二十題目 「奇祭の中で」と小野が怯えた
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気がつくと、現実を認識させる疼痛が腹部に突きたてられていた。
「ぐぐ……」
「まだ起きるには早いと思うよ。血圧が元に戻るまでは寝ていた方がいい」
踊場に押し留められ、上体を起こすのを止められる。一体なにがあったのか、と周りを見ると、カローラの後部座席に寝かされた司を、開け放たれた両側のドアから五人がかわるがわるのぞきこんでいた。
「……あの、これは」
「いいからこの菓子食って、ジュース飲んで、少しでも血圧をあげておけよ」
ほれほれと押し付けられたのは先ほど廉太郎にあげたはずの品で、最初は食ってなどいられるかと思っていた司だが、しばらくして腹部の感覚に慣れてきたころ、どうやらそれが空腹を原因としているらしいことに気付いて、少しずつ口に含ませてもらうことにした。
どろりとしたジュースも砕けた菓子もお世辞にもおいしいとは言えないものだったが、胃にものが落ちたことを自分で認識した途端、手足のしびれるようなだるさも腹部の疼痛も、かなり薄まって楽になった。すると血圧の上昇に伴い顔色もよくなってきたのか、司をみていた小野の顔もほっとした表情に変わる。
「ごめん、心配掛けて」
「いえ、やはりついていくべきだったかと思い、むしろわたしの方こそ反省しています」
用もないのについてきてもらうのもそれはそれで嫌かな、と思う司ではあったが、気持ちだけ受け取っておくつもりで笑顔を浮かべておく。身体を起こすと、外に立つ口論義と踊場はさっきあとにした神社の方をじっと見ていた。
「ダリ、かしらね」
「さるばどる?」
「ちがうちがう。地方によってはひだる神とも呼ばれている、飢餓の亡霊よ」
サワハの珍解答を聞いて首を横に振った口論義は、なおも神社――というより、その枝社に向かって目を凝らし、当然だがなにも見えなかったのか、ふうと一息司に向き直った。
「人の形だった?」
「え、その亡霊、みたいなののこと?」
強くうなずく口論義に、つられるようにうなずいてから、司は思い返す。空中に浮かんだ線から滲み出るように這いだすように姿を現した異形のものどもの、形。それは少なくとも人間を大きく逸脱したものではなく、なにをされるでもなく近づかれただけで自分は気絶していた。
「人間、だったよ」
「鬼になってはいないというのなら、そこまで心配せずともよさそうだね。さあ司くん、残りもすべて食べ終えてもらえるかな」
「ええ? あの、これ、すっごいまずいんだけど」
「飲食しないと回復しない。ダリは飢餓の亡霊で、自分たちの味わった苦しみを通りすがりの相手に与えていくたちの悪い霊だと聞くからね。対処法はうまく過ぎ去るのを待つか、でなければなにかを口にして空腹を満たすか、このふたつしかない」
「つーかマルドメ、お前自分が食えないようなもん人によこすなよ」
嘆く廉太郎の意見は無視して、司はしばしジュースの缶を見つめていたが、耐え難い空腹にまた襲われるのもごめんだったので一気にあおって咳きこんだ。すると少し視界がはっきりしてきて、だいぶ症状が収まってきたことに安堵した。
持ち直したことに口論義も安心した様子だったが、車体にもたれてまた神社の方を見ている目は厳しい鋭さを保っており、その姿勢のままに五人へ呼びかける。
「気分がよくなったとしても油断は禁物ね。今日のところは探索もとりやめにしましょうか」
「とりやめ!? それは、ちょっと」
「? なにか問題でもあるの」
枝社から目を離した口論義は不思議そうに振り返った。その反応から、おそらく自分が助けられた時にはすでに〝歪み〟もダリも消えていたのだと司は気付いた。話すべきなのか迷う問題ではあったが、歪みはその存在自体が危険な、異界への扉である。看過できる問題ではないと思い、結局説明することとした。
「さっき倒れた時に……〝歪み〟をみた」
「歪み、ですか? あのフォッグマンの一件の時の?」
「なんでかわかんないけど、確かにあった。そんであそこに落ちるわけにはいかないと思って立ち往生しているうちに、空間をマジックで塗りつぶしたシルエットみたいな人の形、ダリに囲まれたんだよ」
「しかしあの〝歪み〟とやらはそう簡単に出てくるものなのですか」
「赤馬さんが言ってたように、御手洗さんも言ってた。大きな気の溜まり場からなら〝歪み〟はいつでも起こり得るらしいよ。どこかへ方向を定められて、同時に誰かの思念に染められれば、力の行き先は異界になるって」
