の場示すは無きことなり。なれども読みを孕みしは。

 意味無き地平を指し示す。意味を持たせて指し示す。

 詠みさえあらば有で在り。有無の狭間が示される。

 かくして我が名が現れる。つかさに非ずかずに在り。

 空の場にしてなしと読む。我が名、〝カズナシ〟ここに在り――



「〝私〟の名前は、目取真メドルマカズ (ナシ)



 拾い上げた櫛から、暗き力が、司の内に流れ込んだ。



ここに最期の名乗りをあげよう。


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