二十三題目 「サマーデイズサムァライ」とサワハが興奮した
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じっとり、肌にしがみつくタオルケットが内腿に擦れる感触で、司は目を覚ました。起き上がるとブラインドのかかった窓から斜めに光が差し込んでいる。携帯電話を確認すれば、アラームを設定した時間よりも七分早かった。
「遠足行く小学生みたいだな……」
足からタオルケットを払いのけると、寝巻にしていた短い丈のパンツとシャツを脱ぎすて、肌着をつけるとクローゼットを開いた。例によって例のごとく、中を満たしているのは様々なパーカである。今日は襟周りの緩い空色のものを選んでかぶり、下はどうしようかと選んでいると、
「司、起きてるか」
「うわああ」
ドアを開けた兄、啓二は茶に染めた髪を掻きながら部屋の中を見回し、クローゼットの影に隠れる司を見つけると悪い悪いと軽い口調で言ってドアを閉めた。
「着替え中だったか」
「そ、そうだよ。ていうか啓兄、いつ帰ってきたの」
「昨日の夜中。ねーちゃんが帰ってるって聞いたしな、休みとって里帰りだ」
七分丈の黒いパンツを穿いてドアを開けると、壁に背を持たせかけていた啓二は身を起こす。彼がまとうのもパーカで、おお、と口では感嘆しつつも、気の無い目で司の格好を見つめた。司の所持するパーカのうち半数は、啓二が着られなくなった品を譲りうけたものだ。
「ちょいとでかくなったな。三月に会って以来か」
「そっちは変わりないね」
「あー、そうなんだよなぁ、お前とも身長変わらないしなぁ。いやお前がすくすく伸びすぎなんだこの野郎。頼むから俺よりでかくなるなよ」
「まあ心配しなくてもほぼ止まってきてるよ」
適当なやり取りをしながらリビングへ向かう。ソファに寝転がって新聞を読んでいた一恵が、パーマをあてた少々傷み気味の髪を掻きあげながら、気だるそうな目を司に向ける。
「司、起きたの」
「うん。おはよ、一姉」
「ん。朝ご飯、あるよ……啓二の分は、なしだけど」
「ひどいなねーちゃん。一人分用意するも二人分用意するも一緒だろ」
「なら、啓二作って。私の分も」
「やなこった。ありもんで適当に済ませるよ」
ソファの背にあるダイニングテーブルに腰かけ、ベランダに止まるすずめの動きを目で追いながら、司は目玉焼きとハムとチーズの載ったトーストをかじった。正面に箸をおいた啓二は、スタミナふりかけと卵と海苔と七味唐辛子と醤油を持って、冷凍の白飯を電子レンジで温めていた。前述の材料をすべて上に載せるつもりらしい。片手で卵を割っている。
「しっかし、高校生の御身分でレンタカー旅行とは大したもんだな。金あるのか?」
「宿泊費はレンタカーで寝て浮かせるし、宿の宿泊券もあるんだって。レンタカー代を割り勘にして、あとは各自食費だけなんとかなれば」
「お年玉貯金もあったっけな、お前は。でも部活だろう、同性ばっかじゃないんだな?」
「そだね。でもあんまり長い付き合いじゃなくても、人柄はよくわかったよ。ぶ室で男女二人だけなんて状況でも、なんもない」
「それは当然だよ。ま、でもお前が言うんなら大丈夫だなぁ。案外、抜け目ないからな」
もぐもぐと食べながら言う。当たり障りのない、小気味の良い普通の会話が進む。一恵がソファの背もたれに肘をつきながら、目にかかる前髪を払ってひらひらと手を振る。
「司、気をつけて。夏だからって、羽目外しすぎよくない」
「わかってるよ。心配性だな、一姉は」
ごく普通の、一般家庭のやりとり。自分が異能の者であることを忘れてしまいそうな、普通という異常。――その実、あんまり家族らしい雰囲気がないことを、司はよくわかっている。一恵と啓二の接し方は、よそよそしいとまでは言わないものの、無遠慮というほど近くはない。幼少期から共に暮らしたのではなく、七歳の折にふっと現れた自分を、家族だと言われたところで実感がわかないのも無理からぬことなんだろうと、司はそう認識している。
