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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
合宿因習編
17/38

十七題目 「見よや理想郷」とサワハが叫んだ

 散々いやいやとかぶりを振った小野だが、神代が持つ他の服を借りようにもサイズが合わず、背丈はもちろんのこと胸囲などもぶかぶかになってしまうためしぶしぶ巫女服を認めた。


「巫女装束はバイトの子が来た時のためにサイズはいくつか揃えとるからね」


 なぜか自慢げに語った神代は、ずずずとお茶をすすって卓を囲む司と小野の二人を見据えた。

 改めて見渡すと質素な室内は生活感こそあるものの、立派に作られた神棚ばかりが目立つ。すると見回す司の視線に気づいた神代は、口より物を言っていた司の目線に応える。


「ああ、ここは私しか住んどらんから。たまーに神社関係の人が来て泊ってくことはあっても、長く滞在はせんもんでね。娯楽用品とかもさっぱり持っとらんのよ。日課に朝夕の神棚掃除を加えてもぜんぜん時間余るくらい」

「まあ神職だったら掃除くらい当然のような気も……」

「かしらんね。ところで、さっき丸留ちゃんから二人は合宿で来たって聞いたけど。なんで隣の川浪の町からこっちまで来とったの?」


 丸留という聞き慣れない名前にぴくりと反応した小野は横の司に「偽名ですか」と視線で問うたが、さすがにその意味合いまでは見抜けなかったらしく神代は首をかしげている。司は小野の視線の訴えは無視する形で、「こっちの連れが寺社を見て回りたかったそうで」と説明した。それを聞いて、神代は感嘆の溜め息をつく。次いで、また笑った。


「若いのにずいぶん枯れた趣味もっとるのねぇ、えーと」

「あ、申しおくれました。小野香魚香といいます」

「ふうん。小野ちゃんか。私は神代珠百。……っふーむ、じゃあ寺社に興味あるなら、ここ田淵たのふち神社の案内でもしたげよっか? しばらく喋っとれば服も乾くだろうし」

「いいんですか?」

「もちろん! ……ガイド料取ったるからね」

「え」

「冗談よ冗談。あ、でも本殿内部は拝観料一〇〇円だから」


 快活な声で言う神代は、早速席から立ち上がると司と小野をうながす。手持無沙汰にこの居間に居続けるのもなんだったので、呼びかけに応じて二人は神代のあとを追った。

 ごうんごうん、うなりをあげている乾燥機の響きが届く玄関先で靴を履き、先ほど下りてきた階段を上ると拝殿の前を通った。


「うちの社は、というかこの村の社のほとんどは稲荷大明神を祀っとるの。要はお稲荷様よ。京都の伏見稲荷、行ったことある?」

「あの千本鳥居のあるところですよね」

「うん。稲荷神社はあそこが総本山とされとるから、あそこと同じような稲荷信仰がここにも根付いとるわけなんだけど……ま、ここではそれ以外にも土着の神様もおったりしたもんでね、そういうこともあって枝社でそっちの神様も祀っとるのよ」

「ああ、そういえばさっき見かけました」

「ここ来るまでに他の神社見た? そうそう、そうやってどこも枝社建てとるわけ」


 小野と話す神代の指し示した方向には本殿よりやや小さめだが立派な枝社があり、先ほど立ち寄った石段の先にあった神社でも似たような建物があったことを司は思いだす。


「特にここでは少し変わった信仰で、お供え物で食べ物を置く時には枝社の方を、少し多めにするってのがあってね。ちょっと変な話でしょ」

「めずらしいですね」

「特に元来稲荷、狐ってのは穀物とか食の神様の使いとされとるから余計めずらしいのね。というのも、字面通り『稲荷』稲が荷。狐は季節に合わせた生活サイクルしとるから、春に現れて稲穂が実る季節になると山へ消える。だから米の季節を想起させるイメージと食の神様の使いとしてのイメージが結び付いて、稲荷と呼ばれとったらしいのよ」


