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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
合宿因習編
21/38

二十一題目 「呪いの残響」と廉太郎が歯噛みする

三章終幕


三万文字少々、長いです

戦闘シーン長し


        #


 枝社の裏手にあった岩牢に押し込まれた司たちは、閉じた鉄柵の向こうに見える扉が閉まる音と共に、見通せないわけではないがかなり深い闇の中へ落とされた。揺らぐ松明の焔に照らされて、司は五人の顔を見比べた。小野は蹴られた腹部をさすっていたが、その他のメンバーには大きなダメージはないらしい。

 ただ、廉太郎は完全に気絶させられていた。開いた口の端に血がついていたので顔面を殴られたのだろうが、とどめを刺されたのはこめかみなどの急所だろうと小野が推測を語る。


「会長たち、なんで捕まったの」


 囚われの身となった以上どうしようもなく、司は自分の横で鉄柵に背をあずけていた彼女に問う。口論義は捻りあげられていた手首を押えながら、司の方を見ずに答えた。


「祭壇の傍に近付いて、なにが行われてるのか探ろうとしたのよ。そしたら急に村人がパニックに陥って、慌てふためいていろんなとこを走りまわってね。その途中で隠れてたあたしらを発見して、なんだか知らないけど大騒ぎ。逃げ足には自信あったんだけど、あの荒地じゃうまいこと走れなくてつまずいたとこで捕獲、終了」

「だが祭壇に供物などひとつも見えなかったよ。まっさらな白い段のみが残っていた」

「人もはけてたしネ。サワハたち運悪ぃー」


 言って、サワハはレンズを使う体勢をとった。眉根を寄せて閉じた扉の方を見やり、鋭い視線は扉を射抜いて向こうを透かし見ているのではないかと思わせる。


「引きずられてるの途中で、神社周り何ヶ所かレンズ置くしといたよ。これで外はばっちり視えるのコト、でもどーにか脱出するの方法考えるしないと」

「現状、外はどうなっているんだい?」

「んんーんー、さっきとあんま変わんないノ。古川サンと神主サン、ぶつぶつなにか話すを続けてるケド」

「儀式を続行するか否か、って話し合いじゃないかな」

「そーネ、たぶんそんな感じ。うう、読唇術覚えるしとけばよかたヨー」


 なんにせよ外の状況は硬直しているということがわかり、時間にまだ余裕があることに気付いた司たちは、ここから脱出する方法について模索しはじめる。

 牢屋の中にあったのは、椅子が一脚とトイレ、洗面台のみ。司の小刀や全員の携帯電話、その他踊場の持っていたペン型スタンガンや催涙スプレーや十徳ナイフも取り上げられてしまっており、檻の外、松明の下に鍵と共に放置されていた。


「南京錠のようだね」

「ヘアピンは取られなかったけど、誰か錠開けできる奴いる?」

「無理無理」


 口論義の掲げたヘアピンに食いつく者は一人もいなかった。仕方なさそうに「やるだけやってみましょうか」と口論義は自分で鍵穴に二本のヘアピンの先を差し込み、かちゃかちゃと弄りはじめる。他にやれることもないので、司たちは岩壁のどこかに穴がないかなどを探し始め、それぞれ作業に没頭するためか牢屋の中には足音と鍵を弄る音しかしなくなる。

 ふと奥の方から唸り声がして、司はそちらを見やる。薄闇の向こうへ目を凝らしてやると、どうやらそこにも牢屋があるようだった。

 鉄格子の影がうっすらと見えて、背を丸めた人影もそこに落ちていた。


「あ。他の人もいるんだ。おーい、すいませ……って、さっきのあの人か」


 できれば捕まっている者同士協力したいと思っていたが、それは叶わないようだった。呼びかけている司の方へ一度だけ目をやって、また手元に視線を戻した口論義はさほど興味なさげに問う。


「なに、あの人」

「さっき会長たちが来る前に、儀式のせいで狐にとり憑かれた人」

「とり憑く、って」

「犬神みたいに霊を使役して憑依させる呪術師が、ここの巫女だったんだよ。憑き物筋って奴」

「狐憑きの家系かい。しかし、そうした異能の一族というのは、裏で力を握ることはあれど表の儀式などに関わる事例は稀だったと記憶しているけれども」

「あるところにはあるみたいだね」

「ふむ。なるほど。呪術師が表立つ、か」

「……表立とうがなんだろうが、現実は現実でしょ」


 踊場と話す司から意識も外して、明らかにトーンが下がった口論義の背中には、なにやら不快そうな感情が垣間見えた。そして彼女の背を見つめる踊場の目には憂愁の念が感じられたが、司に見られていると気付くとすぐに心の奥底に感情を引っ込め、なんでもないように取り繕った。

 しかし廉太郎の話から、口論義が宗教に関わるものについて不快感を抱くらしいことに司も思い当たってしまった。

 そして口論義が不安定になったのは今この時この事態だけが原因というわけではなく、先月のフォッグマン事件のことも関わっていたはずで。あの事件には宗教色のある事例はなかったというのに、なにが彼女を追い詰めたのか。司は考えたが、把握できたところで無意味だと思ってすぐにやめた。


「それにしても、みんなあんまり怯えたりしないんだね」


 黙り込むと岩壁からの圧迫感に耐えられなくなりそうで、多少は会話を続けたいと望んだ司は話題を振ってみる。濡れた岩壁の亀裂をなぞっていた小野は、端正な横顔を見せながらも司の方は見ずに気の無い返事をした。


「司さんもあまり怯えたりしていないじゃないですか」

「慣れてるから」


 そんなつもりはなかったが、先ほどの小野のセリフをまぜっかえすような形になってしまったため、むっとしたらしい小野は肩をぴくりと震わせて完全に司に背を向けた。セリフを間違えたと思って頭を掻きながらも、牢に慣れていることは事実であったため撤回のしようもない。


「おう、サワハたちも危ない状況慣れてるヨ」

「慣れてると言っても冬の一件だけだけれどね。あの時もまあ、大変だった」


 空笑いを浮かべる踊場。たびたび話にあがる冬の一件というのがどういうものか未だ知らない司は、話の環に入れないことに不満を覚えた。するとその表情を読み取ったのか、サワハが軽く説明をいれた。


「冬の一件いうのはネ、サワハたち巻き込まれたおっきな事件。妙な大学サークルやってるの奴らが、ぼっちども集めて心理学で動き操るして、犯罪起こさせたのコトよ」

「正確には行動分析学と社会心理学による限定的な働きかけだったがね。簡単なところから言うと、訪問販売や詐欺で多用されるフットインザドア、小さな要請などを用いていた」


 フェアリー、と思い浮かんだがすぐに要請だと認識し直して、司は聞き覚えのある話だと思いだした。


「すぐクリアできる簡単な要請をしてから本題の要請をすると、断られにくいって奴だっけ」

「そう。例えるなら部費もいらないから名前だけ貸してほしい、と部員を集めて、後に部費ではないが備品代に二百円の融資を頼む、などといった形式だね。無論ここまで露骨であるとさすがに拒否されるだろうが、こうした会話技法をうまくやって少しずつでも多数の人間を動かせれば、それだけで大きな力になる――」


 冬の一件は、ボランティアサークルだと謳い文句を掲げたある大学生五人が名義だけ借りた十数人の人間と繋がりを持ち、彼らに噂を流した。最初は、サークルの一員だったある女性の実家たるそれなりに名の知れた企業が危ない、という程度のものだった。

 だがそこから飛躍させて五人は親会社の危険にまで噂の規模を拡大させ、就職難への危機感を抱かせる。そしてボランティア経験は就職に有利だという釣り餌を浮かべ、まんまと人員を増やすことに成功した。この段階で最初の十数人から人数はだいぶ増えて三十人を超えて、人員が集まったことからいよいよ五人は本題に入る。

 学んだ知識を悪用し、配下の人間を得たことから、徐々に行動はボランティアから外れたものとなっていき、社会への敵対行為となっていった。そして大人数の悪い気が溜まった場が偶然にも鬼門、丑寅の方角であったために増幅された思念が悪いものを呼ばい、事件の真相に気付いたきてれつ研、当時の会長だった赤馬を含めた五人が駆けつけた時には思考がマイナスへと振りきった人々が仲間以外への敵対意識を持っており、倉庫に監禁されることとなった。


「なんとか天窓から抜け出した時には、サークルの集会所は集団幻覚に苛まれる人々から実際に憑依されて暴れる人間までおり、阿鼻叫喚の地獄絵図となっていたよ。実際に憑依された人々には赤馬さんがお祓いのような術をかけ、残りの襲いかかってくる連中はあとから助けに来た廉太郎が殴り倒した」


 そのような経験があるゆえに、今こうして囚われていることについても冷静な対応ができるのだという。壮絶な経験に、司は感嘆よりも呆れが大きい溜め息をついた。


「よくそんな危ないとこに関わる気になったもんだよね……」

「今回の潜入について異を唱えなかった司さんに言われたくありませんね」

「それはまあ、そうだけど」

「学んだことはひとつ。慌てても仕方ない、ということさ。今回は廉太郎もへたばっているし赤馬さんの助けはまず期待できない状況だが、だからといって悲観的になったところで意味は無い」

「……悪いわね、みんな」


 踊場の言葉尻にかぶせるように、口論義がぼそりと言った。いつの間にか手を止めていた彼女は、大きく肩で息をひとつすると、向かいにある鉄格子の先にいる青年の光る瞳の方へ顔をあげてまた肩を上下させた。


「毎度のことになっちゃったけど、また巻き込んだわ。ごめん」

「気に病むな。きみの望むことを実現すべく、僕は傍にいようと思ったのだから」

「べつに、協力関係なんだから気にすることないよ」


 声をかけて司がじっと口論義の背を見ていると、その視線に気づいたのか彼女は向き直って司と相対した。謝るわりにはずいぶんと遠い目に見えたが、恐らくは自分ではない誰かを見ている、そう思わせる目だった。それもそれで謝る際には不適切な顔だろうとは思ったが、無意識のことであろうから司も何も言わない。


