二十四題目 「夏と海と花火と浴衣と」と廉太郎が夢想した
「じゃあ日程の方を確認するわよ」
車が走り出して数分、呼吸を整えた口論義は、助手席から後ろの司たちを見てルーズリーフを取り出す。日程がメモされたそれは、先日司たちにも配布された旅行のしおりだった。
「まず今日は、谷峰までの移動でけっこう時間とられるから、本格的な活動は明日以降ってことで理解しといてね。具体的にはサービスエリアでのトイレ休憩込みで昼過ぎ、十四時ごろには到着して、食事と散策で調査場所を定めるわ」
暑いからかポニーテールに結った髪は常と同じくウェーブがかっており、いたずらな気色を示す目元は愉しそうに笑んでいる。口論義の服は胸元にタックがあり、小ぶりの貝殻のような釦がアクセントとなっている純白のブラウス。そこからゆったりと黒地に白のドット柄をあしらったハイウエストのスカートへ続き、脚線は黒のストッキングとブーティーに覆われている。
……快活に笑う口論義を見て、よくこんなものを履いていて飛び降りる気になったな、と司は感心した。と、旅行のしおりを眺めていた廉太郎が怪訝な顔をして、しおりを振った。
「昼飯、ワニ料理って書いてあるな。クロコダイルかアリゲーターかどっちだ?」
「おや、きみは因幡の白ウサギを知らないのかい」
「うん? もちろん知ってるぜ。俺ァあれで日本に昔からワニがいたって知ったんだ」
「ああ、そうかい。それは、よかった」
踊場は廉太郎の勘違いを訂正することなく、無心に運転を続けた。代わりに口論義が手首のシルバーブレスレットを鳴らすように腕を振って廉太郎の注意をひき、説明する。
「……踊場、さらっと流さないの。廉太郎くん、ワニっていうのは鮫のことよ」
「なに? シャークなのか?」
「正解をいってしまっては面白くないよ、口論義。店に着いて食べてから『ワニどこから連れてくるんだろうなぁ、やっぱ熱川かなぁ』とか言わせたかったのに」
「知らなかったなぁ。俺はてっきり、バナナとワニは食べるとき相性がいいから一緒に飼ってるもんだと」
「……発想が柔軟すぎる」
若干引き気味に踊場がいうと、お前が嘘いうからだろうが、と廉太郎が反駁した。
「ともかくも長旅になるからみんな覚悟しといてね。到着後はどこか車停められそうなとこ探して、三泊の寝床とするわ。で、四日目の夜だけは疲れをとって帰る体力を回復するためにも、廉太郎くんがもぎとってきた宿泊券で宿屋に泊まる。最終日は昼過ぎまで散策とか、話をうかがった人への挨拶とかかしらね。夕方頃帰宅予定」
「はいはーい! 調査はどーいう風にいたすカナ?」
挙手して発言したサワハを指差して、口論義が答える。
「踊場のいってた座棺の風習とか、八尾が谷峰に変わった理由、ならびに司ちゃんと小野ちゃんがいうところの〝やおのななし〟との関係の有無。この辺を洗ってく形になるかしらね」
やおのななし。
加良部の一件、そして穂波田村での一件。もしかしたら、最初の犬神使いの時も。事件に深く関わっている可能性のあるその相手について調べることには、やはりいくらかの緊張が伴う。司が横を見ると、小野も険しい表情を隠せずにいた。あの日神代を焼殺した女は、たしかに呼ばれていたのだ。小野の敵の名〝カノエ〟と。
呪いを辿れば、司も祖父へと近づける。これらすべてが繋がる、その手掛かりがこの先にあるのかもしれない。そう考えると身の引き締まる思いがして、司は身体に力が入るのを感じた。だがその意気込みを感じ取ったのか、口論義が横目で司を見てくすりと笑う。あまり肩に力を入れすぎるなと、注意しているようだった。
「そういや会長、これから行くは海沿いの町いってたけど。泳ぐのはいつなノ?」
「行くとしたら帰りよー。いちおうあたしも新しく水着買ってきたしね」
「おう、よかたよかた。ワタシも買ってきたからネ。使わないはもったない」
サワハの問いかけに自然な受け答えを返す口論義。するとやにわに廉太郎が盛り上がり始め、正面のヘッドレストをばしばし叩き始めた。司の頭がつられて前後に揺れ、気分が悪くなった。
