二十六題目 「わだつみの声が聞こえる」と小野が耳を澄ます
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人集めて山狩りだ、と物騒な言葉が聞こえて、司たちは振り向いた。
後ろにあるカウンターの中で、開店に備えて準備をしていた店主が、頭に捲いたタオルを握りしめてつぶやいていた。初老の店主はタオルをちぎるように取り払い、白髪に覆われた頭をふって店の隅へ歩いた。
「山狩り、ですか? いや、警察へ届けを出して任せる方が」
「一刻もはやく取り戻さんとならん。そんな悠長なことしてられん」
怒鳴りつけるように言って、小機を手にした店主はどこかへ電話をかけはじめる。司たちの述べた、男の服装――全身黒ずくめでのっぺりした顔立ち、髪も短く特徴の少ない奴、と告げて、近所を探し回るように頼んだ。
にわかに慌ただしくなり、店主はのれんを下ろして「本日休業」の札を店の前に下げる。まさか山狩りと言いだした当人も店を休んでいくのか、と驚きを隠しきれない司たちは、電話の応対をこなしながら外へ出る用意を済ませていく店主を見て、どう声をかけたものか躊躇われた。
腰を浮かせて、片手を伸ばして。そんな司をぎょろりと見据えて、店主は人差し指で床をさす。次いで、踊場と廉太郎にも目を走らせた。
「おまえ、あとお前ら。ここにいろよ。他の奴も来るから店は開けとかにゃならんし、その黒い男捕まえた奴がいたら、おまえに見せて確かめんといかん」
「はあ」
単純に、司自身も疑われているから残れということだろうが。踊場たちの方を向けばこくりとうなずきを見せたので、潔白を証明する意味合いでも残る方がいいだろうと判断した。店主に司は首肯してみせ、立ち上がりかけた腰をおろして椅子に深くもたれる。だがいくら大事なものとはいえ、物言いの語気の強さや、あまりのものものしさに不安を覚えた。
「出かけた三人の嬢ちゃんたちも、戻ったら残るように言っといてくれな、いま余所者が歩いてるとそれだけで疑われかねんぞ」
「あの」
「なんだ」
手を止めることも振り返ることもせず、店主は焦りに似た感情をちらつかせながら応じた。
「その、御神体……ですか。いったい、なにが祀ってあったんですか」
変わらず手を止めることはなかったが、横顔にて眉をひそめる様子が見受けられた。なにか語りにくいことがあるのだ。踊場に小突かれ、これ以上機嫌を損ねないようにと口をつぐんだ司だったが、
「人魚だ」
意外なことに、店主が口を開くのが先だった。つぐんだばかりの口をぽかんとあけ放った司は、思わず「人魚」と問い返す。気の無い素振りはそのままに、店主は説明をしてくれた。
「数十年前のある日、洞窟の近くで見つかった、人魚だ。祟られることを恐れて洞窟に祀ったところ、腐ることもなく形は残り、環境がよかったのか木乃伊になったらしい。そっから、人魚見つけた奴の指示で信心深く祀り続けてる」
そんだけだ、と最低限で説明を終え、店主はまたもくもくと準備を進めた。人魚、ときいて廉太郎は怪訝な表情を浮かべ、黙りこくった店主に問う。
「こんな山ん中、しかも洞窟のあたりは川沿いってわけでもねぇのにか?」
「……ああ。それなのに、生きておった。尾を振って跳ねていたのを、捕まえて祀った」
ずいぶん、不可解な話である。
しかし踊場は頤に手を当て考え込んでいて、裏があるのだろうかと司に勘繰らせた。
「どしたの、踊場さん。気になることあった?」
「いや、昨日の夕方海岸沿いで見ただろう? 鳥居を。廉太郎、あそこになにか書いてあったかい」
「ん? あれか。会長と一緒に見たが、なんかそういや人魚がどうとか書いてあったような」
「そうかい。……腐ることもなく、木乃伊か」
「人魚だったらあり得なくもないんじゃねぇのか。霊的な力でなんやかんやだろ」
「あのさ廉太郎さん、霊力ってそんなに万能じゃないからね」