「みんなの厚意に甘えてるように思えるのよね」

「全員そうなんじゃないの。持ちつ持たれつってやつ」

「そうなのかな……そうなのかしら」


 うやむやなまま、形だけでも迷いを振り切ったらしい口論義は、また南京錠に向きあうとかちゃ、かちゃ、と音を立てた。室内に他に音は無く、あらかた壁も調べ終わってしまったため司たちにはもう為す術も無い。檻を壊せないかと司は椅子を叩きつけてみたが、びくともしない上にうるさいからやめろと口論義に叱られた。壊れた椅子を投げだすと、司はへたりこむ。

 下をくぐれないかとでも考えたのか、サワハは地面を椅子の破片でほじくりながらつぶやく。


「これからワタシたちどーなるだろネ」

「まずいことになるのは確実だろう。僕らはこの村のシステムに干渉してしまったのだから」

「システム? なんかわかったの、踊場さん」

「……ああ、先ほど祭壇を見に行って、きみから狐憑きの話を聞いて、大方この村の仕組みはわかった」


 岩壁にもたれて座り込んだ踊場は、ゆらゆらと頼りない光を投げかける松明を一瞥してから、重く、ゆっくりと息を吐いた。踊場は村についての推測を語り始め、あとは鍵を弄る硬質な音だけが耳に残る。


「あの祭壇には多くの人が押し掛けていたが、持ち寄った紙袋がからっぽであるらしい、ということは先ほど別行動をとる前にもサワハ君から聞いていただろう? そこで引っかかったのがまず一点。そしてあの祭壇のあった古川の土地、ここが稲荷を祀る意味、ならびに枝社というものの役割、それらを材料に考えると――この村は、かつて食糧難だったと推察される」

「食糧難、ですか」

「昔の話だろうがね。相当な大飢饉に見舞われたことがあったのだろうと思う」

「結果、ダリのような飢餓の亡霊が多く存在するようになったと?」

「おそらく。そしてその苦境を脱するべく、人々は一層豊穣の神、宇迦之(うかの)御魂(みたま)へ祈りを捧ぐようになった。だが神道の教義では神には二面性を認めており、そのうちの穏やかな方は和魂(にぎみたま)、恵みなどの在り様を表すが、もう一方の(あら)(みたま)という面においては逆に災いを表すとしている。人の意思を汲んでくれるばかりではないという、極めて厳しい考えを秘めた教義であるが、詳しく語る暇も無いね。とにかく、災い為す面も認められているということだ。そして本社で祀る神の荒魂とは、本殿ではなく枝社へ祀ることとなっているのだよ」


 枝社。そのワードが、司に神代から聞いた話を想起させた。供物でも食事は、枝社へ多く置くこととしている、ということ。そしてそこへ祀るのは本殿の神とは違い、昔からの神がいるのだと。

 司と同じことに思い当たったのか、壁を探っていた小野が踊場に異議を唱えようとしていた。


「ちがう、違いますよ踊場さん。あそこへ祀ってあるのは土着の神様だと神代さんは」

「地主神というものだろう? 重ね合わせてあるのさ、たぶんね。……サワハ君、外の様子はどうだい? 特に、すぐそこの枝社についてだが」

「やしろー? んと、そうネ……人いるいっぱい。さっきの紙袋持ってて……お供え?」

「やはりか」


 一人ごちて、一人納得した様子で踊場はほうと息を吐いた。なにがなんだかわからない司たちは説明を求め、踊場はおもむろに顔をあげると、要望に応じた。


「枝社に祀りし神というのは、ダリだ」

「ダリ……? だって元をただせば、神じゃなくて人だよね」

「神道は祖霊崇拝の考えも強く持つ。天神信仰などもあるだろう、菅原道真のあれだよ。元より神道は氏子などを大事にし、地域に深く根ざすものだ。長くひと所にあれば、当然祖霊などへも色々考えるところがある。神代とやらの言葉を鵜呑みにするならば、先にあったのは祖霊への恐れからくるダリを鎮めんという信仰で、それが豊穣祈願と混ざった際に豊穣の神の荒魂と重ね合わせて捉えられたのではないかな」

「じゃあ紙袋って、行きはからっぽでも帰りは祭壇の供物を持ってきて、枝社に供え直すためのものだったんだ」

「あの荒地へ一度供えるプロセスにどういう意味があるのかはわからないけれどね。ただ僕らを見つけた時の反応から察するに、あれも重要な儀式であり他者の介入は喜ばしくないというのはわかる」

「なにも介入はしてないじゃん。見てただけじゃないの」

「いいえ、お腹すかしたサワハが落ちてたまんじゅうを包み開けて食べちゃったから、介入したといえばそうかもしれないわ」


 飢餓の亡霊がいるかもしれない場で、しかも本来彼ら亡霊に供えられるべきものに手を出したとなればそれは大変な無礼にあたるというものだ。村人が慌てたというのも納得できる気がして、司は冷たい目でサワハを見た。サワハは不思議そうに後ろを振り返った。司は「あんただよあんた」と言いそうになった。


「……っててて、ああだるい、頭ん中ぐるんぐるんしてたのだぜ」


 と、間の抜けた声を発して、隅に転がって気絶していた廉太郎が目を覚ます。


「無事だったか」

「当たり前だろ。だが首の関節は凝り固まってんぜ、正直そっ首吹っ飛ばされたかと思ったほどの威力だったしな。どういう腕力してやがる、あの古川とかいう奴」


 痛みであまり回せないのか、左右に小さく首を振りながら廉太郎は身体を起こした。小野の見立て通り、顔面への一撃の後に急所へ一撃もらったらしく、頭痛でもしているかのように手でこめかみをさすっていた。


「吐き気などはないかい?」

「問題ねぇ。完璧にはできなかったがある程度ダメージを受け流したんでな。で? ここは牢屋の中ってわけか?」

「そうなるね」


 踊場と少し話しただけで状況はだいたい把握したようで、立ち上がった廉太郎は鉄格子へ近付く。口論義の方を見て南京錠を弄る様子に興味は示したが、自分に解錠は無理だと片手を振って辞退した。次いで、松明の方を見て、鍵を発見した。

 鉄製の格子の前に立つと、居並ぶ棒のうちの一本を全力で引っ張り、ほんの、ごくごくわずかにだがたわんだことを知ると、にやり、不敵な笑みを浮かべる。


「縦横に走る格子じゃなくてよかった。これならまあ、なんとかなる」

「はい?」


 先ほどの司の攻撃で砕けた椅子の足のうち一本を拾い上げると、脱いだ甚平の上着をトイレの水に浸す。そして鉄格子のうち二本に捲き付けるようにして強く縛ると、縛った中にできる輪へ椅子の足を突っ込んだ。


「昔見た映画でこんなことをして、脱出するってのがあった」


 そして椅子の足の両端を握り、ぜんまいでも相手取るかのように左へぎりぎりと回し始めた。結んだ輪の中にあるため、椅子の足にはねじり上げられた甚平が捲き付き、それに引っ張られる形で鉄格子が、ほんの少しずつだが歪みはじめた。


「ぎぎぎ、ぎっぎぎ、んぐぐ」


 休み休みだが渾身の力を込めて回し続けた結果、鉄格子の間にあった十センチ少々しかない隙間が、徐々に開いていく。起き上がってすぐに古川の腕力について何事か言っていたが、廉太郎の膂力も相当なものだった。

 隙間が広がると、結び目を解いて隣の鉄格子に移る。茫然と司たちが見るうち、隙間はもはや穴と呼べるだけのものになっていく。

 ものの一時間弱で、小柄な小野ならば横ばいに抜けられそうなほどにまで開いた。それでも少々胸の辺りが通りづらそうであったが、廉太郎と口論義に押し込まれて、なんとか抜け出る。

 松明の下に投げだしてあった鍵を手に入れると、錠前を外して五人を外へ出した。


「あたしが錠開けに費やした時間はまったくの無駄だったわね」

「次の機会には経験を生かせばいいんじゃないか」

「次なんて無い方がいいわよ」


 廉太郎のとんちんかんな返答に苦笑しながら、六人はそっと扉を開け、外へ出る。

 ずっとレンズを発動し通しであるサワハから指示を仰いで、薄暗闇の中で村人にバレることなきよう静かに移動する。幸いにも岩牢から出てすぐ左手に林があったため、そこに潜んでまっすぐ進むこととした。しばらく歩いた先に、枝社の後ろ側が見えている。

 だが司たちはこの時、かなりシビアなタイミングを制していた。ふと気にかかって振り返ると、自分たちが先ほど出てきた扉の中へ、数人の村人が入っていくのが見えたのだ。


「どうしたマルドメ」

「やばい、もう脱走がバレた」


 言い終えるか否かのうちに、血相変えて飛びだしてきた村人たちが、社の方へ駆け戻っていく。遠くて内容は聞き取れなかったが叫び声があがり、村人たちは騒乱に覆われ始めた。


「どうする? みんな探し回ってるよ」

「さすがにこの人数を俺と小野だけで切り抜けるのはきついぜ……さっきの作業で両腕とも疲れ切ってるしな、今しばらくは戦力低下中だ」

「わたしも蹴られたせいで少々動きは悪そうです」

「林をこのまま下るのではダメかい?」

「ダメネ。この先行くすると崖っぷち、下の沢まで十メートル以上」

「となると、下が無理なら……上ね」


 司同様に振り返る口論義は、林の先にある山裾を見やる。低い山とはいえ、なんの装備もなしで登ることには若干抵抗があったが、このまま進んで見つからずに社の中を通り抜けるよりは山の中を迂回して川浪を目指す方がまだマシとも言えた。いやいやながらも全員で来た道を引き返し、藪を掻き分けて傾斜のきつい坂道へ踏み込む。


