三十四題目 「絶望の引き金をひけ」と廉太郎がきれる
夕食は全員で取ることとして、ぞろぞろと集った司たちは、それぞれ席につくと手を合わせ、もくもくと食事をとった。
なにやら小野と気恥ずかしい雰囲気になったはいいのだが、現状は、現状である。口論義を助けねばならないという問題に、向き合うことと相成った。司としては、小野との結びつきが強くなったことは七無に挑むにあたりモチベーションの追加といっていい出来事であるが、周りに話すのは躊躇われていた。
やがて食べ進み、腹ごしらえがひと段落したところで、喜一はとっくりから日本酒を傾けながら、つぶやいた。明日以降の行動について、いよいよ話し始めるらしい。
「さて、そろそろ明日からの動きを決めとかにゃならんわけだが……正直いって、もう時間がねェ。司と小野の嬢ちゃんがみた死霊、つまりすでに彼岸に渡ったはずの存在の顕現。こいつが示してるのァ、状況の悪化に他ならない」
「もう黄泉への道が開いているということですか?」
「そりゃ否だ。どんだけ負の気が流れ込んでも、恒常的に開きっぱなしになるような穴は開かねェよ。清庭――いや、審神者。この言葉が指してるもんは、司と小野の嬢ちゃんだァな。神が憑坐とする巫女と、降りた神が己の欲した神かを見極める者の二人。後者を審神者というが、まァどちらの役も、高い霊性を備えとらにゃならんことに変わりはない。託宣を聞き、導きに従って流出点を探す眼が必要になるんでな」
司たちを指す喜一の所作で、淨眼の存在をほのめかしていることが感じられた。間をおいて、ごはんを呑みこんだらしい廉太郎がさし箸をしながら喜一に問うて、踊場に行儀悪いとたしなめられた。
「流出点ってのは、負の気があの世に流れてくときに通るとこ、ってな意味か?」
「その通りだ小僧。……黄泉への道は簡単には開かん。開閉に際しては、正確に力の流れを見極める者が必要だ。開ける場合は流出点の位置を知り、術で地脈の流れを御するなどしてより多く注ぎ込むことで開く。閉じる場合は、こちらから向こう、境を越えて力を投げ渡すことで閉じる」
「閉じるときも流出点を見極めなきゃいけないから、淨眼が必要なんだね」
小野の母親がいては七無の計画にとって支障が出るというのは、つまりそういうことだったのだろう。
「ああ。だから明日、お前らをこの近辺で歪みの出そうなところへ連れていく」
「え! ワタシたち連れてくするノ!」
すっとんきょうな声をあげたサワハを見て、喜一は顔を曇らせた。サワハ自身としてはべつだん拒否の意味合いを含んだ声ではなかったのだろうが、カタコトの口調といい感情が判別しづらいので致し方ない、と司は思う。仕方ねェんだ、と言い訳にも聞こえるセリフのあとに、喜一はこう続けた。
「本来お前らを同行させるてェのは、プロとしてもやりたかねェことなんだが、わしにゃ淨眼がない。それらしき場所は、地脈の配置などから察することかなうがな。そして統合協会……機関の連中に要請しても、淨眼使いの絶対数が少ない以上は来るまでに時間がかかる。機関員が来るまで一ヶ所に留まってりゃ、七無からしたら鴨がネギ背負って待ってるってな状態だ。いまはわしが宿周辺に隠形の術を張っとるからいいものの、二日三日もつような仕掛けじゃァないしな。早めに移動した方がよい。それもなるだけ遠くへ、な」
「ですが、僕らは口論義を探さなければ、」
「お前らの探しとる口論義という娘も、歪みの近くにおる可能性は高い。……要は慈雨に近付いちまうてェことだからな、これも本当はあまり好ましくないんだが。うまく見つけられれば共に逃げる、そうでない場合は、ひとまずお前らだけでも逃がす。これァ決定事項だ、呑めない条件だとわめくなら、また寝かして連れてくことにならァ。それは、やらせんでくれ」
踊場を見ながら、喜一は拳をつくった。谷峰の一件の際、廉太郎ともどもその剛拳に意識を刈り取られたことを思い返したか、幼さ残る顔に怖気を滲ませて踊場は引く。廉太郎が対抗するかのように拳をつくったが、喜一は厳しい眼つきのまま一顧だにしない。
「小僧、お前の無拍子の力量は体術においてはわしを凌ぐだろうが、だとしてもまだ、術などを用いたわしには勝てんと明言しとくぞ。そして逃亡に際してだが、とくに行き先としては機関の庇護下にある場所の近くへ出られるよう、策を講じてみる。梁渾や歪みの位置で七無に遭遇する可能性もないわけじゃねェが……わしとしては移動の他に、お前らに頼みたいことがある。力で脅したあとに言うのも、なんだがな……」