「だが人魚の肉とかって、万能薬ってイメージがあるぞ」
「不死の霊薬というイメージならわかるけれどね」
それだそれ、と相変わらず適当なことばかり言う廉太郎に呆れて、司は鼻を鳴らした。
電話をかけていた店主が少しだけ動きを止めていたが、またすぐに動きだすをの見た。
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「では、わたしたちはこれで」
「おや、お待ちなさい。この先に水の湧く場所があるのですよ、そこに連れて行ってあげるとよろしい」
ぐでぐでになっていたサワハを連れて元来た道を戻ろうとしていた小野たちに、男が後ろから声をかけた。先、といって指差したのは道なきけもの道の方であったが、なぜだか、小野には先ほどまでよりは開けた道であるように見えた。
「でもしばらく歩くのではないですか」
「なに、二百メートルもありませんよ。そちらのお嬢さん、だいぶ暑さにやられているようですし、来た道を戻るよりはこちらの方がよほど早い」
たしかに、サワハはぐったりとしていて早く水を飲ませてあげた方がよいように思えた。
「すぐ近くなんですか」
「ご案内しましょう」
歩き出した男に追いすがるように、小野たちは早足で進んだ。シダの生い茂る足下を蹴散らし、ほんの数メートル進んだだけで、先ほどまでけもの道だったはずがずいぶんと歩きやすい道になった。
「まったく、それにしてもサワハったら、タイで暮らしてたくせになんで暑さに弱いのよ」
「タイは四月のがあついのヨ……それになんか、視界くらくら」
「しっかりしなさいよ」
サワハの手を引いて口論義が歩き、その前を小野が行き、男が先頭を進む。
革靴だというのにしっかりした足取りの男はこの道を歩き慣れていると見えて、おそらく地元の人間なのだろうとは思ったが。この暑いのに黒一色で奇妙な身なりの男の、とくに手にした箱が気になって、小野は後ろは口論義に任せて話をうかがった。
「こちらの道になにか御用があったのですか」
「ええ、まあ。少しばかり、墓参りをしようと思いましてね」
言いつつ箱を掲げて見せたので、掃除などに使う道具類でも納めているのだと小野は思った。
「私は汀、さんずいに丁寧の丁で汀と申します。それらしき墓を見つけましたら、おしらせください」
「わかりました。あ、わたしは小野です」
「小野……なるほど。あなたは、この辺りの人ではありませんね?」
「はい。後ろの方たちと、あと三人の友人と、調べ物のために訪れています」
「旅行というわけではないのですね。お若いのに珍しいことだ」
「そういう研究会をやっているんです。地方の風俗や慣習を調べたり、伝承についてうかがったりといった内容です」
「民俗学研究、ということかな。本当に珍しいことですね。まだ高校生でしょうに」
「今のうちだからこそ、できることもあると思います。汀さん、地元の方なんですよね。もしよろしければ、いろいろお話をうかがいたいのですが」
「私でよろしければ。とはいえ、しばしここを離れておりましたし、ご覧の通り歳は四十がらみといったところ。参考になるような話はあまり持ちあわせていないかもしれないが」
「いろいろな年代の人から聞くことで、見えてくるものもありますから」
「承知しましたよ。おお、やっと水が手に入りそうだ」
さきほど彼が言った通り、そこには水場があった。薄くふたつに裂けた岩の割れ目に、水がこんこんと湧き出ている。小野はだいぶ後方にいた二人に呼びかけて、すくった水をサワハに飲ませた。少しは落ち着いたのか、べたりと地面に座り込んだサワハはハンカチを水に浸し、頬や首筋にあてがって涼を得ていた。傍らで口論義も手で煽いでやる。
「あー涼し。ちっと休憩するが嬉しいカナ」
「少し止まりますか。あ、でも汀さんは」
「私も急ぎの用ではないし、かまいませんよ。知る限りで、いくらかこの町についてお話しましょう」
