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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
海と隠亡編
28/38

二十八題目 「瞰通す目の先にある」と司は判じた


「ふむ」


 ちかづいてきて、小野の顔をあらためる。小野が見つめ返す彼の瞳は、見た目の猛々しさ若々しさとは反して、ひどくくすんでいて輝きに乏しかった。思ったよりも歳をとっているのかもしれない。


「……母を知っているのですか」

「こういう世界にいるがため、多少なりともな。(わし)も呪術師のはしくれ、小野山女魚の勇名は耳にし、奴の姿も目にし、いくらか世話になった。お前は、奴によく似ている」


 たしかに、男は異能者だった。力を察する異能が、眼前の男の持つなにかに反応して小野に伝えてくるものがある。こういう世界、と見回して、小野は寒気に似た思いがあった。


「ここは」

「幽明の境、力の満つる場よ。呪術師どもの(ねぐら)にして常人を拒む異常の領域。娘、お前はどこから迷い込んだ?」

「わたしは、先ほどまでは八尾、もとい谷峰という町にいたのですけど」

「歪みに落ちたか」

「ええそうです」


 流れで返せば、男は怪訝な表情を浮かべ、瞬時に自分で納得したような素振りを見せた。けれど確認をとるように、言葉を繋いだ。


「……認識したのか? 歪みを、みたというのか」

「いえ、みてはいませんけど……そういうものがあるというのは、知っていまして」


 ふむ、と考え込む男からは、隙の無い構えのようにこちらを威圧する雰囲気があった。別段話しこむつもりなどかけらもなく、むしろ存在に気付けなかった危険な人物という印象が強い現状だ、小野は逃げるつもりだったのだが。異様な空間に呑まれてしまったのか、足が動かなかった。


「思わぬ、巡り合わせであったな」

「なにがでしょう」

「娘、お前との邂逅だ。合縁奇縁のなせる業というべきか……繋がりは断とうとも別の場に繋がるというべきかな。まあいい。いずれにせよ今は機ではあるまい。多くを望まず邂逅のみでよしとしよう」

「なんなんでしょうか」

「気にするな。して娘、迷い込んだこの場であるが、どうする。元居た場へと帰ることが望みか」

「帰れるんですか」

「望むなら。本来ならばなんの縁故も義務もないが、かつて山女魚には世話になったからな」


 突き放した物言いに、小野の方が考え込む番だった。帰れるものなら早く帰り、司たちに危険を知らせるなりしなくてはならないと思えていたが――この男との対話から、なにか知ることができるような、そんな気がしていたのだ。

 既視感にも似た、感覚の奇妙な一致があった。記憶には無いが、たしかにどこかに、この男の雰囲気を覚えている。


「帰りたいことは、帰りたいのですけど。その前にお聞きしたいことがあります。あなたは、母についてなにか知っているのですか?」

「……多くはないがな。奴は優れた呪術師であり、祈祷を生業としてこちらの道を歩む者だった。その途上で、呪いを身に帯びた凶悪な呪術師と戦い、果てたと聞いている」

「凶悪な呪術師、とは」

「本名は知らん。そもそも人としての名を持つのかどうかすら、わからん。ただそいつはカノエミフネと呼ばれていた」


 やはり。小野の頭の中で、恨みつらみが軋みをあげてうごめいた。男がそんな小野を見てなにか反応を示していたが、細かく感じとることはできない。頭の中を、熱く煮えた思いが満たしていた。


「そう呼んでいた人々について、お教え願えませんか」

「なんだ。もうすでにお前は会っているのではないのか」

「……と言いますと」


 詰め寄る小野の怒気をなだめるように、深い溜め息で男は間を取った。


「カノエという者の存在の発端は、谷峰の連中だ。そもそもカノエミフネという呼称は奴らがカノエの力を抑制すべく枷と成した、いわば隠し名。奴の字はもともと、火元の火、野原の野、入江の江と書き、読みはカノエではない。そして下の字は未だ不在の子と書き、これも読みはミフネではない」


 つまり火野江、未不子とは。


「――ひのえ、みずこ。わかるか? 個としての人名ではなく、あれは……丙午(ひのえうま)の年に殺され続けた未だ不在の子ら、水子の群れを指す字なのだ」


        #


「……火だ」


 突然、店に戻ってきた店主は、茫然自失の体でずるずると引き戸に背をもたせかけて滑り落ち、がちがちと歯の根を震わせながら頭を抱えた。


「火だ……火だっ」

「どうしたんだよあの人」

「外でなにかあったのかもしれない」


 怯えた様子の店主に困惑し、踊場たちは駆けよる。話しかけ、外でなにがあったのかと問うが、彼の状態は一向によくならず。むしろ近づいてきた踊場たちを噛みつきそうな目でにらんできた。


「本当なのか」

「なにがですか」

「本当にお前らが盗ったわけと、違うんだろうな」

「ちがうっつってんだろ」

「ああ……なら、どうすれば」


 ぶつぶつと独り言の中に落ち込んでいく店主を見ていても埒が明かないので、踊場は外へ出た。辺りを見回すが嫌な空気が漂っている、という程度にしかなにも感じず、なんらかの異常がこの町を取り囲んでいるのだろうと予想はついても、状況の打破は思いつくべくもない。


「こんなときに近くを離れて、歪みの向こうに行ってしまうとはね」

「帰ってきたらお仕置きしてやらんとな。だがそのためには、あいつらを連れ戻す方法を探さにゃならんのだぜ」

「わかっている。しかし歪みというものの発生条件についてはある程度聞き及んでいるが、あの空間の先がどうなっているかはわからないのが実情だ。どうすれば連れ戻せるかなど、見当もつかないよ」


 頭をかきむしる踊場は、司が消えた橋の下まで歩いていくが、当然なにも見ることはない。歪みを察知できる小野も、司も、消えてしまったのでは、打つ手がない。


《踊場サン、そっちも歪み来てマルドメくんそこ行ったノ》

「ああ、どうやらそうらしい。廉太郎いわく、この橋から飛び降りたところ、歪みの向こうに溶け消えたそうだ」

《……その川、たしか下流がワタシたちいるするこの山、繋がってる》

「そこでも歪みが出ていて、小野くんが落ちた、と……先月の神代の一件でも、司くんがダリと歪みに遭遇した場所は、神代の禊ぎの場から流れる水の下流にあった。水の流れに沿って思念や呪いが移動するということだろう」

《んん、湿気てじめじめのが幽霊でやすい言うもんネ。それにこの歪み出たお墓、水子とか言てたヨ。同じ水の子だけに伝わってくるが速いのカナ》

「水子?」


 聞き返すと、ようやく少し落ち着いたらしい口論義が、代わってほしいとサワハに伝えて通話口に出た。まだ時折しゃくりあげるような声音を出すことが踊場には心配だったが、「いま心配するべきは司ちゃんたちよ」とたしなめられて、彼女が精神の落ち着きを取り戻していると実感できた。


《……墓石には名前みたいなのが書いてあったわ。六文字で、上の三文字は火種の火に野原の野に江戸の江って書いて、下の三文字は未来の未に不在の不、子供の子って書いた墓石だったわ。慈雨の野郎が言うには、川の流れを変えてあったのも水子が川をのぼってこないようにするためのものだとか。それから奴が墓回りの華みたいなのをもぎりとったら、急に辺りの空気が変わって》

四華(しか)か……!」


 ぴんときて、メモのページを手繰りながら、踊場はここまでの調査記録を洗いつつ口論義の話に耳を澄ます。座棺、骨噛み、四華と表記されたページは真っ黒に見えるほど、この町の風習について細かく調べ書き記してあった。口論義の発した言葉が頭の中で繋がり連なり意味を成し、踊場にこの町の仕組みを解き明かすことを可能とさせる。