 拝殿を左回りに回り込み、本殿の方へ向かいながら神代が言う。真剣にそれを聞く小野は自分よりも歩幅の広い神代についていくべく小走りになるが、慣れない服装のためにいつ転ぶかわからない危うさがあり殿(しんがり)を務める司はひやひやしていた。

 やがて看板が見えてきて、青く錆びに浸食されたプレートを手で示した先導者が「左手をご覧くださーい」とまるでガイドであるかのように説明した。いやガイドではあるのだが。そういうガイドではない。


「昔の慣習とかについて説明してあんのね、これ」

「……読みづらいですね」

「神主の趣味で書家の人に頼んで、草書体で書いてもらったらしいからね。読めたらむしろ驚くわ。私も内容を教えてもらっとるだけで、これ読めるわけじゃないの」


 照れたような笑みを浮かべながら神代は図を指し示す。草書体の説明文の下に描かれている人物たちは、どうやら巫女か、少なくとも神職の人間と推測される格好で舞台に正座しており、背後にもやのようなものが描かれている。


「無礼講、からこの説明が始まっとるんだけど」

「宴会の席で言うあれですか」

「そうそれ。の、語源。もとは最後一文字の〝講〟っていうのが、民間信仰における宗教行事の時の集まりを指すんだけどね。そこでの上下関係を取っ払うことを指しとるわけよ。で、ここでも無礼講、と一口に言ってもいろいろやっとってね。あ、庚申講(こうしんこう)って知らんかな?」

「……三尸(さんし)の虫?」

「そっそ、丸留ちゃんよく知っとるわね。じゃあヒルムカシってのも知ってる?」

「まあ、知識としては一応」


 話がわかる人間がいたことに心底嬉しそうなところを見ていると、くだけたフランクな態度のわりに神代はきちんとした案内用の教養はあるのかもしれない、と司は思った。小野はというと聞き慣れない言葉に目を白黒させている。


「昼ぶかし? こうしんこう? 三枝の無視?」

「ヒルムカシは、その昔は昼に昔話をすることが禁忌だったから、それを指す語。そんで庚申講は道教、中国伝来の宗教の伝説の中で庚申の日に夜中、寝てる人間の身体から三尸(さんし)の虫ってのが出て行って閻魔大王に悪事とかを告げ口するから、徹夜して虫が出て行かないようにしようっていう集いのことだよ」

「詳しいねぇ、丸留ちゃん」

「……知り合いに博識な人がいましてね。その人、猿を肩に乗せてることが多いんですけど、一度どうして猿を連れてるのか聞いたら庚申とか猿楽についていろいろ講釈を受けたんで」


 御手洗のことを思い浮かべながら司が言うと、神代は納得した様子で何度もうなずいた。


「話を聞いとると神道に明るそうな人ね」

「その人、基本的な性分が研究者なんで。昼はあんまおしゃべりじゃないんですけど、それこそ夜になると多弁な人でした」

「正にヒルムカシよね。……昔は明かりも無く夜の仕事は捗らんから、昼は話しとる暇がない。だから昼の昔話は禁忌になっとったんだろね。で、そういう時子供に話をせがまれると大人は『話は庚申の晩に』と言って追い払う。そして庚申の晩はどうせ徹夜だから話をする暇ができる。こうして古来からの口承文芸は、語りの場まで日常の中から選別されて作られとったって話よ」

「……こうしん、というのは、ひょっとして健康の康に似た字に、猿の申ですか」

「あたりだよ、小野」


 司が言うと、なぜか小野は顔を曇らせた。神代は首をかしげたが、司が続きをうながす。

 ちなみに十干という五行それぞれに陰陽を振り十種に分けた要素、あるいは属性。そこに十二支を加えたものが庚申を含む、いわゆる干支である。

 暦に用いられるこれら数詞は天地の気の流れを示し、古来より物事を成すに良い日と悪い日などの選定に使われてきた。庚申講もこれに基づく行事のひとつと言える。


「で、まあ説明に戻ると。この村での無礼講ってのはさらにちょっと特殊で、この図の通りにいろんな人が集まっとるわけなんだけど。神楽の舞台なのに普通の村の人もあがっとるの」