「あら小野ちゃん、人と話すの上手くなったものね。この短時間でいろいろ聞けるなんて」
目を丸くして、めずらしいものを見たという風に口論義が言った。自分でもめずらしいことかもしれないと思えた。かつて、司と最初に会った時がそうであったように、小野はあまり初対面の人と気兼ねなく話せる人格ではなかったはず。
変化の理由は思い当たらなかったが、司と会う以前はこうではなかったような、そんな気はした。
「なにからお話しましょう? とはいえ、語れることは少ないのですが」
「んん……では、村のことについていくつか。八尾、という地名についてですが」
「谷峰ではなく旧名の八尾を知っているとは。なかなかよく調べているようだ。そこまで知っているのなら、八尾の由来についても御存じなのでは?」
「四つの道と四つの川をして尾と喩え、ゆえに八尾、だと」
「その通り。いやはや、これは本当に私ごときではお話できることがなさそうだ」
「いえ、まだまだ知らないことはたくさんありますので。それで続きですが、八尾という地名を冠しているにもかかわらず、この町は現在では川が三本になっていますよね」
「……ふむ」
腕組みして木に背をもたせかけていた汀が、背筋をしゃんとして小野に身を乗り出した。近づかれても印象の薄い顔立ちは、ともすればこの場を離れてしまったとたんに、忘却の彼方へ飛んでいってしまいそうに見える。
「治水が必要な地形とも思えませんでした。さらに、他の方からの話では、地名が変わった頃にあの工事が行われたとのことですので。気になりまして」
「いい着眼点ですね。水の営みは土地の営み、ひいては人の生活に関わる事柄で、すなわち人の考えに大きな影響を与える。……そのことについては、私の口から語るのはいささかためらわれる気もするのですが」
せっかくお会いしたのだから、とつぶやいて、汀は語った。
「あれは、悪いものが流れに逆らってのぼってこないよう、封をした結果なのですよ」
「封?」
「あまりにオカルトな話になってしまうので、信じがたい部分については聞き流してくれれば。もともとこの村には座棺などの風習があったのですが、そこはご存知かな」
「事前に調べたときに、一応は」
「予備知識があるのなら、いくらか話がしやすいというものです。もともとこの町は葬儀に関して儀式的な意味合いを持たせるといいますか、古い習わしが多く伝わり残っていまして。座棺もそのひとつ……特にあれは遺体という、中身の抜け落ちたものを守り縛るためのものと信じられていました」
少しばかり、踊場から聞き及んだ覚えのある話だった。
座棺とは、体操座りのように窮屈な姿勢に遺体を折り固め、場所によっては縄をかけ縛ったうえで棺に納めるという、変わったものである。
死後硬直により固まった関節を軋ませながら屈曲させ、あまつさえ縄をかける理由は、空になった肉体に魂が入り込み、肉体を動かすことがないようにとの意味合いがあったという。ちょうど、先日司が話していた「猫が遺体をまたがないよう」刃物を置くのと同じ考えだ。いくつもの魂を持つ猫から、遺体を動かす魂が入り込まぬように――と。
「猫避けですか」
「猫? いやそれは聞いた覚えがないですね。私が知っているのは、さまよう魂が入りこまないように、との教えだけです。そしてそのさまよう魂というのが、先ほど話題に出した川」
汀が言葉を切って来た道を視線だけ戻らせる。その先にある、干上がったような川の痕跡のことを、思っているのだろうか。憂いを帯びた瞳には、どこか落胆したような色も感じられる。
「その川を、さかのぼってくると考えられていました。理由については……この先へ進んだあとの方が、よいかもしれませんね」
小野がサワハの体調を気遣う目を向けると、「心配ないない、ちっと休んどくから先いっていいヨ」などと手を振ったため、汀が箱を抱えたのを見て取ると、横に並んで歩きだした。口論義はそのサワハの手と掌を合わせてから小野の後ろにつく。