「おい踊場聞いたか! ビキニかセパレートかパレオか、どんなのだろうな!」
「オープンに喜びすぎだアホ眼鏡」
「あれ、ということは踊場さんもオープンではないにせよ喜んではいるのですね」
「……いや喜んではいないよ」
「言い淀んだな。隠すことねぇだろ、お前も男だろ」
「僕は、そういうノリが、いちばん、嫌いだ」
一音一音スタッカートをつけて犬歯を剥いた踊場は、ルームミラー越しに廉太郎を威嚇した。
「で、ホンネのとこレンタロはどの水着好きなるのネ? スク水?」
「いや、スク水はエプロンと併用しないとつまらんな」
「ドン引きだよいまの発言」
「んなことねぇだろマルドメ、実際見かけたら考え変わるぞ。海の家とかでたまにいるんだよ、競泳用水着とかの上からエプロンって格好。後ろから見てると、ありゃいいもんだぜ」
「なにトリップしてるんですかきもちわるい」
「ふ。男子たるものひとつやふたつ、他人に否定されても貫き通せるフェチがあるもんさ……」
遠くを見る廉太郎を、その場の全員が遠い存在に感じた。
「でも女子のホンネ的にはアレね、パレオとか腰回りフリルとかスカートタイプは足短いの隠すするための水着ヨ」
「え、そうなんですか?」
「え? ……あー、小野ちゃんちっちゃいけど足長いからナー。そゆうの気にするはないのネ、うらやましいのコト」
「ちょっとサワハ、あんたがそういうこと言うとあたしパレオ着れなくなるでしょ」
「会長サン乳あるからいいと思うのヨ。年々増えててうらやま死ね」
「……あれー、発音はいつもとほぼ同じなのになぜかサワハから殺気感じるわー」
「気のせーよ。でももう最近は一緒に風呂入りたくないのコト」
ルームミラー越しに、サワハの胸部を見る。全体的に発育がよく、しなやかな体型をしているサワハなのだが、口論義はそれ以上なのだろうか、と。普段の服装がもっさり厚着したジャージであったりしたために、体型が隠されていたのだろうか。
「着痩せってホントにあると思ってなかたヨ。去年と比較すると、二段階くらいあがたよネ」
「溜め息つきながら言うのやめてちょうだい。そろそろいろいろデータばれるから、そろそろ怒らないといけないから」
「そだネ、レンタロも踊場サンもさきから黙ってマジ顔してるし」
ミラー越しに、サワハが司にウインクした。廉太郎と踊場が同時に咳払いして、車内に気まずい空気が流れ込んだ。取り繕うように「まあ、なんだ、音楽でもかけようかな」と踊場が口論義にCDを出すよううながして、司と小野をのぞく四人は細々と会話を繋ぎ始めた。ついこの間「男女ひとつ屋根の下でも大丈夫」と結論づけたばかりなのに、旅行開始から数十分でこれか、と司はうなだれる。隣の小野と目があった。
「……なにか仰りたいことでも」
「なんもなかったけど。胸、気にしてるの?」
「してませんよ、ええ。蹴ったり殴ったり動くには邪魔ですから、はい」
「そう。均整とれてていいと思うんだけどな」
「泣きますよ」
「ごめんなさい」
怒鳴られたり蹴られたりするよりもそちらの方がきつかった。
「そもそもわたし、海では司さんとお揃いになってしまうんですから。体型はほぼ見えません」
「なんで、って、ああ。そっか」
肌を晒すわけにはいかない以上、パーカを羽織るなどして腕を隠すことを言っているのだろう。いつものくせか、小野はぎゅっと右腕を握りしぼった。
「こういう言い方はなんだけど、整形手術とかで傷消せないの?」
「これは奴による呪いの痕跡に過ぎませんが、傷自体が霊障を発することがままありますので。司さんのように能力があって親和性の高い人はともかく、常人だと傷口を見たり、触れたりするだけで熱さを覚えるようなんです」
「まだそんなに、力が残ってるんだ」
「おそらくは、術者であるカノエが呪いを止めるか、もしくは――殺されるまで」
死ぬまで、とは小野はいわなかった。