「なんだその〝しか〟って。歯医者か」

「墓を囲む縛りだ。紙の華と書いたり、死の華と書いたりもする葬具だよ。遠野では『死花を立てられると死者はあの世へいけない』と言われていてね、要は結界の意味を持つ品さ」


 遺体に刃物を載せたり、座棺で遺体を固めたりすることと同じである。囲んだ領域内へと邪なる霊が入ることのないよう、また死者の霊魂が外へ出ることのないよう、内と外を隔て分ける境界線とするための道具なのだ。


「しかし解釈も時代と共に変わってね、途中からは『土地神から土地を分けてもらう』ということの証として立てられるようにもなった。この文化は……風水が大陸から伝わったことも関係して生まれたという」

《風水》

「そうだよ口論義。さっききみの言った川の話も、おそらく風水が関係している。川という力の流れなどを利して自分たちの身を守るためにね。あと、僕の推測が正しければ」


 踊場は携帯電話を取り出し、コンパスのアプリケーションを起動させた。恵方巻き食べる時以外で使うとは珍しい、などと廉太郎がぼやいたがとりあわず、口論義たちがいる山の方角を眺め、止まった針の位置から方位をあらためる。


「墓の位置は村の中心から見て南から南南東。あたりかな?」

《正解……でも、川って途中で方向変えられてるのに。よくあたしたちの場所わかったわね》

「わかるさ。隠れて埋葬される水子など、そう考えられないからね。おそらくは墓石の名の読みは『ひのえみずこ』、つまり(ひのえ)。……さまざまな迷信から、男を喰い殺すとされた属性」


 南南東、つまり方角では丙午。火の属性が重なるこの干支を冠する年は、火事が多いとされる。そこから派生して攻撃的な意味合いが持たされ、また八百屋お七、さらに派生しての飛縁魔など、創作の力が民衆に『丙午に生まれた女は危ない』という思想を抱かせた。


「その墓は間引かれた丙午の水子が埋葬されている。その思念を用いて、歪みを開いたんだろう。しかし……」

《なに、踊場》

「いやね、この名前……読み方を変えると、かのえみふねとも読めるんだが……偶然だと思うかい?」

《わかんないわよ。第一、そのカノエを追ってる小野ちゃんがいまいないんだし》

「それもそうか。ともかくも、推論だけで動くのは危ういかもしれないな。一旦合流しよう、町には水子の思念が溢れているとはいえ、きみらはその……ええと、あれだから、取り憑かれることもないだろうし」

《ワタシたちバージンだかんネ》


 さらっと言ってのけて、通話口はまたサワハに戻る。踊場は肩を落とす。


《ところで踊場サン、さっきの話続きするケド。四十年くらい前嵐の日、人魚があの洞窟前で見つかたらしいね》

「ああ、そこまでは僕らも情報をつかんだ」

《あれ、そなノ。でも海沿いの鳥居、面白いこと書いてあたよ。えとね、展覧列挙集にも書くしたんだケド。一九六六年、人魚を見つけ洞窟に納める……そんでその見つけた人がネ、祀ること提案するしたんだって。その人の名前、〝八尾七無(やおななし)〟言うノよ》

「なんだって」

《神代サン言い残した名前よ。これどう思うネ》

「いや、そっちも問題だが……一九六六年? それは、丙午の年じゃないか」


 いったい何が、とメモをめくりつつ考えようとした時、踊場はたなびくような悲鳴を耳にした。振り返れば、近くにいた廉太郎も同じ音を聞きつけたらしく、うなずきあって音の出所を探る。


「店の方じゃねぇか?」

《どったの踊場サン》

「すまない、こちらに近づきつつ、通話はきらないままでいてくれ」


 携帯電話をポケットにしまい、踊場たちは店へ戻る。すると、嫌な雰囲気が漂ってきた。

 ちがう。漂っているのはそんな不確かなものではない。これは、


「なまぐせぇ――脂肪の焼けた臭いだ」


 異臭が鼻をつく。

 変わり果て人間の姿が、目に入る。

 その傍らに寄り添うように立つ、人影がひとつ。黒のロングスカートに白いシャツ、素足に革靴という簡素な服装で、長い黒髪が頭部をおおっている。体つきは女性的で、ひどくはかないイメージがもたらされた。

 同時に、壊れやすそうなそのイメージが、焦げた人間を含めた周囲にまでもたらされているような。ありえない想像にとらわれた。


「っ、こいつ」


 構えを取る廉太郎が、踊場を背にかばうように前に進み出る。


「どうした廉太郎」

「こいつだ……! あの日、神代が焼き殺された時に歪みから現れた女」

「……なるほど」


 いままた、呪いの力はもたらされた。紅蓮のみで他の色合いを徹底的に排した焔が、人を焼き焦がしている。呼吸困難より先にショック死したのか、まだあまり焼けていない身体は腕を縮め胎児のように丸くなり動く気配もない。

 ぱりぱりと焼けた皮膚を見て、踊場は北京ダックのようだ、と場違いな感想を抱き、吐き気を催してえずいた。廉太郎も耐えがたい吐き気をこらえた表情を浮かべているが、一度経験済みだからか踊場ほどではないらしい。


「カノエ……だったな」


 女は答えない。焼け焦げていく人間だった物を見下ろし、動きを止めている。顔すらうかがえない。


「きみ、なにをする気だい」

「理屈はわからんが、こいつは歪みを出入りできるらしいのだぜ。踊場、司と小野を探す案内役にゃ、うってつけだと思わないか」

「ばかを言うな。人が、燃えてるんだぞ。その原因かもしれない奴に近づくだなんて」

「リスクなしで答えを得られる領域なんざ、とっくに過ぎてるだろ。俺も、お前も、覚悟の下に会長とここまできた。ついでに俺は、可能な限り仲間を助けるって覚悟も固めてある」


 どこまでいっても、廉太郎は真っすぐに己を曲げない。考えるばかりですぐさま動けない自分を思い、踊場は嫌悪感に浸った。だが考え込む有余はないと頭を切り替える。


「無茶だよ戻れ」


 女は振り向かない。自分のなしたことの経過をひたすら見定めるように、じっと立ち尽くした様は根を張った木に見えた。踊場の制止をものともせず、廉太郎は歩み寄る。


「おい、カノエ。お前は何者なんだ。そこに歪みが、あるのか。俺のダチがその向こうに消えちまってよ、困ってんだ」

「廉太郎、よせ」

「教えてくれ。歪みの向こうへ行って戻れるのかどうか。教えねえってんなら……力尽くでも聞きだすぞ」

「やめろ!」

「教えろよ……丙!」


 瞬間、丙は振り向いた。

 見てしまった踊場は、後悔した。

 これほどまでに人の枠を逸脱した表情があるのかと、恐怖にまかれた。

 憎悪煮えたぎる面相は両目が白く濁っており、右目の上から左の頬にかけて、みみず腫れのように引きつった痕が刻まれていた。赤く皮膚の浮きただれた様子は、火傷の痕であることを踊場たちに伝えてくる。傷跡は、顎の輪郭を少したわませながら喉元を下り、シャツの襟元から胸にまで達していた。左耳も焼けただれてしまっており、ぎゅうと押し縮めたような形に収縮していて、焼かれ落ちた髪の毛先は茶色く焦げて跳ねていた。

 その目が、廉太郎に向かい、焦点が定められそうになる。


「……ぅあ、ああああ!」


 霊感などかけらもない廉太郎、そして踊場でも、わずかな所作から危険さを嗅ぎ取った。動物としての本能に働きかける、なにをさておいても逃げたいと思わせるだけのすごみが彼女から発せられた。踊場はすぐに膝が笑って後ろに飛びのいたが、さすがに廉太郎は肝が据わっているのか、動かない。けれど丙の焦点が合う前に、身を屈めた。