「てことはなになノ? ここでも誰かが人呪うしたってコト?」
「どうだろうね。人の思念が気を染め指向性を持たせるといっても、呪いだけとは限らないのではないのかい?」
「のろい、ではないにしても。まじない、なら今この村に蔓延してる思念だものね」
踊場の言葉を受けて、口論義が推察した。漢字にすれば同じでも、読みを変えるだけでいささか印象は変わる。害意でない思念も、それはそれで力のあるものではある。
けれど司は否定した。
「異界に流れる気、っていうのは水が低きに流れるっていうか、マイナスの指向性を持たないと生まれないらしいんだよね。前向きな思いは異界には流れない」
「ならどこへ向かうのですか」
「異界なんかに流れる前に、ぜんぶ消費され尽くす。プラスの思いは、せいぜい一人に少し影響する程度だ、って言われたよ。夢が無いよね」
夢が無いと言うよりも、この世はマイナスの力の方が比率が高いように思える話で、空笑いしながら話す司もどことなく気落ちした様子で肩をすくめた。
「いずれにせよ〝歪み〟の出現は看過できない問題ね」
「だよね」
「だからこそむしろ、ここは撤退するわよ」
「え? いや会長、それはちょっと、ってさっき言ったじゃ、」
「……古川さんもあたしたちをマークしてるのに?」
司の耳元でぼそぼそとつぶやいた口論義の言葉に、司は飛びあがりそうになった。
「……へ?」
「あたしも廉太郎くんと同じでお茶の類には手を出してなかったの、気付かなかった? それなのにトイレに立つ理由って言ったら、発動条件整えるために決まってるでしょ」
べ、と舌を出した口論義は虚言看破の使用を匂わせる発言をして、改めて周囲を見回してから車に乗り込んだ。司を挟むようにしてサワハと小野も乗り込んできて、廉太郎も荷物と共に車の後部へ入り込む。
「廉太郎くん、どうかしら」
「殺気ってほどじゃないが、いくつか気配を感じるな。こっちの出方待ちってとこだろ、つかず離れずの距離を保ってるようなのだぜ」
「やっぱり、か。村人に警戒しないよう知人だと伝えた、とかいうセリフの時、嘘だって感じたのよね。お祭りに外部の人が参加できないってのも嘘だったし、ここの人たち嘘まみれよ」
「一体、なにがどうなって」
「まだわかんないの?」
あぜ道を転がり出した車輪により、司たちは田淵神社から離れてゆく。飛ばしぎみで幹線道路へ辿りつくと、急いで川浪のキャンプ地へ向けて走り出す。
「あの村全体がグルになってお祭りに備えてんのよ。加えて〝歪み〟が出現したとなれば、なにか怪しいことをしているのは確定的。それなのに相手に見つかったまま相手の陣地にいるなんて危険極まりないでしょ? 一旦退いて体勢立て直して、お祭り本番がはじまる前にもう一回忍び込むわよ」
すっかりやる気を出した様子の口論義は意気込んでおり、まだ少し頭が重たい気がする司にはその元気が羨ましく思えた。
車は勢いに乗り、一路川浪を目指して戻り始める。村の人々がこちらを見る視線については、廉太郎のように特別に敏感なわけではない司でもちらほらと感じるようになっていた。最初に訪れた時に感じたのどかな雰囲気は、今や雲散霧消している。村全体に不穏な空気が感じられて、どうにも気分が悪くなりそうだった。
そうして走る帰り路の途中、車は何も植物のない荒れた土地の横を通った。距離と方角から、そこが先ほど古川と話していた際に彼が示していた土地だろうとあたりをつけた司は、身を起こしてどのような場所になっているか見る。
別段〝歪み〟のようなものを感じとっての行動ではなかった。ただ近くを通るだろうという思いから、好奇心で見ただけだったが――
「?」
首をかしげることとなった。
荒れて、砂利にまみれたひどい土地にしか見えないそこには、なぜか地鎮祭でも執り行ったあとのように、供物がささげられ祭壇が作られていたのだった。
「なんだ、あれ」
司の言葉を受けて小野やサワハも外を見るが、その時には車体が林の中へ進み出ていたため何も見えない。後ろに車の影があったため停まるわけにもいかず、そのまま六人は進んでいく。
「なにかあったのですか?」
「えっと……あの土地に、お供え物がしてあったよ」
「お供え?」
小野の声で、踊場もミラー越しに司の方を見ていた。うなずく司の態度に疑問符を浮かべる五人は、しかしその供物の理由に思い当たるところあるはずもなく、ただ過ぎてゆく林の向こうを眺めていた。
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穂波田村は、司の探し求める村ではない。