「というのも、こちらの方角にそうなるに足る理由があったからです」
方角、と考え、小野は頭の中に地図を思い浮かべようとしたが、どうにも現在地と水際亭の位置などが把握できなかった。
「ここ方角でいうとどの辺りでしょう」
「南から南南東ってとこだと思うわ。小野ちゃん、地図よめないとかいかにも女の子っぽい特徴ねぇ」
「会長も女の子でしょうに……それにわたしの場合は、たぶん異能察知のために引き寄せられたりするから迷うんです」
「うそつかないの」
明るく話す二人の方を振り返り、汀は「楽しそうですね」と笑みをこぼした。そりゃあもう、と口論義が返し、小野は曖昧な笑顔でお茶を濁した。
「さて、つきましたよ」
汀に言われて周りを見渡すと、開けた土地に出ていた。雑に林を斬り倒しただけのそこは倒木などで歩きにくく、少し景色が変わって見えたため、汀の向かう先にある物に気付くのにも遅れた。
「墓です」
居並ぶ墓標は数多く、その中から汀の名を見つけることには少々苦労させられそうだった。
だがさすがに当人は場所をきちんと把握しているらしく、迷うこともなく進んでいく。一体どれだろうと辺りに視線を巡らすが、一番こけむした、一見しただけでは森の緑にまぎれて隠れている墓標が、汀の目指す先にあった。
「あ、それですか」
「あれ。小野ちゃん、でもこっちに汀ってお墓あるけど」
「え?」
「ああ、そちらはそちらであとからやりますので。見つけていただいてありがとうございます」
振り返ることもなく返事だけをした汀は、緑に覆われて墓碑銘すら判然としない石の前に座りこむと、手を合わせてからしゃがみこんだ。古い、もはや自然に還りつつあるその石碑は、四方に華を模ったような木片が安置してあった。
「はてさて、では先ほどの話の続きですが」
汀はそうしてしゃがみ、石碑の方を向いたままに小野たちに話しかけた。
「魂が川をさかのぼると考えられた由縁は、この場所を目にすればもうお解りかな」
「たしかに、川の下流にお墓があるわけよね……でも、実際のところどうなのかしら。墓って、いってしまえばちゃんと供養して未練をなくした人々の納まる場所でしょ。わざわざ川をのぼってきてまで遺体に入る、っていうのが、なんとも」
「そうですね。けれど、その考えで済むのなら、墓場で肝試しなどしようと考える人もいないでしょうに」
「そういうのはまた別問題のような気がしますけど……」
言えば、けらけら笑った汀が、屈んだ姿勢のまま小野を向いた。存在感の希薄な顔立ちが、余計に薄れ弱まった印象を投げかけてきた。覚えようにも、記憶の手をすりぬけて地面に落ちていく印象。
「きちんと供養されてなお、強い思いを現世に残した者がいたとしたら、どうですか」
「……恨みがある、とかですか」
「そういうものもあるでしょうね。この土地に根強く残る古い因習も、そうしたもののため。私がここを離れてからもなにひとつ変わることなく引き継がれ、今も人々を縛り続ける因習が。座棺、骨噛み、四華。どれも人々が死者の念を、力を恐れた結果、作り出した因習です」
恨まれるだけの覚えがあったということです、と笑う汀が、無造作に墓へ手を伸ばす。大きな仕草ではない。ごく自然な、ただ伸びをするだけのような動きだ。
しかし小野は言い知れない不安にまとわりつかれ、制止をかけようと喉を震わせ。
「水子というものがあります」
声は汀の発言に掻き消され、汀の伸ばした手は墓を囲む四つの華のひとつをとらえた。
「口減らしであったり、必要とされなかったり、そうした理由で生を受ける前、胎内から出て外界と触れる前に、彼方の国へ送り返された子供です。もちろん人為的なものでなくとも、不慮の事故などで失われた命もあるでしょうし、子減らしをしたものへの配慮として『子返し』という言い方や、『七つまでは神様の子』という考えもあるそうですが」