事実、司の方も家族という意識で二人を見ることはできなかった。司にとって家族とは祖父母だけであり、一恵と啓二にとっては父母だけだ。啓二に至っては「まあ、いきなり家族とか無理だろうし、歳の離れたダチだとでも思っておくんだなー」と初っ端からかましてきたので、父母に怒られていたものである。
だがそれでいいと思っていた。適度な距離感というものは生活していく中でつかむもので、無理に最初からこうあろう、と固めることはできないのだ。
「五日後に戻ってくるんだったな。帰ってくるころには俺たちも、父さんと母さんもいないぞ」
「慣れてるからだいじょうぶ」
「そっかそっか」
この適度な距離感の方が、司には好ましかった。
「食べ終わったら、出るよ。二人と次に会うのって、彼岸の頃?」
「私、仕事で戻れない。父さんと母さんに、よろしく」
「俺は戻るつもりだなぁ。彼岸ごろは仕事少ないし。あ、そうだこれ東京土産。行きの車中でみんなで食べな」
東京バナナと人形焼きをビニール袋ごとよこして、啓二はにこにこと笑った。
「ありがと、啓兄。一姉はなんにもくれなかったよ」
「私の元気な姿で、十分」
相変わらず寝転がったまま一恵がそんなことを言って、リビングを沈黙がとざす。なんとなくきまずくなったのか司を手招きすると、ジーンズの尻ポケットに入っていたバーバリーの財布から、五千円札を抜きだして手渡した。
「これでおいしいもの、食べなさい」
「……ねーちゃんそれはひくなぁ。よりにもよって現金て」
「だまらっしゃい、啓二」
「そうは言うけど啓兄も前会ったときのお土産現金だったよね。苦し紛れに『新宿でおろした二千円札だから』とかいって」
「都会の匂いがしただろ」
「ううん、二千円札ってあたりが貧乏くさかった」
箸を握りしめて机に突っ伏した啓二を尻目に、司はトーストの載っていた皿を片づけて部屋に行き、支度をした。着替えなどを詰めたボストンバッグに、肩かけ鞄を一つ。鞄の方に東京土産を入れて、靴を履こうとしたところで部屋に戻る。
枕元に置いていた、いつもの小刀を手に取った。
「なんか、司あぶない」
見送りに来たのかふらふらと廊下に出てきていた一恵が、そんなことを言って小刀に目を落とした。
「妙な使い方するわけじゃないし、いいでしょ別に」
「あー……たしか、じいさんにもらった奴だったなぁ、それ」
歯切れ悪く、啓二がぼそぼそとつぶやいた。司とはちがい、一恵と啓二は祖父母との面識が少ない。おそらくは霧島の家から嫁いできた司の母、房江も、さほど話したことはないはずだ。霊媒師という異界へ続く生業を営む祖父母のことを、一恵と啓二と房江の三人は苦手としていた。その祖父からの賜り物である小刀にも、怯えているふしがある。
司の父・真一朗でさえも、仮にも父親であるはずの司の祖父を恐れており、あまり多くを語らない。また霊能力関係のことは「お前には力がない、知らず済むなら知らずにいろ」と言われたらしくまったくの門外漢。
祖父母の姿を一番よく知っているのは、実のところ司なのかもしれない。
「魔除けとかなんとか、そんなんだったよな?」
「そう。刀身に細かく九字が刻んであるし、小さいけど霊刀って言ってもいいみたい」
「ふーん……俺やねーちゃんはそういうのさっぱりだからなんとも言えないけど、お前とじーちゃんとばーちゃんは幽霊とか、視えちまうんだもんな」
「視えるだけだけどね」
「でも、視えるんだ」
一恵がまぜっかえす。啓二が言葉の継ぎ目に困って、頬を掻いた。
実感できないから理解しようとしても無意味だと、一恵と啓二はそういう理解に及んでいる。べつにそれでいいと司は思っている。しかし、この手の話題になると半信半疑といった風な顔でこちらを見るのだが、久しぶりに見たそういう表情に戸惑う自分がいることに司は驚いた。
