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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
海と隠亡編
22/38

二十二題目 「学期のおわりと夏のはじまり」と司が意気込んだ

この作品はフィクションです。実在した風習などを参考にしていますが地名、人名、団体名、事件名などはすべて架空のものです。


では四章開幕。



 わずかな湿り気を帯びた風が教室の中を吹きぬけて、窓際の席に座る司の鼻先をくすぐって過ぎていった。正面の前納(まえの)はうだるような暑さにやられてか机と同化せんとする勢いでへたれており、天然パーマにも心なしか艶がない。黒ずんだスチールウールを思い浮かべて、司は火を点けたらどうなるだろうと夢想した。


目取真(めどるま)くん」

「あ、はい」


 見慣れているが聞き慣れてはいない己の名を担任に呼ばれ、司は少し嫌な気分になりつつも顔には出さず、すっくと席を立ち教卓へ向かった。

 友人や知人はともかくとして、教師からは苗字で呼ばれることを余儀なくされる。いい加減これにも慣れなくてはならないのだろうが、幼少期から七歳までの間に一切、名を呼ばれることのなかった司には、未だ違和感をぬぐい去ることのできない事柄である。

 司とさして身長の変わらない物理教師、牛勿(うしもち)理久(りく)は夏にもかかわらず分厚い白衣を着こんでおり、ミョウガの千切りのようで色素の薄い髪の隙間から伏し目がちに司を見て、通知表を手渡してくれた。


「ま、まあ、なんです。期末で多少挽回できた、というところでしょうかね。ぶ、部活動に精を出すのも大事ですが、勉学にも励んでくださいね」

「はい。どうも」


 おどおどとしているのは別段司に怯えているわけではなく、もともとの性格であるらしい。そのことで生徒からもいじられている牛勿だが、教え方は良いので人気はある。物理実験準備室を活動場所として提供してもらっている手前、忠言もむげにはできない。素直に頭を下げて、司は下がった。


「あ、あああと」

「はい?」

「れ、廉太郎くんによろしく、お伝えください。追試、受かってよかったね、と」

「……ああ、やっぱり期末ひっかかってましたか」


 ぶ室では『今回赤点はなかった』と豪語していたのだが。怒る気力も湧かず、ただただ呆れて司は首をうなだれた。牛勿は眉を八の字にしながら微笑み、もうひとつ付け加える。


「それと、きょ、今日は六時で、完全下校ですので。きてれつ研のみなさんにも、そのように」

「わかりました伝えておきます」


 通知表を開きながら席に戻る。するとなるほど、中間の時にまずいかもしれないと思った科目がわずかに上向きになっており、そのおかげか全体として四と三が多い、まずまずの成績となっていた。

 禾斗目高校ではよほどひどい成績でなければ部活動停止処分は下されないが、元から外聞の悪いきてれつ研のメンバーである司たちでは、睨まれて風当たりが強くなる可能性はある。

 先月の穂波田村での一件も、前納と(はす)(むかい)が小野と司の不在を誤魔化し、踊場(おどりば)が情報を隠蔽することでなんとか尻尾はつかまれずに済んだのだが、怪しまれはしたのだ。グレーゾーンを走る司たちを、レッドカードに手をかけながら教師陣が見張っている形であった。無論夏休みに入るので監視はなくなるといってよいのだが、まだ油断できないな、とどこか気を引き締める。

 司がそんな物思いにふけりながら椅子に腰かけると、牛勿がしげしげと教室の中を見回していた。終業式も終わり、ホームルームも終わり……もはや、やることはひとつしか残されていないのである。