むしり取るように、華を取り払う。
背筋を冷たい蛇の舌で舐められたような、威圧感に似た怖気を、小野は感じた。
「水子は、生まれてくる前に亡き者とされた命とは、一切の倫理も知識も学ばずに死んだために、もっとも根源的な『生への執着』が強いと思われます。自他の区別もつかないまま、ただ生きたいと本能のために身体を求めます」
削り取るように、華を取り払う。
怖気が増していく。真昼日中のこの時間に、小野の喉を伝う汗がすうっと消えていく。口論義がただならぬ様子の小野に気付いて、大丈夫、と声をかける。
「さて、この墓の下には――――そんな水子が、いったいどれほど埋められているのか」
もぎり取るように、千切り取るように。
四つの華が取り払われ、小野は立っているのもままならないほどの寒気に、恐怖した。周囲になにか視えるわけではないが、明らかにここは異界へ通じてしまっている。
「お嬢さんがたはここの住人ではありませんし、まあ処女でしょうが、女性です。だから水子の還りたい先に選ばれることがないよう、ここへ案内した次第でね。どうか、今しばらくはここから動きませんよう」
第六感が警報を鳴らす。司のように視るわけではないが、感じとる力を持つ小野は、周囲を囲まれたと理解する。視えはしないが、赤子の声を限りなく雑音に近づけたような音が、森の中にこだまする。聞こえているのかいないのか、口論義も首をふって辺りに耳を澄ましている。
「動かないでください、会長。周りに、異界の歪みが」
「――うん?」
聞き洩らさなかった汀は、握りつぶした四つの華を掌で打ち払い、小野の方をゆっくりと見据えた。汀を見ても、小野の異能察知はなにも感じとれない。異能者では、ない。なのに。
「異界の歪み、と言ったのですか? きみは、歪みを感じとって――」
言いかけてなにか気付いたのか、汀は口元を押さえた。しばし考え込んでから、墓にはもう一切の興味を失ったようで、こちらへと一歩一歩ちかづく。口論義は小野を抱えるようにしながら、不審を強めた目で汀を睨み返した。
「あんた、一体なんなわけ」
「別段、何者でもありはしませんよ。かつてこの町でこの墓について携わっていたもので……言うなれば、墓罪の一族でしょうか。昔は有髪の俗聖、もしくは隠亡と呼ばれ、民間宗教者らしき仕事にあったわけです。そしていまも、ここではない場所で」
宗教者、と聞いて口論義の顔色にはさらに苦いものが混じる。小野はやっと自分で自由に動かせるようになってきた四肢に精いっぱい力をこめて、口論義に頼らず立つ。そんな彼女をみる汀の目は、なんの色もなかった。しかし、感ずるものが現れていた。じわりと染み込む。
先ほどまで常人だったこの男が――異能者と化している事実が。
「いやはや、僥倖、ですね」
近づく汀に、口論義は警戒を解くことはなかった。構わず進む汀。
「私の目的はこの町を異界に落とすことだけ、だったのですが。よもやここで、清庭の者と出会うとは」
「ちょっと、だからあんたなにを」
「おっと、あまり近づきすぎました。すみません、いやなにもしませんよ。ただ、めずらしい力をお持ちだと思ったまで。異界を感知する力、それは淨眼にさえ通ずる高位の異能です。小野さんは……小野……ああ、やはり。そうですか――血は争えないということですね」
小野から三歩先で足を止めた汀が、思わせぶりなセリフを吐いた。小野の異能に気付いた上で、血、ときた。つまり、汀は母のことをなにがしか知っている。
支えてくれていた口論義の前に進み出て、小野は問いかけた。
「汀さん、あなた母を」「ではまたのちほど」
踏み出す足が行き場を失う。しまった歪みだ、と思った次の瞬間には、視界が急速に下がっていく。最後に目にしたのは、汀の身体の影にあって見えなかった、墓碑に刻まれた名。
〝火野江未不子〟。
「『得難き幸福を忘れなさい。ただ今の自分を思う、易き幸福の下に』」