「なにをすれば、よいのですか」
「わしとともに梁渾に乗り込み、流出点を塞いでくれ」
喜一が懇願するのを見て身を乗り出しかけたのは廉太郎と踊場で、サワハは驚くばかり、小野は惑い、自分はどんな顔をしているやらわからない司。たぶん、驚いていたと自分では思った。喜一は自分の膝を掌で打った。
「こちらからうって出るも手、ということだ。七無は高位の術師よ。真っ向から対峙することになりゃ一般人のお前らはもちろん、わしも勝てん。能力では勝っておっても、実戦経験の無い司と小野の嬢ちゃんも同じ」
「で、でも、だからって切り込むっていうのはどうなの」
「黄泉の開門が四段階でなされるとすれば、負の気による流出点突破、それに伴う穢れの放出が一段階目。死霊の顕現が二段階目。審神者による解放が三段階目で、四段階目が二つの世界の同一化だ。この国が、神様の時代、原初の状態に還ることにならァ」
「でも司さんとわたしが相手に捕まらなければいいんでしょう? でしたら、遭遇の危険を冒して梁渾に長く留まり、流出点を塞ぐようなことはしない方が」
「審神者の代わりがおる、としたら?」
自分の言葉の意味を全員が呑みこむまで、喜一は黙り込んだ。それから全員の顔を睥睨して、お猪口の水面に目を落としながら言う。
「よほどお前ら二人を求めてはおったのだろうが、いろいろお前らから聞くうち、気付いた。……神代という女と、汀という男、異能者ではなかったはずが、異能者となった者ども。奴らは、歪みを認識しとったのだろう?」
「あ」
思い返す記憶の中の映像で、神代は歪みの場所がわかっているようにみえた。すいすいと歪みに落ちないように近付いてきて、そして、焼けて消えた。小野から伝え聞いた話でも、汀は突如として異能者の力を手に入れ、歪みに向かって小野を突き落としたという。
「まさか、淨眼を持ってた? でも、小野が察知できなかったんだから、異能者じゃなかったはずだし」
「だとしたら答えはみえてくるだろぉが。二人に共通する事実、背後に七無がいた事実。神代の時ァ明確に『借りてた』って発言もあったんだろ。そうだ、おそらくは七無は、自分の呪力・淨眼を他者に分け与えることが可能なんだ」
「ケド、それできるするなら最初から淨眼の人は自分で作れるとちがうノ?」
「条件があるんだろう。神代は干支一回りごとの周期性、汀は水子の墓を暴いたこと……。ユタには生まれ年の日は力が強くなる、という現象がある。自分に関連の強いものが集まる時節は力も集束されるてェことだァな。これと同じく、なんらかの日付、方角、行動といったものがあの二人に淨眼ほどの呪力を与えるだけの器を構築せしめたと考えられる。もし、わしらがうかうかしている間に条件が揃っちまったら、少なくとも汀と七無、二人の審神者が存在することになり」
先は言わずもがな、だった。息を呑んだ五人は沈黙のうちに酒を傾ける喜一を見つめ、自分たちの置かれている状況について、あらためて頭を悩ませた。
「もちろん、生来の淨眼使いじゃねェ奴を使うんだ、なんらかのリスクはあるだろう。だから今のところは門を開ききることなく済んどる」
「でも最終手段としては、十分に有り得るわけだ」
「だから止めたい。司、小野の嬢ちゃん。頼む、わしに力を貸してくれ」
「……まあ力を貸すのはいいんだけどさ。ひょっとして、このために淨眼を取り戻すように仕向けたの?」
頭を下げていた喜一は、司のじっとりした目線に気付いたのか、ふっと顔をあげるとそんなことはない、と苦々しげな顔をしてみせた。
「邪推はよせ。淨眼を取り戻させることについちゃァ、ばあさんと前々から話しとったさ」
「ばあちゃんが」
「死の寸前まで、気にかけていたのはお前のことだった。お前さえ元気でいてくれれば、と、そればかりを気にしておった。……己が継がせた力の不運を、嘆いとった」
「でも、淨眼もふくめてこそ、いまがあるんだと思ってるよ」
間髪いれずに、するりと身の内からこぼれでた言葉を聞いて、喜一はわずかに開いた口を閉じると、笑みをかたどって目がしらを押さえた。綺麗ごとではなく、ただの自らの本心によって生じた言葉は、口に出して己の耳に届いたことで、司にとっても強い力をもたらしてくれた。
そうか、自分はいまが大事だと感じてるんだ。素直に、こう思った。