 牛勿はごほんと咳払いひとつ、そわそわとしている生徒の気勢を感じとったのか。


「……ええ、では、通知表も配り終えました」


 破顔一笑、高らかに宣言した。


「晴れてみなさん、お、お待ちかねの――釈放です!」


 すぐにでも教室外へ駆けだそうとしていた数人がずっこけた。


「釈放ってなんだよ牛勿せんせー」「あ、ままちがえました」「ママ違いました?」「まちがえ、です、間違いました! 釈放もとい解放です!」「どっちにしてもあんましイイ意味じゃねーよぅ」「え、ええい! いいんですこんなもの! 定型文などくそくらえです! そ、それでは皆さんん、登校日まで、さようならっ!」


 顔を真っ赤にして、最初に教室を出ていったのは牛勿だった。教室中がどっと笑いの渦に取り込まれ、ひとしきり笑ってその熱が冷めてきたころに、ぞろぞろとクラスメートは出て行った。

 静まり返って、遠く他の教室から漏れた音が響く室内へ残されたのは三人。小野が来るまで時間を持て余している司と、成績を見てから起き上がらない屍と、昼からの部活動に備えて昼食をとり始めていた、スポーツ刈りで背の高い男、蓮向である。

 いかり肩でどこもかしこも太くたくましい体型の彼は、一番大きいサイズのシャツを着ているらしいが、腕も胴周りもパっツンパっツンになっていた。そのくせボタンはきっちり襟元まで留めているため、いつか頸動脈が締まって倒れるのではないかと司は密かに心配している。


「蓮向もこれから部活?」

「……夏は、耐える季節だ。応募していた懸賞が当たっていれば、知人に誘いをかけて谷峰(やほう)という海沿いの町にでも赴こうと思っていたのだが……残念ながら私の夏は、部活一色のようだ」


 誰と行こうと思っていたのか、蓮向は深く沈んで落ち込んだ。恨みをぶつけるように、アルマイト製の弁当箱(推定縦幅十五センチ、横幅十センチ、深さ五センチ)に詰め込まれた大量の白米を梅干しひとつと海苔卵ふりかけのみで食していく。彩りの少ない食事だが、見ていてどうにも空腹を覚えた司はお腹を押さえて椅子にもたれかかった。


「こっちも部活だよ」

「……お前の部活は、フィールドワークを主としていたのだったか。夏は、どう過ごすのだ」

「今日ミーティングして、細かい行き先決める。先月行った宿を拠点にするとか言ってたかな」

「……だが、三年生もいたはずだな?」

「いるよ、会長と副会長。でも素行不良でも成績優良だからそんなに問題ないみたい」

「……素行不良。知っているぞ。たしか眼鏡で、長身の。誰かに似ていた……」

「ああ、滝廉太郎に似てると思ったんなら間違いなく該当する人いるけど、その人は三年生じゃないし眼鏡だけども頭は良くないよ。でもなんであの人のこと知ってんの?」

「……少し前、ふらりと組手をしに柔道部(うち)に来た。私もやりあったが、三十秒も保たなくてな。レギュラー全員勝ち抜きされて意気消沈だ。変則的な動きが目立つものの、柔術使いのようだったが、何者だ?」


 強者への憧憬などが感じ取れる目を向けながら問われて、司は少々困る。強さはそれこそ折り紙つきの男ではあるが、とても憧れや尊敬の念を向けるべき相手とは認識できないような思い出が多すぎるためだった。……先日も、真剣でスイカ割りをしているのを目撃したばかりだ。


「えーと、歴史があって実戦的な、武芸十八般修められそうな古流武術をやってるとか」

「……なんと。形骸化せずに残っている古流の継承者か。しかも幅広い分野に手を出しつつもあれほどの使い手足り得るとは、すばらしい御仁だな」

「え、いや……」

「……きっと武に対して真摯に向き合うが故の組手だったのだろう。ただの素行不良殴り込み野郎かと思っていた。認識を改める」

「え、あの……」


 なるべく夢を壊さないように、廉太郎個人については触れず説明をしたのだが、あらぬ誤解を招いてしまったようだった。少なくとも司の知る廉太郎は真摯と呼べるような精神性はなく、ただただ強者との戦いを求めるだけのバトルマニアである。馬鹿が力を持つとああなるという典型例だ。