だが呪術師がはびこり奇妙な風習に支配されている、という点においては共通項があり、それがなんらかの形で繋がりをもたらす可能性は十分にあった。
村を探せ、と言ったのは、祖父だった。己の過去と向きあい、記憶の底を見据えて、かつて住まいを得たあの場を探せ――と。ただそれだけを命令し、祖父はこれより自分は失踪すると続けた。村を離れて八年、久しぶりの連絡がそのような突拍子もない言葉だったことに動揺した司は、当然理由を問う。けれど祖父は答えることなく、通話を切ろうとしている雰囲気を感じた。
『ばあちゃんに関係あるの?』
口をついて出た言葉は確信があってのことではなく、ただ通話を続けるには二人に共通の何かで揺さぶりをかけなくては、と思っての発言だった。ところが祖父は黙って、その沈黙の空気は司に自分の問いかけが祖父の琴線に触れたことを悟らせるには十分だった。
『ばあちゃんが死んだのと、目取真の家のことと』
『お前にゃァ関係ない』
『関係あるでしょ?』
『お前にゃァ関係ない』
『ばあちゃんの孫であるこっちにも関係、あるんでしょ?!』
『お前にゃ関係ない! ……関係を……もたせるつもりは、なかった……』
食いしばった歯の隙間から漏らすように告げた祖父の震える声を、司は忘れられない。
『……お前に関係させんように、わしゃァお前を息子たちから引き離し、七年間手元に置いて連中から守ることにした。それで終わったと思うてたんだがな……連中、見つけちまったんだなァ』
半端な覚悟がお前を傷つけることになりそうだ、と祖父は司に謝罪した。
『お前を救うにゃァ今のわしじゃ力不足だ。手前で身を守る意味でも、あの場所は重要な意味を持つ。だから探せェ。場所を教えることァできんが、お前が望み呪いの痕を辿れば、どこからでもいずれあそこに行き着くだろぉよ』
どこなのか、と問うても無駄だということを暗に示して、最後に祖父は言った。
『すべての呪いの出づるところ、身に行く呪いが通りしところ、人が生む呪いの源のところ。心にほど近くゆえにこの世になく、身の内に籠りて見えず見透かす目にてもまた視えず』
お前の眼のみが瞰通す場所だ。
「……起きてらっしゃいますか」
うとうととまどろんでいた司が最初に見たのは、空にのぼる黄色い月の形だった。
「ん、と、寝てた?」
「少し」
目をこすって横の小野に焦点を合わせる。きっと森の中で眠るという経験が過去のあの村の記憶を呼び覚まし、ついで祖父との会話を思い起こさせたのだろうと司は判断した。
儀式などは深夜にはじめるものも多いため、日付が変わった直後からなにかある可能性もある。各地の祭事などにも精通する踊場がそう主張したことにより、司と小野は深夜のキャンプ地を抜けだしてカローラに乗り込み、村の近くまで再度移動してきていた。
地鎮祭のあとのようなものが気にかかり、そこの手前に車を停めたのでずいぶんと長い距離を歩くこととなったが、安全に越したことはないと廉太郎が主張したため夜の林をライトも極力つけずに行くことになった。そして、暗く静まった村の様子をしばらく観察すべく、距離をとった森の中に潜伏していたのである。
「なんか動きはあった?」
司の問いに、腕組みしていた口論義は自分の下で体育座りしているサワハを指差す。
「田淵神社来るする人と、供え物祭壇行くする人とに分かれてるヨー」
「サワハ早く眼鏡返せ」
去り際にレンズを置いてきたらしく、片目を閉じて顔をしかめるサワハは両手で作った遠眼鏡をのぞくような格好をしていた。眼鏡がないため周りがあまり見えず不安そうに手を上げ下げする廉太郎は、不用意に踊場の背中を押したせいで蹴られたりしていた。
その間も構えたままのサワハはむむむっと眉間にしわを寄せて観察を続行しており、遠隔視が捉えた情報をそのまま司たちに話して、現状把握を済ませんとしていた。
「神社来るする人はみんな、手ぶらぶら。祭壇の方はちょとよくわかんないネ、レンズ置くしたのは神社と、あの食堂んとこだから」
「だがルート的にはそっちしか行き先はないだろうしね、暗いからわかりづらいが、人影も確かにそちら方面へ移動しているようだよ」
「ってことは、祭壇にはまたお供えをするってことかしらね……?」
「んー、んー? えとネ、食堂前通るする人は手ぶらとちがうけどね、紙袋とか持ってて……空っぽ? 風吹いただけでゆらゆら」
「空の袋? 軽いなにかが入っているわけではないのかい?」
「そこまでわかんないヨ。ワタシ視力二・〇だけど透視むりだモノ」
