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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
海と隠亡編
27/38

二十七題目 「夢の後先、おわりの巡間」と踊場が思う

ひさびさに、奴の登場。


        #


 降り立ったのは、狭い小川だった。司でも走り幅跳びで越すことができそうな、ちいさな川。


「ぐ」


 すぐに胸に息が詰まるような腐臭、肌を覆う違和感が顕現する。第六感の仕業である幻覚に覆われ、ここもまた異界、異常の領域であると知覚する。かぶりを振ってまた幻覚を払いのけると、司は目に熱さを覚えた。手で押さえると、すぐにおさまったが、なんだか頭痛のような痛みの根が残った。


「ここは」


 どこなのか、わからない。いつの間にやら森の中で、水を打ったように静まり返っている。生き物のどよめきや木の葉のざわめきすらあまり聞こえない、生の気配が希薄な森だった。


「あ、そうだ。廉太郎さん、廉太郎さん……だめだ、やっぱ圏外」


 電話をかけた状態で通り抜ければ、こちらでも通話を維持できるかと思ったのだが。やはり現世の法則など通じない世界なのか、それとも単に電波がないのか。通話は終了しており、画面はそのままでボタンを押しても反応がなかった。あきらめて歩き出す司は、とりあえず川を下流へくだってみることにした。道がないか、周囲を見回す。その時、視界の端に白い影が見えたような気がしたが、あらためて見回しても森の色しか見当たらなかった。

 小野の影もない。


「まいったな」


 すぐに見つかるとは思っていなかったものの、一人きりでこのような異界にいる心細さは、思った以上に精神に響いた。森は、昼だというのに薄暗く、かといって葉が濃く茂っているわけでもなかった。空自体が灰色で、時折マーブリングのように黒が混ざるのだ。それでいてぼんやりと曇天のような明るさがある、妙な空間だった。

 下流へ下流へとしばらく歩くうち、霧雨が鼻先に触れた。空を見ても雨雲があるのかどうか判然としなかったが、とにかく水気が浸し始めていた。パーカをかぶってしのぎつつ、霧雨のカーテンを進むと、森が途切れている。やっとどこか開けたところへ出られるので、司は駆け足で境目へ近づく。だがその先へは、ちょっと踏み出せなかった。

 半分に割ったすりばちのように、森の端が広く抉れていた。おそらくは土砂崩れだろうが、途切れた先は急斜面になっていて降りられない。仕方なく迂回して進むことにするが、崩れた斜面の先の方を見ると、白濁とした霧雨の向こうに、民家の影も見えていた。ほかに目指すあてもないので、司はそこへ近づくことにする。と、踏み出してもいないのに、ぱらぱら、斜面を落ちる石の音がした。音がした方を見た時、木が目に入って、なぜか幹のコブが目に焼きつく。

 理由は、すぐにわかった。


「あ……」


 近づいた民家にも、見覚えがあった。古臭い二階建て、木造のアパート。近くに立ち並ぶ電柱もよく見れば木製で、風にゆれる電線は短くいろいろなところへ伸びていた。

 町並みは湿っぽくこぢんまりとしていて、大通りというものがない。小路を繋げて路地の迷路を作り上げ、壁の代わりに建物を配置したがごときつくりだ。町は四方を森と山に囲まれており、狭い山道を通じて、ちょうど数字の8のように二つ並びの集落同士が続く。その山道こそが狭間であり、境目を流れる川が両界を隔てる役割を果たし異界へ繋げる要素と成す。


「村、だ……」


 七つを数えるまで過ごした村が、八年の月日を経てもなにひとつ変わらず、そこにあった。まだこの地の名前を思い返すこともできなかったが、たしかに、戻ってきたのだ。

 と、通り沿いに声がしたので、司はアパートの陰に身を潜める。強まってきた霧雨の彼方から近づく足音と話声はぼそぼそとくぐもった陰気なもので、住人たちのそうした具合もあの頃とまったく変わりがなかった。身を乗り出すことがないようにしながら覗きこむと、ずいぶんと型の古そうなスリーピースに身を包んだ初老の男が三人、街角で話しこんでいた。