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「どうする」
「どうするってなにが」
「このままここに留まるのは賛成できないのだぜ」
店主が去ってから、ぽつりと残された司たちは互いに見合って、どう動いたものかと思案する。時折、監視の意味合いか知らないが町の人間がここを訪れていて、動くことを止められている現状に三人とも嫌気がさしてきた。
「盗んだと決まったわけでもねえのにここまで疑われてる時点で、もうこの町で友好的なフィールドワークなんざ望むべくもないんじゃねぇのか」
「たしかにそうかもしれないけれどね、だからといって逃げたら余計に心証が悪いだろう? 僕にいたっては調査にあたっての前提として、身分を明かしてしまっているのだし」
「そんなことしてたの」
「研究室のツテを頼って、ここの近辺の研究者の方にあらかじめよろしくお願いしておいたのさ。まさかアポなし手土産なしで来ていろいろ話をうかがうほど非常識ではないよ」
「つーことはあんまり変な行いすると、その研究者の奴にもお前の出入りしてる研究室にも、迷惑がかかるわけだな」
「そういうこと。僕の事情に巻き込むようですまないが、ここはおとなしくしているのが得策だろうね……にしても、人魚か。実物を見ていないからなんとも言えないが、うーん」
「気になることでもあるの?」
「いやね、あそこまで町の人が慌てるということは、霊験あらたかな代物かとも思ったんだが」
なんだかそうではない気がする、とつぶやいた踊場は、なぜか店のメニューを見据えながら、考え込んだ。
「べつに不自然ではねぇだろ。なかなか腐らないってことが不老ってなイメージに繋がって、さらに飛躍して不死の象徴になり、食ったら自分もそうなれるとか考えたのかもしれん」
「八百比丘尼かい……ん、やお? 偶然か?」
「さあ。しかし民間信仰なんてのはどこのもんも余所者には理解できんのが道理だぜ。深く考えたってしゃーないだろ」
「それを統計や比較検証で理解しようとするのが学問だろう。脳筋は黙っていてくれ」
「ああ? 脳みそってもともと筋肉じゃねえのか? 心臓とか臓器だって質はちがえど筋肉だろ?」
「さてこいつの論理はともかくとして、しかし退屈だね」
「はやく会長たち戻ってくるといいけど」
話し合っていて、司のおなかがぐうと鳴った。時計を見ればもう昼前で、朝ご飯を食べてからだいぶ時間が経っていた。ちくたくという針の音が、空腹という刃を削りたて尖らせ、司の腹をつんざいてきそうに思えた。
「おなかすいたなあ」
「もう昼時か。そういやマルドメ、お前よく学食で気味悪いメニューばっか頼んでるが、ありゃなんだ」
「あれ友達のぶんだよ。あんなの食う奴の気が知れないね」
「気ごころ知れた仲じゃないのか」
「ちょっとうまいこと言えてるようなそうでもないような……でもいやだね空腹は。先月のダリの時からこっち、空腹になるたびにあの時の感覚を思い出しちゃうもんだから、嫌になるよ」
「ダリは別段あの地方特有のものではないからね、今後も気を付けた方がいいかもしれないよ。一説によると火山ガスが流れてきて気分が悪くなり、立ち止まって食事をとるうちに風向きが変わり、体調が回復したことから飢餓の亡霊との関連付けが行われたそうだが。きみが視た以上、本物も存在するのだろうからね」
司の主張を、素直に認めてくれる。出発前、一恵と啓二と話した際にあった、溝と言うほどではないにせよたしかに存在するわずかな線引きを感じないことを、あらためて司はめずらしいな、と思った。同時に、ちょっと意地悪な質問を思いつく。
「でも踊場さん、赤馬さんと会うまでは霊視とかって、信じてた?」
ほんの少し申し訳なさそうに首をかしげながら、踊場はいや、と小声で漏らした。
「いや。正直に言うと、霊能力や超能力というもの自体を胡散臭いと思っていたよ。だが口論義が虚言看破を得てしまってから、少しずつ信じるようになっていった」