「いまの俺なんざ〇・〇一以下だからなんも見えんぜ」
わいわいと話しあいながら観察を続ける。まだ半分寝ぼけている司は話半分に聞き流しながら自分も村の方を眺め、どうやら〝歪み〟やダリなどは視えないらしいことにほっとする。
「みんな目的はなんなんだろうね」
「さてね。とにもかくにも人の移動が少なくなってきたら頃合いだ。もうしばし待って、それから移動するとしよう」
「どっちの方へ行くんですか?」
「三人ずつで二手に分かれよう。見つかると即時締めだされる可能性が高いし、慎重に行動するにあたり大人数では目立ちすぎるというものだしね」
「じゃいくわよ。ぐーっとっぱーでー、あーわーせっ」「せっ」「もっかい」「せっ」「もっかい」
グーとパーで振り分ける例のじゃんけんを繰り返し、司は小野と廉太郎と共に神社へ向かうこととなった。残りの三人はサワハのレンズで随時進行方向を視ながら、注意していくと言って祭壇の方へ向かった。口論義と別行動になったことについて思うところあるらしい廉太郎はしばし彼らのあとを見送っていたが、やがてかぶりを振るとスペア眼鏡を取り出し、先頭を率先して歩き出した。
「俺たちも行こうぜ」
廉太郎にうながされて、うなずいた司は森から出ると田畑を横切るあぜ道を歩き出す。背の高い雑草に身を屈めて隠れながらの道のりはけっして容易いものではなかったが、小野と廉太郎が敏感に人の気配を察して見つからないルートを選択してくれたため、不都合な事態が生じることもなくすんなり進むことができた。
とはいえ、スムーズだとしても暗がりの中を人目につかないよう、迂回したり立ち止まったりいろいろと気を張り続けることには集中力と根気が必要とされる。距離にすればさほどでもない、一昨日は小野と談笑しつつ歩んだ道であるはずなのに、目的と状況の違いが足を動かしにくくする。
頭の先だけ草むらからのぞかせて、辺りをうかがいつつ少しずつ道を辿っていき、やっと司たちは橋脚の下に到着した。あとは河を越えて対岸に渡れば、坂を登って滝の前を通り神社へ行ける。
「もう少しですよ、司さん」
「わかってるよ。……ていうか、なんでこっちにだけ言うの?」
「息を切らしてらっしゃるので」
「小野と廉太郎さんはなんで、余裕そうなの……」
「足腰鍛えてますし。特に廉太郎さんは介者剣術の修行もしてましたから、腰を落として重心低く歩くのもお手の物ですので」
どのような剣術なのか司は理解していなかったが、適当に相槌だけ打って膝に手をつき、呼吸を整えるよう意識しながら頭上の橋げたを見た。ぱたぱたと駆ける音がして、上を誰かが歩いていることを知った。
「上は村人の往来が激しくて通行出来たもんじゃないな」
司の視線を追った廉太郎が結論付け、三人は針路を上ではなく直進、河の中へ採る。小野も司も一旦川浪に戻った際にジャージに着替えてきており、その他のメンバーも動きやすい服装にしていたため浅い河を進む程度ならば問題はなさそうであった。
「でも河は急に深くなることありますよ」
「流れの勢いと岸辺での渦の巻き方と周りと比べて色が濃いとことか見てりゃある程度予想はつく、俺の後ろついてこい」
野生の勘に近いものへ頼りきった発言をしながら、廉太郎は甚平の裾をまくって静かに水の底へ足を下ろした。続いて小野も短パンの裾をめくり、殿を司が務めた。しばらく進んでも司の膝上五センチ以上の深さにはならないようで、廉太郎の読みに感謝する。
だが勢いある流れと藻の生えた川底に足をとられないようにすることもそれはそれで集中力の必要な作業で、先ほどまでの疲労が抜けきらない司は足が重たくなっていた。
そして集中力というのはどれほど意識しても切れてしまう瞬間が訪れるもので、もたついた足が先に出した足に引っ掛かるという平凡なミスのため、司はつんのめって倒れそうになった。
「っと」
支えたのはとっさに腕を背後へ出した小野で、自分よりいくらか重いはずの司を安定した重心によりしっかり踏ん張った下腿で押えこみ、ぐらついた姿勢を元に戻してくれた。
「あ、ありがと」
「司さん、やはり昼にダリと出遭った時のダメージを引きずっているのでは」
「そんなことないよ。少しもつれただけだから」
心配する小野の表情を片手をあげて制し、ざぶざぶと先を急ぐ。少し立ち止まっていた廉太郎も歩き出した司の様子を見て進行を再開し、対岸につくと濡れた足をハンカチでぬぐって靴を履き直した。
「さって。ここからは山ん中通り抜けていくぞ」