「……の、様子は……」

「反……計画に……ないよう、今も……」

「…………だから、あそこへ汀を……」

「異界の……が乱れる……七無さんが」


 ななし。その音を聞いて、司は驚く。まさかここに来て、またその名に出遭うこととなるとは。どこでなにが繋がっているかわからないものである。

 だがそれ以上は、男たちが去りゆくために聞き取れなくなっていく。かといって敵地(、、)の只中一人きりである現状、これ以上は不用意に近づくわけにいかず、司はしばしその場にとどまって考えにふけった。考えがまとまったところで、行動を開始する。

 第一目標は小野を探すこと。しかし同じようにここへきているのか、それともまったく別の場所に辿り着いているのかはわからなかったので、第二目標を目指しながら探すこととする。


「ここがあの通りなら、八年前と同じなら」


 歩き出した司は、通りから逸れて小路に入っていく。人に見つかることがないように慎重を期して進み、次第に町並みから離れていく。外れゆく。足の向く方には、切り立った崖に沿う狭いでっぱりのような道があった。霧雨に浸され、濡れた土を踏みひたすらに歩く。よもやこんなところで、こんな時にここを見つけるとは思っていなかったので、司は足取りに現実感を覚えることができなかった。

 祖父との、会話を思い返す。幼少の折ここで暮らし、その間教わった様々な事柄が頭を駆け巡る。現代社会に馴染んで後に見直してみると、この村はあまりにも発展から取り残されていて、異界という言葉が似合いすぎていた。

 異界か、とひとりごちて、司は辺りを見渡す。小高い丘にさしかかっていたため、小さな村は端の方までよく見はらすことができた。もともと人口が極端に少ないため、歩く人の姿はまばらだが、皆異様な雰囲気をまとっていることは遠目にも隠し切れていない。呪力、霊力で此方彼方の世に関わる術を持ち、民間の祈祷師として動く者が大半だ。

 若い人間は八年前の当時から少なく、子供に至っては、司の他に二人しか見ることはなかった。この理由は村自体が呪術師たちの立ち寄る宿場町のような場として機能していたためで、実際の村民がごくわずか、あらゆるコミュニティから排斥された人間のみであったためだ、と御手洗からは聞いていた。

 祖父母と離れた後、霊関係について面倒を見てくれた御手洗。彼女から「異界に近づくのはよせ」と言われていたものの、祖父の命を優先したことには若干の罪悪感がある。しかし司は忘れ物を取り戻さなくてはならない。止まっていた足を、持ち上げた。行くべき場所は、もうすぐ目の前にあった。


 つづら折りになった坂を登り続けると、息が切れた。足下がおぼつかなくなってきて、そろそろ立ち止まろうかという時に、果たして司は目的地に着いた。人気のない道であったため当然かもしれないが、小野には出会えなかった。だが、第二目標は確実に目の前にあった。

 そしてそれは現状においては第二目標としていたものだが、祖父から連絡を受けてからこれまでの、一年と少しの生活の中においては、なにをさておいても達成せんとしてきた目標であった。

 平屋づくりで、屋根に載る瓦がいくらか落ちている。玄関のある東側とは反対に土間に続く入口があり、そこを抜けてあがりこむと、炊事場の横にふすまがあった。隙間があり、中をうかがうと、囲炉裏を囲んで三つの座布団が並んでいる。あの頃と変わらない質素な内装。見上げれば、あの頃よりは遥かに近く、黒い煤けた梁が眺められた。目が、熱くなる。