なんということはない。きてれつ研で過ごすうちに、あのように自分の異能を受け入れてくれる場に、慣れ過ぎてしまったということだろう。
「俺もねーちゃんも、お前の苦労を本当にわかってやることはできないんだよなぁ……死んだばーちゃんもそうだけど、目取真の家に生まれたせいでお前の名前も、」
「啓兄」
危うく口を滑らせそうだったので、司は大きめの声を出して制止をかける。ああ、と思いだしたらしい啓二は、一恵に脇腹を殴られながらかぶりを振った。
「そうだったな。呼んじゃ、いけないんだったな」
「忘れないでよ、それだけは」
安堵の溜め息と共にポケットへ小刀を突っ込んだ司は、ボストンバッグと鞄を肩にかけ、靴を履き直すとドアを開けた。玄関に向き直り、二人に軽く手をあげる。
「じゃ、いってきます」
「いってらー、司」
「司、いってらっしゃい」
ぱたり。二人に見送られて出た司は、閉じたドアの横にあるプレートを、人さし指の腹で撫でた。目取真・真一朗、房江、一恵、啓二、司。この中で司の名だけが、ひどく薄い印象を、受ける。自分の名を覆い隠すように、右の目を、まぶたの上から人差し指でぎゅうと押す。
じつは司の名には込められた願いや思いは存在せず、ただあるのは記号としての形だ。
「……司、ね……」
真実を秘匿するため、わざと嘘の読み方で呼ばせている己の名を口にして。
司はまぶたの上にあった指をずらし、醜くいびつな縁取りをした唇をなぞった。
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「そういえばレンタカーってどうなったの?」
午前九時にもかかわらず日の照りつける駐車場で、クリーム色のチノパンのポケットから取り出した携帯電話をかちかちいじっていた踊場に問いかけると、彼は道路の方を指差してあれを借りる、とぼやいた。手でひさしを作った司がその方向を見やると、車の運転席から見覚えのある人物が、同じように手のひさし越しに司と目を合わせた。薄暗い目である。
「よお諸君。レンタル代は一日あたり一人千円としようかね。当然保険は効かんぞ」
また壊したりするなよ、と言いながらライトバンより降り立った赤馬は、コンビニで待っていた司の方へ白衣を翻して歩み寄り、横に立っていた踊場の頭にキーを載せた。やわらかそうで少しくせのある髪を掻いてキーを手にした踊場は、五分袖で薄紫のカーディガンのポケットへそれをしまった。
「ま、半年前から乗り回していたきみのことだ、平時の運転なら心配は毛ほどもないけどね」
「あ、赤馬さん、声が大きいです」
人差し指を立てながら片手で赤馬の口をふさぎ、はっとした様子で踊場は後ろを振り返った。
司はなにかよからぬことを聞いたという表情で、踊場のことを見つめた。
「んん? おいおいきみぃ、よもや踊場くんが二、三カ月でしっかり運転できるほどの腕前になったとでも? 冗談をいってはいけないね。彼はよくおれから車を借りて練習していたのサ」
「ええー……加良部のとき、本気でビビりながら運転してたんじゃなかったの?」
「いんや、うまいことドリフトを決めた達成感で足ががたがたになっていただけだと思うね」
走り屋として覚醒しないことを祈りつつ、キーを指先でくるくる弄んでいる踊場に「頼むから旅行中は全力出さないでね」と懇願した。司の祈りに聞く耳をもたないのか、踊場はごまかす素振りで口笛を吹き吹き、また携帯電話をいじる作業に戻った。
「あ、もうみなさん集まってますね。すみません、少々遅れました」
そこへ声がかかり、司は振り向く。横断歩道を渡ってきた小野が、遅れたことを謝っているのかぺこぺこと頭を下げていた。
最近伸びてきた襟足はひとつにまとめており、おずおずと司の機嫌をうかがうように近付いてきた。マリンボーダーの長そでカットソーから伸びる両手でストローかごバッグを携えて、三段ティアードの黒いキュロットスカート、白くぺたんとしたパンプスを身につけていた。