「っと、それにしても人数多いわね」


 追っ手も山の中へ逃げることは考慮していたらしく、懐中電灯の明かりがちらほらと行く手を遮るように振りまかれていた。その光の方向と自分たちの針路を見てなにやら考え込んだ廉太郎は、突然先頭を口論義から交代してもらうと先導し始める。


「こっちだ」

「廉太郎さん道わかるの」

「わからん。だが歩きやすく、人の通った形跡のある道を避ければ、奴らとぶつかる可能性は低くなる」


 要はけもの道を歩くということだ。後続の連中もいる状況では足を止めるわけにもいかず、細い枝先やいばらでひっかき傷を作りながらも司たちは少しずつ進んだ。時折振り返ると、社のあった辺りが明るいため、進行方向も見失わずに済んだ。

 今はもう、丑三つ時といったところだろうか。山という人の世界から離れた場に来て、緊張を強いられることで、司は妙に鋭くなった神経が闇の中に人ならぬものを捉えてしまいそうでなるだけうつむいて歩いた。小野も第六感になにか感じるところあるのか、時折身をすくませたり妙な反応を見せている。

 次第に藪が深くなるにつれて、懐中電灯の光も遠ざかっていく。早く逃げたい気持ちで無闇に早鐘を打つ胸を押えながら、周囲に人の気配がしなくなるまでしっかり気を張り、やがて開けた場所に出ると六人は一息ついた。


「ようやく……ある程度、距離を引き離したようだね。ここらで、息を整えよう」

「少し休憩にしましょうよ。さすがに、たいして鍛えても無いあたしたちには、トレッキングはちょいときついわ」


 うろうろとゆっくり歩いて呼吸を整えつつ、踊場と口論義は口ぐちに休憩の必要性を説いた。廉太郎と小野は問題なく歩けそうであったが、司もばててしまいしばらく歩きたくないと思っていた。なので、横のサワハを休憩組に引き入れようとする。


「サワハさんも、休みたいでしょ?」

「あは、レンタロと一緒にされるはたまんないネ。ワタシずっと能力使ってるいうノに」


 閉じた片目がウインクのように見える表情のまま口をとがらせ、サワハは近くの木にもたれた。少し移動するたびにレンズを設置して、常に後ろからの追っ手がないかを確認してくれていたのだ。その甲斐あって、今の六人の無事があると言ってもいいかもしれない。


「サワハ、追っ手はどうだ」

「まだ全然。だいぶ前に置くしたレンズも映す人影ないないよ。ちょっと休むした方が、あとの道のりちょうどよくするカモ」

「んじゃ、休憩としよう。少し休んだら再出発だ」


 均された地面の歩きやすさに感じ入りながら、司は疲れが溜まらないようにうろうろとその辺りを回った。小野や廉太郎も少しだけ気を緩めて休息に入り、サワハだけはレンズの発動を続けて警戒を怠らない。だがその分歩いている最中は廉太郎と小野でサワハのサポートをしているため、けっして誰かのみを頼りとしているわけでもない。良いチームワークだった。

 うまく切り抜けられるといいな、と司は空を仰いで、疲れの溜まった足をもんだ。するとその際に下がった視界の向こうに、なにやら丸っこい影が見えた。


「石ころ?」


 てこてこと近づく。すると足がぬかるみの感触を覚えて、司は近くに水源があることを感じとった。が、山を登ってきて今さらぬかるみ程度を気にすることもなかったので、躊躇わず歩を進めた。そこには丸く削られた石が二つきり、鎮座している。その先の茂みの向こうには二つどころかいくつも転がっており、石に占められた場は今五人がうろうろしている場と同じく地面が均されている。

 なんか不規則な並びだな、と思って石をしげしげと眺めてみた。石と言っても赤子の頭ほどはあるそれは、乱雑にだが確かになんらかの意味をもって丸く作られていると見えた。どうにも気になって、司は眺めるだけでなく、回り込んで後ろからも観察した。

 裏面には、名前が彫り込んである。いくつもの石があったがどのひとつにも欠けることなく彫り込まれていることから、この石群がただの偶然で為されたものでなく、なんらかの意図をもってして作られた石碑なのだろう、ということがわかった。


「あ、石碑っていうより、墓碑かな……」


 しかしこんな山奥深くで苔むした石のみを墓碑とするというのは、どうにも普通の墓らしからぬ印象がある。それに、しばらくその場を回ってみて気付いたことだが、先に司たちが辿りついた開けた土地とこの墓碑のある場は似通いすぎていた。そして戻って見てみると、最初に見つけた二つの石碑だけが比較的新しい。

 おそらくは石群のある場は昔からあるもので、司たちの訪れた場は最近作られた、新しく石群を置く場なのだ。どのような目的で設置されているかは、わからなかったが。元の場所に戻ろうと最初の二つの石を何気なく見た瞬間に、目的については少しだけ、把握できた。

 刻まれていたのは「古川仁美」「古川公子」二つの名。

 そして古川仁美の方には、『神代家に依る狐の下へ召され逝去』とある。


「狐に、召されて……?!」


 まさか。まさかここは。嫌な予感に背筋が粟立ち、背後の石碑の数を確認する。三十はゆうに超えている。つまり――それだけの人数が。牢に捕えられた青年の、人間から外れてしまったあの様子が脳裏をよぎる。

 廉太郎は直感で言ったのだろうが、呪いによる恐怖政治というのは的を射た発言だったのだ。想像していたよりもなお、状況は悪い。自分たちが踏み込んだ村の恐ろしさに改めて感じ入って、司は今すぐにこの場を離れたくなった。

 その時、石群の奥に在る草むらがゆらり、風も無いのに静かに揺れた。横薙ぎに吹き付ける風に晒されたかのような不自然な動きが目にとまり、司はとっさに木の陰へ身をひそめる。

 少しだけ顔をのぞかせてそちらの方を凝視するが、見ることも視ることもない。過敏になりすぎているのかもしれない、と思いながら元の場へ戻ると、司を探していたのか小野が駆け寄ってきた。


「どちらにいらっしゃったのですか」

「いや、ちょっと」

「危うい天気になってきましたから、あちらへ行きましょう。廉太郎さんが小さい社を見つけたそうです」


 言われて見上げると、薄曇りの空からほつほつと、霧雨よりは強く小雨というほどでもない雫が降りてきていた。司は後ろを振り返り振り返り、小野に手を引かれるまま広場の先へ進んだ。

 社はこぢんまりとしたもので、室内には六人も座り込む余地がなかった。扉は開け放しており、太い螺子で大きな鈴が下げられた軒下に口論義と踊場が座っている。外からうかがう司は、中でうろつく廉太郎がごそごそと奥を漁っているのを見つけた。


「懐中電灯やらロープやら、山を下るのに使えそうなもんがないかと思ったんだがな」


 狭い社の中に収納スペースがあるはずもなく、見つかったのはお供え物と思しき食事のみだったが、供物にサワハが手を出したために追われることになったのを思うと口をつける気にはなれなかった。

 綺麗に掃除された社は静謐な雰囲気に満たされていて、居ずまいを正した廉太郎は祭壇と、そこに並べられていた道具類を元の位置に戻すと外へ出た。入れ替わりに口論義に中へ入るよう促し、司の隣で彼方へ向けて目を細める。霧に霞みはじめそうな様子を見て、あからさまな舌打ちをかました。


「霧にまかれちゃ移動できなくなる。コンパスもないってのに、厄介なもんだぜ」

「なんにもないの?」

「本当にただの社のようだからね。まあ、雨露が凌げるだけよしとしよう」


 軒下をぐるぐると回って調べているのか、踊場の声が司の周囲を巡る。司はちらりと先ほどの石群を思い出してここと関係があるのかと疑ったが、憶測で話しだしてもきりがないと判じて黙った。

 しとしと、湿る空気が沈み、誰ともなく無言になる。静まった空気に耐えられなかったのか、廉太郎が壁に背をもたせかけて司の方を見た。


「……古川、巫女さんのこと妹みたいに思ってる、っつってたよな」

「なにさ、突然」

「単なる雑談だ。あと、言い訳ってのかな」


 眼鏡を外して着ていたシャツの裾で拭い、曇りをとってかけ直す。今度は小野を見て、へっと口の端を歪めた。


「俺がやられたの、そっちに気ぃ取られたせいなんだよ」

「わたしですか?」

「巫女さんがそっちの方いったから、まずいと思ってな。ちょいと目を逸らしたら、顔面に一撃喰らってた。あいつは、古川は、巫女さんに気付いても気にも留めなかったようだがな」

「信頼してたんじゃない」

「かもな。呪いの恐怖政治に関しても、共犯であるようだし」


 口では納得した素振りを見せながらも、表情は硬くどこか釈然としない心情を示している。


「だとしても、もうちょい思いやりってのがあってもいいと思うのだぜ。お互いによ」

「信頼してるのが思いやりではないのですか」

「その言い方じゃ俺がお前を信頼してないように聞こえるぞ」

「ちがうんですか? だってわたしを心配したということは、信頼に足らない人間だと判断したということでしょうに」


 少しすねたように、小野は下唇を噛んだ。廉太郎は歪めていた口の端を正すと膝に手を当て腰を屈め、小野と目線を合わせて続けた。


「心配くらいさせろ。お前も、会長と同じで危なっかしいんだよ」

「昔の廉太郎さんほどじゃありません」

「そりゃまあそうだが。俺がこうして落ち着いたのも、お前が俺を心配してくれたからだろ」

「お返しなら結構です」

「馬鹿いえ、俺は借りたもんは言われなきゃ返さん。だが目の前歩いてた奴の落し物くらいは、届けてやるんだ」


 ひひ、とまた犬歯を剥いて彼は笑い、小野は噛んでいた下唇を突き出す。

 良好な関係なんだろうな、と思えばその分、どこか胸にこみ上げる薄黒い感情があったが、司はおくびにも出さず努めて冷静に二人を見ていた。

 外の霧雨は濃くなることも薄まることもなく、ゆらゆらと漂い続けてその場に滞留している。蒸される心地がして襟元をはたはたと煽いだ司は燻る心中に蓋をして、煙る屋外に目の先を寄せた。サワハが司の動きに感づいて、舐めた指先を外へ向けると風の具合などを確かめる。