#
《慈雨とやらの活動は、最初期から一貫して歪みの発生に努めていたようだねえ》
翌朝、ロビーに集った司たちは、赤馬からの電話を受けて情報を聞いていた。踊場は歪みの場所探しに際しての移動のためタクシーを呼びに行っており、廉太郎が携帯電話で話をうかがっている次第である。
「というと、あれか。以前の集会所ってのも」
《ああ。聞いて驚くなかれ、きみたちが犬神使いを追っていた際に踏み込んだ、あの住居のことだったよ。おれはあまり良い眼を持っていないのでね、細かいところはわからんのだが……地脈に細工をしてあるね。元来土地の持つ力もあるが、それ以上の気を溜めこむようにしてある。だから思念によって気を汚染した場合、術者にも気の逆流、フィードバックが起こるようになっている。これが犬神使い絶命の要因かもだね》
司は空恐ろしくなっていた。自分たちが目標と定めて動いた結果が、七無の足跡を辿ることとなっている。それは偶然による一致などではなく、おそらくはどのように辿っても突き当たるほど膨大に、彼が呪いの種子を各地へばらまいていたことに他ならない。
ひとつひとつはありふれた思い、呪いの類であったのだろうが、これら全てに関与しているとなれば、気味の悪さばかりが先に立つ。どれほど人の思いに沈みこんでいるのか。どれほど呪いに精通したのか。
そんなもの、一生を、人の悪意の間を縫って生きるに等しいのではないか。
《で、きみらが踏み込んだのは一階のみだったね?》
「まあ二階行く余裕はありませんでしたから」
《そうかい。見なくて、正解だったのかもしれない。おれは二階へ行ってみたのだがね、そこにあったよ、奴らの痕跡が》
「なにがあったノネ」
《呪いの、痕》
言葉の衝撃が、スピーカーホンから漏れだす音に乗せられてきた。
《彼らにとっては、べつだん呪うという意識もない、教義にのっとって行われた儀式にすぎないのだろうけどね。がらんどうの部屋の中に、沈み込んだ思念が澱となって漂っていたね。おれのように、感度の悪い眼しかない三流術師だから、感じきる前に遮断できたが。もしきみらの淨眼みたく鋭い感覚であれを直視したら……精神が参るね》
「赤馬さん、あんた自身は大丈夫だったのかよ」
《多少つかれたが、支障はない。やれやれ、きみらには今度ボリバーの葉巻でも奢ってもらわにゃ割にあわないね。それで、憑いてきた霊となんとか対話してみたところ、他の支部を教えてもらえたのでね、行ってみた。御崎町の廃マンションの四階だった》
「有名な幽霊マンションじゃねえか」
《いんや廉太郎くん、逆だね。幽霊マンションで、有名になったんだね》
「いや当たり前だろ。幽霊いないのに有名になるマンションってなんだよ」
《そういう意味じゃあなくてだね……あそこは、奴らが活動して負の気を呼ばわったせいで、引かれやすくなったのサ》
事故多発の踏切などと同じだ。気の吹きだまりとなった場所、それも負の思念に染められた場所は、同じ思考の人間には気が同調しやすい。霊とも、同調してしまう。結果が司のように口寄せされるだけであればまだマシな方で、意識の弱い人間は、手を引かれたまま向こうへ連れ去られることとなる。
《そしてきみらにもらった情報の中にあった、日月秀十の友人。うち二人が、ここにいた》
「いた、って」
《引きよせられて死んだのだね。片方はすでに向こうへ去ったのか、いなかったが。もう片方は残っていたので、話を聞いたあとで向こうに送ったよ。結果としてわかったことを報告するとだね、日月秀十も、この世にいないということだよ》
「……自殺ですか」
失望に似た色に瞳を染めながら小野が言えば、スピーカーの向こうで紙をめくる音がした。メモ帳かなにかに情報を記してあったのだろう。
《教義への不信からか、理由は判然としないがね。友人二名は、日月の死に疑問を覚えてここへ来て、結果引っ張られて死んだということらしいね……だが支部二軒を回って、彼らと対話したことで、手掛かりはつかめた。きみらが目指すべき場所は、S県山中の廃棄された施設、エムズオネマ・ホテルだ》
「エムズオネマ?」
すぐさま司が携帯電話で検索をかけると、廃墟マニアのサイトにあたった。レジャー施設と併設されるはずが計画がとん挫し、集客力に欠ける立地だったことから経営不振に陥り閉鎖され、以後しばらくはマニアたちの間でもそこそこの知名度と人気を博していたこと。しかし数年前から土地の権利者により手が入れられ、人の気配があるようになってマニアたちからは遠ざけられるようになったこと。