「全然まってないからいいよ。それにまだ廉太郎さんとサワハさんいないし」
「残念、サワハはもういるのコトよ!」
ライトバンの後部座席からひょこりと顔を出したサワハは、大きく笑って犬歯をのぞかせた。が、車から降りてくる際に団子に結った髪が天井をこすりそうになり、ぎゃあと悲鳴があがる。普段とちがう髪型にしたため勝手がわかっていないようだった。
「夏! サワハ、解禁!」
「いや意味わかんないよ解禁ってなに」
「夏の方が元気ってコトねー。暑かったタイはサワハの独壇場だったのヨ! サワハ・オンステージ! オンリーステージ! サムァライ!」
「ねえテンションあがりすぎてない、なんか普段よりさらに発言の意図が読めないんだけど」
「ふっふ、夏休み、先生監視の目がないのことはつまり! ワタシを止める者は誰もない言うコト! ふだんまじめーにしてるぶん休みくらいはっちゃけるネ!」
良く見ると髪の色は普段の黒々とした印象から離れ、明るい栗色に変貌している。耳元にはアクアマリンと思しき小さな石のついたピアスも光っており、なるほどその辺が解禁ってことだろうかと司は観察していた。そこでサワハは車外に降り立つ。
発育のよい身体には淡い橙色の、襟周りと肩周りが緩いロング丈タンクトップを。その中に黒いチューブトップを着て、クリーム色のチノクロップドを合わせる。かかっと快い音を立てて暑いアスファルトへ着地した足には、ジュート巻の厚底サンダルを履いていた。
なるほど、シャツにジーパンという普段の格好よりはファッションにも気を遣っている、と司は感心する。
「普段校則破らない人が夏休みにこうなるってのも、少し珍しい気もするね」
「司さん、普段から態度も行動もフリーダムに生きてる廉太郎さんを間近に見過ぎて感覚がマヒなさってるようですが、サワハさんも普段から服装はけっこうテキトーですよ。スカート丈短いですし生足ですしセーラー服なんて前当てつけてませんし」
「……そういや扇情的な格好だな、アレ」
思い返せば、最初見た時には司もそれなりに衝撃を受けたものだが。
「慣れっておそろしいもんだよ」
「というより、サワハさんの性格が与える印象の方が大きいからだと思いますよ。あの人からは他人に自分の服装がどう見られてるか、という類の思考がほとんど感じられませんし、さっぱりしてて自由奔放です」
「意識してるいやらしさとかがないんだ」
「でしょうね」
「どうだかな、全部天然を装う演技かもしれんぜ」
いつの間にか背後のコンビニから出てきた廉太郎が、二人の肩に手を置いてずっしりと体重をかけてきた。
「なんだ、もういたの」
「お前らが来るより三十分は早くな。いやはや、立ち読みに忙しくてすっかり出るタイミングを失ってたのだぜ」
見上げた先の廉太郎は銀縁眼鏡のブリッジを押し上げてにやりと笑った。短い黒髪をワックスで立てており、服装は常と変わらず、灰色の甚平に下駄履きである。片手には大きなビニール袋をぶら下げていて、中にはどうやら菓子類や弁当が入っているようだった。
「ほれ、これも積んどけ。行きの車中でなにも食わんのは辛いだろ」
「あ、こっちもあるよ。うちの兄が東京に住んでて、お土産だってさ」
「なんだマルドメ、兄弟いたのか。なんとなくだが一人っ子に見えるぞ」
「や、歳離れてるし、あんまりきょうだいって感じじゃないんだけどね。兄と姉がいるよ」
「あんまり近い年齢だと喧嘩になるらしいしな、ちょっと離れてるくらいの方がいいだろ」
「廉太郎さんも上にいるんだっけ」
「まあな。ただ俺は、兄貴とはあまり喧嘩しなかったがな……」
苦い思い出に触れたためか、司から目を転じてライトバンに荷物を積みにゆく。彼が中学時代に兄を倒してしまい喧嘩無双の男となってしまった話は、司の記憶にも新しい。先月の学習合宿の際に、廉太郎本人から聞いた話である。
「廉太郎さんのお兄さんは良い方ですよ。勉強もできますし、昔はよく遊んでもらいました」