言葉の選び方に、能動的な復讐の意図が見えたように思えて、司は表情を暗くした。
「どうして司さんがそんな顔をするんですか」
「……なんだろうね。なんか、そういう言葉を聞くたびに小野が遠のいちゃう気がするんだ」
「わたしは、ここにいますよ」
「それは、そうなんだけど」
やがてじゃんじゃかと小気味の良い低音で下地を作った音楽が、車内に這い出す。このアーティスト知ってるよ、サワハの声に重ねるように小野も反応を示し、話題は音楽の方向へと逸れてゆく。
夏の日差しを窓越しに感じながら、司は冷房の風向きを己に向けた。
谷峰は海沿いに位置する町であるが、全体としては逆さにした丁字の形をとっている。
海に面した山裾に広がる町から、細長い街道が山間に伸びている感じだった。そして町からは大きく分けて四つの道が山へ続き、河川としても四つの支流が海へ流れている。この様子をして動物の尾に喩え、八尾という地名がついたのだという。
サービスエリアに寄ったりしながら順調に進んだ司たちは、大きく緩やかなカーブを抜けた途端に現れた海に、誰ともなく感嘆の声をあげた。一八〇度パノラマで広がる深い青の色彩は、色の変化に乏しい山道を進んできた司たちにとっては、まぶしいくらいに鮮烈な印象を叩きつけた。
「スァイガーム! でっかい! きれい! これが日本の海!」
「サワハ日本では海見たことなかったのね。たぶん近づいたら砂浜の汚さに幻滅するわよ」
「でも遠目にはやっぱきれいだよ。海に来たの数年ぶりだし」
「俺も俺も。前回来た時なんざ海岸でひたすらタイヤ引いて走ってるだけだったし」
「ずいぶん古典的な鍛錬をしているのだね、倉内流は……」
「いえ、それは廉太郎さんが鍛錬合宿を抜けだそうとして喰らったペナルティです」
彼方まで続く海岸線を走り、やっと司たちの往路も終わりを告げようとしていた。出発前に積み込んだ弁当や菓子類はあらかた食べつくしてしまい、車内にも気だるさや疲れが蔓延しはじめていたので、先が見えてきたのは僥倖といえた。
「食事は山の方になるから、もう少しかかるけれどね」
「マジか。買いこんだ『引き裂けるチーズ』もそろそろ尽きるぞ。腹減ったぜ急いでくれ」
「ていうか廉太郎さん、菓子類ってほとんどツマミ系だったよね。匂いきつくて酔いそうになったよ」
「なら冷房切って窓あけましょうか? 涼しい潮風が吹きこんでくるわよ」
言われた通りに窓を開けると、鼻先を磯の香りがこづいていく。数えるほどしか行ったことがないというのに、それだけで司の足の裏が熱い砂の感触を思い出した。次いで血流が滞りそうなほど冷たい、海の水の温度も思い返す。
「ようやく、遠くまで来たって実感わいてきたな」
「県内も海はあるけど、行くならプールの方が近いしお手頃だものね。どうせ足伸ばすなら遊園地隣接の海水プールとかの方が楽しいし」
「しかし情緒はこちらの方が数段勝るというものさ。白砂青松、とはいかなくともね」
「うおぉテンションあがってきた! 叫びてぇ!」
「まあこれから行くのは山ですから、叫べば山彦が返ってくると思いますけど」
「……なんだこのプールの消毒槽なみに冷たい発言。いや俺ァ山も好きなんだがな。海とは楽しみ方が違うというかなんというか」
「こないだの穂波田村も山ん中だたからネー。めずらしさない言うか、風景かぶるいうか」
再び山中へむけて針路をとった行く先を見つめながら、サワハがぼやくように言った。古めかしい民家が増えゆく様子が目的地の具合を思わせ、司も周囲を見る。ちょうど今は、八尾のうちの一尾である川に沿ってのぼっているようだった。
「ま、会長もいるし基本的にはなんでも楽しめるがな。そうだ、山登りとかしようぜ」
「廉太郎くん、乗り気じゃない。そうね、山だったら八尾の道を辿って調べることもあるから、その時に登るわよ」
日程表を確認した口論義が言えば、廉太郎は肩を回しはじめる。今から準備運動を成しておくつもりなのだろうか。空回りもいいところである。