 あばら家となり、みすぼらしくなり果てた司の生家が、そこにあった。


「……出てったときと、変わってないな」


 目が、熱い。別段懐かしさに涙がこみ上げているわけではなく、視神経がぎゅうと圧迫されているように重くのしかかる痛みが、熱さだと感じられている。司はスニーカーのままで座敷にあがり、囲炉裏のまわりを周回すると、座布団をはたいてから座りこんだ。いつも自分が座っていた位置で、当時と変わらない薄さを保った座布団は、座敷から冷たさを伝えてきた。

 忘れ物は、まだここにある。眼前にある濃密な気配が、それを物語る。


「『すべての呪いの出づるところ、身に行く呪いが通りしところ、人が生む呪いの源のところ。心にほど近くゆえにこの世になく、身の内に籠りて見えず見透かす目にてもまた視えず。お前の目のみが、瞰通す場所』か……」


 幼い頃から、言い聞かせられていた言葉だった。司は手を伸ばし、梁からぶら下がっていた自在鈎の横木である魚型の木片を、取り外した。次いでポケットから小刀を取り出し、切っ先を、わずかにあいた魚の口からねじこみ、左右にひねって封を解く。かちりとはまった音がして、引きぬくと、魚のうろこが一部飛び出す。爪の先をかけて開くと、中の小さな空洞に、しわくちゃに縮んだ暗褐色の塊が入っていた。掌に載せたそれを少しの間眺めていた司だが、意を決して、口に含んで飲み下す。干物をかびさせたような味がして、寒気がした。

 毒を飲んで、効き目があらわれるまでの心境は、こんな感じじゃないだろうか。司は胃から戻ってくることがないように、幾度もつばを飲みこんで吐き気を押さえた。

 やがて口の中に残っていたかびくささが、ほどけて消えるころ。目の熱さも失せて、視界がはっきりとしてくる。この異界に、ピントがあったような感触だ。肌は空気をしっかりとつかむように粟立ち、耳をそばだてれば雑音を拾うようになる。世界が、一変する。


「おかえり――」


 我が力。

 飲みこみ、胃に落ちたのは、かつて己と外界とを繋ぎ、同時に隔てていた、境界の役割を成すもの。生まれ落ちる際に断ち切られる、己の一部にして己だけの一部ではないもの。

 つまりへその緒に、司の祖父母は力を分け宿しておいた。十二年前、三歳になった司から孫がみているものを伝え聞き、危うい力の持ち主だと知った時に。危険から遠ざけるため。無用な争いを起こさないため。力を封じ、弱めたのだ。

 けれど結局、司の力は削りきること叶わず、目は〝淨眼(じょうがん)〟と呼ばれる通常の霊視より遥かに多くのものを見据える目のまま。第六感も研ぎ澄まされており、ある領域を踏み込み過ぎる前に知覚できるほどに強大なままだった。その力は、世界に作用する。

 だから〝繋がり易い〟幼少期、七つの齢を過ぎるまで、呪術に秀でた祖父母に守られ生きてきた。村を出てからはさらに力を封じるため、名で縛り、自分を隠し、その習慣は今も続いているまま――そのままで、一生を、つつがなく平穏に過ごしていけると思っていた。

 だが祖母は死んだ。司は葬儀に呼ばれず、ただ肺炎だったと伝えられた。これを嘘だと感じ、父に詰め寄ると、苦い顔をしながら父は告げた。「あちらの世界の話だ」と。死因は、肺炎などではないと。遺体は、二目と見られるものではなかったのだ、と。

 それきり、祖父母とは交流が断たれた。夢枕にでもいい、祖母を視ることはできないだろうかと司は願ったが、現れることはついになかった……月日が経ち、祖父からの命令がくるまでは。おぼろげな祖母の姿を夢に視、司は祖父からの電話を受ける。それはまたも(、、、)司の身が狙われているのだという、連絡だった。こうして、かつての力を得なければ身を守ることも危ういと知り、司は力を封じたへその緒がある、生家を求めることとなったのだ。