そして小野が割って入る。過去を知るがゆえの配慮か、それとも自分がその喧嘩無双に勝利してしまった話を持ち出されたくないのか。おそらくは後者だろうと司は思ったが、露骨な方向転換にあえて乗り、誰しもが持つ暗黒期の話題から離れる。
「きてれつ研って、みんな兄弟いるの」
「廉太郎さんがお兄さん、踊場さんはお姉さんがいましたかね。わたしと会長とサワハさんは一人っ子ですので、兄弟というのは少し羨ましいですね」
「そうかなぁ、いたらいたで面倒だと思うよ」
自分ではよくわからないことだが、よく聞く言葉なのでそう言ってみる。小野もそうかもしれませんね、とは言ってくれたものの、彼女は司の家の事情も知っているので、空返事というやつだろう。
「あと来てないのは、ふぁれだ、口論ひふんはね」
店内にいる時点から包装を解いて、出入り口をくぐったころには口にフィルターをくわえ、赤馬がふがふがと喋った。靴の裏でマッチをこすって火を点し、ピースの先端から煙をくゆらせる。小野が携帯電話で時間をたしかめ、うなずいて返した。
「みたいです」
「ふむ、会長だというのに遅れてくるとはけしらかんことだね」
「赤馬サン、いっつも重役出勤常連さんだたのに、よく言えるネ」
「ひひひ。サワハくんおれはね、いつも早く着きすぎるんだよ。んで仕方ないからぶらついてたら、いつの間にか時間を過ぎてるのサ。きみらがおれに合わせて早く来てくれりゃよかったんだけどねぇ」
「そういえば赤馬さんって病的に早起きでしたね。眠れないのですか」
「いんや、べつに不眠症ではないよ、朝早起きでないとごみが回収されてしまうからだね」
だいぶ切迫した理由のもとに早寝早起きを実践しているらしい。皆が無言で、車のレンタル料を支払った。赤馬は「どしたの、妙にみんながやさしい、おれ今日が寿命かなんかかね」ととんちんかんなことを言って煙を吐いた。
そこにライトバンの後ろへ皆のボストンバッグやキャリーバッグを詰めていた廉太郎が戻ってくると、きょろきょろ辺りを見回した。
「おい、会長をこのまま待つのか? 行き先を地図で見たとこ、会長の家を通っていけないわけではなさそうだぜ」
「んん、そうだね、迎えに行くとしようか」
「え! え、あの。もう少し、待っても……」
廉太郎と話し合い、移動が決まるや否や。小野はすっとんきょうな叫びを漏らして、そわそわとスカートの裾をつかんだ。その様に廉太郎は横に首を倒し、踊場は縦に倒した。
「……ああ、そうだったね。けれど、ただ家の前を通って拾っていくだけだ」
「そう……ですよね、家にお邪魔するわけではありませんよね」
「ああ。万一入れと言われても、きみは車に残ればいいよ。それに今日は土曜日だ、デイサービスに行っているはず」
なだめる語調で言われて、小野はようやく人心地ついたという顔で、裾を握る手から力を抜いた。振り返る表情には、ほとんどかげりもない。だが、少しは残っている。ふと司は、以前にも小野が口論義宅を訪ねようとしなかったことを思い出した。「敷居が高い」と。
「小野はあんま、会長のとこ行きたくないんだっけ。よほどのことなら、残ってればあとから」
「いえ、だいじょうぶです。わたし一人のために、和を乱してしまうのもいけませんし」
気丈にふるまってはいるものの、やはりどこか、小野の表情には強張りが残っていた。せっせと支度をする踊場は、この顔の裏にあるものをつかんでいるのだろうが。司のとがめるような視線にもさほど注意を払わず、話している間も持っていた携帯電話へ再び目を落としている。
「はてさて、実はさっきからあいつとメールしていたんだが、準備に手間取っているようなのでね。拾っていってそのまま出発とするよ。あいつの分は、僕が立て替えておこう」
数枚のお札を手渡した踊場は颯爽と運転席に乗り込むと、借りた鍵を使いエンジンを始動した。スライド式のドアから乗り込んだ司たちもなんとなく強張りが残るままシートベルトを締め、助手席だけは口論義のために空けておく。