「で、ここのなにが目指す先だって判断させたの」
《支部二軒は、地脈に対する立地、方角などから受ける力の配置がほぼ同じつくりになっていた。力を発揮するために求められる方法論があるんだね、きっと。これにのっとって場所を選ぶのなら、S県ではそこしか考えられんのだね》
「こんなところが、見過ごされとったとは……」
驚きに顔色を変えた喜一の声が聞こえたか、赤馬は淡々と事実を告げた。
《ええとそれはだね、表向きに関与する権利者やグループは完全に表の世界の人間のみだから、かと思うよ。機関……統合協会は、光と闇を分け過ぎた。だから見過ごしたのだろう、一般世界の人間が、知らずとはいえ呪術に深く関わってるとは考えなかったのサ。境界の弊害ここに極まれりだね――ひとまずおれからは以上だよ、なにか質問は?》
「いえ、奴らの潜伏先と思しき場所がわかれば、十分すぎます。ありがとうございました、赤馬さん」
電話越しだから見えていないと知りつつも、小野は頭を下げていた。赤馬は彼女の行動が見えているかのように、そんなかしこまらなくともいいと言って、そこでテレホンカードが切れかけたか、ブーっと音が鳴った。
《……長話をしてしまったね。それでは、幸運を祈っているよ。またなにかあれば近所のコンビニにかけてくれたまえ、公衆電話で連絡する》
「ありがとう、赤馬さん」
《元気な口論義くんを引き連れて、また遊びにきな》
がちゃんと音がして、通話が途切れた。あの町、自分たちの住む土地との接点が途切れてしまったようで、寂しくなった。だがその分、口論義と共に帰りたいと思う気持ちが強くなるのも感じていた。思わず喜一を見てしまった司の目には、負の感情がこもっていただろうか。
「……やるべきを粛々とやるぞ」
視線への解答か、唇に載せた言葉はこれだけだった。
「タクシーが来たよ」
呼びに来た踊場に、振り向きざまうなずきを返して、司は荷物をまとめた。
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当初の目的だった歪みの場所への移動、に加えて、慈雨の活動場所と判じられる位置でもあるエムズオネマ・ホテルを目指すことになったと踊場に伝えると、彼は顔を引き締めて、冷静にことにあたろう、と司にいった。自分に向けて言い聞かせているようにも見えた。
タクシーに乗ると、山を下り、市街地を抜けて、また山をのぼった。ちょうど、やまびこを返してきそうな位置にあった、市街地を挟んで宿の真向かいにある山道を、ひた走る。時折携帯電話でGPS機能を確認する踊場の横で、司は黙ってうつむいていた。
「このあたりで」
運転手によびかけて停車してもらうと、最後に曲がったところから続く、なにもない真っすぐな道の中ほどだった。宿を出て、二時間弱の道のりである。いいんですか、廃墟は入れませんよ、などと運転手が返してきたところを見ると、廃墟マニアの中にも同様の手段で移動してくる人は多かったらしい。構わず司たちが降りて、荷物をトランクから出したのを見て、それ以上の助言はしてこなかったが。
「あ。ちなみに、ここ数日でこのあたりまで女の子を乗せてきませんでしたか。歳は十八、髪はセミロングで、若干パーマかかってる」
思い出したように踊場が言うと、運転手は思い出せない様子でハンドルに体重をあずけた。
「へえ……見た目はあんま覚えちゃいないんですが、ここまで乗せてきた人はいたような気がしますね」
帽子のつばをつまみながら、運転手は言った。口論義も、タクシーでここまで来たのかもしれなかった。
「そんでお客さん、戻ってくる時間次第じゃ、待っていることもできますけど」
「お気づかいありがとうございます。では一時間だけ、待っていただけますかな。それで戻ってこなければ、町へ戻っとってください。また呼びますので」
喜一が答えると、運転手は首をかしげた。戻ってこなければ、というところに、集団自殺の可能性でも見たのだろうか。
「そうですか。では」
しかし最終的に深入りはしないと判じたのか、運転手はちいさくうなずいて、帽子から離した手をハンドルへ置いた。すーっと百メートルほど進んで、退避場所を使ってUターンすると、司たちに頭を下げながら道の向こうへ停車した。そちらに頭を下げてから、照りつける日差しを避けるように、雑木林の中へ踏み込んだ。
