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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
粛生の理編
31/38

三十一題目 「誰がだれで誰なのよ」と口論義が絶叫した

        #


 口論義が辿り着いたのは、山奥にある廃ホテルだった。

 レジャー施設と併設するはずが誘致に失敗し、客足が伸びないままに放置された、時代の骸をさらしている場所である。デニム地のジャケットに綿のパンツを合わせ、動きやすいスニーカーで腐葉土を踏みしめた口論義は、木の影から顔を出した。

 近くを走る林道でタクシーから下ろしてもらい、ゆっくりと歩いて一時間。携帯電話の電波が通じるかを常に確認しながら、口論義は敵の根城へ迫る。位置情報アプリケーションを起動したところ、間違いなく、あの日拾った紙にあった住所である。


「……ついた」


 開けた土地にぽつりとたたずむ白亜の建造物は、近づくほどに汚れが目立ち、駐車場のアスファルトにもひびが入っているのがわかる。風雨に浸食された、人の気配がまるでない建物。の、はずである。

 しかし口論義はこれまでの経験から、ここが空き家でないことを感じとっていた。人の気配がない気配、という、矛盾しているがそうとしか表せない感覚を、彼女は知っていた。長年にわたり慈雨の会を追いかけてきて、その過程でさまざまな場所へ足を踏み入れたことが、彼女に気配を察する力を与えていた。ここには、多数の気配がある。


 歩み寄れば、心臓が高鳴る。

 谷峰であのような事件に巻き込まれた直後、どこからか現れた紙片を手に入れ、そこに慈雨の会の所在地が示されていることに気付いたとき。怪しいといぶかしみつつも、このタイミングで拾ったことに口論義は呼ばれている、と感じてしまった。なぜこう思ったかはわからないが、強いていうのなら、紙片から妙なものを予感として嗅ぎ取った。というところだろうか。

 だが予感は、ホテルを目にした瞬間に確信へと変わる。

 ポケットの中で携帯電話のICレコーダーを起動し、かつ警察にいつでもかけられるような状態にして、口論義は意を決して踏み出す。駐車場を突っ切り、円形のロータリーを抜けると、回転扉の向こうに動く人だかりを目にした。

 あの中に両親が、と思うと心がくじけてしまいそうになるが、回転扉を押しあける。むわっと、気圧の差だけではなくなにか位相のちがう場所へくぐってしまった感覚があり、自分を見つめる人々の視線が、圧力として身体の前面にのしかかってきたと思った。

 ロビーに立ち尽くす人々は、それぞれ格好は統一されておらず、一見しただけでは普通の人にしか見えない。けれど瞳の奥に、なにもない。個がない。集団として、群れとしての在り様以外を放棄した姿は、見ているだけで吐き気を催すものだった。


「慈雨の会って、ここかしら」


 努めて軽く、強い物言いを保ちながら、口論義は問う。人々は顔を見合わせ、不審者への応対に迷った様子だったので、ひょっとしてあの紙片はなにかの間違いだったのではないか、と口論義は不安になった。


「はい、ここが慈雨の下です」


 ところが不安の暗雲は、瞬時に吹き払われた。

 しかし薄い雲を吹き飛ばして現れたのは、嵐をともなう大雨の雲。


「またお会いすることになるとは。どこから、私たちのホームを知ったのかな?」

「……こっちにもいろいろ、情報網があるのよ」


 ロビーにいた人々が、声の元へ頭を下げる。口論義だけがただ一人、まっすぐに相対していた。くたびれたジャケットにボトムスにシャツ、どれも黒く、個性を排した様子の男は、覚えられることを拒否するように印象の薄い表情で、微笑みかけてきた。