「んふー、霧でもやもやするでも、それは追って来るの人も同じコト。迷ってるしてるのか、だいぶ足止め喰らってるみたいヨ」

「そっか……ん?」


 軒下へ出て、水気に取り巻かれはじめて、足下のぬかるみのこともあってか司は水の中に浸りこんでいる錯覚を覚えた――いやそうではないのか。

 肌に染み込む感覚が、ここが異常な場であることを告げる。

 第六感が、司に身震いさせて、語りかけてくる。


「なんか、嫌な感じがする」

「急に、ですね……背筋に粟立つ感触が」


 同様の感触を共有できる小野とうなずきあうが、他の四人は何もわからないため司たちを見て首をかしげる。またなにかいるのか、と辺りを見回すが、これといって目につくものもない。加良部の時と同じ山の気だろうか、と〝歪み〟の出現に備えようともしたが、それにしては周囲の様子に変化がない。

 ただ、雨のにおいがする方向、湿気た空気の淀みがある方を、敏感に捉えて。司は軒下から出ると、月下に照らされてまばゆい石群を見やった。

 叢が、揺れる。

 大きく、一部が薙ぎ払われる。


「――そこは禊ぎの場。慮外かつ無関係の者に貸せる屋根ではない。表へ出よ」


 空気も、雨も、断ち割って。

 古川が右手にて鞘に納めたままの大太刀を振るい、石群の彼方からやってきた。


「追い、つかれた……!」

「先に出た者たちで追えなかったということは、常ならぬ道を通ったと考える。同様に私も獣道を歩んできたまで」


 地鳴りのごとく低い声でうなり、手にした刀を腰だめに構えた。

 そして理解する。彼の背に二つの人影が映り、そこから司は悪寒を覚えさせられたのだと。すると自身の感覚と、司の視線から感じるところがあったのか、小野が恐る恐る司へ問う。


「司さん、あちらに、なにか居るんですか……?」

「う、ん」


 二つの人影が、目を剥く。持ち上げられた面は、二つが二つとも女性の面立ちを示していた。古川仁美と古川公子だ、と直感的に思った。

 が、二人の霊がいるのだとしても、こちらに危害を加えられる様子はない。むしろ今警戒すべきなのは確実な凶器を手にしている古川の方で、彼は社から動けない司たちへと、一歩ずつ止まりながら、着実に進んでくる。

 大太刀は、右手一つで振るわれた先程の一瞬にしか拝むこと叶わず今は腰に差され後ろへ回っている。しかしその一見での印象を信じるならば、地面から古川の肩までの長さがあると思われた。廉太郎ほどではないにせよ、一七〇センチ代後半はあるだろう古川の身長で、である。刃長だけでも、一メートル少々はあると思われた。白木拵の柄と鞘に覆われた、鍔の無い刀身は湾れの刃紋が美しく、樋と呼ばれる、強度を保ちつつ重量を削るための溝が入っていた。


「野太刀って奴か」


 右半身、徒手空拳の時に同じく左手側を見せない構えで侵攻してくる古川へ、社から姿を現した廉太郎が鋭く、研ぎ澄ました視線を向ける。


「だがなんであんなもん……おい小野、あの古川ってのは、お前が見たところ異能者じゃないよな?」

「え? ええ、まあ。司さんによると、なにか霊は視えるそうですが」

「ならマルドメ、ポルターガイストとかって今ここで起こるか?」

「いや……あれは閉鎖された場所で、その個人の念に染めあげられた空間だから起きる現象。だから今すぐなにか起こることはないと思うけど……なに? なんの確認?」


 司の問いには答えることなく、廉太郎は毅然たる態度を見せつけた。

 半歩、ぬかるみに踏み出して古川に問う。


「おい、一応俺は表に出てきたぞ。これで許してもらえるのか」


 丸腰であることをアピールするかのごとく、大仰に諸手を挙げて古川に訊ねた。しかし古川から放たれる殺気は小揺るぎもせず、彼の面差しに宿るのは邪魔者を排除する鉄の意志だった。

 刀の鯉口を切ったのか、わずかに古川の右腕が蠢く。その所作だけで感じとれた攻撃の意思にて気圧され、廉太郎は無意識に後ろ足のかかとを地面にこすりつけてしまった。後退せんと、身体の方が反応させられた。


「……ならん。儀を遮られ、神代が倒れた今。貴様らを生かして逃すことは祖霊にかけて許されない。ここで死ね」

「やっぱそうなんのか……あー面倒だ」


 廉太郎はじりりと退いた踵の動きのまま、後ろへ歩きだすと社の中へ戻った。そして懐中電灯などを探す際にどけた品々の中より一振り、御神刀と思しき刀を取り出した。すらりと鯉口を切って、左親指の腹で微かに刃に触れる。


「こりゃ刃が研がれてねぇな。やってもまあ正当防衛だろうが、斬り殺さず済むな」

「若造が。容易く殺すなど、よく口に出来たものだ」

「先に言ったのそっちだろ、ここで死ねってよ。……まあ、確かに容易くはなさそうだけどな、……あんたを、斬るのは」


 先刻徒手の格闘では負けたためだろうか、廉太郎は嫌な汗を流しながら納刀し、右の腰にて構える。それに合わせて司たちは引き、社の方へ退避する。社へ背を向ける廉太郎は、心なしか司には小さく見えた。

 最後まで近くに立ち尽くしていた踊場は、舌を噛んだような顔のしかめ方をして、たまらず声をかけた。


「廉太郎」

「最悪でも奴の足は砕くつもりだ。だが真剣の立ち合いなんぞ初めてだ、どう転ぶかはわからねぇ。会長を逃がす役割はテメエに任せる」

「だが全員でかかって投擲などで攻撃すれば、」

「四方切とか(そう)(まくり)って技、知ってるか? 知らねぇよな。とにかく、剣術にゃ一対多を想定して多人数側の心理の隙を突くよう開発された技がいろいろある。訓練された多人数ならともかく、素人のお前らじゃ全滅が落ちだ。……早く行け、もたもたしてたらやられる」


 がちん、と歯を食いしばる音がして、廉太郎はもう一切司たちに意識を向けていない。たじろぎながら戸惑いながらも踵を返した踊場のことも、もはや気配すら感覚の勘定に入れていないだろう。

 司も遅れるわけにはいかず、小野の前を行くようにして社の裏を通り抜けながら、そっと廉太郎に向かって頭を下げた。




「……なあ、なんであんたら、呪いで統治なんぞしようとしてるんだ」


 仲間を逃がしたことで少しだけ安堵した廉太郎は、口の端を開くと問いを漏らした。

 大きく口を開けなかった理由は武者震いなのか揺れ震える歯の根を意識したくなかったためで、問いの意図を見抜きなおかつその震えにも気付いたらしい古川は、笑みを表したのか腹を揺すった。


「逃走の時間稼ぎのつもりかね」

「まあな。あと、考える時間がほしい」

「何についてだ」

「あんたがどう、戦うのか。厄介な相手だってのは先の一太刀で十分見せてもらったが、まだ足りん。それだけじゃ……片腕での、野太刀戦術が掴めねぇ」


 ――片腕。

 それこそが、先ほど廉太郎が小野と司に確認をとった、理由だった。

 古川は頬をひくつかせたがそれ以上表情に変化を示すことはなく、ただおもむろに、半身にして隠していた左の袖の内を表へ出す。その左手は、本来あるべき指の数に足らない。親指を除き、四本の指が、欠けている。

 唯一残る親指でさえ、第一関節の部分で指先が抉り飛ばされており、月明かりの下シルエットを短く変貌させている。古川は、腰に差した刀の鞘の鯉口辺りを右手のみでつかみ、構えている。彼の剣にその片腕という枷をものともしない何かがあるとすれば、異能力か、はたまた霊能力かのいずれかではないかと、廉太郎は疑っていたのだ。


「そもそもそんな長物、普通は片腕で振りまわすわけない。だがさっきの一太刀で、あんたがそれを可能としている奴だというのはわかった。さて、ここからどう攻めたものかな」

「……口ではそうほざきつつも、既に対処は幾つか考慮の上であろう。貴様の構えも、古き剣の術理を色濃く残したそれであると見えるぞ。長物への対処も教えには含まれているはず」

「歴史だけは長い流派だからな」


 だがここまで規格外に長い太刀への対処は、さすがに慮外のものである。彼我の距離は現状五メートルといったところであるが、詰めるに難く空けるに惜しい。ならば打開策は、と思案して、すぐにいくつかの技は候補としてあがっていた。

 倉内流には右の腰に差した刀を右手で抜く〝(やつ)(とがめ)〟という抜刀術がある。相手方の抜刀による切り上げなど己の右半身を狙う攻撃に対応する技で、その要諦は相手へと前進しつつ素早く鞘ごと腰から刀を抜き、鞘で相手の太刀を受け止め、食い込んだ相手の太刀に鞘を押えさせたまま前進の勢いに乗せ右逆手で刀身を抜き放ち、相手の頸動脈を狙うことだ。

 刃が立っていない刀を扱う今は、柄頭で鳩尾または喉仏、人中など正中線の急所を突くことを狙う。古川の扱う得物が長物である以上は廉太郎の斬撃より少々初速の遅れもあろうことだ、相手の攻撃を見切り捉えて使うこの技は発動するに易し、と思われた。

 だが古川の長大な刃による圏内の広さは遅れを補って余りある。不用意に間を詰めることは自らを刀下の鬼と成すに等しい。しかも一見した古川の膂力に刀身の重さを考慮に入れると、右腕のみの下手な防御では切り破られる可能性が高いと見えた。

 では回避してからの後の先はどうか。倉内流の技ではないが、低姿勢から跳躍し相手の横薙ぎをかわしてから空中で抜刀し、相手のこめかみなどを狙う〝抜附之剣〟という技を廉太郎は習得している。