「え……? あの力、生まれつきじゃないの?」
「ああそうだよ。あれはあいつが中一になった頃、突然現れた能力だ。サワハくんのレンズや小野くんの異能察知は、生まれもっての力だそうだが」
「俺も実は小六くらいで回天竺に目覚めたんだ。風車なんてそう触れる機会なかったから、気付かなかっただけかもしれんが」
「へえー。歳とって力が消える、っていうのはよく聞くけど、歳とってから目覚めることもあるんだな」
「そうだね」
なぜだか悲しそうに目を伏せた踊場は、司の目線から表情を読み取られたことにすぐ気付き、そういえば司くんは生まれつきなのかい、と質問で継いで問いを差し挟ませなかった。
「もちろん、生まれつき。環境が環境で、視える人間の多い村で育ったからさ。七歳までしかそこにいなかったけど、三歳の頃にはもう、自分の視えてるもの聞こえてるものについては説明されてた」
「……んん? マルドメ、お前霊と話すことはできないんじゃなかったか」
頬がひくりとうごめいた。自分が口を滑らせたことに、恥じ入るのに似た感情を覚える。すると眼前で廉太郎が跳ねたが、横に座る踊場に肘でも打たれたのだろうか。
「べつに、話したくないってほどの事情じゃ、ないんだけどね」
「無理はせずともよいよ。僕らも、語っていないことは多いのだから」
「でもいつか聞くかもしれないし。こっちも、そろそろみんなに話しておいた方がいいかもしれないんだ。……村を探す理由に繋がる、大事なことだし」
遠い記憶の、物語である。居ずまいを正した二人を前に、司もちょっとかしこまって、それから大仰に手を振ってごまかした。
「小野たちも戻ってきてから、ちょっと話そうかと思うよ。やっぱりこういうのは、みんなに話す方が――」
と。
ざわり、気配がどよめいた。椅子からひっくり返って落ちそうになり、濁流に押し流され泥水が肺腑に満ち満ちてゆくような幻を覚える。びりびり、指先から肩へのぼってくる冷たい感覚が、鼻腔にながれこむ腐臭が、司にそれの到来を告げた。
「――歪、み……!?」
「あんだと?」
廉太郎が立ち上がる。動かないで、と司は声をかけたが、とりあえず周囲には歪みがないようだったので、おそるおそる自分も立ち上がってみた。窓を開け、外へ出るが、今のところ町並みには歪みは視受けられない。ではなにかの霊による領域に入ってしまったのか――と気配を探るが、こちらも視当たりそうにない。
「なんだぁ……?」
けれど嫌な感触は続く。どこか彼方から近づいてきているような、遠くから地鳴りがしているに似た圧迫感を与えられている。失せろ、と一言で幻覚を振り払うが、かなりの広範囲がなにかの領域になってしまっていることはたしかだった。そこに、着信音が鳴り響いた。踊場が急いで出ると、スピーカーホンではないのに室外の司にも声が届いた。耳から離して携帯電話を掲げる踊場。
「口論義かい?」
《踊場、あんたまだ水際亭にいる?》
「無論だ。なんだか知らないがいろいろ面倒なことになっていて、」
《こっちの方がやばいのよ!》
悲痛な叫びで踊場の言葉を遮った口論義は、息つぎの音を通話越しに聞かせた。
その取り乱しように、この町の空気に、司はすでにいやな予感がしていた。
《小野ちゃんが……小野ちゃんが〝歪み〟に落とされたの!》
「な」
なんで、と声が続かず、愕然とした司は空っぽになった胸の内に、不安と恐怖が押し寄せてくるのを自覚した。強張った顔と指先に、震えが走る。小野が、歪みに。そんな、馬鹿な。
《現在地は八尾の一本、護岸工事で潰されてた支流の先にある山の中なんだけど、とにかくおかしいのよ! ここに案内してきた奴も消えちゃって、ああその前にお墓参りみたいなのをしてて、そこからなんか水子だかが出てったとかで歪みができて、あたしたちも危ないから動けなくて、それで、小野ちゃんが、小野ちゃんが、》