「なんにせよよくここまで来れましたね。立ち話もなんでしょう、奥にいくとするかな」

「どこだっていいわ。あんたと話すことなんてないのよ……汀」


 犬歯を剥いてうなる口論義に、汀は困ったような笑みを返して、二階へ行く階段を示した。

 その方向をよく見ると、信者とはちがうのか、口論義同様に頭を下げていない人間がいた。


「――おい、汀。儂を無視して話を進めるでないぞ。娘、お前もだ。先客はこちら、順くらいはきちりと守っておけ」


 仕立ての良い灰色のスリーピースをがっしりした身体にまとい、皺で上下を挟まれた眼光は鋭く、険しい。見れば黒目の中に光がなく、鷲鼻の下で唇はきつく引き結ばれていた。

 輪郭を覆うように生える短いあごひげとオールバックにされた白い頭髪は、猛々しい顔つきと相まって、獣が人と化す際わずかに残された体毛のように見えた。

 目が合うと、獰猛な肉食獣に出くわしてしまったかのように、口論義も怖気を感じた。


「いやはは、弱りましたね。ああ、あなたは先に二階の二〇四に行っておいてくださいますか。ドアは開いておりますし、罠を仕掛けるほど我々は暇でもないので、ご安心を」


 こちらの疑心を見透かしたように牽制してきた汀は、すたすたと老人に近付くと、なにやら話の続きをうながした。口論義は老人の存在が気になりはしたが、あまりの威圧感にどうにも、この場から逃げ出したくなる気持ちの方が勝り、横を通り抜けると階段へ向かった。


「さて。では、今後の方針ですが、平坂さんは……」


 階段にさしかかると、二人の会話は途切れて耳にまで届かなくなった。

 電気は当然届いていないため、薄暗い階段は物陰になにか隠れていそうで、気味が悪い。ポケットの中で、左手は携帯電話を、右手は踊場からくすねたペン型のスタンガンを握っておいた。

 息苦しい闇を抜けると、二階に出る。二階にも信者の人々がうろうろと、どこへともなく視線をめぐらせていたが、口論義を見たときの反応はまちまちだった。普段はいない不審者がうろついていることに警戒した様子の者、そもそも口論義が目に入っていないのではないかと思わせるほど、すべてがうつろな者。

 どこかに父母がいるはずだ、と思うと、はやる気持ちが自然と首を動かす。ソファに腰掛けてうつむいた者、隅に寄り集まってなにやら会話している者、さまざまな人々をためつすがめつして、父母の面影を探してしまう。しばらくそうしているうちに、肩を叩かれ、スタンガンを引き抜きながら振り向くと、汀がにこりと微笑みかけてきた。


「お待たせしました。二〇四はこちらにはないのですが、どこへ行こうとしていたんです?」

「……べつに、どこでもないわ」

「左様で。それでは行きましょうか」


 少し戻ってドアを開け放ち、開けたままにドアストッパーを挟むと、奥へ進んで窓と網戸も開け放った。逃げ道を確保してやろうという気遣いに苛立ちながら、口論義は腕ぐみして壁にもたれた。

 本来はベッドなどがあっただろう位置に、ちゃぶ台と座布団だけを置いた質素な部屋で、座布団に腰を下ろした汀は、ペットボトルから湯のみにお茶を注ぎ、ひと口飲んだ。もはや断られることを予感していたのか、お茶を飲むことも、座ることも、勧めたりはしなかった。


「何年、になりますかね」

「なにがよ」

「あなたが私を追い始めてからですよ。学生風情の情報収集力、とはじめは大した警戒もしていなかったというのに、少しずつ探索の範囲の広げ方、狭め方、巧みになっていったものです。じつは幾度か、危ういときもあったのですよ。今年の冬ごろなど、辿られていたら当時の集会場を突き止められていたかもしれない」

「……あれも、あんたが関わってたの」

「直接に関わりを持ったわけではありませんが、まあ、そういうことです」

「間接にでも関わりがあるなら、も少し責任感じて萎縮しときなさいよ」

「たしかに行動と態度には責任が伴うものですが、間接的なものまですべてを追っていたら、あなたも私も他国の貧しい民のためいますぐ自殺することが当然となりますよ」


 私は己が直接に起こした出来事にしか責任をとれませんし、それ以外はするべきではない、などと言いながら、また汀はお茶に口をつけた。口論義は議論することを無駄だと感じ始め、いきなりに本題を切りだした。


「父さんと母さんを返せ」

「かまいませんよ」


 湯のみを置いた汀は、こともなげにそう言った。不信感をあらわにする他ない口論義は憎々しげに汀をにらみつけ、誤解しないでください、という汀に対して、さらなる敵愾心でもって応じた。汀は頭をかいた。


「参りましたね。あなたも同じか」

「なにと同じだってのよ」

「以前こうして、ご家族を取り返しに来た方と」

「ほかにも、いたっていうの」

「自分だけが辿りつけたとでも思っていたのですか? それほど世間の人々は無能な方ばかりではありませんよ、幾人かは辿りついています。そのすべての方があなたと同じ言葉を口にし、私がかまわないと言うと、敵愾心を剥き出しにした」