滝の前へ続く坂の脇にある林を指差し、廉太郎は茂みへ潜り込んでいった。横を見れば橋の上を通って坂を登っていく人の列がとぎれとぎれに連なっていて、街灯の白い光の下にて照らされた彼らの表情が奇妙に虚ろで、おぼろげに闇に溶けそうなものであることが視認できた。
「なにやってるんだろ」
「あんま嬉しいもんじゃなさそうってのは確かだな」
林の中を、人の列に並行していく。暗い色彩の服装にしたためそう簡単にバレるとは思えなかったが、ゆっくり移動し神社の拝殿が見えるあたりまで這うように動いた。すると拝殿の方にはなぜか人がほとんどおらず、皆一様に奥の枝社を目指していることが見てとれた。
「拝殿を左に大きく回り込んで、神代さんの家の傍を通って枝社へ行きましょう」
「うん」
こそこそと相談を終えて林をさらに分け入って進み、拝殿の回廊に並行するように裏へ回り込む。本殿の脇を抜けて枝社へ向かおうと、茂みより顔を出した司だが、廉太郎に首根をひっつかまれていきなり後ろへ引っ張られた。息が詰まって咳こみそうになるが口も掌で塞がれ、ごふごふとくぐもった音が小さく漏れる。涙目で顔をあげると、本殿近くの神楽舞台に、神代があがってきたところだった。
「……あれか? お前らが言ってた巫女ってのは」
「そう、だけど。なんか」
「なにやら、雰囲気が違いますね」
舞台にあがり、傍から見ているだけでも神聖さを感じられる要素が整ったからだろうか。静謐な空気の中でたたずむ神代は、先日会った時のような気さくな印象は一切失せており、ただただ人間味を薄めて場の一部と化そうとしているがごとき無機質さを振りまいていた。
司たちとは舞台を介して対称の位置を通る、枝社へ向かう途中の人々も、その不気味な印象に彩られた神代を盗み見ては身震いして、奥へと去っていく。やがて観客もいない中で神代はとん、と一歩軽く踏み出し、その場で舞をはじめる。
音はない。鼓も笛も、音色を奏でるものは一切ない。本殿の奥に梓弓と思しきものを弾く巫女の影こそ一瞬見えたものの、すぐに扉が閉ざされた。
そのあとは無音の世界で神代の歩調だけが音なき律動を刻んでいた。奥へ進まんとしていた司たちも、思わず呆け見惚れる。けして躍動的ではないゆったりとした動きの中に秘められた力強さと、荘厳な雰囲気とに気圧されてしまったかもしれない。
「舞、か。いったいこりゃどういう儀式なんだろうな」
「わかりません。が、なんだか、ざわざわします」
寒いかのように腕をこする小野は、自分でもその動作の意味がわからない様子で神楽と思しき舞を食い入る目で見つめる。
「肌にスチロールでもこすれているような……まとわりつくような……重苦しい」
口にした途端に小野は身を固める。寒風が横切ったようなその反応に一拍遅れて、司の肌にもざらついたなにかで撫でられる感触が広がる。たまらずうつむいて自らの身体を抱きしめると、次いで草いきれに塩素系洗剤の臭いを混ぜ込んだような悪臭が鼻をつき、第六感の昂りが収まるまで動けなくなる。
顔をあげると、果たして。〝歪み〟やダリこそいなかったが――司から見える神代の横顔の向こうから、同じく横顔の大きな狐が、ずうるりと鼻先を押しだすようにして姿を現す。黄色と茶色のまだら模様が全身を覆う狐はがっしりした体格で、ゴールデンレトリバーの成犬くらいはありそうだ、と司は思った。
気付けば舞は終わっていた。どれほどの間見ていたのかはわからないが、それが終わったことを契機として、あの狐が出現したのだということはわかった。神代の周りを回る狐は、人々には視えていないらしい。ただ、あの舞がやはり重要なものだったのか、動きを止めた神代を見る人々の目が変わっていた。
動揺と切望を浮かべていた顔が、諦念と絶望の色に塗り替えられている。
「では」
口をほとんど動かさずに発した神代の低い声の後に、人々の中に震えが起こる。そして人々の内側に囲われていた一人が、舞台の方へ重たい足取りで近づく。
神代はその青年を見ることなく、踵を返して本殿の前へ移動する。扉に開けられた、投函口のようにわずかな隙間から、なにかを受け取った。
「ではこれより儀を執り行う」
すい、と捧げ持つように両腕の上に載せられたのは、稲穂だった。葉が枯れ全体にひどい色合いのものだったが、見間違えることはない。
舞台にあげられた青年は身震いしながら神代に近付く。一歩接近する度に狐が青年の方を向き、ためつすがめつ見ていると司には感じられた。
「諸手を」
命じられ、青年は両手を差し出す。神代はそこへ捧げ持っていた稲穂を載せ、一歩退いた。青年はしどろもどろになりながらもその稲穂を胸の前で、花束のように構えた。瞳には怯えがこぼれ落ちそうなほど溜めこまれ、わなわなと震える腕は稲穂の重さにすら耐えきれないように思われた。