「ふふん、俄然やる気でてきた! 行程としちゃどの辺りで行くんだ?」
「んー、三日目くらいかしらね。山の方と聞き込みの方で班分けしようと思うから、体力のある小野ちゃんと二人で行って来てくれる?」
「……会長すまんな、実は俺さいきん膝裏に水が溜まるようになってて角度の激しい道を歩かないよう医者に言われてたのをすっかり忘れていた」
「あらそうなの。お大事に」
口元に手を当てて驚いた顔をしている口論義を見て、本当に廉太郎の想いに気付いていないのだろうな、と司は哀れっぽい視線で後ろを見る。廉太郎は眉間と頬の上に皺を寄せて、いろいろ言いたげだが我慢を重ねているようだった。
「もうじき食事の場所だよ。詳しい今日の日程もそこで決めるとしようじゃないか」
日程作りに気をとられて廉太郎に見向きもしない口論義を横目に見据えつつ、踊場がハンドルをきる。舗装のはげかけた道路に入り、小刻みな振動が車体にまとわりつく。
野良作業をするひとびとを景色の向こうに押しやって進めば、平屋作りの建物が見えてきた。水車の回る壁面近くに車を停めると、六人は店に入った。
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「いや、うまいこと交渉できたわ」
食後。早速活動を開始するため歩き出した司たちは、後ろに停めたままの車を振り返り、先を行く口論義の言葉を聞く。
「駐車場の隅っこを貸してもらって一日千円。悪くないんじゃない?」
「ええ。見知らぬ土地ですし、いきなりの頼みごとに答えてもらったわけですから。人のよさそうな主人でよかったですね」
食事しながら店主と会話していた口論義は、自分たちが郷土研究のためこの土地を訪れたのだと説明した。ここで先日の穂波田村食堂での一件を思い返した司は嫌な結果に繋がらないかとひやひやしたものだが、予想に反して店主は感心した様子で、続く口論義の駐車場を貸してほしいとの願いも快諾してくれた。
「ついでに三日間の夕飯はすべてここで食べることに決まってしまったけれどね」
「わりとおいしかったしいいじゃない。四日目は旅館だしね」
「旅館てぇのは、向こうにあるアレみたいだな」
食べ過ぎたのか腹をさすりながら最後尾を歩いていた廉太郎が指差したのは、川に架かる橋の向こうにある建物だった。現在地からは高低差という意味でも直線距離としても、少々離れている。しかし目を引くのは立派なだけでなく、周囲の建物と比べひときわ古く落ち着いた貫禄が感じられるためだろう。
山の斜面に沿うかたちで建てられた宿はなだらかに屋根を連ねており、段々畑を思い起こさせる。その中腹辺りから脇に逸れ渡り廊下で繋がる道の先、比較的新しそうな屋根の下からは、湯気がたちのぼっていた。そこからは通りまで階段がつづら折りに設えられており、どうやら宿泊客以外でも露天風呂は使えるようだった。
「そういえば、見回してみると湯気が出てるとこ多いね」
「さびれてはいますが温泉街のようです。先ほど通った手水場も、蛇口をひねるとお湯が出ると書いてありましたよ」
へえ、と小野の説明に相槌をうちながら橋を渡り通りに出ると、家屋同士が近く、文字通り軒を連ねるようにして建築されている道のそこかしこに、土産物屋が見受けられた。
「温泉まんじゅう売ってる」
「わたし卵の方が好きなので」
「じゃあひとつずつ買おっか」
小さな水路をまたいで店に入ると、司はしわくちゃの老婆が曲がった腰をさらに曲げて手渡す品を受け取った。どうやら、上の温泉と同じ水源からとった湯で茹で、蒸しているらしい。
「ほいおまたせ」
「ありがとうございます」
百円と交換で卵を差しだし、並んでほおばりながら橋へ戻る。硫黄の風味を感じたが、すぐに夏の暑い空気に溶け消えた。
「お前ら、よく食べる気になるな。さっきメシ食ったばかりだろ」
「あの店デザートありませんでしたから」
「……おい、たまごはデザートに入るのか」