「……てめーら、いいよな。部活、行けるんだもんな」


 と、ここで屍が声を発した。思わず左を向くと、机に突っ伏していた前納がふふふと笑いながら起き上がる。手には、汗と涙でふやけた通知表が握られていた。


「どうすりゃいいんだっ! おれ部活動停止処分だぜ! 赤点は回避したってのに、なんだってんだこの扱いはよ!」

「いやだって前納、中間で半分くらい赤点だったじゃん」

「終わり良けりゃすべて良しだろうがよー!」

「……()しだ、馬鹿め」

「おお、言ってくれやがったなこんちくしょう! 蓮向、お前とはいっぺん決着つけなきゃと思ってたぜ。おれはまだ合宿ん時締め落とされたの忘れてねっかんな!」


 びしりと指を突きつけ、天然パーマの髪をかきあげてから前納はワイシャツを脱ぎ棄てる。いつも通りにド派手な柄物のシャツが現れ、より一層、前納の小物感が増した。

 面倒臭そうに箸を止めていた蓮向は、片手で口元を隠しながら司に耳打ちする。


「……司、こいつ女湯のぞきにいこうとしていたのだ」

「うわ最低だね前納しねばいいのに」

「司ー! 今おれ成績のことが響いててメンタルが豆腐並になってっから! あんま罵らないで! そんな目でこっち見ないで!」

「そして蓮向偉い。よく止めてくれたよ」

「……なに、大したことではない」

「罵倒からの無視かよー! もういやだ、おれ成績親にも見せらんねーし、どこにも行き場ねえよ!」


 また突っ伏して、むせび泣く。だが司は成績表を親に見せたことがないので、そういうところの機微がいまいちよくわからなかった。ちなみに蓮向はこつこつ勉強していたのか、成績は司よりも上位をキープしていた。


「つーか司も中間はそんなによくなかったじゃんかよ。なんで期末上がってんだ」

「成績良い人に教えを請うたんだよ」

「は、蓮向! テメエか!」

「……私も教えようかと言ったが、その時には他に教師役を見つけていた」


 残念そうにしょぼくれた様子で箸の先をかじる蓮向を見て、前納は胸をなでおろしていた。どちらの反応もいまいち意図するところがわからず、しかし司は特に理解しようともせず、勝手に話を続ける。


小野(おの)の方が蓮向より成績よかったから、あっちに頼んだんだ」

「……勉学は負けたが、体力ならば負けていない……!」

「? なんで怒ってるのさ。それに意外とわかんないかもよ、小野もさっき言った流派の弟子だった時あったらしいし」

「……前納、私は、生きている価値があるのだろうか。死ねばプラマイゼロだろうか」

「しっかりしろっての蓮向! おまえでプラマイゼロってんじゃおれは死んでもマイナスになるだろうが!」


 前納は自分で言って自分でダメージを受けていた。


「……お前には笑いがあるだろう」

「なに言ってんだ、おまえがおれをいじってくれてっからこその笑いだろ!」

「……いじりか。ふ、それも、いいかもしれない。私と組んでくれるか、前納」

「あたりめーだ、テメエ以外と組んでられっかよ!」


 またも前納はおいおいと泣き始め、蓮向がそれをなだめていた。二人がなにをそんなに盛り上がってしまっているのかわけがわからず、司は首をひねらざるを得ない。


「――や、生きてて誰かの傍にいられる以上のプラスなんて、あるわけないでしょ」


 ぼそりと自論を述べると、二人は励まし合いをぴたりとやめた。あまりにも唐突すぎて司の方がびくついてしまったほどだが、二人はふんふんとうなずきあって、やがて二人同時に、笑顔で司の肩を叩いた。さっぱりわけがわからなかった。


「司さん、おまたせしました」


 そうこうしていると、背後から、涼やかな声があがる。司がそちらを向くと、司の目線くらいの高さに頭頂部が見え、小野香魚香(おのあゆか)が立ち尽くしていた。いつ入ってきたのやら、だ。