コンビニの駐車場に残る赤馬はほとんどフィルターまで吸った最初の一本に二本目を押しつけてチェーンスモークに興じており、バックしはじめた車体に気付くとひらひら、手を振った。
「いってらっしゃいー、土産は期待せずに待っておくよ」
赤馬の声が遠ざかる中、司も軽く手をあげて返す。乗り心地は踊場の腕を以てしても快適とは言いづらかったが、じきに慣れるだろうと身じろぎする。動きは伝播して、隣の小野や後ろのサワハにもつながっていった。車の揺れは収まらないが、速度は順調にあがっていった。絵を描いた幕をするすると引くように、景色が移り変わっていく。ショップのウインドーに、ライトバンの側面が映ったり途切れたりする。
ふと司は車内を改めて見まわして、正面の運転席に話しかけた。
「……ところで踊場さん。先々月の加良部の事件で、この車大破してなかった?」
「んん、そうだったかい?」
「なんかその時、赤馬さんが出所不明の銅線と一緒に車を預けて、それなりの現金を受け取ってたような」
「はて、そうだったかな?」
「あとこれは話変わるけど、踊場さんってバイトしてない割りにお金あるよね。へんに情報通だし」
「司くん、話が変わっていないよ」
「え?」
ルームミラーで確認しても、踊場の顔色は変わっていない。そういえば以前にも今と同様のやりとりをしたような気がした。隣の小野を確認する。気まずそうに膝の上で手をこすりあわせていて、両手の人差し指でバツ印を作っていた。聞いてはいけない話題であるようだ。また顔をあげれば、ミラーの向こうで踊場が笑う。いやに不気味な笑みだった。
「さあ、気を取り直して元気にいこうか」
「踊場、みんなぜんぜん気を取り直せてないぞ」
「廉太郎、物事には知らない方がいいこともあるといつも言っているだろう」
「まあそうだな。たしかにマルドメは知らん方がいいだろう……俺は別段、お前がどういう手段で金を稼いでいてもどういうツテで情報を脅……得ていようといまさら何も思わんが」
ちらりと黒い断片が、垣間見えた。廉太郎はうんざりした声音である。
「人聞きの悪いことを言わないでほしいね。正当性を主張した結果相手が自然と差し出す金銭をいただく行為にそれほどの問題があるのかい?」
「いや、お前の言う〝正当性ある主張〟を成り立たせるための証拠の集め方はだいたい、違法すれすれだろ」
「聞きたくもない情報が無理やり聞こえてくるから、辟易してるのは僕なんだけれどねぇ」
「言いたくもない情報を無理やり聞きだしてきてる、の間違いだろ」
「そんなの、手順に多少の前後があるだけだろう。なにか問題でも?」
「どっちが先かで責任ある方が変わってくるだろ。情報と一緒に恨み買うような真似ばっかしてんじゃねぇよ、会長にも迷惑かかるだろ」
「『名が売れるほど買うことになるものなーんだ? ……答は恨み、なのだぜ……』」
「わおめずらし、踊場サンがキモいセリフ言て」「おい、どっからそのセリフを」
サワハが発言を終える前に、廉太郎が反応してしまった。え、と真横に向いたサワハの追求を、廉太郎は一八〇度顔を転じることで逃れた。大しておかしくもなさそうな、はっはっはという冷たい笑声がひとつだけあった。関係のない司にもいやな予兆としか感じさせない。
「僕のところには、二度と聞きたくもない恥ずかしいセリフとかも無理やり耳に入ってくるということだよ」
「ちょ、少し待て踊場、それは、本当にあった若気の至りというやつでだな」
「『言い訳とのれんは長いほど怪しいって諺知ってるか――ばーか、俺が今作った言葉だ』」
「やめろ! マジでやめろ! 荒んでたんだよあの時ぁ!」
「ふふはははははは」
しばらく聞いていたが、結局のところ具体的な踊場の行為についてはわからずじまいだった。取り乱す廉太郎を冷ややかな目でサワハが見ている構図が、新鮮かつ凄惨であった。