 身体を屈めて身をかわすと、廉太郎の上を不可視の何がしかが過ぎ去る。空気の揺らぎの向こうで、爆裂の音が短く轟き、ぎゃあああ、野太い悲鳴に変わる。


「あああ、あああああ」


 廉太郎の後方、店の陰にいた老婆が、火のついた顔を押さえて音を漏らしていた。もはや声では無い。口から洩れる空気の出入りが、悲鳴の声音に聞こえるだけなのだ。


「火が、火が! ひの、え、え、ぇ……」


 勢いを増し、いよいよ焔が燃え上がる。呼吸を遮られ、酸素を立たれたのか、口を開いたまま老婆が倒れ伏す。か、か、と肺腑が命を吐き出す音が続き、アスファルトに爪を立てて老婆はわななく。杖が転がるからんという音に、廉太郎と踊場はやっと我を取り戻した。踊場が辺りを見回し、バケツを見つける。中にはボウフラが湧いた汚い水がよどんでいたが、命には代えられまいと中身を浴びせかけた。

 けれど、消えなかった。火種もなく発した火は、消える術がないとでもいうのか。踊場は上着も脱ぎ捨て火を打ち払うように老婆に叩きつけるが、燃え盛る火の猛りを鎮めることは叶わない。幾度も、幾度も火を薙ぐが、上着に燃えうつるばかりで身体からは消えない。頼むから消えてくれ、と自身の呼吸も止まっていることに気付かず、踊場は打ちおろし続けた。


「踊場」


 廉太郎が肩に手をかけた。息を荒くして思わず払いのけるが、今度は強くつかまれる。


「もう死んだ。無理だ」

「……そん、なっ、こと」

「仕方ねえだろ! 退くぞ。こいつは手に負えねえ、本当の怪物だった」


 廉太郎は拳に血を滲ませていた。丙を見れば、口の端から血を流している。けれど動じない。あの廉太郎の打撃を受けてなお、一切ひるまないのだ。


「危うく俺も焼かれるとこだった。手を出さなけりゃこっちに執着することはねぇようだが」


 甚平の左肩が黒く焦げている。ぼろきれになった衣服の下の皮膚も真っ赤になっており、平静を装ってはいるものの、だらだらと脂汗を流していた。

 あっというまに二人も命が奪われたことに歯噛みしながらも、どうすることもできはしない。先ほど店主にそうしたように、また丙は老婆に近づき、彼女が燃えゆく様をひたすら見続けていた。死神を思わせる、死の経過を確かめる素振りに、踊場は気がふれそうなほどの凶気をまざまざと見せつけられた。


「……むごすぎる」

「逃げるぞ」


 走り出した廉太郎の後ろを、踊場も駆けた。惨めで、悲しくて、奥歯が擦りきれそうだった。 橋を越えて、対岸へ辿り着く。そこからどちらへ行ったものかと廉太郎ともども迷い、適当に「こっちだ」と左の商店街への道を選ぶ。


「こっちではないぞ」


 目の前に、灰色のスリーピースを緩く着こなした老人が立ち塞がっていた。まだ黒さの残る頭髪と比して白く、短いあごひげを撫でつけながら、上着を肩に担ぐように手にし、逆の手で旅行鞄を携えている。目つきは穏やかそうであったが若干頬がこけており、瞳が落ちくぼんで見えた。足下は素足に下駄で、どうにも異質な雰囲気をまとっている。


「なんだよ」

「危険だと言っとる。いいから戻れ」

「あっちに行くわけにゃいかねぇんだよ! いいから通せよ!」


 無理に通ろうと廉太郎は進むが、奇妙な足運びで老人は、いつの間にか廉太郎の前にいる。驚きつつも、押しのけて進むべく廉太郎は肩に手をかけたが、老人がゆっくりと廉太郎の前腕を下に押し込んだだけで、膝を崩され立てなくなってしまう。


「こい、つ……! なんだよ、あんたは!」

七無(ななし)という。……ああ、いかんな。時間がない」


 つぶやいて、廉太郎の腕に置いたのと逆の手で、胸を突きこむ。ぐむ、とうめいて廉太郎は倒れ、手早く彼を担いだ老人、七無は踊場にも詰め寄った。そう大柄ではないはずなのに、長身でなおかつ鍛えている廉太郎を軽々持ち上げるとは。


「坊主、お前もだ。悪いな」


 どず、鈍い音が腹から全身へ伝播し、踊場も屈した。


        #


「水子、ですか」

「正確には水子に取り憑かれた人間だ。もっとも、人間の方も真っ当な存在ではないのだがな。〝牛蒡種(ごんぼだね)〟という邪視の眼を持ち、虐げられてきた悪鬼よ。火野江未不子と繋がってからは、自我も失われ身に帯びた呪いを振りまくだけであったが」

「なぜ、なぜわたしの母はそいつに殺されたのですか」

「水子としての行動理念が元だろう。倫理観も持たぬ彼奴らはとかく『生まれ出でたい』という願望に忠実だ。故に母たる器を求める。悪意もない善意もない、あるのは原初の生命の欲求と義務のみだ。だが彼奴らは身を持たず、存在そのものを丙午の呪いと化している。呪いで穢れた剥き出しの魂は母体の魂魄と触れあい、濃度の高い呪いをなすりつける。これこそが他者を、霊体すら焼き尽くすことを可能とした星火(せいか)焔群之顎(ほむらのあぎと)。またの名を〝燎原之火(りょうげんのひ)〟という」


 小野が相手にしようとしているものについて語る男は、どこか虚ろで、小野よりも少し高い位置に目線をおいていた。彼がなにを見ようとしているのかは、杳として知れない。


「……理由はなかった、と」

「理由など持つのは理性ある人だけだ。理性と倫理を得ることなく永き時を過ごした彼奴らに、そんなものは存在しない。あるのは原因のみであろう」

「原因、ですか」

「元凶と言うべきか」


 自分の言葉が小野に与える効果をはかるように、男は間を置いて考える時間を与えた。元凶。カノエ……もとい丙を生みだし、母を失う要因となった決定的なもの。膨れ上がる思いは、過去の記憶が生み出す憎悪を現在に繋げた結果もたらされた。


「――さて、そろそろ戻るか? 八尾の町へ」


 答えが出かけたところを見計らったように、男は小野に話しかけてきた。


「戻していただけるのなら、ぜひ」

「よかろう。ではこれで、かつて山女魚から受けた世話の分を返す。少し先にある川岸までついてくるがいい」


 淀みない歩調で歩きだした男には一部の隙もなく、後ろをついて歩く小野にも注意を払っていることがわかった。猛々しい顔つきの印象とは逆に、どこまでも冷たく静かな気迫が、背中にまで備わっていた。この特徴にもやはりどこか既視感があったのだが、会ったことがあるのだろうか、と問いかけてみたい気持ちになった。


「あの」

「なんだ」

「わたしとあなたは、どこかで、お会いしたことが?」

「さてな。なにぶん儂は老いてしまった、昔は思い返せても、ここ最近のことは忘れやすい」

「そう、ですか」


 はぐらかされて、壁を感じた。気迫が、揺るぐことなく圧力だけを増す。慌てて、問いを他に向けた。


「ところで、歪みはすべてここに通じているのでしょうか」

「……ああ。大概の行き先は此処だ。ダムのようなものだからな」

「ダム?」

「低きに流れた水を溜める場のように。思念が方向性を持たせた気を、一時的に保持し一定の量を彼岸に流す。彼岸からの気は命や現象として此岸に降り注ぐ。信奉する教えなどにより多少の差異は見受けられるが、大方そのように理解されている」