「狐を」
淡々と、神代は続ける。
青年の目が見開かれ、恐怖の下に行き着き、行き過ぎてしまった表情が広がる。
死の直前の顔。あの加良部のように、最期の時が来たことに安堵してしまった表情。
捧げ持った稲穂が少し、持ち上げられた瞬間に、狐の姿が掻き消えた。
「狐よ」
膝を屈した青年は、すぐさまその他の神職の格好をした二人に両脇を押えられ、舞台から引きずりおろされて奥の枝社へ連れて行かれる。人々の間に広がる、悲嘆と絶望の感情を見ていられなかったのか、小野が目を逸らした。
舞台の上で冷徹にそれを見据えていた神代は、本殿へ向き直り、青年が落とした稲穂を再び扉の向こうへ渡していた。
「……おいマルドメ、小野。なにが起こったってんだ」
ただ一人、何も視ることも感じることもできない廉太郎に問われて、司は忌々しげに答えた。
「憑き物筋って奴だと思う」
「つきもの?」
「小野は、今どういう風に感じた?」
うつむいてしまった小野に司が問うと、口元を押えて吐きそうな顔をした小野は青ざめた唇をのぞかせて、自分の感じたものを正確に伝えようとした。
「どう、と言われましても。とてもいやな、嫌な空気が神代さんの周りに集まって……それが行き場をあの男の人に定めたように、ぱっと入り込んだような」
「だいたい合ってる。こっちに視えたのは、狐だった。それがあの男の人に取り憑いたんだよ」
「とり憑くったって、狐なんざどっから持ってきたんだよ。犬神使いの時みたく、殺して霊を連れてきたってのか?」
「ううん、そんな必要ないんだよ、憑き物筋ならね。憑き物筋っていうのは、一種の祟られてる人たちで、常になにかを宿してるんだから……」
猫を殺さば七代祟る、などという伝承のように。祟られたり、自ら術を成して憑けるなどして霊を宿した人間の中で、特に強く何代にもわたり呪われ続ける血筋を、憑き物筋と呼ぶ。彼らの中で憑依した霊の使役に特化すれば呪術師となることもあり得るが、そうした事例は極めて稀である。
だが恐れられた。その理由は、祟る霊は本質的に無差別に周囲へ霊障を振りまくため、近づいただけの者にも危害を加えられる恐れがあったからだ。そのため村落などの小規模社会においては様々な迫害を受け、居場所を失くすことも多くあったという。
もちろん中には単なる妬み嫉みから有りもしないそうした噂を流し、自分の嫌いな人間を追いやるなどという話もあったそうだが。神代のそれは違えようもなく本物、しかも呪術師と呼べる域にまで到達した代物と思われた。
「儀式って、人を祟ることだったんですか?」
「今の光景のみから考えるとそうなるよね。ただ、理由が判然としない」
「理由もクソも、これ見りゃわかんだろ。村人を呪いで威圧して、恐怖政治やってるとしか思えんぜ」
反吐が出る、と言う廉太郎の苦い顔に同調してか、司も曇った表情で考える。
日付が変わったので昨日、ということになるあの時。ダリと〝歪み〟の出現に際して神代は山籠りをして身を清めていたという。ならば今現在行使された憑依の術とダリ・歪みは無関係なのだろうか? しかしこの近辺では、他に術を行使するような何かがある様子はない。そも、そんなものがあれば村人たちもやられ通しではいないだろう。
ではなにが歪みを招いたのか、と考え始めて、廉太郎に肩を叩かれる。周囲を警戒して見回していた彼は、司の耳元で真剣な声音で囁いた。
「しばらく待機して、人がひいたら逃げるぞ。とにもかくにもとり憑くとかなんとか、そういうのは危ねぇしな。俺と小野は霊体に関しちゃ門外漢だし、マルドメ、お前は憑依とか、されやすいんだろ?」
「今は他に狐も見えないからしばらくは大丈夫だと思うけど……」
「なんにせよただ単に閉鎖的な儀式、ってわけじゃなかったのだぜ? 呪術師が出てきて宗教色があるとなりゃ、お前や小野や会長が黙ってられないのも仕方ないけどよ」
「宗教色?」
反射的に尋ねると、廉太郎は口を滑らせたという顔をして司から目を背け、「いろいろあるんだよ」と答えた。司と小野は少なくとも宗教に関わりのあるものを追っているわけではないので、残るのは口論義しかいないのだが――
「会長?」
「だから、いろいろあるっつったろ。突っ込んで聞くなよ野暮だなお前、」
「ちがう」
司は真正面を見つめ、ぽつりと漏らしてかぶりを振った。
小野が司の視線を追い、また彼女も驚愕に目を開く。
「あの……向こうの、村人の中連れていかれてるの……会長ではありませんか?」