 初めて会った時より幾分伸びて、肩を越えるくらいの黒髪。その下にある整った面立ちの中、半分閉じたように眠たげなれども大きな双眸(そうぼう)は、十二分な目力を感じさせる。また白磁のように白い肌も表情と合わせて弱弱しげな印象を映すが、病的ゆえのきわどく危うい美しさも含んでいるため、妖しい輝きが増すばかりだ。

 夏になって暑いだろうが服装は変わることなく、男子のシャツにカーディガン。下はプリーツスカートに日避けのオーバーニーソックスだった。

 過去に負った右腕の火傷痕を隠すべく半袖を着ることのできない彼女は、しかしその事情を周りに話すわけにもいかず、校内で浮いた存在となってしまっている。今も、額にうっすらと汗をかきながら、きょときょとと三人の顔をかわるがわる見比べていた。


「おーう、小野ちゃん。いまちょーど、小野ちゃんの話してっぜー」

「……来たか、プラスの女」

「な、なんですか? 特に蓮向さんの発言」


 だがそれで区別することもなく、突っ込んで理由を問うわけでもなく。

 ごく普通に接している前納と蓮向を見ていると、なんだか司は温かい心持ちになるのだった。


「なんでもない、と思うよ。じゃ、ぶ室行こう」


        #


「やあ二人とも。前回の会議で僕は夏のフィールドワークを、先月僕らの訪れた宿屋を始めとしてN県の方へ出向こうと言ったが……あれはなかったことにしてくれ」


 暑苦しいぶ室の奥で会長椅子の横に立っていた人影は、二人の姿を認めると開口一番そのようなことを言った。くせのない柔らかそうな髪は襟足を少し伸ばしており、背が低く小柄なことと相まって性別の判断を誤らせてしまいそうな外見となっている。その人影、踊場(おどりば)小太郎(こたろう)はつぶらな目を細めて、シャツの襟元をぱたぱたと煽いでいた。この暑い中でなぜか少し青ざめており、唇を歪めて苦笑いを浮かべていた。


「え、いい宿だったからまた行きたいと言っていたではありませんか」

「なに、ひょっとしてまた知り合い割引やってもらおうとして拒否られたの?」

「そういうわけではなくてだね……その宿自体が、なんというか、ないというか」


 むにゃむにゃとぼやく踊場は「まさかあれがマヨイガか」などとよくわからないことをつぶやいていた。横で渋面を浮かべて椅子に座っていた人物は、「とにかくそっち方面はやめよ」と宣言し、話題を打ち切った。

 椅子を回転させて司たちに向き直った人物は、肩に届く辺りで緩くウェーブした薄茶色の髪をかきあげて耳の後ろへ流し、大半の男子ならばどきりとするような、物憂げな表情を浮かべてみせる。彼女が立ち上がれば、グレーのハイソックスに包まれた、すらりと長い脚が机の陰から露わになった。司とさして変わりない身長はおそらく一六五センチほどで、わりとスタイルも整っている。立派に美人である。

 しかし服装は、上は薄緑のジャージに下は濃紺のスカートというどうしようもない組み合わせだった。ジャージは袖をまくっており、もはや羞恥心などセーラー服と共に脱ぎ捨ててしまったかのようだ。

 この女、口論義風鈴(こうろぎかざり)について唯一評価できそうな点は、常時ジャージのジッパーが少緩く、胸元がはだけかけているところだけだ……とは、知人の弁である。司の言葉ではない。


「しっかし今日もあっついわね。物理実験室の冷房温度もっと下げてこようかしら」


 口論義は、司たちがいましがた入ってきた扉の方を睨みつけてそう言った。普段閉じられているはずの扉があけ放たれていた理由は、冷房設備が扇風機しかないぶ室内に隣から冷気を導くための動線を確保しようとの目論見があったらしい。