「歪みは通路のようなものなんですね」

「開くことと閉じることが不定期である故にさほど便利ではない。よって、急がねばお前も戻れなくなるかもしれん」


 気後れして男の三歩後ろを歩いていた小野は、一歩だけ前に詰めた。この気配を察したのか、男の方もわずかに歩く速度を上げた。奇妙な時間を過ごしている気がした。


「八尾に戻ったなら、早めに町を離れることを勧める。歪みが現れているということは、危険の兆候だ。水子の呪いが蔓延しているやもしれぬ」

「ご忠告痛み入ります。ですが、友達がまだ向こうに残っていますので」

「そうか。では連絡をとり次第、町を出ることだ」

「いろいろありがとうございました。……最後になってしまいましたが、わたしは小野山女魚の娘で、香魚香と申します」

「儂は平坂(ひらさか)。できるならば、もう関わることがないよう祈ろう」


 難しいかもしれんがな、と語ってから、平坂は懐よりなにかを記した紙幣ほどの大きさの紙きれを取り出し、小野に持たせた。わら半紙にも見える、一風変わった紙だ。


「なにが書いてあるかは覗くなかれ」


 急いで手を閉じ、あさっての方へ目を逸らした。平坂は離れると、両側に等間隔に並ぶ(けやき)の並木路を示した。


「ここからまっすぐ進め。突きあたりの川で、歪みを感じとるだろう」

「ついてきてはくれないんですか」

「なぜだ」

「いえ、わたし、歪みを感じとることはできても、みることができなくて」

「支障はない。お前もみること適う身体になっているはずだ。異界を観測する力はすべからく、行き着く先には淨眼がある。眼というものも、歪みと同じく力の通り道だ。お前の思念が方向を定め道を開いていれば自然、みることはできる」


 並木道の先は、降り続ける小雨に遮られてなにも見えない。しかし、こんこんと、水が流れる音だけは聞こえている気がした。


「わかりました。では、ありがとうござい」


 振り返ると、平坂は現れた時と同じように姿を消していた。首をかしげたものの、恐らくは彼も歪みを通るなどしてどこかへ消えたのだと思うことにして、川岸へと近づいていった。森の中は相変わらず静かで、あまりにも音がしないものだったため、小野にはなんだか平坂との会話もすべてが森の感じさせる幻覚であったように思えてきた。

 けれど川は、ちゃんと姿を見せた。涼しい空気の向こうにある流れは、あまり幅の無いものである。いちおう橋が渡してあるが、対岸まで十メートルもない。歩いて渡ることもできそうだった。

 いや、歩いて渡るべきなのかも、しれない。


「……あれは」


 くっきりと、切れ目が見えていた。

 まるで眼前の風景が絵画であるかのように、川の水面の上に亀裂が現れている。裂かれたカーテンがはためくかのごとく、切れ目は空中に揺らぎを生んでいる。

 重苦しい気が熱風のように切れ目から吹き付け、空気に混ぜ物をされていると感じた小野は若干気分が悪くなりながらも前に一歩、さざなみの立つ水面へ足を踏み出した。くるぶしまで水に浸っているはずなのに、肌は冷たさも熱さもとらえることがなかった。足下が本当に川なのか疑わしくなって下を見ようとした時、手の内の紙片がはらりと落ち、風に吹かれて頭上まで舞い上がった。

 ひらひら、震える空気の中を落ちて、はさりと橋の上に運ばれる。中身を読むことはなかったので別にいいのかもしれないが、なんとなく気にかかってしまった。紙片の場所に目を向ける。引っかかっていたのは、欄干の隙間だった。

 手が伸び、拾い上げる。


「やあ。遅かった、ですね」


 手の主は、小野ではない。

 橋の陰から、汀が現れる。彼は先ほどと変わらない格好で、傍らに箱の包みを置いていた。先ほどまでと変わらない表情で紙片に目を通すと、川に流してしまった。警戒して、構えを取る。欄干に手をついた汀は、水面に浮かぶ紙片を目線で追いやっていた。紙片は、小さな歪みの中へ落ちる。拾えなくなったので諦めた小野が顔をあげると、視線だけあげた彼と目が合った。


「きみが来るのを待っていました。お友達のところへ戻ろうとしているのかな」

「ええ。それと……できることならお教え願いたいことが一点」

「なんでしょう」

「丙水子。あなたはなぜ、あの存在を町に向けて放ったのですか」

「……そこまでつかまれてしまったのですね?」


 顔をあげた彼の横で、ごとり、置いた箱がうごめいた。


「必要なことだったからです。まあ、きみには理解はできないのでしょうが。あの小野山女魚の娘でありながら、きみはあまりにも無知だ」

「だからなんだというんです」

「いいえ、なにも。なにも理解せず問うばかりであるのなら、話したところで仕方がないではないですか」

「理解するために問いかけで知ろうとするんです。発端なくしてなにが始まるんですか」

「それにしたところで土台は要する。共通の認識を持たずに理解しようなどと口にするのは、共通語を持たず交流をはかるのと同じくらいおこがましいというものですよ」


 黙り込んだ小野を見て、汀はにこりと微笑んだ。まるで意味の無い、空っぽの笑みだ。


「誤解なさらないでください。あなたのことのみを指して言うわけではありません。世間一般についての普遍的事実を述べたまでです」

「わたしはなにもわかってません」

「だから知ろうともがいてきた。その行動は間違いではありませんよ。ただ方向を間違えている、きみが理解すべきは他にある。丙水子という呪いの出所など、もうわかっているでしょう。ならばあなたが恨むべきは、挑むべきは、八尾の人々か? それもちがう、あなたはちがうとわかっている」

「あなたは、」

「理解すべきは人の世との接し方だ。理不尽と不可解のまかりとおるこの世との接し方ですよ。なぜなら……あなたの母が殺害された責任の在処など、理解することはできはしない。あの呪いは町の人間すべてが加担して積み上げた、時代の作り出す膿です。人々の小さな不安の落とし所として用意された産廃処理場が、時代を経て関係の無い人間へ牙を剥いたのみ。それともきみは時代を生んだ人間すべてに復讐を果たすおつもりですか?」

「あなたはっ!」

「責任などというものはね、追及していけば社会の構成員すべてに降りかかるものなのです。だれも無関係だなどと言うことはできない。かといってすべての責任を自分に求めることも、私はお勧めできません。やり場のない怒りはやり場がないのだから捨て置きなさい。個々人に発生する責任とは、ただひとつなのです」


 指を立てた汀の影が動く。小雨が、強さを増して、水面を叩き始めた。


「力。その個人しか持たず、その人に固有の才と力。これら他者との違いを己の武器として振るうのなら、もたらされる優位に奉ずるだけの責任が発生します。私は己の力を、責任で以て振るう。私が挑む相手は人の世そのものです。現行のシステムで救われない人々の救済を」

「……八尾に呪いを撒いた理由は、それですか」

「新しいシステムの試運転といったところでしょうか」

「多数の人に迷惑をかけながらですか」

「すべての人が救えるはずもありません。このようなものにすがり頼る人々を、どうして救えるというのでしょう」


 箱を掲げ持った汀は、忌々しげにのたまった。はじめて、しっかりとした印象を伴う汀の顔を見た小野は、彼の中に激情があることにひどく驚いた。ほどなく、汀は平静を取り戻していたが、欄干の上に置いた箱の封を解く表情の真剣さだけは激情のあった時と変わらない。


「不老不死の秘薬など、あるはずもないというのに。丙の呪いを恐れた人々は、天から降りてきたただの奇形の魚を、腐らず木乃伊と化しただけで霊験あらたかな代物だと勘違いしたわけです」

「まさか、この箱の中身が」

「人魚ですよ。八尾の連中の歪んだ精神の支柱として長く存在してきた、町にとっては忌むべき異物です。火には水……ということでしょうか。方角も丙を押さえこむように配して、呪いを受けないようにひたすらな気遣いを重ねました。過程で死を恐れた老人が人魚を喰らい、以後村八分にされ幽閉されるなどという事態もあったとか」