「踊場さん、ホテルまではどれくらい?」
「道なりにゆけば十五分だね。きちんと道があればの話だけれど」
腐葉土を踏みしめながら歩く。先頭を廉太郎、続いて踊場と司、真ん中に小野でサワハと喜一がしんがりを務めていた。サワハは所々に手を触れて、レンズを設置しつつ歩いていた。
道は途切れそうになると、少し先で開ける、という、奥へ奥へと人を誘うような形で続いていた。見通しがきかなくなることこそないものの、道行く人間を不安にさせるようで、まだ秋にもなっていないというのに立ち枯れしている木々が目立つことと共に、得体のしれない不安感を投げかけてくる。
けれど不安の種は開花に至ることはなく、森を抜けて、司たちはかつて駐車場だったと思しき場所に辿り着いていた。がらんとした駐車場は、開業してからこれまであまり車を載せたことがないと見える、綺麗なままに朽ちた様相を呈していた。ひび割れたアスファルトの彼方に、ホテルの外観が見えている。白亜の城は、森の中に取り残された時代の名残だった。
「口論義の娘を探しつつ、歪みの探索を行う。歪みを見つけ次第わしゃァ準備にかかるから……準備が完了するまでが、口論義の娘を探すにあてられる時間だァ」
「完了したら、有無を言わさず梁渾行き、ってことかよ」
「ああ。また、慈雨の人間があまりに多すぎた場合は、先のタクシーまで撤退する。一般人相手に力を振るうのは得策じゃねェからな。とりあえずここまでの道に、足止めの用意はしておいたが」
つぶやいて振り返り、道を見やるとあちらこちらに札のようなものが張り付けてあった。三枚のお札か、などと、いつだったかと同じセリフを廉太郎が漏らした。
「そういうわけで、人数が多いのはよろしくない。逃げるときァさっさと動ける人数がいいからな。かつ、二手に分かれるとき単独行動にならねェようにしたい。よって、行くのはわしと、小僧、司、小野の嬢ちゃんだ」
「僕とサワハくんは」
「待機しといてくれ。エスニックな嬢ちゃんは、遠見が使えるんだったなァ。そいつでわしらを見張りつつ、だ」
「了解したのヨ」
もの言いたげに唇を噛んだ踊場であったが、小野と廉太郎、そして喜一に視線を巡らせ、荒事になった際に対応できる面子を選んでいると気付いたらしく、黙ってポケットに手を入れた。次いで司に向き直る。
「ペン型スタンガンはなぜかなくなっていたのでね、以前の催涙スプレーの余りと、普通のスタンガンしかないんだが」
「貸してくれるの?」
「きみが一番あぶないのだろう? 狙われる立場でもあるし、戦闘技能があるわけでもなし」
「守りますよ。わたしが」
「だ、そうです……でも、借りとくよ」
小野にうれしい言葉をかけてもらったが、実際に司が眼にした小野の戦闘における勝率はあまり、高くなかったりする。信頼していないわけではないが、用心に越したことはないと、武器を小刀と逆のポケットにしまいこんだ。少し、小野は不服そうだった。
動きにくくないか足を上げ下げして確かめていると、サワハが潜入班四人の身体をぽんぽんと叩いてレンズを仕掛けていった。横で廉太郎はシャドーボクシングをはじめ、喜一は黒革製の手袋をはめ、小野も柔軟運動を行っていた。
五分ほどして、用意ができる。遠目に見えるホテルには、いまのところ人影も見受けられないが、油断は禁物だと己に言い聞かせつつ、爪先を向ける。
「五分様子を見たが、人の出入りがある時間じゃァなさそうだな。では――踊場、わしらが三十分経っても帰ってこねェようなら、ここの」
言葉と共に、一枚の名刺を差し出す。
「御手洗の番号に、かけろ。こういうときのためだけに持たせた携帯電話だ、かけるだけで緊急事態てェことが伝わる」
「わかりました」
「んじゃ出発するかァ」
背広をひるがえして歩き出す喜一の背中を追うと、次第にホテルが大きく瞳に映る。正面からではなにかと不都合が多いだろうと、ある程度進んでから裏手に回り込む。
人の目がないか、辺りに視線を巡らしながら司は動くが、喜一はだれかに見られている可能性を考慮していないかのように、ずんずんと進んでいく。廉太郎と小野も、さほど首を動かすことはない。気配でも読んでいるんだろうかと、己との違いに溜め息をついた。それでも安心はできず、高鳴る胸を服の上から押さえながら、司は呼ばれるままつき従っていった。