「昨今のエコブームに押されてか、これ以上設定温度は下げられないようになっていたよ」

「じゃあなんか怖い話でもしましょうか」

「きみをビビらせることができるような話を知る者がいるとは思えないけれどね。心頭滅却したまえよ」

「そんなこと言っても暑いものはあついのよ。そうだ司くん、牛の首の内容詳しく知ってたりしないの?」

「あれ都市伝説でしょ。というかビビるどころじゃ済まないじゃんアレ」

「うう、わかったわよ、もういいわよ。洒落にならないくらい怖い話でも探してやるわよ」


 不貞腐れた口論義はかちかちと携帯電話を操作しはじめ、なにやらホラーサイトなどを廻ろうとしているようだった。


「廉太郎さんやサワハさんはまだ来ていないのですか?」


 お茶を淹れつつ小野が問うと、定位置に腰かけて頬杖ついた踊場が、自分の茶碗を受け取って答えた。


「サワハくんは家の手伝い、廉太郎は先日の件で生徒指導部だ」

「え、それって」

「近所の庭先で刀振り回してる青年がいるんですがアレおたくの生徒じゃありません? との連絡が来たらしい。まったく馬鹿な奴だよ、だから僕は木刀にしておけと言ったのに」


 にやにや笑いをまったく隠せていないまま、踊場はさもうまそうに煎茶をすすった。暑いからこそ熱いものを呑むと、気分がすっきりするとのことだった。


「スイカ割りの件か……」

「いや、今回は流しそうめんをするために竹を割ろうとしていたらしい」

「どっちにしても情けないというか、なんというか。じゃあ四人で決めるの?」

「一応、きみたちが来るまでにスクラップから行き先を漁っておいた。海から山まで色々とね」


 どさりと机に広げられたスクラップには、行方不明の事件や、変死体の事件だとか、いかにも口論義が好みそうなものがピックアップされていた。司もじっくりと見てみるが、呪いなどに繋がりそうなものがどれか、と言われると、なかなか選び出すことはできない。

 じっと作業に没頭し、ふと正面を見ると、小野は行方不明事件ばかりをより分けていた。


「なんでそういうのばっかり?」

「先月の一件で、わかったばかりではないですか。〝歪み〟へ落ちれば、人は消えるようにその場からいなくなるということが。まあ〝歪み〟がああした呪いの念による人為的なもの以外で発生するのかはわかりませんが、それでも他の事件よりは、近づけるはず」


 せっせと腕を動かして作業を続ける小野は、静かに瞳を燃やしていた。

 あの夜、神代(かじろ)と共に歪みの向こう、異界へと消え失せた女性。古川仁美と公子の霊を、おそらくは呪いによる焔を操って焼き尽くし、罪深き巫女をも焼き殺した彼女を、殺される前の神代は「カノエ」と呼んだ。

 その名は、祓い屋の仕事の最中全身に火傷を負い死亡した小野の母、山女魚(やまめ)が、今際の際に口にした名である。なにか関係があると思い、必死になって探すのも無理からぬ話だった。


「っていっても、年間数万人規模で行方不明者っているだろうし」

「あ」

「しかも大抵は一時的に家出した女の子とかで、深刻なのはそこまで多くないんじゃない」

「あう」


 閉口して、しょんぼりと小野は手を止めた。悪いことを指摘してしまったようで、少し罪悪感が芽生えた。


「ところで踊場さん〝やお〟って地名のところで事件あったりとか、〝やおの〟または〝ななし〟って名前の人が事件起こしたりとか、なかった?」

「やお? ああ、先月の事件で、最期に神代が言っていたという言葉かい。そちらは別にして分けてあるが」

「ありがと」

 司は、小野の横に積まれたスクラップから、踊場がより分けてくれた分を探す。

 あの一件から、〝やおの〟そして〝ななし〟という言葉が気になっていた。偶然か必然か、ゴールデンウィークの事件で加良部を追い詰めたスレッドに出た人物の名が〝七無〟。ななし、と読めなくもないのだ。