「う」


 ――より深く、世界に触れている気がした。

 戻ってきた力が、己から欠けていたものを埋めたことを知覚した。充溢する力の脈動にうんざりしながら、司は立ち上がる。すぐさま、倒れ伏せる。取り戻した感覚のせいですべてが二重に感じられ、暴れる感覚の騒がしさに慣れるまではいましばらくの時間が必要だと思われた。音が大きくなったり小さくなったり、空気が早く流れたり遅く流れたり、匂いと臭いの基準があいまいになったりした。


「ああ、くそ、急がなきゃならないのに」


 ぐずぐずしていたら、小野を見つけることもできない。この村に長居をすることも、好ましくはないだろう。少し重たい頭を片手で支えつつ、司は後ろを向く。首が角度を変えた途端、襟首を押さえつけられるような圧迫感があった。

 直前に、気配に気づいて飛び退がる。包み込む気配は禍々しさに欠けていたが、寒々しい色合いを思わせ、ひどくかびた埃のような匂いがした。第六感の警告に身構え、小刀を抜く。

 ふすまの隙間に、細い顔立ちがのぞいていた。やつれきった青い顔は、カールしたショートボブの髪の中へ埋もれて、マネキンじみた虚ろさを視せる。白いチュニックと淡い黄土色のスカートを履いており、服装は着こなしているというより一体となっている肌のように思えた。


「……あんた」

「――――はてさて。見覚えのある後姿と思い、あとをつけてみたのですが。お懐かしい方にお会いできたものですね」


 生気のない、気力を削がれた声で、女は喋った。

 否、生気がなくて当然なのだ。


「あんた」

「はい」


 隙間をこじあけて同じ場所へ降り立ち、司はもう一度とっくりと女を眺めた。


「死んだんだね」

「はい」


 加良部雪からべゆきは、生前とあまり変わらない様子で、反射のような答えを返した。




 十二年越しに力を取り戻し、霊の声を聞き肌に触れ匂いを確かめてみた司だが、幼少の折に感じたのと同じく、生者とのちがいはよくわからなかった。確実な差異はたったひとつ、近づいた時に、第六感が働くか否かである。

 囲炉裏を挟んで向かい合った司と加良部は、互いに互いの様子をたしかめていた。あの頃となにひとつ変わらないように思えた加良部だが、もう死んでしまったためか、さらに表情が希薄になったと見える。二人は、奇妙な空気の中で話した。


「二カ月前のあの事件。あのとき、あんたはガードレールから消えたね」

「ええ。あの場を逃れ得るべく、歩き出そうとしたのですが。なんとも情けないことに、足を滑らせ崖下へ落ちたのです。しかし、死したはずのわたくしはあの場ではなく、この村におりました」


 橋から飛び降りた司と同じ状態だったのだろう。崖下に偶然存在した歪みへ、大量の山の気と共に、加良部は落ちたのだ。そして通り抜けた。


「この村は、死者の言の葉を耳にし姿を目に映すことができる方が、多くいるのですね」

「まあ、ね。霊視や呪術、そういうものに精通した人ばかりが、この村を拠点にしてる。だからあんたとも普通に接するだろ? 悪霊でなければ、気にも留めない人ばっかりだ」

「左様で」

「……そうだよ、な。あんた、悪霊ではないん、だよね」

「悪霊という概念がどのような事象を起こすものを指すかは存じておりませんが、少なくともわたくしは他者に害意を以て接したことはございません」


 生前とかわらず、もってまわったような長ったらしい言い回しをするものだった。ただ、悪霊と化すことがなかったとはいえ、司としてはなぜ霊となり、すなわち死んでしまったいまも、彼女が現世に居続けるのかがわからなかった。