ゴミ捨て場や廃材置き場の間にぽつんと設けられた出入り口に気付いた喜一は、手で招くジェスチュアをして司たちを呼び寄せた。廉太郎と小野がうなずきを返す。
「人がいたら動きと声を止めとけェ」
ドアは、金属の軋む音を立てながらすいと開かれる。波打って動く蛇のごとく、滑り込んだ廉太郎は先にある空間を見回しながら、すり足で廊下を行く。すぐ先で太い廊下と繋がっているらしく、その近くまで進んで、向こうに人がいないかを確認していた。いないと判断したのか、司たちを招く。
司がドアの中に踏み込むと、すぐそばでは、喜一が背後のゴミ捨て場に警戒の目線を残しつつ入ってくるところだった。つくづく、周囲への警戒レベルが高いと感じる。日常的に訓練を行ってきた人間と、自分のように安穏と暮らしてきた人間との差を思い知った。
「人はいないみてぇだ」
「……よし。互い、すぐ駆けつけられるよう、A棟一階だけを探せェ。司は小野の嬢ちゃん、わしは小僧と組んで動く」
「淨眼持ち二人でいたら危なくない?」
「歪みを早よ発見しろ。そして、見つけたならば一人だけ歪みの向こうへ行き、もう一人がわしらに報せェ。ひとりずつに分断されれば、二人同時に捕まる可能性は低くならァな。無論、探索中の危険度は上がるが、二人でいりゃ危険域の察知能力は上がる。回避は容易いはずだ」
「察知能力とか言われても、たったいま三人とのちがいを思い知ったばっかなんだけど」
「気配を読んだりは、お前にゃできん。んなこたァわかっとるわ。だが負の気の流れは、みえるだろぉが。ここの場合、気の濃い場所は連中が集まっとる場所だ。気の流れが濃くなるのがみえたなら、即座に引き返せ」
「ああ、なるほどね」
言われて、司はみることに集中する。
視界がぐっと近く、感じられる。周りの気の流れが、体表の触覚のごとく感じられるよう、視覚を研ぎ澄ます。みるだけで、肌に触れていると感ずるように。
取り戻し、この数日でやっと使いこなした淨眼の感覚は、気の流れが強い場所であれば知覚する範囲を大幅に広げてくれる。かつて梁渾に住んでいたときは、まだこのような芸当はできなかったのだが。穢れを浄化してもらう際に御手洗からついでだと教えられた技法だった。
「……あれ」
「どうした、司」
はずなのだが。喜一の言葉も耳に入らず、また自分が不調に陥ったのではないかと不安を覚えつつ、視覚の彼方を手元まで持ってこようと、力を集中させる。
けれど、知覚できる範囲は、常と同じままだった。
「司さん。ここ、気の流れが」
小野に言われて、み回して、愕然とした。
周囲には、気の流れが、一切なかった。
「そういや、入るときも第六感がなにも働かなかった……!」
「んだと? じゃあなにか、負の気とやらもねえような奴らばっか、ここにいるってのか」
「そりゃ有り得ん。人間は我欲にとらわれる生き物だ、人より少ねェことはあれど、大なり小なり煩悩を持つ。人数が多くなればなるほど相乗効果で力は上がる、まったく負の気がないなんてこたァ」
混乱する喜一を尻目に、司も困惑に心中を満たされる。だが、ないのだ。なにもない。がらんどうで空虚な、思念の感じられない空間が広がっていた。思いも、呪いも、どこか彼方へ連れ去られてしまったように――この感覚に、記憶が揺さぶられた。
「だれかが大きく歪みを開いて、負の気が流れたあとなんじゃ」
加良部のときのように。神代のときのように。もしやと逸る気持ちに急かされて、司たちは二手に分かれた。廊下に並ぶ部屋を、ひとつずつ開いていく。
「まさか、本当に汀と己を用いて、流出点とやらを開きにいったのでしょうか」
「ありそうだけどね……だとしたら、会長はどうなったのか」
想像は悪いほうにばかり働く。考え過ぎないように作業に努めて、扉を開けては、閉じて、点検していく。だがどの部屋にも、人がいたような気配はあるものの、薄い残り香はわずかな時間の経過を匂わせる。マリー・セレスト号に乗り込んだ人間になったような、そんな気分だった。
やがてどの部屋も回り終えたのか、喜一と廉太郎が戻ってくるほうが早かった。あとは四人で一階フロアすべての部屋を見て回り、ロビーの大きな窓越しに踊場たちへ手を振ってから、一番近くの部屋に、窓を開けた状態で入ってドアには鍵をかけた。現状の不可思議さについて電話をかけると、ノイズがひどかったが、なんとか通話はできるようであった。
《人がいない、というのかい》