 跳躍の軌道を確認しようと古川よりわずか、目を外すと、頭上には森の木々がアーチをかけるように、鬱蒼と生い茂っていた。これでは飛べない、と廉太郎は心中で舌打ちする。おまけに、廉太郎が目を離したその瞬間を違えることなく、古川は前進の機と見て一歩踏み出す。慌てて目線を下げた廉太郎は、策を弄しすぎることの愚かさを呪った。


「来ないのなら私から向かおう」


 続いてまた一歩。刃の圏内が近づいてきて、廉太郎の心中に焦りの波を呼び起こす。力負けすることだけは避けねばと、逆手で抜刀した廉太郎はすぐさま太刀を持ちかえ、順手で脇構えに移行した。

 動きを見て取って、もはや廉太郎に思考の間を与えないことにしたのか、一気に古川は距離を詰めた。足袋のまま素早いすり足で、徐々に古川の影が大きくなっていく。淡い月明かりの下彼の瞳孔は見開いて輝きを放ち、右腕も力なく柄に手をかけているように見えてその実活力に満ちた、いつでも飛びかかれるだけの瞬発力を秘めて筋肉が軋む。廉太郎は、臆した。


「死して安寧の時を待て――」

「ぐ、」


 思わずうめいてしまいその情けなさに自分で自分を嫌悪し、

 技の選択の有余さえ奪われた永い瞬間のあとには、

 不可思議な迄に静かでいて猛々しい、

 圧倒的な、斬撃が過ぎる。


「――〝火箸(ひばし)〟」


 かろうじて回避できたのは、ひとえに幸運の賜物であった。

 跳躍が枝葉に邪魔されると知った廉太郎は飛ぶことができず、実際その判断のおかげで命を繋いだのだが、果たして判断と呼べるほど彼に理性が残っていたのかどうか。生存のための防衛本能に負けて膝を屈した廉太郎は、抜いた膝からの体重移動で前進、小さく身を丸めて、後ろに刺さった刀を引っ張ろうとしているような体勢で倒れ込んだ。

 その上を過ぎ去る暴風が、古川の剣だった。

 見えたのは、抜き打ちの瞬間。

 捉えると言うほど正確には記憶に残らないはずが、ぎりぎりの死線で脳がそれを認識した。

 そう、抜き打ちだった。あれほど長大な刀を、片手で抜いていた。長すぎる刀は腕だけで抜こうとしてもままならない。腰を切るようにして、左手で「鞘を刀から抜くように」動かす補助があってこそ、ようよう刀身は姿を顕せるのだ。

 ところが古川は、右腕のみで鞘より抜き放つことを可能としていた。柄頭が、鞘の鯉口辺りを握る古川の右手が、親指で鯉口が斬られるのが、見えて――――そこで時間が凍結する。

 そも、古川の抜いたタイミングは、廉太郎に刃が届く距離にあと一歩満たないところであった。だというのにそこで鯉口を斬りはじめ、動きは止まる。柄頭から切っ先までが廉太郎の視線と一直線になり、そして次の一歩の間に時が解凍されたかのように、点となっていた剣の柄頭の陰より、刀身が顕れた。溶け出した氷が滑るように、速度を増し、切っ先が叫ぶように、疾く風を切り、一条の銀の光が頭上を駆け過ぎた。

 横薙ぎ、抜き打ち一閃。

 技の名は――火箸。


「……っがっ! が、はっ、」


 走馬灯を眺めかけたが、死地をくぐってくることに成功した自分の幸運に感謝し、引き伸ばされていた時間感覚が元に戻る前に廉太郎は転がって古川の後ろへ抜けた。その間に血振りのような所作をしていることがかろうじて目の端に映ったが、向き直った時には鍔の無い野太刀は納刀されていた。


「よくぞかわした」

「本当にあんた、片腕かよ」

「……、忌むべき傷を受けたがための隻腕だ。私が村を呪うに足る理由のひとつで、神代と私が共謀するに至る理由である」

「村を、呪う?」

「統治などとは勘違いも甚だしいものだ。私は神代に賛同し、この村を潰さんとする彼女と共にあるべく、こうして剣を振るうてきたのだよ」


 再び右半身にて構えをとり、躊躇の無い接近を見せつつ古川は言った。


「ああ? あんたはともかく、神代ってのは巫女さんだろ? 村で大事にされてきた奴が、どうして村を呪うんだよ」

「巫女として自由を奪われ、他者との差により分けられた。外部から参入した古川一族がすべからく差別の憂き目に遭ったことと、方向は違えど結果は同じ」

「ってことは、そうか。祭事に外部の人間でも参加できるってのは、あんたら一族の参加を認めるルールだったんだな」

「その通り。神代よりこの村へ復讐を果たさんとの旨を打ち明けられ、私がそれに賛同した」

「妹みたいなもんだ、っつってたな」

「ああ。だからこそ聞き届けた。これ以上無き利害の一致の下、私が神代を守り、神代が狐の力を振るうこととした」

「……妹みたいなもんなら、そういうの止めてやるべきじゃねぇのか」

「なぜ止める?」

「俺は止めてもらった側だから、あんまり大きなことは言えないが。明らかに間違った方へ進んでたら、後ろから声かけてやるのが筋ってもんだ」

「間違いかどうかなど、やり遂げるまではわからん」

「わからない? 嘘つけ。予想はつくだろ」


 曇り顔で言う廉太郎に、古川は殺気を向けた。廉太郎は構えを解き、少し剣を持ち上げる。左肘を突き出すようにして、右手の握りは柔らかく。剣を鳩尾の前に地と水平に構え直した。倉内流では(はす)の構えと呼ぶ、脇構えの派生形である。


「なんと言われようと、何人たりとも私たちは止められん。思い遂げる日まで私たちは止まらん。予想などどのような形にも、いくらでも挙がろう。だが私たちの望む先は、ひとつの形でしか有り得んのだ」

「聞く耳持たずか。行動力のある奴同士がくっつくと、面倒臭ぇもんだ」

「行動を促す力など、行動を助する力など、存在せぬ。理由だけが人を突き動かすのだ」


 ひたりと、静かに踏みしめる足が廉太郎に向き、近づく。多少の時間稼ぎにこそなったが、このままこの男を逃して皆を危険に晒すわけにはいかない。そも、背を向けて逃げれば、追い付かれて命を絶たれる。そう判じた廉太郎は震える歯の根と足とを、地面に向けて強く脚を踏み込むことで律する。

 息を吐き、丹田に意識を集中。相手の視線を中央に捉えつつもフェイントなどに対応できるよう、視界を広く取る。相手の全体を目に収め、動きだしを探り最初の起こりを待つ。

 もはや言葉は要らない。進み来る古川には揺らぎも淀みもなく、ただ歩くのみにして隙を見つけさせない、ひとつの至極の域に達していた。次第に、道場にて師と対峙した時に似た、圧倒的な実力差を空気の中に嗅ぎ取る。しかし、廉太郎は引けない。

 正真正銘、最後の一合。廉太郎は、咆える。


「初太刀で、終わらせてやるよ」

「――   、   」


 古川、無言の一喝。引き絞られた矢が飛び出すように、彼は二歩で己を最高速に載せた。迫る凶刃に慄きながらも、廉太郎は迎え撃つ。

 斜め右前方への、左足の一歩。低い姿勢からの踏み込みが、廉太郎の剣を変貌させる。地に与えた作用反作用で生じた上方向への運動エネルギーを、続く後ろ足の蹴りだしで前へとベクトル方向を変える。立ち上がる時に勢いをつけると同じ自然さでその力を腰から肩、腕へと連動させ、奇しくも古川と同じ横薙ぎの斬撃を、こめかみに向けて放つ。

 だが、遠い。一歩の踏み込みでは、まだ古川の領域へは届かないのだ。身体に触れるには至らない。一番近い位置に在る古川の右腕にさえ、掠めることすらない。

 だからこそ。だからそこで、軌道が変化する。

 廉太郎は左足を右斜め前に踏み込むことで相手に肩甲骨を向け、右腕と左手首の動きの起こりをぎりぎりまで隠し通した。すると古川が来ると思ったこめかみへの斬撃は、寸前で切っ先をずらした。隠し通した動きが、古川の判断を寸毫(すんごう)、狂わせた。

 さらに廉太郎は右手を筒のように構えて手の内を左手に近づけるよう滑らせ、左手だけが柄頭近くをしかと握り締めていた。これによりわずかながらリーチを伸ばし、斜めがけに振り下ろす。前述の軌道変化と合わせて、これが倉内流の〝尾背廻おそがい〟という技である。廉太郎から一番近い古川の右腕にならば、これで届く。

 しかしそれは届くというだけで、薄皮一枚に触れるかどうかということ。振り下ろした太刀の行く末を見届ける前に、廉太郎の身体に古川の一撃が食らいつくだろう。

 刹那の間に終局までの読みを終わらせたらしい古川は、躊躇わず片手野太刀抜刀術〝火箸〟を発動する。神速と呼べる動きには繋ぎ目が一切なく、廉太郎に見ること適ったのは、鞘の鯉口付近を握る古川の右親指が、柄を弾いて刀身が飛び出てくるところまでだった。

 ――なぜなら刀身は、それ以上姿を晒すことがなかったからだ。


「っ?!」


 残響。

 硬質な音が古川の時間を止める。

 凍結。

 剣が動かない。

 解凍。

 金縛りが、解ける。

 瞬間の出来事の間に驚愕に目を見開いた古川の鳩尾へ、廉太郎の返す刀がめり込む。圧力に筋力が競り負け、声では無い、空気と唾液と胃液の混ぜ物を吐きだすだけの音をぶちまけて。