 事件の終息時、加良部は歪みの消失と共に消えた。神代が消えた時と、状況が似通っている。そこに繋がりそうな名前が出てきたのだから、調べざるを得ない。ひょっとしたら、四月の犬神事件の最後で死体が消えたのも、あの場にあった気が術者の負の念に染められた結果歪みとなり、呪詛返しのこともあって犬神使いを呑みこんだのではないかとさえ思えた。


 ではその呪詛返しを行ったのは――これも、〝やおのななし〟なのだろうか? 考え過ぎだ、と司は頭を振る。


「しかし考えてみれば、あの事件には不可解なことがあるね」

「なに、踊場さん」

「いやね、最終的にあの一件では、神代が狐を憑依させたり、霊を視たりしたわけだが。……小野くんは、最初会った時になにも言わなかったのかい? 異能察知の微能力は、発動しなかったのかい?」

「あ。そういえば」


 霊を視ていたにせよ、狐を操ったにせよ、それらの異能が備わっていたのであれば、小野は反応したはずなのだ。神代に引きあわされてしまったこともひょっとすれば、異能察知の副次的効果である危険域誘因体質によるものかもしれないが、それにしたところで、異能に接して小野がなにも言わないわけがない。

 二人が彼女を見据えると、作業の手を止めた小野は、じっと己の片手を見つめて、なんとも飲みこめないものを口内に抱えたような顔をした。


「最初に出遭ったのは、司さんと一緒にあの神社を訪ねた時ですが。なにか察したのであればもちろん言いますよ。少なくともあの時は、神代に異能は備わっていませんでした。しかし。次に出遭った時、社の舞台に立つあの人には、確かに異能が感じられました」

「それ……神代が言ってたことと関係あるのかな」

「なんのことです?」

「カノエに向かって言ってた、あの言葉だよ。『十九年も力をお借りして』ってさ。もしかしたら、あれは借り物の力だったんじゃない? だから小野も反応しなかった」

「十九年間借りていたのなら、前日に会った小野くんは察知できるだろう」

「じゃあ十九年借りてたけど、力を使える周期が決まってて、あの儀式を執り行う間だけ使えた、とか」


 古川は、あの祭事を干支一回りごとにしか行わない特別な物だと語った。同様に、神代の異能も儀式に合わせた周期ごとにしか発生しない、借り物の力だったのだとすれば。辻褄は合うように思われた。


「考えたって仕方ないわよ」


 唐突に口論義は携帯電話を閉じると、誰にともなくぼやいた。


「どうせ奴は死んじゃってるんだし。霊体さえ焼き払うような呪術師、カノエが相手だったっていうんじゃ、司くんの霊視があっても意味ないし。ひとつにこだわりすぎると、大局見失っちゃうわね」

「……そう、ですね。もう神代からは、何も聞き出せないのですしね」


 もっともな意見である。ただ、それ以上に、神代の名を口に出す小野にひやりとさせるほど冷徹な意志が感じられて、司たちは黙らざるを得なかった。

 話題を切り替えて、司は小野から目線を外す。


「そういえば二人は今年、受験生の夏って奴だよね。そんなに長期間フィールドワークとかしてていいの」

「もちろん夏期講習とかはあるわよー。でもこれで最後の夏っていうなら、きてれつ研での思い出なんかも作っときたいよ。夏が終われば、実質あたしもお役御免だしね。そだ、もう次期会長決めとこうか。小野ちゃん」

「はい」

「決定」

「いまのは呼ばれて返事しただけなんですが……それにわたしはまだ一年なのですが」

「だって廉太郎くんもサワハもそういうの苦手そうでしょう」


 なんだか以前もこんな会話をしたような気がした。実際のところ、踊場の次に多く雑務処理を担っているのは小野なので、そうした観点からもこの決定はしごく当然の流れとも言えた。