 できの悪い子供を眺める教師のような目で、汀はゆったりと述べた。、口論義は怒りか、恐れか、いずれからくるのかわからない震えを覚えながら、汀の言葉に惑わされぬよう心を強く持った。


「かまわない、なんて。そんな言葉に騙されるわけないでしょ。だいたい、取り返されてかまわないなら、逃げ回る必要なんてないじゃない」

「私自身はかまわない、というだけです。私についてきてくれている方々が、嫌がるのですよ。あまりに周囲に露見しやすい場所にいると、頻繁にあなたのような方が訪れることになりますからね……うるさい、わずらわしい、うとましい、という意見が実に多い。だから逃れるのですよ。現に、あなたのようにここまで辿りつけた方には、逃げることなく私は応対している」

「これまでに来た人にも?」

「これまでに来た方にも。まあ、これまでに来た方の、だれひとりとして――家族と共に帰った方はいませんが」

「なっ……」


 絶句する口論義に、汀はのんびりと告げる。窓の外の景色に目をやりながら、懐より一冊の本を取り出す。慈雨、と小さく印字されたそれは、まちがいなくこの場所におけるバイブル、教本と呼ばれるものだろう。

 ぱらぱらとページをめくり、汀は声に出してあの一節を読んだ。


「『得難き幸福を忘れなさい。ただ今の自分を思う、易き幸福の下に』」

「……な、によ。あんた、あたしまで洗脳しようっていうの」

「べつにそのような腹積もりはありませんよ。慈雨における教えが、洗脳であることは否定しませんがね」

「はあ? 認めるの? 自分がカルトだって?」

「カルトだと認めるつもりはありません。世間からそう見えることは否定しませんが。洗脳といっても、私が口にするものは少々ニュアンスがちがう。文字通り、頭を洗うだけですから」

「散髪屋にでもいけば」

「茶化さないでいただきたいね。誤魔化したくなる気持ちはわかりますが……そもそもあなたは、ご両親を連れ戻して、だれが幸せになれると思っているのですか?」

「少なくともここにいて幸せにはなれないでしょ」

「そう、その通り。それは確かにその通りです。が、ここにはさしたる不幸も存在しません。半永久的な安寧があります。これこそが、易き幸福」

「状態を比較する対象として不幸があるから、幸福があるっていうつもり?」

「少なくとも私と、ここにいる人々は、そう考えています。人間は原初の存在、状態としては不幸であり、不幸が取り除かれてはじめて幸福なのだとね」

「は。安い幸福ね。そんなもんに縛られてんじゃ、たまったもんじゃないわ」

「しかしあなたでは、その安い幸福さえ与えられなかったはずでは」


 笑みを崩さぬままに言い放たれ、口論義は沈黙した。頭が揺れて、目の前が、視界が、明滅するような錯覚に襲われる。

 考えることを回避してきた、一言だった。ずっと、両親を助けるために邁進してきた口論義だったが。その実、自分では支えになれなかったから、両親はいなくなったのではないかと。自分で自分を疑いながら、蔑みながら、ここまで来たのだった。

 汀は拳を震わせる口論義を横目に見ながら、また誤解なさっていませんか、ととりなすように言う。


「それでいいのですよ。本来はね。ただ、ひどく傷ついた人々には、まず不幸を取り除く癒しが必要なのです。失礼ながら、あなたとあなたのご家族は、口論義夫妻に癒しを与えられなかった。だから彼らはここへ来たのでしょう」

「あんたの言う、この慈雨の教義が、あたしの両親を救ったっての……?」

「心の助けにはなったのでしょうね。なるだけ欲を捨て、叶う望みだけを細々(ほそぼそ)と細々(こまごま)と手に入れていく生活が。我々は、我々になにも強制はしません。与えたものを投げ捨てられてもかまわない。ひたすらに与え、尽くし、受け入れるのみです。不幸を成す多様な価値観への懐疑と脱却、新たな価値観の創造が必要なのです。そのためにまずは生活をしやすくなるよう、雑多な物事を頭の中から洗い流す。これを指して、私は洗脳と呼びます。ここの人々にも、洗脳という事物の旨は伝えてあります。それでいて、だれも出ていこうとはしないのです」