 死を恐れるのは死に直面した者だけです、と締めくくり、汀は完全に封を解いた。


「ただの干物にすぎないというのに。こんなもので、なにが救えると――」


 動きを止めて、汀は箱の中を凝視した。否、見ているのは箱の中身ではない。

 ぶらりと、左腕がぶら下がった。汀の視線が腕を追っていた。小野も目を向ける。欄干の上に載った腕から、ぼたぼたっ、川に滴り、小野の足下まで流れた。

 赤褐色に、川の水が染まった。


「う、う?」


 右手で左腕を押さえ、汀は困惑のうめきに囚われた。指先を見る。

 ひび割れるように、赤い裂け目ができた。その傷口がまたたく間に広がり、つながり、いままた血が落ちる。傷口の線が楕円形に繋がったところから、皮膚が肉まで抉れ水に落ちる。同じ形の傷口が、すぐ隣に生まれる。そして肉が落ちまた隣へ。

 傷口の連鎖が続き、左手からぽちゃぽちゃぽちゃぽちゃ、小指の爪ほどの大きさで、肉が抉れて離れていく。指先から掌へ。手の甲へ。赤い小さな目がいくつも開いたように……ちがう。

 あの傷口は、鱗だと、小野は理解した。傷の増殖に続き、今度は最初の傷口がかさぶたになって閉じていく。盛り上がって赤黒く固まっていく様は本当に鱗のようで、あまりの醜悪さに小野は目を逸らした。


「うろこ? 馬鹿な、呪いなど、だってこれはあの人の作った、偽物の」

「偽物?」

「ぐ、あっ!」


 答える余裕もなくなったか、汀は腕を押さえて後退する。欄干の上から箱が落ち、水滴が跳ねて飛び散る音が届いた。無音のうちに、汀が膝をついた。血が水に溶けてすうーっと小野のくるぶしを撫でていく。冷や汗が頬をつたい、水に落ちる音が聞こえた気がした。

 少しして、また水面に波紋ができた。ぎょっとして小野が見れば、流れに押されるように、箱が少しずつ小野の方へ動いている。

 断続的に、水の跳ねる音を立てながら。


「……にん、ぎょ」


 ばちゃばちゃ。

 しぶきが、箱の中から散っている。

 犬神使いの一件の際、司と交わした会話を小野は思い返していた。


「呪いも、半分は思いこみで現実に肉をつける。あると思うから、霊障や呪いはあるようになる……ただの魚でも、たくさんの人々の強い思い込みがあれば……」


 人が感じとる〝現象〟とはあいまいなもので、呪いは現象。

 呪いとは思いで、ゆえに思うだけで呪いは成立する。ほんのわずかな思いが人に多大な影響を及ぼすこともある。よくも、悪くも。

 呪いと書けばおぞましいが、まじないと書けばいくぶん穏やかに見える。よくも、悪くも。

 ふたつは、表裏一体なのではなく球体における位置の違いのようなものである。転がるそれは光の位置と影の位置が常に変わる。だれかが光だと思ったまじないが、時を経て影に位置することもままあるだろう。球体の正面とは、個人の立ち位置で変わる。

 捉え方ひとつで、世界は変わる。人は知らず知らず、なにかを変えてしまう。

 ひれが砕けて、芋虫のような形になった人魚が、のたうちながら小野の足下に近づく。ひしゃげた顔の猿みたいな頭部が、笑った形で固まっていた。ぬらりと水気を帯びた魚体は、生ゴミの底に溜まった水を思わせるい腐臭を漂わせ、ぶざまに泳ぐ。

 退こうにも退けない。空気が重く停滞しており、小野は、金縛りにあってしまったのか、動けなかった。息が止まり、目が見開く。力を溜めた魚体が、水底を打って動く。

 跳ねた人魚が、小野の左手の指先に噛みつく。つ、と流れた血が落ちるまでに、傷口が鱗の形に広がっていこうとして、


 彼方から水面を蹴るように渡りきってきた司が、小野の手をとり小刀を一閃した。


「……びっくりした。いまのが、人魚か」


 金縛りの解けた小野がざぶんと尻餅をつくと、手を貸して引き上げ、背にかばった。傷口は、広がりかけたところで、小刀に切り傷で上書きされていた。


「大丈夫?」

「だ、だいじょうぶ、ですけど……司さん、どうしてここに」

「歪みを通ってきた。なんかいろいろ大変そうなことになってるね」


 構えた小刀の切っ先を、また川に落ちた人魚に向けている。人魚はびくびくと痙攣しながら水面を漂っていたが、がばりと口を開けて音の無い絶叫を鳴り散らした。きいんと耳に違和感が走り、小野は立ちすくむ。爆発的に空気の密度が増し、重みを伴ってこちらへ押し寄せてくるのがわかった。思わず目をつぶる。


「大丈夫」


 司は小刀の構えを崩さず、包み込むように優しい声音で言った。すくんだ身を起こしてうかがうと、顔を傾けて横目で小野を見つつ、はにかんだ。


「……たぶんね」


 司の眼の色に、ほの暗い赤の揺らぎが出た。


        #


 感覚のぶれは、遂に収まりを見せ始めていた。取り戻した力に身体が馴染み、川の水面に浮かぶ歪みも、くっきりとした切れ目としてみることができるようになっている。耳も、鼻も、舌も、肌も。周囲から力を感じとって脈動する。全身が鋭敏に感覚を感得する。

 いくつかの会話の後に加良部と別れた司は、取り戻したばかりで振れ幅の大きい感覚を持て余しながらも、小野を探し続けた。道のりの中途で強力な呪いの力を読み取って針路を変更したことは、どうやら間違いでもなかったらしい。醜悪な人魚は、斬り伏せられたことで司を敵と認識したらしく、凄まじい威圧感で呪いを向けようとしていた。耳鳴りがして、片手で塞いだ。もう片方で、小野の声に耳を澄ます。


「危ないです、司さん。あの汀という男をも蝕んだ、人魚の呪いが」

「うん、やばそうだね」


 一瞥しただけでも、恐ろしいまでの負の気が充満していることがわかった。長い年月が、信仰として歪んだ力を注ぎ続けた結末がこれなのだろう。ぞわぞわと粟立つ肌が脅威を伝えてきてはいるが、不思議と司は、落ち着いて相手をみることができていた。赤馬などのいうところの〝淨眼〟にも力が行きわたり、昔は当然のものとしてみていたものを確かに捉える。

 人魚の中には、均衡を欠いた魂魄(こんぱく)がみえていた。人々の思いが生き霊や呪いとなって込められ、一体と化すことで生まれた存在の形だ。

 これも歪みと同じく、通常の霊視の眼ではみること適わない対象であるらしい。


「そんじゃ対処は――っと」


 考える有余を断つように、襲われる。負の気が靄の形をとって流れに乗り、司たちの足下を舐める。川から飛びのいて出た二人はこれをかわし、地面を踏みしめて後退した。靄はしばらく停滞していたが、ふいに密度を増すと、じくじくと液体の形で地面を浸食し始めた。


「追ってきます、司さん」

「触らないように避けて!」


 幾筋もの細い水の流れが、川からはみ出て司たちを追う。染みだし湧きだす水は汚らしく濁っていて、進路上にあった植物を枯らした。腐蝕の力が働いている。死を遠ざけんとした人々の、変化を拒む願いによって留められていた時間経過が、呪いとなって流出しているのだ。

 森をじぐざぐに走り続けて逃げた司だが、回り込むように水の道も動く上、これまで通った場所も踏むわけにはいかない。うまい具合に囲まれ、退路を阻まれる。小野も、離れたところで木に登ったはいいが、降りられなくなって道が閉ざされていた。