「で、なんでまだ向こうに行ってないの」

「向こうとは、彼の世ですか。ええ、たしかにわたくしの生命は果てました。しかしおわりを迎えたわけではございません。未だ現世に残る理由も、おそらくはそれでしょう」

「ここが現世なのかっていうと、かなり微妙なラインなんだけどな……」

「黄泉との境、ということですか」

「近い表現だと思うよ」


 現に、祖父から伝えられた通り司は呪いの痕跡を辿ることで〝歪み〟を見つけ、それがここへ至るための道であると確かめることができたわけだが。踊場により圧倒的なまでの情報収集量を誇り、さまざまな場所から噂・伝承を引っ張ってくる奇怪事件展覧列挙集でさえ、村についての話は欠片さえ一切見つけられなかった。御手洗も、異界の先にこんな場があるとは知らなかったはずだ。その上で思念の行き着く先であるというなら、それは黄泉であろう。


「呪いの行き着く先、終点の場所だよ」


 異常なほど濃い気があたりに満ちていて、どこにいても第六感が働きそうになるのがいい証拠である。終点、おわり、と繰り返す加良部は、ふと上を見てから、灰の中へ視線を落とす。


「だいたい、おわりって言うけど、あんたとあんたと共に死を望む人の死を周囲に記憶させておわりを迎えることなんて、もう無理じゃないか」

「あなた様やこの村を行き交う人々など、まだ関われる人々は残っております。この身でできることをたしかめてからでも、死に向かうことは遅くありません」


 死んでいるのに死をまっとうしない。現世を棄てたくせに、誰よりもこの女は現世に執着があるのだった。司は、『まだ人と関われる手段を持つ生者には人を呪う資格などない』と定義したものだが。死してなお他者と関われる術を見出したのなら、永くそれにすがりつこうと思える加良部の在り方には恐れ入った。


「具体案はあるの」

「さてどうでしょう。しかしこの身は食事も睡眠も不要ですし、誰に邪魔を受けることもございません。熟考してのちに決めることといたします」

「なんか、少し余裕でてきたね」

「前回、前々回の失敗とわたくし自身の死亡により、現世へのアプローチはあきらめがついたのみです」


 しれっと言ってのけたが、陰鬱で影のある表情は依然として変わりない。死はふっ切らせたのではなく、彼女の在り方を減速させたに過ぎないのだろう。そこで気にかかる言葉があったので、司は尋ねる。


「前々回?」

「騒ぎを起こしただけで、アプローチというにはあまりにも稚拙なものでしたがね。そも、まだその時のわたくしは、自分の望み、ぜんぶとおわりというものの形を定義してはおりませんでしたので。大学などで人を集めることに成功はしたものの。狂乱に終始し死を迎えることはありませんでした。もっとも、そこで死というおわりにわたくしは関心を持つにいたったのであり、無駄というわけではなかったのでございます」


 大学、人を集める、と、今度は司が繰り返す番だった。


「……それ、やったのって冬?」

「ええ」

「ボランティアサークルを騙って?」

「ええよくご存知で」


 どうやら加良部はきてれつ研でたびたび話題にあがる、冬の一件の加担者がひとりであったようだ。やつれているせいもあるのだろうが、加良部が実年齢よりも老けて見えたため学生であったとは思いもよらなかった。

 だれか気付けよ、と司は思ったが、加良部いわく相当な人数を集めていたようであるし、おまけに終盤はだれが首謀者でだれが誘われた者なのかもわからない狂乱であったそうなので、仕方なさそうだった。


「入れ換わりの多い面子でしたので。最初の五人も、実のところ決起集会の直前で一人抜けておりました。その方が、最初に集いの形を作ったのですがね」

「責任感無いなそいつ」

「彼はなにがしかの宗教を信奉していたようでして、よく洗脳に用いられる心理誘導の法を多用した形を作ったのも彼でした。わたくしは社会心理学を専攻していたので多少なりとも理解に及ぶこと叶ったのでございますが、実際、よくできていたのですよ。彼の構築したシステム」