「それ、神職の人たちだけじゃないんですか?」


 黙ってしまった小野の代わりに、司が問いを重ねると神代は快く答えた。


「一般の村人も混ざっとるよー。なんなのかってえと、この村ではそれが〝無礼講〟なのね。神様と繋がるための舞台にみんなであがり、供物も召し上がる。下に合わせるでなく、上に引き上げたる形で上下の垣根をなくすのよ」


 図をよく見ると、たしかに人々は皆なにかを口にしている。食の神様を祀るからこその神事なのかもしれない、と司は理解した。


「どこもそうだろうけど、この村も大昔は飢饉なんかに見舞われとったそうだからねえ。食を神様とも分かち合う儀式は、せめて心だけでも豊かにしたろ、ってな気持ちの表れだったらしいわ」

「へえ……」

「で、次の図では狐に見立てた仮装をして、踊り回ることで豊作を祈願しとるのよ。雨乞いでは古来、上に向かって祈祷師が水を吹きかける真似しとったって言うけど、それと同じように『求める結果の模倣をする』ことで現実を理想に引き寄せようとする儀式になっとるわけね」

「ホントに詳しいんですね」

「私、民俗学とか文化人類学に興味あったから。この村の神事とか言い伝えについてはもちろんのこと、あとは独学でちっとかじっとるの」


 神代は笑って、えへへと頭を掻く。踊場あたりが居たら話がはずむだろうと司は思った。少し興味が出てきたので、看板の奥、枝社の向こうにある苔むした石碑の方を指差して司は問う。


「そっちの、奥の石碑はなんて書いてあんです?」

「あれ? あれは……直接にこの神社と関わりあることじゃないんけどね。ここの裏手の山では、その昔神隠しが起こっとったそうなのよ。そのことについて書いてある」

「神隠し、ですか」

「まあ神隠しも論理的に考えたら寒村での口減らしのために行われてた暗黙の了解、ってな側面が見えてくるけど。ここの言い伝えじゃ若い子供だけでなく大人も消えて、帰ってきとる事例もあるそうだから一概にそうとは言えんね」


 口減らし、と口の形だけ動かして、司はどこか痛んだような顔色を見せる。神代はここで一息いれて、石碑に近付いた神代はざらつく青黒い石の表面を撫でる。後ろをついてきて崖下にある石碑の前で雑草を掻き分け踏み入る司と小野は、内容について語る神代の声に耳を澄ました。


「『山に入りたる者、異なる気に触れ梁渾(りょうこん)ゑ至る』と書いとるね」

「りょうこん?」

「ここに書いとる神隠しにあったのは女の人だったみたいだけど、なぜか……顔にひどい火傷を負っとって、帰ってきてからそれしか言えんかったらしいわ。どういう意味かは不明、この字は当て字みたい」


 不気味だと思ったのは司と同じなのか、小野の表情が歪んだ。二人の反応に神代は笑い、手を振って茶化した。


「っても、火傷の件はともかくとして、ここ十年くらいの間にも二、三件の行方不明者は出とるし。なんにせよ山は迷うと危ないってことを教訓として石碑に残しとるんでしょうよ」