「まだホールは見てないから、そこに全員いるのかもしれないけど」
《……集会の真っただ中という可能性もある。様子を見たら、すぐに逃げてほしいが》
「ロビーの回転扉から逃げりゃ、回天竺で時間稼ぎもできる。ここまで来て引き返すほうがナンセンスじゃねぇか」
「歪みが存在できるだけの負の気がない以上、あまり留まるのも得策じゃねェんだがな……ひとまず、探索の必要性はあるか。慈雨がいたことァ、間違いねェようだからな」
教本と思われるものを取り上げて、喜一は言った。
「扉を開けて、すぐにレンズを設置できるか。中を詳しく見ておきてェが、やはり遭遇の確率は下げておきたいんでな」
《おっけーよ。小野ちゃんにつけたのレンズでみんなの状態確認して、タイミングよく喜一サンのレンズ扉向こうに置くする》
「頼む」
作戦が整うと通話を切り、廊下に出る。司たちには知覚できないが、いま小野からレンズが放たれ、この廊下に視界を形成しているのだろう。すぐにホールの入口である両開きの扉へ急ぎ、今度は廉太郎が開けて、喜一が身体を入れる準備をした。
「いくぞ」
廉太郎が三本指を立てる。ひとつ折り、ふたつ折り、最後の一本を折ると同時に扉を開く。
――レンズが設置される。音もなく扉は閉じたが、それでも、気付かれていないかは気にかかった。ところが、喜一はすぐに廉太郎を押しのけると、また扉を開いた。
「ちょ、じいちゃん?」
「いた」
だれが、と内心びくつきながら、司と小野、廉太郎は開かれた扉の向こうを見て、逃亡か接近かの判断を下そうと頭を働かせ――硬直した。喜一が駆けよる先、ホールの真ん中には、人が倒れていた。
口論義、風鈴が。
「かっ、会長ッ!」
廉太郎が、いちはやく飛び出して喜一を追い抜かん勢いで迫った。司と小野も近づく。司たちと口論義のほかだれもいないホールに、四人の足音だけが天井高くまで広がり、跳ね返り、反響していた。
倒れていた口論義に眼をやる。素早く、なんらかの痕跡がないか見回したが、身体に異常はないようだった。呪いなどにあてられたわけでは、ないらしい。けれど脈をはかる喜一の横で触れた身体はまだ夏の盛りのいまにいるとは、信じられないほどに冷たい。最悪の想像が頭をよぎる。
「……大丈夫だ。弱ェが脈はある。気を失っとるだけだ」
「本当ですか。よかった……」
安堵してへたりこむ小野の傍らで、廉太郎は口論義の手を握っていた。司は三人で押し合いしているわけにもいかないと立ち上がり、また周囲に眼をやる。無事ということは、それもわざわざこんなところへこれ見よがしに置いておくというのは、罠の臭いがして仕方がない。さすがに、天井から檻が降ってくるということは、ないようだが……
「――揃って来てくれるとは、嬉しいかぎりですよ」
声に振り向けば、ホールの奥から、黒い衣裳に身を包んだ男が現れていた。やっぱり罠か、と苦虫を噛み潰したような顔でかぶりを振って、三人が敵意を向ける。司は言葉を向ける。
「汀」
「ええそのとおり。私ですよ」
敵意を受け流し、微笑みを絶やさぬ狂信者は静かに、持っていた包みを降ろした。あのときと同じ、覚えられることを拒む、過度に印象の薄い顔のまま、こちらを見つめていた。
「再会のときは早かったようだ。これならば七無さんが行ったことも、芽が出なかったわけではなかった、といえますか」
「……テメエ、汀。この人に、なにしやがった」
握った拳を、振り下ろさんばかりに震わせて、廉太郎が辛うじて言葉を口にした。叫びを口にして殴りかかるのではないかと思っていたが、司が思ったよりも、冷静さを保てているらしい。
問いかけに汀は左手を振ることで返し、自分がなにもしていないとアピールをはじめた。左手には、黒い手袋がはめられていた。
「私は、なにも。ただ彼女が絶望した、それだけ。結果として歪みを開くだけの思念だったのでね、みなさんが梁渾に渡るため利用させてはもらいましたが」
「絶望だ? 絶望っつったか? テメエこの人を絶望させるってことが、テメエが絶望する引き金になるかもしれないとは考えなかったのか? ……考えなしの馬鹿が、身をもって行動の責任ってのを背負わせてやる」
廉太郎の静かな咆哮に、汀は臆したのか、一歩引いた。彼の冷静さは、ぎりぎりの縁で止まっているだけらしい……司や小野と、同じだろう。
苦笑を見せるだけの余裕は残している汀は、足下の包みをほどきながら、静かに声を漏らした。