 フォッグマン事件の際にそれを流用したんじゃないのか、と思い浮かんだ司だったが、加良部の話が続いていたため口を差し挟むのはよしておいた。


「結局、最終局面の前に抜けることとなった要因も、そちらの方が忙しくなった故だとと聞き及んでおります」

「なんて宗教?」

「そこまでは。おそらくは新興のものでしょうが、そうですね。よく標語と思しきものを口にしていました。『得難き幸福を忘れなさい。ただ今の自分を思う、易き幸福の下に』と」


        #


 小野が降り立ったのは、川に挟まれた中州のような場所だった。落ちる、という感覚があったわりには衝撃はあまりなく、階段があると思って平地に足を踏み下ろしたときのような、じんわりとした痛みが片足に残った。

 そして、周囲に歪みがあるかのような悪寒に背筋を撫でまわされる。重苦しい気配に押し潰されそうになって、崩れる膝を律しながら「大丈夫」と自分に言い聞かせる。いくらか気は楽になって落ち着いたが、自分がまずい場所に踏み込んでしまったことは、感覚がいやというほど伝えてきた。

 司によって、それこそが第六感であると教えられた当初は驚いたものだが、さいきんは己の異能察知と組み合わせれば危険域をある程度避けることができるので重宝していた。


「……、」


 が、このような形で踏み込んでしまうのでは避けようもなかった。

 見回すが、自分がどこに立っているのかわからない。おそらくは歪みを通り抜け、どこかへ辿り着いたのだろうが。音が少なく湿気た森の中、小野はうつむいた。


「焦りすぎ……失策、でした」


 自分の所在などどうでもよかった。ここがどこであろうと、小野は帰るだけだ。理屈ではなく固い意志がそうさせるのだと、理由のない断言が頭に響く。自分の中でもっとも強固で己の他にだれにも曲げることのできない部分が、そう息まいていた。


「火野江……カノエ……なのでしょうか」


 未不子というのも、ミフネと読めなくはないが……それは置いておくべきだと思った。汀は墓の封を解く際に水子の霊が封じられている、と話したのである。未不子はみずこと読むこともできるし、字面から察せられる意味合いとしても水子と通じあう気はする。わざわざ冠せられた火野江という並びの意図は、不明となるが。

 カノエという女に向かって神代が口にした、事切れる寸前の言葉が反芻される。

「八尾の七無」。この語を頼りに訪ねた町で、火野江という、仇の名とも読めそうな墓石に遭った。これが偶然で片づけていいものか? と、小野は考える。否、きっとなにかの符号だと、復讐に身を焦がす自分が叫ぶ。そしてそこに関わる汀もまた、なんらかの呪術師であり、カノエの仲間かもしれない。もしかしたら町自体がなんらかの――


「落ち着け、わたし」


 激した感情を鎮めながら考える。静まれ、冷静になれ、と心の中で二、三度言ってから、小野はもう一度考え直す。深く息を吸って、吐いた。

 カノエは、霊視の力を持たない小野でも見ることができた、生者だ。墓石がある理由がない。汀には歪みが開かれたあの瞬間にのみ、なんらかの異能が備わったことを感じとれた。その後「さやにわ」だとかよくわからない語を発したが、わからない部分はあとまわしにする。

 つまりあの時の神代と同じなのだ。なかったはずの異能を発現し、歪みの位置を感じとることすらできている。そして彼は小野の母、山女魚が呪術師に連なる者であったことも知っている。ある程度、その世界に通じた人間だということだ。


「まさか、あの時母さんを運んできた人たちの」


 思い返そうにも、その中に汀の姿があったかはわからなかった。元よりああまで顔の印象が薄っぺらで、覚えるのが難しい顔なのだ。フォッグマン事件の際に遭遇した加良部は、無表情で話し方も淡泊であるがゆえの、いわば目立とうとしないから覚えられない顔なのであったが、汀は普通の人に見えて、どこか自分が死んでいるような、個というものが感じられないがゆえの薄さだった。いたとしても、忘れてしまうことに不思議はない。