司がルームミラーから視線を切ると、小野が携帯電話で奇怪事件展覧列挙集をのぞいていた。
「あれから、谷峰についてほかの情報は出たの?」
「さっぱりですね。クイズに出たらさぞや珍解答を続出させてくれそうな御長寿が多いということの他は、さほど。ただ、踊場さんの言っていたように、座棺の習慣が残る土地でした」
「はははふふ、ふむ。なかなか座棺の習慣はお目にかかれないよ。話をうかがえるというだけでも、俄然興味が湧くというものだね」
いじるだけいじって、あとは放置することにしたらしい。機嫌のよい踊場は声音を弾ませて、笑い声を引きずりながら話題に参入してきた。廉太郎はヘッドレストに頭を叩きつけていた。やかましい。
「座る棺、座ったままお棺にいれるってやつだよね」
ウインカーを出して右折レーンに移りながら、踊場はああ、と返事をした。ふと進行方向の先へ目を流すと交差点の角には献花が成されていて、司は顔を背ける。視界の端になにか影を捉えた気がしたが、そういうものにもう一度目線を合わせようとしなければ、大概のものからは逃れられるのだ。車内には、踊場の話す声が朗々と響いていた。
「膝を抱えた姿勢で、身体に縄をかけるものもある。遺体を窮屈な体勢に固定することで、霊を縛り外へ出さず、また外から霊が入っても身体を動かせないようにするための手法だといわれているよ」
「遺体の上に刃物を置くのと、似た習慣なんだ」
司は納得する。
遺体や埋葬に関するもので、縁起担ぎのものとして今も生活に根付くことがらは意外に多い。たとえば靴ひもが切れると縁起悪い、というのは、幽霊が足を得て墓場から出て来ないよう、埋葬の折に鼻緒を切った――つまり〝使えない〟下駄をおく慣習に由来がある。
「遺体の上の刃物は、猫が通らないようにするためだね。猫は魂をいくつも持つ生き物と思われていて、その魂が遺体の上を通る時に入り込み、身体を動かしてしまうと信じられていたからだ。もちろん、物理的な意味合いの他にも刃物という概念自体に、司くんの持つ小刀のような〝獣を払う〟という力を期待してのことでもあるがね」
「そういえば司さんの小刀って、すごい品ですよね。九字が切ってあるからか、犬神を追い払うこともできましたし」
「ああ……これ、生まれた時に祖父母が鍛冶師に依頼して打ってもらった御守り刀なんだよ。最初から、霊に悩まされる人生になるってわかってたみたい。さだかうもれてしじ、だって」
「なにね、その呪文唱えるするみたいなノ」
ポケットに手をいれ小刀に触れていた司が口に含むようにささやくと、耳ざとく聞きつけたサワハが後ろから身を乗り出してきて問う。答えようがなかった司は、正直に言った。
「ばーちゃんが言ってた。方言ひどいし意味はよくわかんなかったけど」
「ふうむ。定か埋もれて死児、とかいうのはよくわからないが」
なにやら発音から妙に重たい意味合いを感じた気がしたが、司はうなずいて続きを促す。
「司くんのおばあさんは、沖縄出身だろう?」
「ん。あ、あれ? 踊場さんに話したことあったっけ」
「いや、以前にまぶいがどうとかよく言ってた、と話していたろう。まぶいは、沖縄の方言で魂の意味だよ。……とはいえ僕もあいにくとユタやノロに関しては勉強不足なもので、これ以上はわからないけれどもね」
「そっか……けど仕方ないよ。自分自身でもよくわかんないし、忘れてきちゃったし」
だから探してるんだ、と自分に思い出させるべく口にする。
車は喫茶『アーガイル』の横を通り過ぎて行き、口論義の邸宅ちかくまで進んだ。
「たぶん家の前で待ってるはずなんだが」
言いつつハンドルをきり、ゆっくりと路地に入っていく。すると司の隣で小野はこそこそと身を屈めるようにしはじめ、口論義宅の前に停車するころには縮こまってしまった。
「隠れてるの?」
「ええまあ」
「そう」
「ええ」