「小難しい教義で理解を阻んで、典型的なツァイガルニク効果を誘発させてるだけじゃない。漠然とした『不幸』の概念で不安感まであおって、こんなのリスクコミュニケーションを用いた心理誘導に過ぎないわ!」


 人間は未達成の課題、やり残した物事の方が達成済みの課題よりも強く意識に残り、またその意識が残ることとは、緊張状態を持続させることを示す。解決を先延ばしにされることで起こるこの緊張に取り入り、教義を読み解かせることで解決し、また新たな課題を与え緊張を増やす。これがツァイガルニク効果である。また不幸の概念を頻繁に提示すること、リスクコミュニケーションも、緊張を与えるアイテムである。

 こうした緊張と緩和の繰り返しで、宗教は人に取り入るのだ。信頼させ、頼らせることで、自主性を徐々に奪っていく。


「出ていけないようなシステムを、個々に役割を与えることで作りだしてる。妙な教義と儀式で未体験の感覚に触れさせることで、神秘性と選民思想を植え付けてる。それだけでしょ!」

「そのようなつもりはありません。かの宗教のようなホロトローピックブリージングやそれに伴う強直性痙攣による偽の神秘体験など、必要ありませんからね。……どうやらお話をしてもらちが明かないようだ。じかに、お会いになるとよいでしょう」


 あっさりと言うので、口論義はたじろいだ。動揺を悟ったように柔和な表情を浮かべた汀は立ち上がると、混乱している口論義の横を抜けて、廊下へ出ていく。ついていくほかない口論義は、スタンガンをひときわ強く握りしめて、ついていく。

 一階へ降り、ロビーを横断すると、大きめの両開きの扉の前に立った。汀が押し開くと、扉の向こうは広いホールとなっていて、何人かの信者が、うろついていた。心臓が締め付けられるような心地がして、見回すと、果たしてそこに、いた。

 多少痩せてはいたものの、見間違えるはずはない。二人寄り添い、談笑している父と母が。ホールの隅にある椅子に腰かけて、こちらに頭を下げていた。心臓が高鳴る。


「どうぞ、お声をかけてさしあげるといい」

「……いいの?」

「無論です。彼らがあなたの傍でも幸福でいられるのなら、私も彼らがここにいる必然はないと思っていますので」


 半分以上、汀の声は耳に入っていない。

 口論義は、少しずつ近づいて行って、けれど、なにを話してよいものかと考えが迷っていた。ずっと会いたかった両親。最初のひとことは、どうすればいいのかと。ただ平然とひさしぶりと言えばいいのか。それとも抱きついてしまおうか。ぐるぐると、数年にわたって思いつめてきた緊張の糸が巻き取られ、いまにも張力は限界に達しようとしていた。

 一歩ごとに、平静でいられなくなっている自分に気付き、自覚が追いついたときには、もう口論義は涙をこらえられなくなっていた。夢にまで見た両親が、いま目の前で、穏やかに笑っているのだ。

 当時の様子からは考えるべくもないほど、穏やかだった。かつて研究のすべてを奪われ、心折れて自棄になり、自殺未遂を繰り返していたような二人の姿は、そこにはない。これだけでも口論義は安心してしまい、けれど汀がこの穏やかさの影にいることを思うと、複雑だった。


「父さん、母さん」


 ただひとこと、考えなしの言葉がこぼれおちた。もうあと三歩の距離まで迫り、抑えきれなくなった衝動のままに言葉をかけると、両親が視線を、入口近くの汀から、すぐ眼前の口論義に移す。

 絶望的なまでに光がなく、個の感じられない瞳をしてはいたが。顔をあげた二人は、まちがいなく口論義の両親だった。静かに、こちらを見つめ返している。口論義も、見つめ返す。ただそれだけでもいまはよかった。言葉をかわすことなくとも、いまの情景は、夢にまで見たそれだったのだ。


「……父さん、母さん、あの……」

「どちらさまでしょう?」


 示し合わせていたように、二人の声がそろった。

 冗談じみた言葉に、口論義は息が止まる。信じられなくて、信じたくなくて、けれどもう一度聞き直すようなことをすれば今度は、心臓が止まってしまう気がした。かろうじて絞り出した言葉は、だれに向けたものか。