「……でもいける、ひさびさだけど使える」


 確信をもって、眼を開く。口に小刀をくわえて、五指を開いた両の手を広げて力を溜めておいた。

 自分に寄ってくる腐蝕の濁流を、最大限引きつけてから司は飛んだ。ばしゃりと弾けて襲おうとした水を越えて、回り込んだのは人魚の背後、上流の方だった。こちらに来れば流れに押し負けて、濁流を放つまでにタイムラグが出る。


「司さん、あぶない!」

「大丈夫。こんなの、たかが生者の妄執だ――」


 ならば司にとっては唾棄すべきものにすぎない。他に現世に関わる術をもたない死者の最後の一念ではなく、生きて現世に関われるはずの人間風情が抱く妄執など、鼻で笑って切り捨てることができる。

 眼を、開く。


「――真取眼(まどるめ)の力を、思い知れ」


 その眼が、()(とお)す。

 奥の奥まで、人魚を見据えた。魂魄を、別々に捉える。流れを無理やりに押し変えて、人魚が放った濁流を屈んでかわし、握りつぶすように両手でつかんだ。指がめりこむ。粘性の液体のごとき引っ掛かりを指先に捉えて、一気に腕に力を込めた。

 濁りきった魂魄を、木乃伊に刺しこんだ指先でつかみ、二つ並べて引きずり出し、口にくわえていた小刀を手に取り引き裂いた。裂き割った魂と魄からは耳鳴りがする鳴き声が発せられ、どろりとした負の気が溢れだし、司の掌に触れそうになったが、その前に川の中に叩きつける。

 世界がひび割れるような音がした。誰かと、誰かと、誰かと、誰かが、同じ願いを以て見据え続けた偽物の御神体。そこに宿りし人々の「物の見方」ひとつの世界の在り様が、砕けて消える音だった。

 ぶすぶすと黒い煙があがったが、煙の晴れた頃には、人魚は静かに存在を消滅させていた。溜め息ひとつで、手を打ち払った。


「な、きみは、まさか……」


 汀が驚愕に彩られた顔を向け、司の力を問う。答えるつもりはなかった。

 司の名に課せられた意味がすべてを示しており、ゆえに名に意義はない。さまざまな願いと祝福のためにこそ与えられる〝名〟も、司にとっては記号と枷に過ぎない。

 すなわち、『真を取る目を司る』。

 ――生得的な力である、淨眼よりさらに高位の『本質を見抜く眼』。付随して身についた霊感。これらを押さえこみ、ある程度は一般の中に溶け込んで生活できるように、祖父母はへその緒へ力を切り離して封じたのだ。

 かつての力を取り戻したいま、司は魂魄を捉え、触れて砕くことも可能となっていた。


「さて、あんたにはいろいろ言いたいことがあるんだけど……とりあえず、小野を危ない目にあわせてくれたのが、一番腹が立ってるかな」


 眼を向ければ、汀は息を飲み、汗と膿の滴る左手を押さえながら司をためつすがめつ凝視していた。不審な様子で、弱ってはいるものの瞳の輝きは薄れていない。司は臆したわけではないが気味悪く思い、距離を詰めることに躊躇いを覚えた。

 追い詰められた者の目では、無い。かといって、なにか策があるわけでもなさそうだ。どこか覚えがある印象だった。そうだこの目は、あの時以来だ。

 加良部が事件の終結後、これからも変わらずおわりを求めて生きると語った時に見せた、目標や信念を捉えた人間の、目。


「……見つけた。清庭の、二人目……!」

「さや、にわ?」

「一日の間に二度も逢いまみえることとなるなど、望外の幸運です。なるほど、しかし……そうか。あなたが目取真。サーダカ生まれのシジ、目取真の血族」


 聞き慣れない発音の言葉に、司は耳を疑った。聞き慣れない発音ではあったが、語にはどことなく覚えがある気がしたのだ。いつだったか踊場と話したことがあった気がする。幼い日に幾度か耳にした、祖母の言葉。

 さだかうもれてしじ……だっただろうか。たしか、発音はこうだった。

「おいあんた、なにを知ってるんだ」

「知っていることは、なにもありはしませんよ。ただ話に聞いていたのみ……そうですか。力を失い世俗へ戻ったと聞いていましたが、噂はあてになりませんね」


 やれやれと首を振り、左手を押さえていた右手で顔をつかむと、哄笑をあげてのけぞった。


 聞き捨てならない言葉を、発して。

「各地で歪みを生み育てる段階も終わりのようですね」

「生み、育てる? おいあんた、なに言ってるんだ」

「疑問しか生まれませんね。あなたもなにも知らない。この世界がどれほどみにくい形でバランスを保っているのか、知りもしない。意識と認識に封をして、閉じた環の中でパンドラの箱を囲んでいる。……八尾は、この世の縮図だったのですね。誰もが誰も、醜く均衡を欠いた存在を中心に置いて、けれど直視することのないよう箱に閉じ込めている。おわかりですか」

「わかるわけないだろ。抽象的すぎる」

「過去を顧みることを忘れ、歴史に蓋をしているということですよ」


 空になった箱を指差しながら、汀は喉の奥から声を絞り出している。小野は木から降りてのち黙りこくったまま、汀の言葉に噛みつきそうな目をしている。


「未来の幸福などという、形状も定まらない得難い物を追い求めている。過去の処理が追い付いていません。だから八尾は破綻しました。過去から破滅を抱え続けていたのに、どうにかしようという心を持たず蓋をして見ぬふりを決め込んだからです。このままではいけないと、私は改革をはじめました。その途上であの人――七無さんと出逢い、歪みによる新しいシステムの構築について話を聞いたのですよ」


 小野の目つきが変わる。司も食いついた。ここでもまた、その名が出るのかと。


「誰から、なにを聞いたっていうんだ」

「いまはまだ話すべき機ではないでしょう。できればここでお話を続けたくもあるのですが、いささか都合が悪い。手がこうなってしまったのも問題ですが、八尾での報告をしなくてはならないのでね」

「逃がすと、お思いですか」


 構えを取った小野を見て、汀は笑う。


「無謀な深追いは止した方がいい。きみの母はそのために命を落としたのだから」

「……っ。軽口も止した方が、いいですよ。時と場合と相手によっては、死を招きますから」


 明らかに殺気だった小野の前進を、司が止められるはずもない。そのはずなのだが、自分の意志に反して、身体は自然と動いていた。先ほど歪みの中に迷いなく飛び降りた時と同じように、自然に間合いに踏み込む動きは、小野にとっても予想外だったのか歩みを止めるには十分だった。

 隙を見て、汀が逃亡する。暗がりに呑まれて姿が見えなくなる。み落としていた、もうひとつ近くにあった歪みの中に、自ら飛び込んだ。


「またいずれ」


 笑んだ気色を匂わせて、気配が消失する。橋に駆けよるが、汀の姿はない。小野は焚きつけられた思いの丈を追い出し、欄干に拳を叩きつけて歯の間から息を滲みださせていた。

 すべては、終息した。

 行き場をなくした力は、思いは、袋小路で詰まった。


        #


 八尾の町は、惨状を晒していた。

 焼死者五人。失神や貧血で倒れた者、数十人。原因は不明であり、表向きは有毒、または可燃性の火山ガスが発生したのだろうということで片づけられるようだ。司たちも、そのように証言することを求められた。というより、霊体による呪いが人体発火の原因だなどと吹聴すれば、ガスを吸って頭がおかしくなったと判断されるのが関の山だろう。

 文明社会がオカルトを排斥したが、オカルトのオカルトたる所以――神秘性、秘匿性というものが守られているのは、皮肉なことに文明社会の在り方が要因なのだ。認めようとしないからこそ、薄暗がりに存在を保つ。どこまでいっても、人間は闇から逃れられない。