短いやりとりを繰り返しただけで止まる。どうも、小野は緊張のただなかにいるらしかった。そういう次第で小野は出ることかなわず、踊場も駐車禁止の位置であるため運転席を離れられない。
「門の向こうにいるかもしれないから、だれか呼びに行ってくれるかい?」
うながされ、後部座席にいるため降りにくい廉太郎とサワハにせっつかれたので、司が呼びに行くこととなった。門扉のところで電話をかけ、出て来ないかと反応をみる。ところがさっぱり反応がなく、飛び石の向こうの玄関にも動きが見えない。
「いないし、出ないよー。インターホン押した方がいいかな」
「そうだね……ん? まった司くん二階を見ろ」
「二階?」
言われて上を見ると、二階の窓のところで人影がわちゃわちゃと激しい身ぶりをしている。どうやら口論義のようだった。
「あそこはあいつの部屋だよ。昔は僕もよく遊びにきたものだ」
「へえ」
適当に司が返事していると、窓ががらっと開いた。そして司の姿を認めると、意を決したかのようにへりに手をかけ、
「え、え?」
トランクひとつ持って飛び出し、ひさしの上へ降り立つと、雨どいを片手でつかんで飛び降り一気に門扉まで駆けてきた。慌てて飛びのいた司の横を過ぎて助手席へ回り込むと、急いで手招きをした。
「なにやってるの司ちゃん! はやくきなさい!」
「いいいや、あの、だって今、なんでとびおり、」
「追われてんのよ! 踊場、車出しなさい!」
「しょ、承知した」
剣幕におされてハンドルを握る踊場を見て、置いていかれてはかなわないので司も飛び乗る。スライドさせてドアを閉じると、門扉の向こう、飛び石の先にある玄関が鋭くぴしいっと音を立て開かれる。鯉口シャツをまとう腰の曲がりかけた老翁が、長いあごひげを振り乱すようにして走り、口論義を追いかけてきた。凄まじい形相だった。
「風鈴ぃ! 貴様、なにを勝手に!」
「踊場早く!」
「急かすなよ、ここは三〇キロ規制だ」
「か風鈴ぃぃ」
走り出す車体に追いすがろうとする老人の姿は、ミラーに焼き付かんばかりに濃密な気配として司たちをとらえる。絡む視線が、一瞬ではあるが、ルームミラー越しに司と焦点を合わせる。ついで、横の小野もとらえたと見えた。小野が身をすくませる。老人の目にもなぜか怯えが見えた。低く震えた声が上ずり、三つの音が風に流れた。
「 ――」
けれど車内にいた司たちには、音があったことはわかっても、その形までは伝わらなかった。老人は続けて、なにか言おうとしたようだったが。
そこで右折して振り切ってしまったため、残りの声は音としてさえ届かない。行き交う車の流れに身を任せた司たちは、誰ともなく、幾度となく後ろを振り返った。やがて落ち着き、口論義が座席に深くもたれて、身体が沈んだ分吐き出すように長く、吐息を漏らした。
「遅れて悪かったわね。じいさんが止めるもんだから、逃げるのに時間食っちゃって」
「逃げるって。なに、ひょっとしてこの前学習合宿に来た時も、あんな逃走劇やらかしたの」
「あの時は、別になんにも。ただ、今回は、ね……。とにかく、あたしも反抗したい年頃なのよ。この旅は逃避行だと思ってくれてもいいわー」
取り繕った明るさで、口論義は空々しい笑いを車内に振りまいた。沈んでいる小野といい、なにかあることは明白である。踊場も運転は安定してきたが、頬の端に引きつった感覚が留まっているとみえた。
ここに疑問を突き立てて暴きたてることは、容易なことだと司は思う。しかしそうまでして、これ以上行きの車中の空気を重いものにしたいとは思わなかった。
そのような思考に行き着く自分に、驚く。とはいえ、表面には出さなかった。常の自分を意識した答を返し、場を取り繕うことを手伝う。
「……こういうのも含めて、旅行の準備は前日までには済ませといてよ」
「あはは、ごめんってば」
ただ流れる時間と空気に思いを馳せ、驚きをどこかへ置いておき。
六人を載せたライトバンは、日に平行して走りだした。