「……なに、いって、んの」

「だから、言ったでしょう。連れ戻したところで、だれが幸せになれるのかと」


 後ろに歩み寄ってきていた汀が声をかけると、両親、颯と史音は頭を垂れた。口論義の言葉よりも、汀の言葉に応じている。

 夢は、悪夢に転じた。

 多少は、覚悟していた。宗教にはまりこんで家を出ていったのだ、帰りたくはないと口にするだろう、洗脳を解くには長く時間がかかるだろう、ここまでは覚悟していた。

 だが記憶の中にさえ自分が残されておらず、会いたいと焦がれた相手に忘れ去られ、置いていかれているとまでは、考えてもみなかった。


「……洗脳、どころか、催眠? あんた、どこまでッ……!」

「ああ、また誤解をされている。ちがいますよ、私はなにもしていません。この記憶喪失はね、彼らが自ら施したものなのですよ。解離性遁走と解離性健忘です。過去の傷に関わるもの……彼らにとっての研究、民俗学というワードに触れるものすべてを、忘却しているのです。もう、傷つかないために」

「だとしても……きっかけは、あんただろうが! あんたが、あんたさえいなければっ!」

「あなたは太宰を読みますか」


 胸倉につかみかかってきた口論義を冷静に見据え、周りの信者がどよめいたのを、両手の動きのみで制して、汀は言う。この後に及んでなにを、と思っていると、淡々と言葉を繋いだ。


「教科書で、走れメロスくらいは読んだでしょう。あなたは、まるでメロスだ」

「……なによ? 自分が王様だとでも言いたいの?」

「かまいませんよ。セリヌンティウスがあなたのご両親というわけではないですがね」


 自分の襟から口論義の手をひとつずつ払った汀は、口論義の両手をとらえると、もろ手を持ちあげた。

 口論義の手が、自分の首を絞められるような位置に、置いた。信者から悲鳴が上がったが、また両手を掲げて「静粛に」と叫ぶだけで制した。


「あの作品で、王は人をたくさん殺しました。自分の意にそぐわないものを、理不尽な理由でたくさん、ね。それを町の人に聞いたメロスは義憤に駆られ、『そんなやつは生かしておけない』とばかりに短剣を懐に入れて城へ出向き……あとはご存知の通りでしょう」

「あたしには、あんたを殺せないって言いたいの」

「早合点をいい加減やめていただきたい。最後まで話をお聞きなさい。――ここで私が言いたいことはですね。メロスも王も、本質は変わらないということです」

「あたしとあんたが変わらないっての?」

「そうですよ。なぜなら、メロスも王も、自分の意にそぐわない、気に入らない奴だから、殺してしまおうという結論に至ったわけですから。反カルトのカルト化ということですかね……自分の考えを、エゴを押しつけているのは、果たして私とあなたのどちらなのか。どちらもなのか。判断するのはこの場の人々です」


 汀はなにも選ばない。ただ周囲に委ねる。なにを必要としなにを切り捨てるのか、判断をあおぐ。しかしここは口論義にとってあまりにもアウェーな場であり、判断など、結論など、決まりきっていた。

 不信な者を見る目で己に向けられた両親のまなざしに、口論義は耐えきれなくなった。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはいけないのか。元凶であるはずの男の首に手をかけているというのに、手出しすること叶わない状況に、嗚咽を漏らしそうになる。

 手が離れ、下に落ちた。


「この場の人々は、傷ついています」


 演説するように、汀は手を広げた。

「人からの裏切りに。家族との別離に。中には、異能の力により虐げられた人、死者への思いに囚われた人もいます。私も、その一人」


 自分を指し示し、汀はホールの中央へ歩む。


「救われない人々があまりに、多すぎる。傷つくべき人が傷を他へ投げ渡している。理不尽が、不条理が、多すぎる」


 そして語りかける。自らと同じ道へ至った、信者へと。


「この世の不平等を崩す方法を、私はお教えいただきました。新しい基準を設けるのです。後にこの基準がまた不平等となる世も訪れるかもしれませんが……それだけではないはずだ。人は常に先へと生きるべく、過去を蔑にしすぎた。――いままさに、変革のときが来ました」