 司に自分の結論を語ると、雑草を掻き分けて神代は石碑の前から石畳の道まで戻った。司と小野も戻り、枝社の方を向いてはじまった説明に司はまた耳を傾ける。

 さほど広くない敷地の中を歩いただけだったが、神代のガイドはそれから三十分ほど続いた。




 乾いた服を身にまとい、折り畳んだ巫女装束を差し出した小野は深々と神代に頭を下げた。


「良くしていただいて、どうもありがとうございました」

「いえいえ気になさらず。キャンプ楽しめるといいわね」

「じゃ、ガイドもどうもありがとうございました」


 社務所に引っ込んだ神代は二人の姿が見えなくなるまで手を振っていた。てくてくと、また滝の方まで歩きながら二人は幾度か後ろを振り返る。


「いい人が居てよかったね」

「ですね。…………でも〝丸留〟さん」

「ん?」

「この偽名はなんですか?」


 訝しむ目で見られた司は、そういえばゴールデンウィークに遭遇した加良部の一件の際、小野は意識が朦朧としていたために自分がこの偽名を使ったのを覚えていなかったのだったか、と思いだした。


「いや、別に。苗字呼ばれるの、好きじゃないから」

「それ、赤馬さんと会った際にもおっしゃってましたよ」


 そこで名乗らなかったことは覚えていたらしい。どうしようかとわずかばかり迷うが、別段小野がこれからする話をだれかに吹聴するとも思えなかった。自分が不利益をこうむる可能性は考慮するに値しない程度だろうと推測した司は、肩をすくめてポケットに手を入れた。

 ふと先ほどの『口減らし』という言葉も頭をよぎったが、気にせずに咳払いをした。


「……まいっか、正直に話すよ」


 ただ、正直に語り、ウソはつかないが、語らない部分もある。と、司は心中で舌を出す。


「うちは、家族とあんま折り合い良くなくてさ。っていうのも、仲が悪いわけじゃなくてね。……小さい頃、ほとんど両親と兄姉と、過ごしてなかったからなんだ」


 ちらりと横を見ると、小野はこういう話を聞いた時の人間の反応として大方予想のつく、気まずそうな表情を滲ませていた。フォローとして「別に育児放棄とかじゃないから」と説明を差し挟んだが、そう口にしつつも司自身『育児放棄』という語に対して思うところはあった。

 両親は、進んでそうしたかったのではないが――強いられてそうせざるを得なかったから。

 仕方がなかったとはいえ、自発的でなかったとはいえ、棄てなかったとはいえ。

 手『放』したことには、変わりない。口減らしでは、ないのだろうが。


「思い返せる一番古い記憶は、天井を走る太い梁を眺めている自分と、その周りでせっせとなんかの作業に励む祖父母の姿かな。今現在探し求めているあの村、あの家に、祖父母と一緒に七歳まで暮らしてたらしい。……時間経過を実感できる記憶はないけど」


 司は村では普通の、しかし傍から見れば奇妙な風習などにも参加させられ、現代の子供としては異質な育ち方をした。そこから急に現代社会の都会に投げ込まれ、家族として接しなくてはならなくなった〝初対面の父と母〟真一朗(しんいちろう)房江(ふさえ)。〝初対面の姉と兄〟一恵(かずえ)啓二(けいじ)

 もっとも一恵と啓二に関してはかなり歳が離れており既に自立していたため、目取真家にて生活しはじめた司とはほとんど顔を合わせることもなく「知人のお兄さんお姉さん」という程度の括りで接することができた。

 問題は、両親だった。毎日寝食を共にする、まったく知らなかった他人。

 溝は今でも残っており、司は極力両親と顔を合わせないように生活していた。


「わけあってそうせざるを得なかったらしいけど。あの呪術師だらけの村で祖父母と過ごした七年の間、苗字は母親の旧姓である霧島(きりしま)にさせられてた。だから八年前、突然いまの苗字にさせられた時も、どうもしっくりこなくてさ。自分から進んで名乗りたくないし、呼ばれたくもないんだよね」

「そういう、理由だったのですか……」


 しんみりしてしまった二人の耳に、滝の音が近づいてくる。静まってしまった空気に暗い気配を感じた司は、まだ隠していることがある罪悪感も相まってか居たたまれなくなったが、これ以上は語るわけにいかないのでとりあえず他の会話の糸口を探した。