包みからは、唸りが漏れた。同時に、濃く香る、悪臭。小野がえずく。
第六感の警鐘が、感じられた。
「勘弁してください。絶望を与えたのは、私ではないのですから……さて、それにしても。彼女を連れ帰ってあなたがたをおびき寄せる餌とする手は考慮していましたが、まさかこうも早くお会いできるとはね。七無さんがこれを私に預けていったのも、こうなることを見越してか……つくづく先がみえている方」
「おい貴様ァ、動くな。包みを解くのを――やめろ!」
喜一も包みの危険さに気付いたか、鋭い動きで取り出したなにかを、投擲した。動きを止めた汀の左手の着弾点から床に転がる音で、投げたのが小銭であることこそわかったが、包みからの危険な臭いは消えない。
「痛いなあ、ひどいですね」
持ち上げる左手は、包みから離れた。手には手袋をしているように見えたが、ちがう。その手は、おぞましくふくれあがったかさぶたに覆い尽くされ、黒い鱗ひしめく魚体のごとく、びち、びち、と時折皮膚が跳ねていた。
もう汀は触れてもいないというのに、もぞりと、包みが蠢いた。あの、人魚のときと、同じ。汀の張りついた笑みが、醜く、暗く、負の気の中へ沈み込んでいく。
「申し訳ないが、ここであなたがたも梁渾へ来ていただきます。このホテルの負の気はすべて、信者のみなさんを梁渾へ送るため費やしてしまいましたが……梁渾でたっぷりと負の気を吸ったこれならば、負の気を撒き散らし歪みを開くにふさわしい媒体」
「ふざけるな――!」
「さあ行きましょうか」
這い出したのは、形の無いもの。
真取眼ですらみてとることのできない、気配としか呼べないものが、包みから広がる。
負の気にまかれて、ホールの空気が変質する。人魚との戦いの際は、もともといたのが負の気満ちる梁渾であったため感じなかったが、呪われた品というのはここまでの気を発するのかと、気分が悪くなる。なにも感じられないはずの廉太郎でさえ、顔をしかめた。背後まで、歪みがいくつも広がり、退避もできなくなる。
この事実を伝えようと司が口を開いたが、次の瞬間には廉太郎が疾走をはじめていた。
「ぶっっ飛ばす」
「止まったほうがよろしいかと」
「廉太郎さっ、」
司の声が届く前に、包みが動いた。
ほどけた布の中から出てきたのは、崩れかけた、犬の頭部だった。瞬時に頭の中で繋がって、やはり慈雨と七無は犬神使いの家を目的に用いるよう仕掛けていたと気付いて、
「梁渾での拾いものです」
時すでに遅く、左前腕から出血した廉太郎がバランスを崩し、汀にあと一歩のところで歪みに落ちて、消える。犬神が、汀に使役されている。
「馬鹿な、犬神がこれほど強い力ァ持つわけがっ」
喜一の言葉を最後まで聞く前に、ずきりと瞳に痛みが走る。横をうかがえば小野も同じらしく、こめかみを押さえて眼を閉じてしまっていた。思わずもう一度、犬神の本体、骸を視認してしまう。瞳に、砂を押しこまれているような感覚があった。
「あ、れ、まさ、か……」
「正確には梁渾で拾ったのは骸のみでして。中身は、向こうから引っ張ってきました」
推測を述べる前に、汀が言う。つまりは死霊。穢れを伴う、黄泉からの帰還者。あの犬神は死の淵から引き戻されて、この世界まで引っ張られてきたのか。
「もう一息、というところかな。私たちの計画完遂は、すぐそこまで迫っています。あとわずかな調整のため、あなたがたの淨眼が必要なのです」
「下衆が……! 死してなお使役され苦しみぬいた亡霊に、まだ現世で苦しみを与えるたァよ。させやしねェぞ、貴様らの思い通りになんぞさせてたまるるか! 行くぞ司、小野、こうなりゃ当初の予定通りこのまま歪みを渡り、黄泉路を閉じて、」
「はははは! それをさせないために、あの方はあなたが共にいるこのときを狙い、私に犬神を持たせたのですよ!」
背中から、心臓だけを前に押し出されてしまいそうな威圧感があった。これ以上濃くなりようがない黒の中に、まだ絵の具を塗りこもうとするような、溢れんばかりの意志が感じられる威圧は、背筋への圧力を痛みに変えるまでに時間を要さなかった。
途端に小刀を抜いていた司が振り向くまでに、視界の端で閃光が散った。
両足を焼かれた喜一が、骨を失くしたように頼りない動きで、前のめりに倒れていた。
「……じいちゃん……?」
そして威圧感の正体は。
司たちの背後、取り囲んでいた歪みの内から現れた、丙水子だった。