「決定的、だね」


 夜半。サービスエリアで休憩をとり、隅の方にある公園めいた小高い丘の上でコーヒーを飲んでいた踊場に近付くと、彼は星空に溜め息を吹きかけながら言った。司は横に腰かけながら、アイスココアを飲んだ。昨日の雨が残る地面からは、生きた草の匂いがほとばしっていた。

 歪み、もとい切れ目から戻った司たちは一泊し、八尾の人間から取り調べに近い質問を受けることになったが、廉太郎と踊場が七無の名を、口論義とサワハが汀の名を、そして小野が平坂の名を出した途端に、八尾の住民たちは沈黙を周囲に伝播させてぞろぞろと去っていった。

 丙の襲撃による恐慌状態をようやく脱したところだった水際亭の店主も沈黙し、けれど震えが隠し切れておらず、話せるだけの事情は話すから今日中にこの町を去ってくれと懇願してきた。司たちもこれ以上居座るメリットがなかったため、要望に応じた。


 そして夜に帰路につき、道を戻ってきた。明るい街灯の下、サービスエリアとここを出入りする車の流れを見ていると、八尾での出来事から現実味が薄れてゆくように思えた。


「八尾が、いろいろなことの始まりだったんだ。僕らの遭遇した歪み、いくつもの事件。すべての裏に、汀と、七無。奴がいる」

「でも、踊場さんたちが無事でよかったよ。七無と遭遇したって聞いたとき、びっくりした」

「まあね。一撃もらった時にはまずいことになったと焦ったが、町の外れに放置されているだけで済んだようだ。ところであの人魚も、七無によってもたらされた偽物が、信心によって呪いを発した物であったようだけれど」

「みたいだね。でも腐らなかったのも事実らしいけど……なんだったんだろ。そもそも、腐らなかったからこそ信仰の対象になるような力があるって思われたわけでしょ。ホントに偽物?」

「そこはなんとなく推察できているよ。実物を見ていないから確証は持てないが」


 コーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れて、踊場は語る。


「たぶんワニだ」

「ワニ? 手足はなかったよ」

「……司くん、僕らが初日に食べた料理のことをもう忘れたのかい」


 鰐。ああ、とつぶやいて、司は思い出す。


「鮫は排尿器官があまり発達していなくてね。煮こごりなどにして食べると特に、アンモニアの臭みがきつくて好き嫌いが分かれる。だがそれ故に腐りにくいので、昔は山間部でも食べられる海の魚というと、鮫だったのさ」


 腐りにくく、奇形で顔が人に近い。安置されたのが洞窟で、温度湿度などの変化が少なかったことも幸いして、木乃伊になった。結果、信心の対象に変貌した。踊場はそう考えているらしかった。


「でも、水辺でもない洞窟の近くに落ちてたっていうよね」

「そこは、サワハくんの話で合点がいったよ。人魚鮫が発見されたときに、ちょうどこの町は嵐に見舞われていたらしい」


 竜巻が海や池から魚類を巻き上げて平地に落とす、という怪現象は、稀にだが実際に何件か起こっている事例だ。八尾での一件も、そのひとつだろうとのことだった。


「いくつもの偶然が重なって、信仰を生んだ。信心が、呪いを育んだ」

「うん」

「この例の『信仰』を『迷信』に、『信心』を『狂信』に変えれば、呪いや歪みはどこでも起こり得るということにも繋がる。あとは、起こり易いように場所と時間の調整など舞台装置を整えてやれば」

「犬神使いや、加良部や、神代のときみたいになるってこと」

「そういうことだろうね。……以前話した、作用反作用にも、これなら抵触しない。呪いし者は呪われ、穴は常に二つだが、状況を設えるだけで実行を他人に任せれば、実害を被ることなく歪みを生むことは十分に可能だ。汀や七無がその先になにを求めているのかは、わからないがね」

「汀は、過去を顧みることが必要だ、ってような口ぶりだったよ」

「奴が言うかね、それを」


 不快そうに顔を歪め、踊場は吐き捨てた。

 汀の名が出たときは、こんな感じなのだった。そういえばあのとき、歪みに飛び込む前に口論義と通話していた際も、嫌なものを耳にしたという様子で、話を聞いたいたのだったか。

 あとから小野に聞いて、あのとき自分たちが対面していた汀こそが、口論義のうろたえる原因だったとは聞いていたのだが。小野も話したくないらしく、口をつぐんでしまったので先を知ることはできていなかった。一体なんなのだろう、と司は考え込む。


「ああそうだ。なにはともあれ、落ち着いたから言わせてもらうが」

「? なに」


 横を向こうとした司の頭を、踊場はわりと強めにはたいた。視界が白黒、というほどではなかったが、少し目がしらにきた。


「……独断専行はよしてくれ。たしかに、歪みなど霊能力関連では僕らが力になれるわけでもなかったのだろうが、ああいうのは困る。以後謹んでくれ」

「……ごめんなさい」

「頼むよ。親しい人が突然消えるのは、こたえるんだ」

「うん、わかる」

「こういうのは会長の口論義が言うべきとは思うんだが、いまはちょっと憔悴しているようなので代わりにいうよ。はじまりこそ利害の一致によるものだったが、いまはそれだけではないと僕は思っている。だれが欠けてもいけない、そんな気がしている。きっと皆もね」


 そういって、踊場は車に戻っていった。司にとってもそうだ、と思った。明け透けに接することができて、異能があってもなにを言われることもない。そういう居場所が得難いものであるということを、よく知っているから。だからこそ動く気になれるのだ。

 司も車に戻ろうかと、去っていく踊場のあとをついていった。だが途中で自動販売機の前で小野がたたずんでいるのを見て、足を向ける方向を変えた。ぼんやりと誘蛾灯を眺める小野は、司が近づいてくることに気付くと、軽く片手をあげて応じた。


「小野」

「司さん」

「そろそろ出発じゃない? 飲み物なりお土産なり買うなら、早くしないと」

「お土産は買いませんよ。もっと重大なお土産が手に入りましたし、ね」


 自動販売機の白い光に照らされた小野は、出逢ったころよりは少し長く伸びてきた髪を、後ろに掻きながらそう言った。司はそっか、と同意を見せて、彼女の横で壁に背をもたせかける。タイルのひやりとした温度とのっぺりした質感が、パーカーの薄い布地越しに肌を攻めた。

 静かな夜だった。サービスエリアというのは、あまり降りたことのない場所であったが、いつもこんなふうなのだろうかと司は思う。中継地という特性上、人はいるが営みはない。どこでも均質な匂いがするのだ。


「……さっき、叱られていましたね」

「見えてたんだ」

「ええ。ばっちりと」

「仕方ないよね。けど、あそこで動いちゃったのも、仕方ない。他に方法はないって思ったら、瞬間的にやるしかないとも思ったんだ」

「そうだったんですか」


 小野の声のトーンが、思い出したように落ちる。あるべきでなかった高い位置から、ふとしたことで落ちたような印象だった。


「汀に向かおうとしたわたしを止めたのも……瞬間的に、やるしかない、と思ったからですか」

「……ああ、どうだろうね。瞬間的だったけど、自分でもあれは驚いた」

「はぐらかさないでください」


 隣から小野の手が伸び、司の袖口をつかんだ。ばち、っと音がしたのでなにかと思えば、誘蛾灯にぶつかった羽虫の発した音だった。


「返答によっては、今後の司さんへの対応を考えなくてはいけないんです」


 言外に、返答の内容を求める意志が見え隠れする。踊場にも叱られたばかりだが、小野も、あの行動について怒っている部分があるのかもしれなかった。汀はなんらかの手掛かりになるかもしれなかったのだから、当然かもしれない。