 古川は、膝を屈して倒れ伏した。


「…………~~ああああっ! っぶねぇ! 死ぬとこだったっ! うげぇほっげはっ」


 古川の叫びと同じくらい大きく咳こんで、屈みこみ、廉太郎は生きている実感を噛みしめた。

 傍らには、柄頭に斬り込まれた痕を晒して転がる野太刀。切っ先の少々欠けた御神刀が、廉太郎の右手の中に残っていた。

 最後の斬撃、廉太郎は最初から一の太刀のみで仕留めるつもりはなかった。打ち合いの前に発したセリフはあくまでも古川に「次の一撃」を意識させるための言葉で、だからこそあえてわかり易く、急所のこめかみを狙うように見せかけたのだ。

 そして横薙ぎから袈裟切りへと変化させ、間合い騙しの技で右手を滑らせリーチを伸ばし、一番届きやすく戦力を削ぐことのできる右腕を狙うように思わせ――柄頭に当てることを狙っていた。

 なんということは無い。古川の身体よりも、長大な刃に合わせて長く作られた柄の方が、刃を届かせるには容易い。居合いでくることがわかっているのなら、刀身が完全に鞘から抜ける前に止めてしまえばいい。そうして攻め手を塞いでから、二の太刀で仕留めればいい。


「……柄を弾いて刀身出して、刀身が半分くらい出たらそこを掴んで残りの切っ先までを抜く。その上で樋に爪立てて(はばき)までスライドさせ、最後に柄を握り直して振り抜く、ってな技か。どんだけの指の力と精密な動作が必要なんだよ、それ」


 古川の技を分析し、嘆息してへたりこみ、改めて恐るべき使い手との戦いだったことに感じいり、身震いする。ともかくも廉太郎は古川が起きてきては敵わないので鞘と刀を奪い取り、御神刀の下緒で手足を縛ると野太刀は霧の向こうへ投げ捨てる。これで見つかるまい、と思ったが、ぎゃあと悲鳴が聞こえてきた。


「あん?」

「いったた……あのさ、不用意に物投げないでよ」


 霧の中から姿を現した司は、涙目で頭を押えて廉太郎に文句を垂れた。




「なんで戻ってきてんだ、お前」

「霧で迷ったのか、ぐるっと回ってきちゃったんだよ。でも廉太郎さん、時間稼いだら逃げるつもりなんだと思ってたけど、きっちり倒したんだ」

「逃げられる相手じゃなかったからな……会長たちはどうした」

「少し下ったところで待ってもらってる。廉太郎さんの叫び声が聞こえたから、どうなったのかと思って。サワハさんのレンズだけじゃ角度的に見ることできなかったから、一人で様子見」

「そうか」


 霧の中をさまよい帰ってきてしまった司は、うつぶせに倒れてぴくりともしない古川に一瞥くれてから、社の方へ歩く。廉太郎はその後ろからついて進んできて、御神刀を社に投げた。軒下で二人並び、壁に背をもたせかける。そのままずり落ち、廉太郎は立ち上がれない。死戦を抜けた安堵と仲間の無事が確認できた安心とで、一気に緊張の糸が途切れてしまったらしい。


「だ、大丈夫?」

「平気だ。少し、疲れただけだ。真剣で立ち合いなんざ一生無いと思ってたしな。やっててよかった倉内流、ってか」

「まず、剣も使えたことに驚いたよ」

「武芸十八般とまでは言わないが、体術の他に剣術、槍術、十手術、鎖分銅術、弓術、馬術、泳術、くらいまでは一通りやらされた。最初は体術以外どうせ日常じゃ使えんだろ、と思ってあまりやる気なかったんだが、一回剣道やってる奴にボコられたから剣だけはまともにやってたんだ」


 指折り数えつつぼやいて、廉太郎は遠い目をした。そもそも日常で体術を要する場面が多いことも問題だろうと司は思ったが、助けられた以上今日のところは何も言わないことにする。


「負けることも、あるんだね」

「当たり前だろ。俺だって人間なのだぜ。真剣の扱いを学んで、刃と向きあうことを知ってたから動けた。それだけだ。でなけりゃ、人生五度目の敗北と共に生涯に幕を下ろしてるとこだ」

「ていうか、四回しか負けてないんだ」

「道場稽古で師匠に負けたことは数限りないが。……道場で習い始めて慢心装備で剣道野郎に喧嘩ふっかけて一回。その前に師匠の娘と手合わせしてトンファーでボコられて一回。さらに前に師匠に道場連れてかれる時に抵抗しようとして一回。で、一番さかのぼった最初の一回は、鉞姫だ」


 もっとも当時はそのあだ名じゃなかったが、と笑いながら言って、廉太郎は古川の方をじっと見据えた。


「もっと言えば、その時のあいつはまだ武術のぶの字も知らなんだがな」

「え? 有り得ないでしょ」

「俺はあいつの兄弟子だと言ったろ。あいつ、俺より後に倉内流入ったんだよ。理由は、まあなんだ、話しにくいから割愛な」


 下手くそな切り方であったが小野についてはこれ以上語らず。その配慮に、司は廉太郎と小野の間にある付き合いの長さを感じとった。遠慮も屈託も無いやり取りの源が、垣間見えたように。

代わりにと思ったのか、話題を逸らすためか。廉太郎は自身のことを話した。


「ま、どーせそのうち踊場辺りが笑い話にして語っちまうだろうから、今俺自身で話すか……多少触れたことはあったろうが、俺は中学ん時荒れててな。どーしようもなく屑だった。そもそも、暴れてた原因が外見のことでからかわれただけって辺りも、また屑さに拍車かけてて。ところが中二の頃にはもう俺この身長だったからよ、単純に腕力と体重でごり押しすれば、勝てない奴がいなかった。二つ歳上の兄貴も倒して、いつの間にやら猿山の大将気どりだ」


 過去に自分が行ったことについて語る廉太郎は、自慢げにするどころか、恥じ入る様子も無い。もうそんな境地は通り過ぎてしまっているのか、ただただ深く暗く落ち沈んだ表情で、苦々しげに眉をひそめていた。


「成績も下がる一方、もうどこの高校も入れない状態で三年になってたな。そしたら、とうとう見かねたらしい小野が、ある日登校中……っつっても三限のチャイム鳴ったあとだが、通学路の途中で座り込んでた。俺が無視して通り過ぎたら、背後から一撃」

「蹴られた?」

「当時はまだ倉内流習ってないんだ、あいつも鉞のごとき蹴りなんて使えないぜ。辞書三冊入った通学カバンで、後頭部に向けてフルスイングだよ」

「うわあ」

「その後は踏まれまくった。『ちょっと強くたってこれでおしまいじゃないですか』って言われたなァ……あいつのニュアンスとしては、この程度でテメエも負けるじゃねぇか、ってことだったんだろうが。あいつ加減せず踏みつけやがったから、俺は真剣に死ぬかもって思った。で、家帰って、引きこもって、女に負けたことに苛立って、暴れて、疲れて寝ようとした時にふと思ったんだな。俺も誰かに『死ぬかも』と思わせたんじゃないかと」


 少々やり方は過激であるが、放っておけなかったからこそ小野はそういう行動に出たのだろう、と司は思った。

 ――人を傷つけることには慣れている、と小野は言った。だが本当は。人を傷つけるということがどういうことかを知っている、それだけなんじゃないのか、とも思った。


「でもしばらくは自己正当化に忙しく、まだ周りにあたり散らしてた。そんなある日に師匠に逢って、ボコられて、仕返しにいって、また女に負けた。そっからだよ、ようやく俺がまともになろうと思ったのは。いや大人になろうと思ったのか。とにかく、小野に止められたおかげで俺は、少しだけマシになれた。それでもなお、取り戻せないもんはあったが。……こいつにはいなかったのか、止めてくれる奴。もしくは、止めようと思える相手」


 悲しげな顔を見せる廉太郎だが、自分がその感情を表すべきでない、現してはならないと思ったのか、わずかな間に自制して無表情を保つ。司も古川の方を見たが、同情ではない、なにか諦めに似た心地を湛えて、自分の視線が向いていることを自覚した。


「……少し休んでから、戻ろう。向こうの石群の方がぬかるんでたんだけど、どうも近くに水源があったみたいでさ。探したらここ戻って来るまでに川を見つけたから、辿っていけばそのうち下の川に降りて、川浪まで戻れると思う」

「石群?」

「あっちの、古川の来た方向にあった石碑群。狐になにかされて死んだ、って彫ってあって、その被害にあったんだろう人の名前も彫ってあった。中には、古川仁(ひと)()公子(きみこ)ってのがあったんだけど……」

「古川の、血縁者だってのか?」


 自分の頬に廉太郎の視線が向いたのを感じたが、司はそちらに目をやることなく答える。


「……たぶんね。今も、倒れてるあの人に寄り添ってる。湿地とか湿気た場所っていうのは、霊を呼ばい易い場所だから。普段は憑いてなくても、こういうところだと出てくるんだよ」

「なんだよ、それ。じゃあこいつは、自分の血縁を神代に殺されたのに、妹だのなんだのって言ってたのか。……騙されてたってことかよ、それ」


 司にはなんとも答え難い。霊が視えても声は聞こえないこの身では、向こうから口寄せをしてくれない限り死者の思念を読み解くことはできないのだ。


「騙されていたわけでは、ない」


 答えたのは、当人。

 うつぶせで伏していた古川が意識を取り戻し、縛られて動けないまま、口だけを動かす。


「何も知らず語るな。私を騙していたのは、古川公子。我が母だ」


 身体を起こせないと知ると転がって横を向き、司たちに身体の正面を見せる。後ろ手に縛られた手首はどうにもならないのか、咳こみながらきっと司たちを見据えた。


「母親に騙された、ってなに。どういうことなのさ」

「元来この儀はごく平穏に、五穀豊穣を願うものだった。しかし二十六年前、神代が生を受けた年度より儀は変質し、巫女たる神代一族を虐げるものとなった。当時の儀式においてなんらかの不備があったためなどと言われているが、その頃より神代は縛られた生を歩むことを義務付けられた。その後神代の両親は、神代に同じく巫女であった母親が山に入り焼死したのち、夫もあとを追い自殺した」