「……まあ、二年生のお二人から反対意見が出なければ、引き受けますよ」

「あらそう。意外とすんなり決まったわね。じゃあまずは形式から、この椅子座ってみる?」

「結構です。そこ窓際ですし、一番暑いじゃありませんか」

「ち。うまく交代してもらおうと思ったのに。ま、今しばらくはあたしが会長やっとくから、踊場から流れ教わるなりなんなりして心構えから固めといてね」

「言われずとも」


 簡単に過ぎる気はしたが引き継ぎを終了し、小野はまたスクラップに目を落としていた。司も手元の山を次々に消化していくのだが、なかなかよさそうな場所は見つけられずにいた。事件にどれほどの奇妙さがあるか、そしてここからの距離はいかほどか、といったさまざまな要因を考慮にいれると、許容できる幅は狭まってくるのだ。


「宿泊費用を考えると、それこそ長期間は難しいよね」

「十人乗りくらいのレンタカー借りて雑魚寝よ。もしくはネットカフェとかで寝泊まりするつもりだから、あんまり宿泊費用はかかんないわよ」

「いやレンタカー、って、男女一つ屋根の下で寝るの……」

「そりゃオープンカーで十人乗りはないでしょうよ。花形満じゃないんだから」

「そうじゃなくて倫理的な意味でどうなのかなって」

「あのねえ司くん。三カ月も一緒に過ごしてるんだからわかるでしょう」


 呆れたような声音で口論義は窓べりに腰かけ、唇をとがらせた。司もさすがに気にしすぎたか、と思い、反省の色を見せる。


「そんなことになったら、小野ちゃんが蹴っ飛ばしてなんとかしてくれるわよ」

「信頼とか信用はないの?!」

「業務面とかではもちろん信じてるけど、それとこれとは話が別よ」


 踊場がしょげた面持ちで茶碗の底を見つめ始めた。

 つかつかと横に歩いて来て司の耳元に口を寄せた口論義は、ぼそぼそと続ける。


「……でも、仕方ないわねー。そんなに司くんが気になるなら、私いない時に全員に尋ねてみなさいよ。機会があったら誰か襲おうと考えたことありますかー? って。こっそりあたしが隠れて、虚言看破したげるから」

「やめたげてお願いだから」


 一度か二度は考えたことあるかもしれない人間がいるのだから。人間関係が複雑になるから。そんなことが頭をよぎり、冗談でも口論義の姿が見えない時にはそれ系統の話をしないように心に誓う司だった。

 ……考えてみれば踊場は口論義と幼少期からの付き合いなのだから、これまで十年以上もそうした思考を隠し通してきたのだろうか。そうだとすればある意味で尊敬に値する功績だ、と司には思えた。当然なにも聞こえていない踊場は、茶碗を片手に首をかしげて司を見ている。

 なぜか、哀愁が漂っているように感じられた。


「と、とりあえず日数から決めた方がいいんじゃない? そうは言っても予算は限られてるだろうし、日数決まれば滞在時間の基準ができるだろうし」

「そうねえ……日数は、五日か六日でいいんじゃない? それ以上伸ばすと八月の夏期講習にかぶるし。今月末から来月頭まで、って感じ。里帰りとかで月末ダメって人いるかしら」

「僕と口論義はもともと祖父母と暮らしている」

「実家に家族居ないしどこだかわかんない」

「母の件の後親族づきあいは父方のみになりましたが、彼岸の頃に会うのでいいです」

「サワハんとこは両親が駆け落ちでタイに移り住んだ時に親族と縁が切れたそうだ。で、俺は因業ジジイに会いたくないから実家は行かね」


 しれっと参加してきた廉太郎は、さも暑そうにシャツのボタンを外して風通りを良くしていた。さすがの彼でも、生徒指導部の前では身なりを整えることを知っているらしかった。眼鏡を外して額をぬぐう様を見て、踊場は我今愉悦にまみれたりという顔を向ける。