 しかし司も考えなく動いたわけではない。


「小野がだれかを傷つけるとこ、見たくないんだよ」

「弁明はしません。わたしは、そんな人間なんですよ。目的のためならだれを害することもいとわず、傷つけることに、慣れています」

「そんなことない」

「ありますよ。他人に虐げられた覚えのある人間は、相手と同じくらいの残虐さを心の中に囲いこんでしまうんです。……倉内流で破門になったんですよ、わたし。あれだけ荒くれ者だった廉太郎さんよりも、わたしの方が危ないと判断されたんです。まあ、廉太郎さんは強さを求めるために、過程として人を傷つけてしまうだけで。わたしみたいに、人を傷つけることを結果として求めるわけではありませんから、遥かにまともなんでしょうけど」

「でも小野は人を傷つけると後悔するんだろう?」

「なにを言うんですか」

「だって嫌そうな顔してたよ。神代を殴り飛ばしたときとか。容赦はなかったけど、いやいややってるように見えた」

「見間違いですよ」

「楽しいわけじゃないはずだよ」


 ずるい言い方ではあると思ったが、言わずにはいられなかった。沈黙も否定もできず、肯定してしまえば、当然認めることになる。小野は諦めたように、司の袖を放した。澄んだ瞳が、眼前の闇を映して応える。


「……そうですね。楽しくなんかないですよ」

「やっぱり」

「でも、胸の内が楽になるのも、確かなんです」


 じじっと自動販売機から音がして、光が明滅した。いままた、沈痛な面持ちで、さっきだれかを殴ったあとのような顔で、小野はうつむき、瞳から光が消える。


「みじめで、なにもできなかった自分を、忘れられる瞬間があるのも、確かなんです。もちろん、嫌だと思うのも否定できませんし、辛さはありますけど……心のどこかが軽くなるんです。自分に嫌気がさしつつも、止まれない。必要だと自分が思ったなら、迷わず容赦せずわたしは蹴ります」

「それは……山女魚さんのことを、いろいろ言われて、辛かったからだと思う」

「原因を他人に求めても、結果を出したのは自分ですよ。道で人にぶつかられていらいらしたからって、他の人を殴ってはいけないのと同じです。わたしは、自分を保てない。怒りに流されてしまう」


 小野は司の方を見ようとはしない。司は小野の横顔を見続けた。


「こんなわたしなのに、いつも、司さんは助けに来てくれるんですね」

「好きだから」


 景色と音が止まった気がした。自分が言い放ってしまった言葉を反芻し、慌てて、取り返そうとするように片手で虚空を掻いてしまう。そのまま拳を握って、下ろし、ただひたすら時間だけが巻き戻ってくれることを願って、司は固まってしまった。

 けれど時間は経過するだけでなにも生んではくれなかった。小野も硬直したまま、どこまでも不明瞭な感覚の中で時間が過ぎて、いるのかどうかも怪しく、つい言ってしまったことに自己に対する嫌悪と嘲弄がはじまる。

 ややあって……なのかはわからないが、踊場たちが呼びに来ないのだから少ししか経っていないと判断する冷静な自分がいることにも気づいて。動きだした小野の行方を、発する声を、うかがい続ける司の前で、小野は自動販売機から紅茶のボタンを押した。がこん、と落下した缶のプルタブに爪を立てて、開けようとしながら、背を向けた。


「……うそでしょう」

「うそいってどうするのさ」


 不貞腐れたような声しか出ない自分がさらに嫌になりつつ、震え声で司は返した。いってしまったのだから、もうどうにでもなれと自棄になっていた。


「なんでわたしなんですか」

「なんで、って」

「最初、犬神使いの一件のあと、司さんはおっしゃいましたよ。人を呪ったなら、わたしのことを嫌いになるだろうと」

「まだ呪ってない。それに、呪いに頼る前に、自分にできることは全部やると思う。って、この前もいったよ」

「では、嫌いになる要因はないとして……どうして」

「そういうやりとりから気になるようになって、だんだん惹かれてった。最初は唐突だったけど、能力を見出してくれて、必要としてくれた。そんなとこだよ」

「簡潔ですね」

「でもはじめてのことだった」


 だから、と言葉を継いで、司は小野の前に回り込んだ。常ならば隙なく立ち尽くすはずの彼女だが、なぜかいまだけはずいぶんと気が抜けていたらしく、司に顔を見られてからようやくちゃんと反応した。


「あ、あのちょっと……」


 弱弱しく、あまり意味の無い返答をする小野は、顔から耳まで赤く染めて、胸元に缶を抱えていた。細い人差し指の先はかりかりとプルタブを引っ掻いてはいたものの、開けるには至っていない。手が震えているらしかった。逆に司の震えは収まった。


「……小野?」

「はい」


 言葉尻に重なるほど即答であったが、しどろもどろで目が泳いでいた。


「……うん」


 司の震えもすぐに再開された。多少なりとも意識されている、と思ったら、途端に先ほどまでよりも遥かに意識してしまうようになったらしい。お互いに意識し合うことがこのまま続いたら、どちらが先に熱を出して倒れるかの競争になってしまう気がした。


「あ、あの」

「うん」

「そのですね」

「うん」

「わたし、」「そろそろ出発だから車戻るわよ」


 横合いの出入り口から現れた口論義は二人の様子に注意を払うこともなく、歩みに淀みを生むこともなく、素早く歩いて去っていった。あっけにとられて、時間が止まった。わけもなく。

 時計を見ると、話し始めてからもうずいぶん経っていた。顔をあげると小野がやりきれない表情で首筋を撫でていて、少なくとも耳や首からは赤みが薄れていた。頬にさす朱の気配が、いまのやりとりが夢でなかったことの証左として残っていた。いましばらくはこの時間の残滓を眺めていたかったが、かぶりを振った小野にうながされる。


「……戻りましょうか」

「……、」

「返答は、少し、お待ちください」

「うん」


 並んで戻る。小野はいつもより足早で、行きかう車への注意を欠いているのか危なっかしかった。もっとも司も同じで、結局二人で合わせて一人分くらいの注意力だった。

 横を歩いていても心臓が早鐘を打ち、座席に腰掛けるまでに意識を失うのではないかと幾度も思った。けれど人間の身体というのは考えているよりも遥かに頑丈で、付随する精神にも慣れという屈強の機能が備わっている。座席について、走り出し、静まり返るころには平静を取り戻すことができていた。

 夜を走る車の中で次第に司はまどろみの中に沈む。隣の小野を確かめると、彼女も静かに寝息を立てていた。先ほどまではこわいくらいだった鼓動が、わずかに昂り、落ち着いた律動を取り戻すのがわかった。

 おやすみ。

 声に出さず心に秘めて、司はまぶたを下ろす。

 途切れる視界の中、最後に目に入ったのは運転をしている踊場と、その横で小さな紙片を広げている口論義だった。真面目な面持ちで、わら半紙のような紙片に目を落とす口論義は、司の視線に気づいたわけではないだろうが手の内に折りこんで隠してしまう。


 そうして七月が終わっていった。


        #



 八月に入り、四日。口論義は自室でライターの火をともし、わら半紙のような紙片にかざす。

 薄い紙は見る見るうちに燃え上がり、コップの中に灰となって降り注いだ。

『慈雨の会 本部 所在 S県荒城町76-……』端から焼け落ち、火に洗われた紙片はあっという間に情報を灰燼の中にくらました。

 祖父が起きる前にと、口論義は靴を履いて、二階の窓から出る。月下に、身をひそめた。



        #


 八月五日。司たちは口論義がいなくなったことを知った。




        海と隠亡編:終






四章終幕。

いよいよ次で最終章。

主人公覚醒(再取得)、ヒロインも覚醒、やることはあとわずか。

クライマックスの最終章。


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