 静謐な空間に、信者による拍手が満ちる。

 膝から崩れ落ち、先ほどまでとはまったく意味合いの異なる涙を流す口論義は、自分のしてきたことへの不信、懐疑的な見方に囚われていた。

 なにが幸福なのか、と。


「考え直してみる気はありませんか」


 内心を見透かされたように思い、口論義はびくついた。汀の声とともに、信者の視線が自分に集まっていた。


「一から自分の基準を、作り直してみませんか。不幸を退けるために。口論義さん……ああ、あなたの名前も、お教えいただけませんか?」


 口が、開きそうになった。嗚咽をこらえようとしていた口が、なんのためにか、開こうとしてしまった。

 けれどそこで彼女の動きを押し留めるものがあった。それはこれまでの日々、仲間と過ごしてきた記憶、無意味ではなかったはずの、幸福と呼んでしかるべきものがあった日々――


 ――などではなく。


 自分の眼前を横切った、三歳くらいの子供を目で追い、

 その子供が、自分の両親に抱きとめられたのを見て、


「おお。どこで遊んでたのかな?」

「いま、汀さんが大事なお話をしているところなのよ。ちょっとだけ静かにね」

「そうだぞ、静かにしていなさい――かざり(、、、)


 思考と動作が、完全に停止した。

 嬉しそうに抱きとめられている子供は、見ればみるほど、似ていた。ゆるくウェーブがかったような髪質、くるくる変わる表情、見ればみるほどに、過去の鏡に引きずり込まれるような、感覚に支配されて――


「……は、はは。はははは……ははっ、あっはははははははッ!」


 口論義は絶叫した。


        #


 ホールの入口から中をみていた平坂は、絶叫する少女には目もくれず、ただ統一された思念の下に集う人々の様子を眺めていた。


「不幸という概念からの逃避による、幸福への道筋……そんなものは、有り得ぬ。幸福とは差によってこそ得られるものであり、人が退屈を嫌う以上、固定された価値の観念は不幸と呼んで差し支えない。……汀は、よくやってくれたな」


 平坂には、みえていた。

 負の思念、それも多くの信者により作り出された統一思想による思念が、この廃ホテルという〝気の溜まり場〟にインクを落とすように蝕み、暗く淀んだ負の気へと染めゆく様が。

 じきに、歪みは開く。梁渾(りょうこん)の向こうが、みえてくる。

 あとは負の気が流れる先を見据える〝清庭の二人〟さえ手に入れば、彼と汀の目的は達成されるのだ。ほくそ笑む平坂がきびすを返してロビーへ戻ろうとすると、演説を終えて、口論義の心を砕き、戻ってきた汀が追いつく。


「あと一歩、ですね」

「うむ。しかし、あの娘がここへの道筋を手に入れてしまうというのは、少々慮外のことであったな……」

「? どういうことでしょう」

「気にするほどではない。清庭の少女への接触のひとつが、芽を出さなかっただけのこと」


 小野山女魚の娘へ渡したここの住所を記した紙片が、よもや開く前に紛失され、しかもあの口論義という少女の手に渡っていようとは、さすがの平坂も予想だにしていなかった。


「そうですか。けれど、すべて時間の問題でしょう」

「左様。終末は近付いている。黄泉への坂は開かれる」

「ええ。……にしても、〝平坂〟とは、あまりにも偽名がそのままではありませんか?」

「本当の名を知られ、力を奪われるようなことになっては敵わんからな。それに、儂の名など、あって無きようなものよ」


 かもしれませんね、と賛同したような態度を示す汀は、振り返って負の気に満ちたホールを見やる。いまの(、、、)彼には負の気や、歪みはみてとることはできない。それでも異様は感じとるのか、ぞわぞわと臆したような気配を平坂は感じた。


「儂はまた少し、向こうへ渡ってくる」


 声をかけ、意識をこちらに引き戻すと、汀は頭を下げた。あの場よりも、平坂の機嫌を損ねることの方が、この男には恐ろしいようだった。


「御戻りはいつになりますか」

「さてな。近いうちに戻るつもりではあるが、進展がなければしばし戻らぬやもしれぬ。平坂という名も、そろそろ使わない方がいいかもしれんのでな。……また名を変え、潜ってくるとしよう」