「なんだと!?」
身を乗り出した廉太郎が司の頭越しに舞台の向こうを見やる。そこにいたのは、屈強そうな男に手首を掴まれ歩かされている、口論義、踊場、サワハの三人だった。
「つ、つかまったの?」
「みたいですけど……いくら排他的な行事とはいえ、あそこまで」
よたよたと、捻り上げられた手首の痛みを逃がすようにしながら歩く三人。彼らを見る周囲の目は冷ややかで、先ほどまでの恐れや痛ましさは微塵も感じられない。嗜虐的な笑みを浮かべている者さえいて、司の方が怖気を感じた。
「やばいよ、いったいどこに連れてかれるのか、こっからじゃよく見えない」
「……お前ら、先逃げとけ」
心配のあまり立ち上がりそうになった司を押えこんで、靴ひもを結び直している廉太郎は冷静に告げた。きょとんとして膝を地面につけ直した司は、廉太郎の肩を揺さぶって問う。
「逃げるって、廉太郎さんは?」
「止めてくる。話が通じねぇなら殴ってでも、な。だがマルドメは戦力にならんし、それなら小野に守ってもらいながら逃げる方がいい。河くだって走って川浪まで行ってくれ。さすがに隣町の連中なら、助けてくれるだろうよ」
「……わかった。でも、勝算あんの」
「現状ならなんとかな。一番強そうなの倒せばかかってくる奴はそんなにいないだろ」
派手にやってくるから、注意引いてる間に行け、と言い残して廉太郎は茂みから飛びだす。
土足で神楽舞台にあがり、踏み抜きそうな勢いで床板を蹴り飛ばして、三人を連れていこうとしていた男たちの前に躍り出た。
「おいテメエら、俺の大事な人になにしてやがる?」
周囲にどよめきが走った。お構いなしに廉太郎は語り続け、もし害意あっての行動なら警察に連絡した上で俺もテメエらに敵意を向ける、だのと人差し指を突きつけた。だが男たちは廉太郎の演説にも驚くことなく、静かに口論義たちから手を離すと、三人で廉太郎の前に進み出た。携帯電話を握っていた廉太郎は、一瞬眉をひそめたがすぐに画面に目を戻した。
「……なんだ。無傷で返すから許してくれってか? もう遅いのだぜ、警察に電話……」
そして固まる。どうしたのかと思って司は目を凝らすが、さすがにこれだけ距離があると画面が見えない。しかし小野は見えたのかなんなのか、あ、と嫌な予感しかしない低い一音を司の耳に届かせた。
「……圏外じゃねぇか」
廉太郎の寂しげな言葉で、司も思いだした。
昼に古川と茶を呑んでいた際に、話に興味が無いため携帯電話をいじりはじめたサワハはすぐに空中に愛機を投げだし「圏外」とつぶやいていたのだ……。
「圏外じゃねぇか!」
二度目は叫んで、廉太郎は携帯電話を勢いよく折り畳むとポケットにしまう。口論義たちにも失望の色が広がった。進み出てきた体格の良い三人の男は表情を変えることなく、それぞれに構えをとり、廉太郎に近づいてくる。
「んだよ、結局闘るしかないのかよ。ああ面倒くせぇ」
廉太郎も眼鏡を外すと左半身になり、左手を顔の前より少し下げた構えでステップを踏み構えているが、三人の男は動かないのを幸いとばかりに三角形を模り、廉太郎を中心に囲む。互い言葉は無く、もはや穏便にことが済まないことは明白だった。
すぐさま一人目が飛びかかり左の拳を打ちだすが、決着もまた、すぐだった。
素早く横に動いた廉太郎の左掌底が拳の軌道をずらし、さらに勢いのままに繰り出された廉太郎の肘打ちが喉に当たって倒れ込む。ほぼ同時に襲いかかっていたもう一人も、仕掛けたタックルの勢いを利用され、カウンターの膝を顔面にかぶせられる。加えて後頭部に、拳の小指付け根から手首までの肉厚な部分を用いた打撃〝拳槌〟を受けて後ろに吹き飛ばされ、うろついていた村人の中へ突っ込んだ。どよめきに悲鳴が混じった。
「……で、なんだな。やっぱ最後の一人は、あんたかよ」
つまらなさそうに片づけた二人から視界を切り、構えをとり直しながら残る一人へ向き直った廉太郎は、犬歯を剥いて身を強張らせた。
残る一人は、ここまでとは格が違うらしい。ちょうど舞台の影になって司と小野からは見えなかったが、廉太郎から距離をとるように相手が円を描いて動いたため、姿が視認できた。
昼とは違い簡素な袴姿になった古川が、構えもとらずに廉太郎と相対している。
「だから――来るなと言ったのだ」
「来るなと言われりゃ来たくなるし、それ以外にもいろいろ事情があるんだよ」
「我々にも事情はある。故にこそ放っておいていただきたいと願ったのだが、こうまで関わることとなってしまっては最早そのまま帰すわけにはいくまい」