「入るでしょ。この前も小野、食後にプリンとかたべてたし。まあなんか食べてみたらしょっぱかったんだけどさ」
「世間ではそれ茶碗蒸しっていうんじゃねぇのか」
外見に似合わずお菓子作りや料理を得意とする廉太郎は素早く的確なつっこみをいれた。丁度その腕越しに見える、通りの先へ移動し細い道へ入ろうとしていた口論義が、片手を振って片手で招いていた。
「食べ歩きはいいけどー、ちゃんとついてきなさいよー」
「行きましょうか」
「うん」
廉太郎と固まって三人で進めば、細道は地面が石畳に覆われた場で、奥に行くにつれゆっくりと弧を描き山のふもとへ続いている。道の脇にある赤錆びがこびりついた看板には『この先三〇〇M 八尾洞穴』とある。
「ほらあな?」
「おう、洞窟探検隊わくわくね。『蝙蝠との戦いを経る大洞窟征服の果てに幻の巨大魚を見た!』とかサブタイつけると、カッコいい思うヨ」
「地底湖などないよ」
「えー、お宝集めするもないノー」
「宝箱に噛みつかれたくないでしょ?」
口論義に言われて、サワハは身震いしてすごすごと引き下がった。ゲームなどをあまりしないのか小野には伝わらなかったらしく「宝箱ってそんな罠仕掛けてあるんですね」とよくわからない返答をしていた。虎挟みでも思い描いたのだろうか。
ふっと山道に入り、後方に民家が遠くなっていく。石畳も消えて砂利道を歩くことになり、しばらくすると視界の緑の内にぽっかりと暗闇が浮かび上がった。近づいていくと中にセミが居るのか、反響した鳴き声が耳を揺さぶる。
さほど大きい穴ではなく、幅は二メートルほど、高さは司が立って歩くのでギリギリ。廉太郎なら腰を屈める必要がありそうだった。
「まあ当然だが、中に入ることはできないようだね」
奥を眺めて、チェーンが行く手を封鎖していることを踊場が確認していた。司も見てみるが、チェーンのさらに奥、三十メートルほどのところにもぼんやりした白い看板の輪郭があり、奥に進むと迷うとの旨が記されていた。
「で、なんなのここ。防空壕?」
「というわけではないみたいです。もっと以前からあるもので、古くは冷蔵庫のような役割を担っていた……と書いてあります」
先の道にあった看板と同じく、赤錆びに浸食された案内板に説明が書いてある。年中通して気温が安定している洞穴は、食糧の保存などに便利だったということのようだ。
「町の端、海に面したところでとれた魚などのために利用していたようですね。蚕の育成や酒の貯蔵、ひいてはもともと洞窟信仰もあったようです」
「ふむ、歴史の変遷が感じられる町のようだね。先ほどの店の主人とも仲良くなれそうだし、今後のフィールドワークのサンプルのひとつとしようかな。少々遠いのが難儀だけれど」
「この一回で取材するは終わりとちがうのネ?」
「現地の中に息づくものを部外者がしかと感じとるには、長い年月をかけて現地の人と仲良くなっての取材が原則だよ。じつは早く免許を取りたかったのも、取材範囲を広げて訪問頻度を高めたかったことが大きな要因なのでね」
付箋だらけのメモ帳にさらさらと書きつけながら、踊場はサワハに答える。しかし心ここにあらずというか、集中しているというのか、サワハに視線を向けることすらなく応じていた。
「でも車は赤馬さんからの借りもんだよな」
「もう少しで貯金が目標額に達する。中古車ならいくらか選択肢ができる程度には」
「バイトしてないのにどこからそんなお金が……」
「バイトではないが、収入のある雑務をこなしているのさ」
「どこでどうやって」
「ツテだ」
「ツテって」
小野と廉太郎とサワハがじっと司を見てきた。それほどまでに踏み込んではならない話題なのだろうか。さらさら記す作業を止めない踊場は、色の違う付箋を張りつけてさらに書き込みを続けた。どうやら〝地方〟や〝地形〟などで系統分類をしているらしい。
「あら、踊場とうとう車買うの。いいわね、あたしもドライブ連れていきなさいよ」
「……! もちろんだ!」