 より激しく咳をして、反吐を吐き散らしながら古川は大きく身をよじる。


「その前年に村に入った我々、古川家も余所者ということあってか待遇が悪化した。……七年ほど、耐えた。だが神代の母が亡くなる以前に我が父も失踪し、耐えきれなくなったのだろう母は、ある日こんなことを言いだした。『神代家に呪われた、うちの子供が呪われた』」


 次いでぐにゃりと、歯を食いしばりすぎて歪んだ唇を持ち上げた。


「私の、妹が、だ。腹痛や嘔吐、発熱は常のこと。次第に言葉を上手く話せなくなり、譫妄(せんもう)や意識混濁に悩まされた。これらを『呪われた、狐を憑けられた』とした。……実情は、我が母が食事に混ぜていたヒ素による中毒だったというのに」


 ――代理ミュンヒハウゼン症候群。周囲の人間の関心を引きたいがために、自分の身近な人間を病人や怪我人となるよう仕向ける精神疾患である。間接的に自分に人の目を向けるために、同情を煽るような状況を設えることが多々あるという。


「見当違いに神代へ怒りを燃やし、私は奴に取り入り殺そうとした。そして、神代と接するうちに事実を知った。だが遅かった。妹の食事を私が管理し、母の食事にヒ素を混ぜるようにし始めてすぐ、妹は、仁美は、この世を去った。程なくして母もな。あの石群は、それ以降狐の害にあったとされた者たちの慰霊碑だ」

「じゃあ、狐は、存在しないってのかよ」

「……さてな。具体的な実例として仁美と公子が死したことで、皆神代を恐れすぎるあまりおかしくなったのではないかね。信じるから、そんなものがあると思いこむから、畏れる。馬鹿馬鹿しい話だ。儀式など、祖霊を思い敬う程度で良いはずだ。……神などと、曖昧模糊とした偶像に縋るから人は弱くなる!」


 腹の底から息を鋭く吐いて、激しく肩で息をして、徐々に凄まじくなっていく叫びをあげ。古川は身体をねじ切りそうなほどよじった。常軌を逸した行動にぎょっとした司が思わず軒下から離れて駆け寄ろうとすると、ぐるり、古川の傍で固まっていた二人の首がこちらを向く。

 ぞわり、背筋を撫ぜる黒い風。感覚が引き伸ばされ、研ぎ澄まされ、大気に張り巡らした細い糸が肌に絡みついているかのように、びりびりと表皮に震えが走る。後ろを振り向き、霊が見据えた方向を見定めると、


「〝歪み〟だ」


 ダリは、いない。おそらく、一応は空き地で為された供物の儀によって還されたのだろう。しかしそれ以外は昼に倒れた時とまったく同じで、社を囲むように〝歪み〟がいくつも生まれている。身の危険を感じて、司は廉太郎に振り返った。


「廉太郎さん動かないで!」「司、後ろだ!」


 二人が、同時に叫ぶ。

 司がもう一度古川の方へ首を向けると、そこに彼はいない。

 真横からの衝撃。首がへし折れそうな痛みにもがいて、自分が喉を掴まれていることを知覚する。拘束を解いた古川が、右手で司の喉を握りつぶさんとしていた。


「つっ司、」

「動くな。そこになおれ」


 引きずるように、古川は動く。今にも意識が飛びそうな司は、かはこほと乾ききった咳を漏らして視線を下げる。古川の手首には、赤く皮膚が抉れた痕が残っている。左手は特にひどく、恐らくは自ら体重をかけて関節を砕いて引き抜いたのだろうが、手首と親指の付け根が本来可動してはならない位置にまで折れ曲がっていた。


「油断が死を招く。教訓にはなるまいが、それだけのことだ」


 ずるずる、爪先が地面を擦る。視界の端から霞がかってきて、唾液と涙で顔を濡らす司は、右手でポケットの小刀を握る。しかし力が入らず、もう手をポケットから抜くこともできない。

 社の中へ入り武器を取ろうと後ずさりした廉太郎を追い詰め、古川は司を盾に一歩一歩段を登る。意識にも霞が浸食し、思考が形をなさず、考えを認識できず、眼球が上向くままに頭を反らした司は、社の入口にかかる鈴を見上げた。

 見上げて、その留め具となっているものに気付き、枯れかけた喉が、思いついた単語を叫ぶ。


「――――オぉ、と……」

「この後に及んで戯言か」


 締めあげる万力じみた握力から逃れ得ず、司の喉が最後の一音を振り絞る。


「……ジャい、ろ――」


 廉太郎は、一瞬で理解したと見えた。

 素早く視線を上げると、古川が鈴の下に踏み込んだ瞬間。

 回転の微能力〝回天竺(オートジャイロ)〟により、鈴を留める太い螺子を、緩め、外す。

 途端、真鍮製の重い鈴は落下し、ぼぐりと音を立てて古川の頭頂部に当たった。突拍子もないできごとに不意を突かれ、わけもわからぬまま意識が飛んだ好機を廉太郎は見逃さない。司を構えているために防御もできない右側へ回り込み、ガラ空きの胴体、皮膚下の腎臓へ右フックを打ちこみ、司を放すまでに左肘を後頭部に刺しこむ。最後にダメ押しの右膝を腰骨に叩きつけられて、古川は吹き飛ばされた。


「おい、しっかりしろ! 意識はあるか!」


 急ぎ、倒れた司を抱え起こすと、廉太郎は頬を叩いて意識の有無を確かめようとした。幸いなのか不幸なのか意識のあった司は頬の鋭い痛みに顔をしかめ、ゆっくりと通常の視界が取り戻されてゆくのを他人事のように眺める。


「……生ぎ、てるよ」

「そ、そうか。よかったぜ」

「それ、より……れんたろさ、こご、歪み、が」

「――結局、ここまでなのね」


 司の決死の言葉を遮るように、凍えた声が社の外から響いた。

 まだぼやける目をしばたかせて司がそちらに首を傾けると、白と赤の対比が目に飛び込んでくる。巫女装束だ、と認識して、そこで続けて声がかかった。


「どいとってくれる、そこの二人」

「テメエも、俺たちを追ってきたのか」

「いいからどいとって」


 神代は、まだ小野に殴られた胸が痛むのか、懐に手をいれ胸を押えながらゆっくりと、段を登ってきた。廉太郎ですら雰囲気に威圧され動くことかなわず、司を抱えたまま社の端へ退く。二人の眼前を何するでもなく、ゆっくりと、過ぎ去り、神代は古川の傍へ屈みこんだ。

 神代の歩いたあとに、〝歪み〟が現れる。否、まるでそれがみえているかのように、自然に神代は〝歪み〟を避けて進んでいた。


「古川」

「…………かじ、ろ、か」

「ここまで、かもしれんわね」

「なにを、何を言うのだ、神代……」


 鈴が当たって血を流している古川の頭を、左腕でそっと神代は抱えた。しどろもどろになって困惑の表情を浮かべる古川は、行動の意味を理解できないのかさらに問う。


「なに、を言うのだ、神代。まだ終わりなどでは、ないだろう。何故、終わりのようなことを」

「終わりなの、もう」

「だからお前は、なに、を」

「死んで」


 ず。


 クッションを裂いたような音がした。

 神代に抱えられた古川の首が、ことりと横に崩れる。


 ずっ。


 二度目の音で、古川の目から光が消える。剥製のように、闇が閉ざす。


「……終わりなの、もう。終わりなの、やっと」


 立ち上がり、振り返った神代は、凄絶な美しさで緋の衣をまとっていた。からり、懐から短刀の鞘が落ちる。廉太郎は、その音で目が覚めたように、わなわなと腕を震わせて叫ぶ。


「おい、あんた、何やってんだ。なに、やってんだっ!」

「終わっとるのよ。だから、後片付け」


 壊れたスピーカーのように終わり終わりと言い続ける神代は、そのまま社を出た。〝歪み〟は彼女の周りでも揺らぎ続けていたが、不思議とそこに落ちることはない。本当にみえているんじゃないのか、と司は疑う。


「終わりね、もう……いつか、来るとは思っとったけど」


 社から十メートルほど離れて、神代はこちらを見た。


「一緒に行く?」


 まるで生きていない目で、平然とそう問うた。

 そして、司の横を過ぎ去る二つの影。すなわち、古川仁美と公子が、猛然と。先ほどまで古川に寄り添っていた時の大人しさが嘘だったように、襲いかかる動きを見せていた。

 だが届かない。

 神代に近付く前に、二つの影は――焔に捲かれた。


「……え……?」


 白色、黄色、橙色。どの色も省いた、ただ紅蓮だけを滲ませた炎が、仁美と公子を焼く。当然廉太郎に反応は無いが、司は確かに視ていた。霊が、焔にその身を焼き焦がされるところを。


「そ。先に行っとるのね、わかった」


 明らかに仁美と公子が焼け、身悶えしてのたうち回る位置を見据えて、神代は笑う。


「あ、あんた。視えてるのか、その二人」

「うん。よく覚えとるから見間違いもない。自分で殺した二人の、りょうこんだもの」

「殺、した? りょうこん?」

「あーあ。ここまでか……まあ、十九年も力をお借りしとったんだし、十分か。仕方ないよね、借りたら、返さんと」

「借りるって、なにが」


 話しかけても、もう神代は答えない。ただ〝歪み〟だけが爆発的に増殖して行って、辺りの景色がたわんで映る。いつの間にか仁美と公子は消えていて、焔の残り火もない。突然ふってわいた展開についていけず、司はふらつく頭を押えて立ち上がろうとした。と、視界の端の茂みが揺れて、見覚えのある顔が飛び出す。小野だった。