 この推論はなにかに掠めている気がした。そういえば、小野があの日聞いた言葉の中に「カノエミフネはまた山をさまよう」というものがあった。思い返すだけではらわたが煮えくりかえるセリフも、次いで想起してしまったが――関連して思い出す。神代のいた田淵神社の言い伝えにも、山で神隠しに遭って後に身体を焼かれて帰ってきた者がいたと。


「カノエは山を、山の気などを通じて歪みから現れる呪術師なのですか……?」


 たしかに、いまこうしてさっきまでとはまったく違う場所へ転移させられてしまったことを思うと、歪みを移動手段に用いることができるのならば相当有用な武器となることは容易に想像できる。なにしろ、カノエは呪殺を行ういわば暗殺者だ。ここが一体どこなのかにもよるのだろうが、神代の時のようにヒットアンドアウェイを行えるのなら、恨みを買っている人間にとってはあまりにも脅威だ。

 などとしばし小野は考えを深めていったが、ぽつりと鼻先を打った霧雨に、空を仰ぐ。群れの鼠が蠢くような先の読めない空だ、天気が崩れてくるのは困る。小野は顔をしかめた。

 それに現状からの推測を正答近づけていくには、まだまだ材料が足りないと判じた。いつどこからだれが来るかもわからない、ひょっとしたらカノエが現れ、焼殺されてしまう可能性だって存在している。周囲への気配りは忘れずに行っていた考え事だが、とりあえずは現状把握に努めるべく、小野は動きだす。

 早く戻って、真相を確かめなくてはならないと、小野は気が急いた。それに、あの場に残してしまった口論義とサワハ、水子の向かった先である町にいる司たちの安否も気にかかった。

 きびすを返して歩き出した小野は、すぐに強まってきた雨に舌打ちしながら次第に駆け足になっていく。と、進む途中、林の中で木が動いたような、妙な感じが視覚に引っ掛かる。

 木陰に身を隠し、だれかに見つかったのではないかと、低く構えて覗いた。視線の先には、林の木々しかないように見えたが――よくよく見ると、黄土色のロングコートを着た、人影があった。得体のしれないものではなかったことに少しだけ安堵した小野だが、一瞬をおいて、安堵した分の気の緩みを一気に引っ張られたように、怖気づく。


「――馬鹿な」


 あの位置。あの位置は、小野がさっきいた位置からは、たしかに視認できるはずの位置だった。周囲は林で、あそこへ移動してくる影があったのなら、視界の端でとらえていたはず。つまりその人影は、ずっとそこにいたはずなのだ。

 見敵必滅。面倒になる前に打ち倒してしまうか、いやしかしその方が問題になるのでは、と対処に考えあぐねること、また一瞬。合計二瞬の間に、ゆらりとコートの裾がはためいた。

 人影はがっしりとした背格好の男で、中には灰色の仕立ての良いスリーピースを着ていた。皺で上下を挟まれた眼光は鋭く、険しい。見れば黒目の中に光がなく、鷲鼻の下で唇はきつく引き結ばれていた。輪郭を覆うように生える短いあごひげとオールバックにされた白い頭髪は、猛々しい顔つきと相まって、獣が人と化す際わずかに残された体毛のように見えた。

 男が、小野を見て、しかと目を合わせる。逃れられない、と思った。光の無い黒目には、そんな引力があった。


「娘」


 重々しく開かれた男の口から放たれたのは、小野を呼ぶ声だった。彼方から響くような声は小野の中で増幅され、轟き、たった一言にもかかわらず、男の力を小野に示すには十二分足りえた。


「お前が、小野山女魚の娘か」


 そして小野の興味を引くにも、十二分足りえた。



よく喋る奴なので実は動かしやすかった(加良部)

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