メモから顔をあげ、紙面に目を戻し、また素早く口論義を見る。二度見であった。
反応速度と語尾の上がりようが、口論義と比べて司たちがいかにどうでもいい存在なのかを如実に物語っていた。小野は司と顔を見合わせ、なにやら反応に困りますねと苦笑した。司としては踊場の態度になんとなく共感できる部分もないわけではなかったので、小野が同意を求めてきても首を横に振った。小野は驚いた様子だったが、何事にも優先順位というものはある、と司は思う。踊場もおそらく思っている。
「大学でもそういうの専門にするの」
「現在もとある研究室に出入りさせてもらっているよ。その大学に行くかはわからないが、レポートを見てもらったりしている」
「うは、しっかりしてるなぁ。ひょっとしてそれもツテ?」
「……まあ、そんなところさ」
最後だけ、少しの言い淀みを感じさせてから踊場はメモ帳を閉じた。
再び散策に戻り、木陰の風に涼みながら砂利道に沿って歩く道すがら、口論義と踊場は事前に調べておいたというこの近辺の怪事件について話し合っていた。廉太郎は時折二人の会話に茶々を入れ、サワハはなにが楽しいのか木に近付いてはセミの抜け殻を集めたりしていた。
先頭をいく小野と二人で話せそうだったので、司は横を歩く彼女に話しかけ、ようとして、かなりの早歩きを強いられた。山道でも連れがいても容赦なく歩みを止めない小野である。
「はやい、小野速い」
「実況みたいに言わないでください」
「そういや、前にながーい階段のぼる時も、妙に速かったけど。競歩みたいなんだけど」
「平素から山を登り降りしているためか、どうも自分の限界に挑戦したくなってしまうんです」
「後続がいるんだから、自重しよう」
「たしかに」
すっと足の動きを緩め、司でもついていける速度に落とす。それでも一五〇前後の身長のわりには、かなり速かったのだが。さすがに負けた気がして、言い出すことはできなかった。
ペースが落ち着いて息が整ってくると、司はぼうっと空を見上げた。上ばかり見ながら歩くのは山道において危険ではあるが、木々の隙間からこぼれ見える入道雲を多分に含んだ夏空は、心持ちを明るくする。
「平和だね」
「穂波田村も最初散策していた時はこんな感じだったでしょう」
「……嫌なこと思い出させないでよ。今回はあんなことにならないって」
「ですが奇怪事件について調べにきているわけですし。多少は腹をくくっておくほうがよろしいかと」
「そりゃ、そうか。死んだ人が歩いてるかもしれないわけだしね」
事件発生は二〇数年前のことだが、亡くなったはずの老人が目撃されたというのは、どうにも薄気味悪い。こうして歩いていてすれ違う人なども生きてるのか疑わしくなる。
「ゾンビってわけだ」
「かつてヨーロッパでネズミが媒介して広まったペストの折に、ゾンビ……動く死体や吸血鬼といったものが、あちこちで噂になったとは聞き及んだことがありますね。棺にいれて埋めたはずの死体が動いて、墓地からうめき声が聞こえるとか」
「こわっ。死者数も相当だったっていうし、なんか有り得そうな感じがするよ」
「まあ実際のところは感染を恐れてロクに調べもせず『動かない奴は死んでる』と判断して土葬したのが原因らしいですけどね。ほんとは生きてた人が地中にて目覚めて、あわてて助けを呼んだものの死者の怒りだリビングデッドだと恐れられて無視された、と」
「こわい。状況が想像できるのがすごいこわい」
狭いところをあまり好まない司は、寝がえりもうてないような密室の暗闇に閉じ込められるさまを脳裏に浮かべて恐怖した。おまけに場所は土葬の墓地なのだ、なにが視えるやらと考え出せば悪い方向にばかり想像が膨らむ。
「とはいえ一九八二年の日本では、すでに火葬以外はほとんど禁じられていますから。こっそり埋めたのでもなければ、そもそも死体は残らないはずですよ」
「じゃあそもそも死んでなかったとか」
「可能性はありますね。ただ、九二歳で亡くなったと言われるその方が、葬式のあとの十数年が経過してもまだ御存命というのも難しい気がします」