「落ち着け口論義、冷静になれ」
息継ぐ隙間に言葉を投げ込み、踊場は口論義に深呼吸の時間を与えた。もう泣いているのではないかと思うほど、口論義の呼吸は荒かった。
《あいつ、そう……あいつが! あいつのせいで、小野ちゃんまで!》
「あいつ? 口論義、あいつとは」
《またあいつだ。あいつが、あたしからまた奪ってく! なんで気付けなかったの、なんでこうなっちゃったの! あいつが……〝慈雨の会〟がいたせいで!》
「慈雨の……そうかい、くそ、まさかこんなところで遭うとは」
苦み走り、痛みに満ちた顔で踊場はなにかを理解し、口論義の苦痛に同調した。廉太郎も、拳を握って机を叩いていた。
悲痛な叫びは、もはや絶叫にほどちかくなって受話器から響く。人が感情を露呈させる声の怖さを、ひさびさに司は感じとった。
《あの屑野郎が! あの屑のせいで、またあたしが苦しまなきゃいけないの!? なにも、なにも悪いことなんてしてないのに! 今度は小野ちゃんが、小野ちゃんが、またなくすなんて嫌、冗談じゃない、そんなの無理、耐えられないわよ!》
「口論義風鈴っ!」
一喝して、恐慌状態の口論義をひるませる。踊場の声が消えるとあたりはしんとして、誰もが音を忘れた。周囲を見回した踊場は溜め息をついていて、激してしまったことを快く思えていないようだった。失態を恥じたと見えた。
「きみは会長だろう」
《おどり、ば》
「そしてこういうことが起こり得ると、覚悟もしていただろう。ならば取り乱すな……大丈夫だ。まだすべての道が閉ざされたわけではないはずだ。順を追って説明してくれ。大丈夫だ。颯さんと史音さんみたいにはならない、そうはさせない」
《う、う。うう、ああ……》
なだめる語調に切り替えると、口論義も徐々に落ち着いていった。怒りが薄まり、悲しみに淀み落ちた口論義の声が離れていき、あまりの痛ましさに司は自分の感情すら持って行かれそうだった。実際には、そんなことはなく、小野が心配で不安でいっぱいだったが。
がちゃりと、通話先で音がした。
《…………モシモシ踊場サン、サワハよ》
「サワハくん」
《会長サンおちつくまでワタシ代わりに話すよ。とりあえず展覧列挙集、開くする》
「展覧列挙集を?」
隣の廉太郎にうながして携帯電話を借り、展覧列挙集のページに飛んだ踊場は、新規メモとして「谷峰怪異録」と題された部分を開いた。
《そこに、海岸線、鳥居で集めるした情報と、海沿い住む人きいた話載せてあるネ。それからさっき会長サン話しかけたアレ、順おってサワハ話すヨ。あのネ、洞窟にじつは人魚が祀ってあるするのよ。そんでその人魚、四十年くらい前の嵐の日にネ……》
サワハが話している声が、遠くなる。司が振り返ると、橋の先、川の向こうの景色に違和感があった。
「……、」
じっと見据えていると、水面に沿うように、揺らめく蜃気楼。
ざわりと背筋に鳥肌がたち、自分の視ているものの正体に思い当たった。流れに沿ってさかのぼってきている、巨大な歪みだ。ざわざわと波紋を生みながら、すさまじい早さで遡行してくる。そして司が橋の上まで歩んできたところで、ちょうど下を通過しようとしていた。
危険、だろう。危険に決まっている。
けれど先月、穂波田村で遭遇したカノエは、歪みを通って現れ、消えた。神代の死体もそのようにして消えた。ということは歪みの向こうは、いますぐに危険な目に遭う場ではないのかもしれない。憶測でしかなかったが、そう定義しなければ勇気がでなかった。
「……なるほど。人魚に関する話は、そういうことか……と、司くん? きみ、一体どこへ」
水際亭の窓から首を出した踊場は、怪訝な顔で司を見ていた。もちろん彼は、歪みの存在に気付いていない。司は、頭を下げて、携帯電話で廉太郎にコールした。
「廉太郎さん、あとお願い」
《は。まて、司テメエなにいって》
皆まで聞かず、司は橋より飛びおりて歪みの中へ落ちた。
26話 すべての転換点