「司さん、嫌な感じがしたので来たんですが、これは、」

「小野、動くな! そこら中〝歪み〟で満ちてる!」


 枯れた喉で叫ぶ司がせき込むと同時、神代の近くにもう一つ人影が姿を現す。

 しかし、割と開けた場所であるここにやってきたにしては、出現は唐突過ぎた。まるで空から落ちてきたか――歪んだ異界の向こうから、やってきたかのように。


「これで、終わり、ね」


 神代は、自分と同じくらいの目線の高さを持つその相手に、にこりと微笑みかけた。人影は、ぴくりともしない。司からは顔は見えないが、長い黒髪をひとつに束ねていて、白いシャツに黒いロングスカートという質素な服装であることはわかった。


「なんか、すっかり心が空っぽになった感じよ。結局、それしか持っとらんかったのね、私。憎悪と怨嗟だけで、生きとったのね――呪科人(じゅうかにん)、ってとこか」


 けらけら、血濡れの巫女は笑う。揺らめく〝歪み〟に邪魔されて小野も司も廉太郎も動けず、時間だけが過ぎていくことに異常な焦りを覚える。なにかを。なにかを、取りこぼしそうな気がしていた。


「じゃ、終わりにしとく。長い間ありがと、って八尾(やお)七無(ななし)さんに伝えといて。っても、あんたじゃ伝えんの無理か。まいいわ。さっさとやって頂戴、カノエ(、、、)

「カノっ……?!」


 小野が、絶句し。

 神代もまた、紅蓮のみに彩られた。

 だが叫び声をあげることもなく、ただ疲れたようにしゃがみこんで、膝を抱えるように肘を丸めて凄まじい早さで燃焼していく。緋色に染まった巫女装束も、長い黒髪も、全てが火に捲かれて焼け落ちていく。

 皮膚とまぶたが爛れ落ちて剥き出しになった眼球が、表面で体液を沸騰させながら司を見つめた。乳房や皮下の黄色い脂肪が崩れ焼け独特の悪臭を辺りに漂わせ、耳が焦げ欠け、鼻が削げ消え、唇が燃え抜け、頬が火に貫かれた。

 髑髏に近付いてゆき、喉の肉が焼け、首がごろりと前方に落ちかけたその時、カノエと呼ばれた女が〝歪み〟の向こうに消え、神代の身体と全ての〝歪み〟も同時に消え去った。

 あとには、焼け落ちてただの炭と化した神代の身体の一部が、黒く溶け残った場所しかない。すべて悪夢だったかのように現実に返され、異界から取り除かれた三人は言葉を失い、すくむ。


「なんですかこれ」


 理性を保った言葉は、小野の漏らした一言だけだった。

 あとは、今見た光景が頭に焼き付いて離れず、壮絶な吐き気に襲われ、三人ともが嗚咽の中に自分を取り戻そうと躍起になった。

 しばらくして、地獄のような惨状を知らぬ会長たちが駆けつけ、心の折れた三人を抱えながら下山の運びとなった。

 だが山を無事に下りることができて川沿いに川浪に戻っても、神代の念に染められたのか、最悪なまでに黒く塗りつぶされた山の気が、いつまでもいつまでもまとわりついていると司には感じられた。

 カノエの火が、まぶたの裏でちらつく。


        #


 なんとかバンガローに戻り、翌朝から一日、司と小野はまったく動くことができず教師に体調を崩したと告げて眠り続けた。けれど眠りの中でも焔にうなされ、二人はロクな睡眠を取ること叶わず、なんとか最終日に動けるようにはなったもののキャンプ地を大きく離れる気にはなれなかった。

 廉太郎も同じような状態であるらしく、昨日は宿にこもりきりだったという。


「……あ」

「小野も来てたんだ」


 近くにある道の駅へ、せめて土産物でも買おうかと司が訪れると、ソフトクリームを舐めていた小野に遭遇した。顔色は悪かったが、指摘したところで自分も同じような顔だろうと思い司は開きかけた口を閉じた。そして同じソフトクリームを買ってくると隣に腰かけて食べ、唇がコーンに達した辺りで会話を試みる。


「会長たちは先に帰るって。さっき国道走ってった」

「そうですか」

「うん、土産もいらないみたいだったね」

「そうですか」

「……うん」


 会話は、続かなかった。

 あの時神代が焼け消える直前に古川が刺殺されたことや、古川の妹と母だという霊の存在、古川の語った真相と神代の発言の食い違いなどについては、小野にもすでに話してあった。だがそれら全ては過ぎたことで、また加良部の時のように犯人は手の内をすり抜け、異界に消えたのだ。

 ゆえに考えても詮無きことだが、司は考えずにはいられなかった。ともすればあの惨状を思い返してしまいそうになる頭の中を、どこかひとつの考えなどに向け続けていたかった。




『――神代も、古川も、悪いわけではないのかもしれないね』


 踊場は最後にそう言い残して、キャンプ地から立ち去ろうとした。言葉の意味が知りたくて司が問うと、やんわりと自分の考えも推論に過ぎないことを示唆して語りたがらなかったが、なおも食い下がると仕方なさそうに話し始める。


『きみたちから聞いた話をまとめると、神代の発言は古川を、むしろ古川家そのものを憎んでいたように思えてならない。最後に古川を刺殺したこともそうだが、彼女は古川仁美、公子の二人も己が殺したといったのだろう?』


 確かに、その通りだった。おまけに霊体であるはずの二人が視えているとしか思えない言動と所作を繰り返していた。


『そう。それらの点から、彼女は古川の推測のようにペテンと集団心理による恐怖を村人に植え付けていたのではなく、実際の霊能力を保有していたのだと考えられる。そして恐らくはその異能により、本当に古川仁美を呪った。口車に乗せてうまくペテンにかけられていたのは、古川の方だったのではないかな。証拠物品などを挙げ連ねられ、ただ子を心配する親の様子をさも疾患によるものであるように囁かれて』


 だから、最期。霊も焼き尽くす焔に捲かれる寸前、二人は神代に襲いかかった。

 真の元凶に思いを還すべく。巡り続ける怨嗟の円に、乗ってしまった。


『山の気も、彼女の思念にあてられて染まり〝歪み〟を生んだりしたのだと思うね。きみがダリに遭遇した際は既に彼女は禊ぎに行っていたというが……あの社の周辺が、田淵神社および近辺を流れる川の水源だろう? 気が流れてくる、ということはあるのではないかな。水気は霊を呼ばい易い、というしね』


 あの〝歪み〟の数の多さと範囲の広さは、つまりそれだけ彼女の憎悪が凄まじく、山の膨大な気を利して己の呪に還元したがためだ、と。


『で、肝心のその恨みの根源だが……古川曰く、彼の父親は失踪したのだそうだね』

『うん。風当たりがきつくなってから、って言ってたかな』

『……そうかい。では、やはりそこが、一番の元凶かな』

『どういうこと?』

『元は、男子禁制にして巫女の神性を保ちながら行われる祭事だった、と彼は言った。そして変質し、よそ者を遠ざけるものとなったと……この「元は」というのが幾分ひっかかってね……つまり、よそ者を遠ざけざるを得ない、そんな変化を要される事態が、起きたのではないかと。僕は、そう思うのだよ』




 儀が変質し、神性を持つはずの巫女が虐げられるようになった理由。

 神代の母が「りょうこん」へ至り焼かれた理由。

 古川の父が消え、余所者への風当たりが強くなった理由。

 神代が焼かれ、異界に去った理由。

 古川が消え、異界に去った理由。


「外部の血、か」


 考えるほどにえぐみを増していく物語に、司は気持ちの悪さを感じて思考を止めた。呪い呪われるというおぞましい関係性が織りなす世界は、あまりにもグロテスクで受け入れがたい。

 祖父の残した「呪いの痕を辿れ」というのは、これから先もこうまで恐ろしいものを見続けることを強要される道なのだろうか。自分で考えて、この先の苦難に対して司は怖気を覚える。今まで何度も見てきたものであっても、深く関わることは直に接することだからだ。

 けれど受け入れがたいその先に進もうとする人ばかりが、司の周りを囲んでいる。難儀な場所に来てしまった、と思いはするものの、不思議と止まる気にはなれない。

 横を向けば、小野が居る。


「……だから、やらなきゃ、か」

「なにをやるんですか、司さん」

「いや、特に変わりなく。今までと同じことを、同じようにやるだけさ」

「そうですか」


 静かに、足下の水路を眺めて小野はうなずいていた。

 しかしよく見ると表情は、沈んでいるわけではなく、


「でしたら、わたしもまた。今までと、同じく」


 定まった目標に猛進しようという、気概の感じられる瞳で、前を見つめていた。

 ……あの日、神代を焼き焦がした焔。死に際に神代がその相手を呼んだ「カノエ」という名。なんらかの手掛かりとなりそうな、神代が力を借りたという相手「やおのななし」。これだけの材料が揃って、いつまでも小野が沈んでいるはずがないのだった。


「あれが、あいつが、カノエかもしれないのなら」


 獰猛な獣のごとく犬歯を剥いて。


「やっと、尻尾をつかめたというのなら」


 暗く薄闇に閉ざされた目をして。


「止まってなどいられません――奴を、呪うまでは」


 叫ぶ小野の言葉を耳に通して。

 司は、ゆっくりと面をあげる。


「なら、小野のあとを追うよ」

「止めるためですか」

「止めない。ただ、呪うことの意味を教えるだけだよ。小野が全てを行う前と、行ったあとに」

「……それ、意味無いですよ、きっと。わたしは、神代さんの末路を見てもなお、止まろうとは思えなかったのですから」

「だろうね。だからこれたぶん、自己満足だ」


 司が笑いかけると、小野はにこりともしないで司を見ていた。


「意味無いですよ、絶対」

「うん」


 ざわりと風が揺らめく。水路でしぶきが立ち、水気が頬をかすめる。

 そろそろ梅雨が明けるだろうかと考えながら、司が先に立ちあがった。





  三章 合宿因習編:終




以下どうでもいい解説



火箸:「火」が転じて「樋」。そこに爪立てて「つまむ」動作から連想しての「箸」。重心が普通の刀とだいぶ違う特殊な野太刀で、古川の強靭な膂力・握力・精密精緻を極めた指の動きが可能とする技。

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