「やあ廉太郎。息災かい」

「んだよショタ郎、嬉しそうにしてるとこ悪いが別段今日は叱られてただけじゃねえぞ」

「いちおう、叱られることは叱られたんだね」

「おうよ、だが褒められもした。空き巣をとっ捕まえたんだよ。どーだ、表彰もんだろ」


 ワイドショーとかでネタになりそうな話を引っ提げてきたものである。得意げに笑う廉太郎に反比例して、踊場の愉快そうな表情がなりをひそめていった。


「というのも昨日も素振りしようと思ったんだが、いつもの時間にやるとまたお隣さんに文句言われると思ってな。半ドンで終わったからお隣が留守の昼間に庭先出てったわけだ。そこで、お隣に忍び込もうとしてるの見つけて、あっと思ったから刀を振って、払った鞘でずがっと殴りつけたった。んでもまだ逃げようとするから鞘を足下に投げつけ下緒(さげお)を絡ませてな、見事な大捕り物って次第なのだぜ」


 机に腰掛け振り向きざまに言う廉太郎は、鼻高々である。たしかに、危ういところを救われたのでは、お隣も文句ばかり言うわけにはいかなくなったのだろう。世の中はどう転ぶかわからないものだ。


「ところで廉太郎くん、その左手に持ってるのはなによ?」

「ん、これか? これな、さっき生徒指導部で叱られ褒められしてきたわけなんだが、お隣さんもお詫びとお礼の品を持ってきてくれてたらしいんだ。なんでも海沿いの町にある宿屋の、豪華宿泊券らしいぜ。なんだったか、たしか、たにみね? そんな感じの地名だとか」

「……谷峰(やほう)じゃないかい? たしかそちらには、座棺(ざかん)など興味深い風習の残る土地があったと記憶しているが」

「ほう、そうかそうか。んなら話は早いな、全員でそこ行こうぜ。実はこれ使用期限が来月末までなんだよ。まあ一泊二日だけなんだが、その分の宿泊費も食費も浮くからいいだろ」


 廉太郎の中ではすでに行き先はここへ決まってしまっているようで、うきうきした様子が全身から滲み出ていた。司が口論義にその町までの距離を問うと、これがまた都合のよい位置にあるらしかった。半日もかければ到着できるので、帰りのことを考えても三、四日は調査などが可能だろう。


「で、そこは奇怪な事件とかは起こってるの」

「ええと……ああ、ありましたよ。今まで確認した新聞のスクラップには大してなにも載っていませんでしたが、奇怪事件展覧列挙集のデータベースに記録があります」


 携帯電話を使ってデータベースに検索をかけた小野は、ふむふむと自分で読んでいる。司はしばし自分の前にあるスクラップの山から谷峰の地名が書かれた記事がないかを探すが、どうもこちらにも見当たらないようだった。せいぜい、長寿のご老人が多いという地方新聞の切り抜きくらいである。

 と、読み終わったのか小野が画面を見せつけてくる。そこには『谷峰怪事件』とある。


「なになに……一九八二年、町のはずれで、十数年前に死亡したはずの老人を見たという噂が流れ、その後目撃証言が相次ぐ……」

「ちなみにこんな話も」


 一旦司から取り上げて、再度手渡されると谷峰の町についての説明が表示されていた。


「谷峰とは昭和に入ってからつけ直された名で、それ以前は……四つの支流を持つ河川と、町を取り囲む山からの出入りに用いられた四つの道。町から飛び出たそれらを動物の尾になぞらえ、二つの数を合わせて八つの尾。――つまり、やほうではなく、八尾(やお)というのが元々の名だそうです」


 意味深に微笑み、小野は口許に手を添えすぐに笑みを隠した。




というわけで四章開幕。海へゆく。


不遇の蓮向。いつも通り、クラスメイトはこれで出番終了。


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