 行って、平坂は回転扉を押して外へ出た。

 名は、彼にとって深い意味を成さない。

 いくらでも替えの利くもので、本当の名も、無いといってもよかった。

 なぜなら彼の本当の名は――七無。名無しであり、ゆえに誰にでも成ることができた。


        #


 死角から放たれた一打は、どうしようもない一撃だった。

 だからこそ、廉太郎は脱力した。流れに身を任せるように、膝を抜く。これで打点をずらし、あとは全力で、首を左へ逸らした。ボクシングでいう、ヘッドスリップ。

 伸びてきた拳を、寸前で、かわした。こめかみ狙いを外し、側頭部を擦る感触に鳥肌が立つ。

 そこで後ろ足を、伸ばした。踏み込んだ足は膝を抜いたので使えない、ならばと伸ばした足の力と、脱力により落下する己の体重移動で、肩からぶつかる体当たりを繰り出す。リーチの短い七無は間を詰めていたためにこれをかわせず、はじめて、まともに攻撃を喰らって後退した。

 岩塊じゃ、ない。押せば、崩れるのだ。いける、と感覚をつかんだ廉太郎は、右のまぶたをぬぐって左半身に構えをとった。鏡面に移すように右半身となる七無は、息を整えると素直に賞賛の声をあげた。


「……驚いたぞ小僧。いまのァ確実に仕留めたと思うたんだがな」

「あいにくとやわな鍛え方してねぇんだ。うちの師匠はまー非道いスパルタクスなもんでよ、他流試合もいくらかやらされたもんだぜ。とはいえ……〝(テイー)〟を相手取るのは初めてだ」


 互いの呼吸が回復するまでのいくらかの時間稼ぎに、廉太郎はかまをかけた。

 七無は眉をあげたが、あっさりと認めた。


「相手したことがないというのに、よぅわかったな」

「見たことのない力の掛け方した拳に、左右で攻防どちらにも使える手の動き……たしか夫婦手だったか? その辺りから推測してみただけだ。型のひとつを一生涯かけて練るとか聞いたことあったが、人間の合理的な動きってもんがその型ひとつに凝縮されてるみてぇに感じたぜ」


 手。唐手とも呼ばれる、沖縄の伝統武術である。空手の源流でもあり、琉球と呼ばれていたころなどは、薩摩の示現流と素手で渡り合うことすら想定されていたという極めて実践的な武技だ。本で読んだ程度で実戦にて出会ったことこそなかったが、ここまで恐ろしい相手になるとはさしもの廉太郎も思ってもみなかった。


「大陸の拳法やら古い武術ってのは、老いてなお強さを堅持できるもんが残ってて道理だけどよ……あんた歳いくつだよ」

「こちとら、半世紀以上かけて練り上げとる。お前さんごとき若人じゃ経験が足りん、勝てやせんよ」


 また、右半身で素早い飛び込みでかかってきた。この入り身の早さ、足遣いも長い年月の中に伝えられてきた動作なのだろう。

 廉太郎の倉内流も、一応は戦国の世から連綿と受け継がれてきたという由緒正しき流派だ。とはいえ直系の跡取りでもなく、元は精神鍛錬などを目的として入れられた廉太郎は、深奥と呼ぶべき奥義に関しては一切教えられていない。もちろんそれでも十分すぎるほどに強くはなれるのだが、その奥義の中にこそ、他の武術と互角以上に渡り合えるだけの〝経験則〟が詰め込まれているのだ。

 たしかに、廉太郎には経験が、足りない。


「う、おおっ!」


 避けても、逃げた先めがけて拳は追尾してくる。ならばと、廉太郎は半歩だけ下がった。

 ――筋骨(チンクチ)をかける、というのが手の拳の特徴だ。筋肉と骨の動き、間接の継ぎ目、そこを通る力、これらを総合して感覚で捉え、より効率的に重く速い打撃に変える。拳のひねりで速度を増し、こするように突き下げることで体重を乗せ、また時には踏み込み突きあげることで威力を増す。

 それら動作には、間合いを測ることが肝要である。もっとも効果的に身体を動かせる距離、己の間合いを把握しているからこそ、打てるのだ。

 だから、下がった直後に、廉太郎は踏み出す。

 相手の間合い、照準を狂わせ、わずかな隙をつくために。


「隙無し」


 ぞ、と背筋が総毛立つ。間合いを自ら潰し、カウンターを狙うことで一撃必殺を狙ったのだが……誘いこまれたのは廉太郎の方だった。

 強く踏み込み、前に出した七無の右手が、ほんの十五センチかそこらの距離から、加速して打ち抜いてきた。防御のために折り畳んだ左腕が、軋んだ。勢いのまま拳が押し込まれ、左の肺腑が押し潰された感覚があった。衝撃が、背中まで通り抜けている。