「面倒くせぇなあ」
「戦いは望むところではなかったのかね」
「俺にとっちゃ戦闘は趣味なんだよ。必要に駆られてやるもんじゃない」
「ほう」
納得したのか、会話を放棄したのか。古川は吐く息ひとつで呼吸を整えると、右半身に構えて、左手側をあまり廉太郎に見せない構えをとった。ボクシングに近い構えだった廉太郎と比べてみると、空手などを思わせる構えである。
「あんた、剣を嗜んでるとか言ってたろ。素手でいいのか」
「戯けめ。神聖な社の中へこれ以上の血穢を持ちこんでなるものか」
周囲の人波が、戦いの気勢を感じとったのか一歩ひく。
皆の目が一点に集中している、今が好機と判じた司は小野の肩を引いて茂みから抜け出そうとする、が、動けない。動かない。遠くを見ていたために、近くをすっかり見落としていた。舞台から降りて茂みに近付いてきていた神代が、斜め前方の木の陰から、明らかに司たちの方を見ている。
ただ見ているだけか。否、廉太郎が走り出してきた方向だということを見ていたとするなら――思考の切り替えは、小野の方が速かったらしい。大声を出されるなどして他の人に知られる、その前に。低く身を構えたまま跳躍するように三歩で間を詰めた小野は、内腿に引っかけるように右脚で内回し蹴りを喰らわせると、痛みに顔をしかめて動きが鈍った神代の右肩を、左掌底で突き飛ばす。
先の内回し蹴りで神代の左足には小野の右足が引っかけてあるため、踏ん張りが利かなくなった彼女はどうと倒れる。その間も押し込み続けていた左掌底と地面に挟まれた肩は、脱臼したらしき音を立てた。激痛からの悲鳴をあげられないよう、右の前腕部を口元に押し付け神代を黙らせた小野はそのまま右腕に体重を預けて左手を振り上げ、拳槌で鳩尾へ一撃を打ちこむ。
急所への攻撃で今度こそ神代は失神し、がくりと首がうなだれた。
「……容赦ないね、小野」
「人を傷つけることには、慣れてますから」
「慣れたらダメなことだよ」
「慣れなきゃ復讐なんてできないでしょう」
ぼそりと、本音としか思えない言葉を投げつけて、小野は神代を茂みに引っ張ってろうとしていた。司も手伝って足の方を持ち、舞台の方に背を向けながらちらと小野の顔をうかがう。慣れた、という割には沈痛な面持ちだった。だが指摘すると、「殴った手が痛かっただけです」と返された。
「さあ、今のうちです」
「……今とは、どの今かね」
問う声が、司の背後から轟いた。
小野の顔に影が差し、足音が近づく。
まさか、と思い振り向こうとした時には、捻り上げられた手首の痛みが悲鳴をあげる以外の行動選択を許さない。純粋な握力による力技で、司の身体は持ち上げられそうになっていた。
「あっづ、いってえぇぇ! く、そっ! れ、廉太郎、さん、は、」
確認しても仕方ないことを、それでも司は口に出す。正面の小野には、司の問いに対する答えが得られていたのだろう。同時にそこから、自分が戦うしかないという未来が、見えていた。
瞬時に茂みから出ると、司の右手首をつかんでいるために相手が腕を使えない右側へ回り込む。そしてガラ空きの胴、背面から腎臓めがけての左回し蹴りを、爪先を立てた状態で放つ。先ほどに引き続き、遠慮も良心の呵責も感じられない急所狙いの一撃だった。
だが外れる。正確には、うまく打てなかった。片腕だけで司を持ち上げるように盾にされたため、軌道をずらさざるを得なかったのだ。単純な膂力の強大さに、驚き連撃の機を逸する。瞬間。両腕を縮めて防ぎはしたが、それでも臓腑へ響く、撞木のごとく重たい左中段蹴りをもらってしまい、小野は吹っ飛んで地面を転がった。
起き上がることは、できない。
「……小野っ! おい、小野っ! しっかり!」
呼びかけても返事は無い。呼吸を整えるのに必死なのか、肩を震わせて腹部を押えている。怒りに駆られた司は反撃すべく小刀を抜こうとしたが、右のポケットに入っているため左手では抜きづらい。身をよじるだけで右手首に激痛が走り、反撃に転じることはできなかった。
「……騒ぎすぎたな。そして、よくも神代を傷つけてくれたものだ、儀も台無しだ。お前たち、代償は、高くつくぞ」
叫ぶ司の声より遥かに小さいが気迫に満ち満ちた声で恫喝し、古川は転がる小野、次に司を睨みつけた。歯噛みして真っ向からその視線を受ける司だが、為す術も無い。
地面に押えこまれ、ぜえぜえと肩で息をしている小野と、その向こうで抱え起こされて今まさに運ばれようとしている廉太郎のぐったりした様子を見て、自分たちの苦境を思い知らされた。
次回、穂波田村の合宿因習編完結。