「ああ。その通りだろうね」
深く縦に首を動かし、司は小野の主張に同意した。あまりにもすんなりと受け入れたので拍子抜けしたのか、逆に小野は横に首をかしげていた。
「すんなりですね」
「当たり前だよ。長く生きるって、すごく難しいことだろ」
人の死に触れることが多い司は、特にそう思うのだ。
身近な人の死に触れた小野も同じように思うのか、「まったくです」と嘆くように言う。
「からだっていうのは、脆いけど確かで、尊いよ。生きてることの継続は、それだけでもなにかを変えられるんだから」
「からだの中身は……不確か、ですか?」
掘り下げるつもりのある話題ではなかったので、こう小野に問われたのは司にとって驚きと戸惑いが入り混じる事柄であった。考え込むまでもなく答え――というより自論の展開を成すことが可能な話題ではあったが、そうまで返しの言葉が思いつく理由がかつて散々考えたためであるので、複雑な心境にもなった。
要は、いつかだれかに問われたかったが、否定されることを恐れている自論なのだった。もっとも、自論というのはすべからくそういうものなのだろうが。
「魂なんて不確かどころじゃないよ、虚ろだ。あることを認めてもらえることの方が圧倒的に少ないんだからさ。でもだからといって、意味がないわけじゃない。視える人たちがいるから」
「遺志を継げますものね」
ごく自然に小野はそう言った。遺志、意志か、と司は心の中に反芻する。
「いや、そこは過程。大事な結果はその先かな」
たったった、軽快に歩を進めて一段高いところにのぼった司は、少しずつ町を見下ろすようになっていく景色を眺めた。
「『死んでさえ変えられるなら、生きてて変えられることの方が多い』って気付いてほしいんだ。小野には前も話したけど、もう一切この世に干渉できない死者たちが、この世に接することができる唯一の方法である〝思念〟。それを伝えることで、少しでもこの世を変えたいって考えの奥底には――こういう思いがあるんだ」
「……ああ。だから、人を呪う生者を、」
同じ高さまで登りつめ、追いぬかし、振り向くこともなく小野は問う。
「嫌うんですか」
自分のことを指し、貫いて。
背後の司に向けた問いだった。背を向ける小野を見つめて、足を止めたまま、司は振り向く。互いに背中を向け合い、その事実に気付いているのは司だけ、というままに。
「呪うって、思うだけでもできるよね。むしろ思いは呪いだよね」
坂を下ったところに追い付いてきた口論義たちが見え、サワハが手を振ったりしていた。
「行動の発端とするだけなら、いいことだよ。すべては思いから始まる。あらゆる努力もそこから生まれる結果も、全部思いが発端だ。けど発端で止まったまま現実を変えようとするのは……あまつさえそれを成功させちゃうのは、ずるいと思わない?」
死者の中にも、呪いで現実を変えるべきでないと司が考える相手はいる。
努力のすべてを放棄して死に逃げた者。努力はしたが呪う方向性の定まらない者。
これらの霊は司の嫌いなタイプだ。だが生きてる者にもこれらに該当する者はいる。単純な話、死んでいるという前提条件を社会的に死んでいる、に変えるだけ。
「死んでからでもできることを、生きてるうちにやることない。すべてが手詰まりになるまで足掻いて、それでも無理だった人以外がとるべき手段じゃない。だから人を呪うような生者は、腐った死人より、」
司は頬をつりあげ、笑みを模った。
「嫌いだ」
進行方向に向き直った司と、振り返った小野が、見合った。
「……ま、そんなこと雑談してみたけど、最近はこう思ってるよ。小野を嫌いになることは、まずありえないって」
「なぜです」
「すべて手詰まりになるまで、ちゃんと足掻きそうだから」
司の笑みをまねたような苦笑で一拍置いて、さてそれはどうでしょうね、と言ってきびすを返した小野の表情の変化を、司は捉えきれない。
海と山。どちらも遠くて偉大なもの。