「がっ、あ、あっ……!」

「さっきも見せたろ、五寸も距離がありゃァ常の打撃と威力は変わらん。足を踏みしめるだけの場と機があれば、腕から先なんて力伝えるための道具に過ぎんよ」


 続く、というのも正鵠を射ていない、それほどに早く、速く、左の拳も胸部を穿つ。ほぼ同時の二撃で廉太郎は、よろよろと後ろに倒れそうになりながらも辛うじて右半身となり、呼吸もままならず酸素の足りない脳内で考える。

 目の前の七無の動きがぶれる。周囲が色を欠いた景色になる。……この感覚はよく知っていた。道場で師に負けるその都度感じた、致命的な隙ができた瞬間だ。

 次の瞬間に自分が倒され、数秒後に意識を取り戻すところまで予想できる。容赦のない軌道で鳩尾が狙われているのがわかる。このままでいれば、一撃でやられる。もう動ける時間は残り少ない。ごくわずかずつ、身体を動かすので精いっぱいだ。

 ――だからこそ、ここだと廉太郎は思った。

 いままで負け続け、この感覚に慣れてきたのは、ここで動けるようにするためだった。

 まだ戦える、といつもいつでも思い続けること。胸が痛み、頭がかすんでも、食らいつくこと。このためだけに、廉太郎の身体は鍛えられてきた。最初にこの感覚を、小野によって与えられたときから。ただのひとつも崇高な理由はなく、己を乗り越え、克つために、鍛えた。


 視界が色づく。

 身体が動く。

 そして動きが――消えた。


「っ、お前っ……!」


 七無が驚きに表情を変える。

 廉太郎が、これほど隙をさらした直後にもかかわらず、先ほどの回避よりなお鋭く速く、薄皮一枚残すように右半身の体勢となり、少し肘を曲げた右拳を、七無のあばらに押し当てていた。本来なら回避を見てとった瞬間に拳の軌道を変化させられる七無が、ついていけない、察知できない、消えた動き(、、、、、)

 ……とっさの動きは、廉太郎にできる最小限にして最大限の動きだった。ほんの少しずつしか動かない。しかし、全身を動かす。

 通常、たとえば歩き出すとき、人は上半身の重心を前に倒し、その重心移動についていくように、足を出す。たとえば拳を出すとき、人は踏み込み、腰をきり、肩を出し、腕を伸ばす。

 ここでいう上半身の重心移動、もしくは踏み込みのように、最初の動作、初動というものが、なににでも存在するのだ。けれどこのときの廉太郎は、息もままならず動ける時間は残り少ないと判断した瞬間に、体幹を崩さぬよう、回避に要するすべての間接をほぼ同時に動かした(、、、、、、、、、)


 七無の拳を避けるべく、右膝を抜く・腰をきる・左手を引く・右拳を出す……その他細々とした『どこから最初に動かす』『どこから順に動かす』という部位初動・連続駆動の継ぎ目を失くした。

 初動が全身駆動(、、、、、、、)なのだ。追い詰められ、動ける猶予があまりにも少なかったために、これまでの経験が反射で生み出した、この無想の極地、合理の極み、拍子の消失こそ、初動がないためにだれにも捉えることかなわない、究極の武技のひとつ。


 名づけて――我流奥義、〝無拍子むびょうし〟。


 わずかに肘を曲げて押しあてた右拳に、体幹の力を載せて打ち抜く。相手の突進の勢いを貪り尽くした剛拳は、先の七無の五寸打ちと同じく助走距離を必要としない、渾身の一打として放たれる――と、思ったのだが。


「待ったあっ!」


 という声が響き渡ったために、動きを止めてしまう。途端にぐるりと目が回って、背中から地面に倒れた。横倒しになった視界の中で、駆けこんできた司と小野の姿が見えた。


「なんで殴り合いなんてしてんの――」


 いや、仕方のない戦いだったんだ、と言おうとして、司の目が自分に向いていないことを、廉太郎は悟る。七無を見据えながら、司が駆けてきて、


「――じいちゃん!」


 と叫んだので、混乱してしまう。同時に息詰まったままだった肺がとうとう酸欠を訴える。


「かは」


 という、気の抜ける音を肺腑から出したのを最後に、廉太郎は意識を失った。



廉太郎覚醒


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