「ごめんね、なんか沈んでたみたいなのに余計暗くなるような話して」

「し、沈んでましたか? わたし」

「違った? なんか神代さんの説明の途中から、黙りこくって考えごとしてたみたいだけど」


 じっと観察されていたことに焦った様子で、小野は麦わら帽子を深くかぶり直す。ええとその、となにか隠したいことでもあるのか、言葉を濁して語ろうとしない。気遣った司は「まあいっか、それより急がないとバスが行っちゃう」と小野を急かして、自分の問いをうやむやにしようと明るく振る舞う。

 その司の袖口を引っ張って、小野は先ほど滑った位置の近くで立ち止まった。


「……どしたの、小野」

「いえ、司さんにばかり話していただくのも、申し訳ない気がしまして」

「こっちの場合は話しておきたくてそうしただけだから、気にしなくていいよ。ほら、唐突に過去を語りたくなったというかなんというか。こういう日本の田舎らしい景色を見てると、昔を思い出したというかなんというか」

「じゃあわたしも話しておきたくなりました」


 じゃあってなんだ、と司は思ったが、茶化す雰囲気でもなさそうだった。居ずまいを正す司は、小野がつかむ袖をやんわりと離して、向き直る。憂いを帯び濡れた目の色で司を見上げる小野は、けれどやはり言いにくそうに、切り出した。


「……わたしが思い考えていましたのは、庚申のことを聞いたからです」

「庚申?」

「ええ……司さん、以前お話しましたよね。わたしの仇。カノエミフネについて」

「ああ、カノエ……かのえ?」

「庚申の庚は、かのえとも読むでしょう。ですから、考え込んでいたのです。それに、そのあとに神代さんが語っておられた神隠しも」

「なにか、カノエに関係あるの?」


 司の問いに、小野はすぐ答えることはできなかった。自分の右腕をぎゅっと左手で握りしめ、寒さに耐えるか弱い存在のように歯を打ちならして気を落ちつけようとしている。そこまでして聞きだすことに心苦しさを覚えた司は手を小野の肩において言葉をかけようとしたが、「いいんです」と遮られて唇が止まる。「話したいんですから、いいんです」。

 いつの間にか閉じていた目を、ゆっくりと開く。小野は司の目を捉えると、うっすら諦めを享受した顔色で……右袖をめくる。


「わたしの仇、カノエは、母を殺した相手です」


 露わになった右前腕部の内側を、暮れはじめた西日の下、司に晒した。


「母……小野、山女魚(やまめ)は、祓いを専門とする祈祷師でした。けれど四年前、出先の村で神隠しに遭ったように姿を消して……帰ってきた時には、全身にひどい火傷を負っていました」


 波打つようにひび割れ、歪み、爛れる。


「だというのに母を運んできた村の男の人たちは、こんなになるまで戦って、敗れた母に『契約の不履行だ』『カノエミフネはまた山をさまよう』『役に立たなかった』と罵声を浴びせるだけ浴びせて、帰っていきました」


 掌を朱肉につけて掴んだように、強く、醜く、残る。


「残されたわたしと父は、どうしようもなくて。火傷のために弱っていく母を見ているしかなく、一晩を母の枕元で過ごしました」


 焦げるように、黒く、血染めのように、赤く。


「そうして今際の際にわたしの腕をつかんだ母から移った呪いの熱が――この火傷の痕を肌に、残しました」


 小野の右腕にまとわりつく痕は、熟し切って割れんばかりの柘榴(ざくろ)のごとく、鮮烈な色合いで以て司の脳裏に焼きついた。するり、袖を戻した小野を見て、司は彼女が一度も半袖の衣服を身に付けたことがなく、先ほど濡れた時にも真っ先に右腕をかばっていたことを思い出した。

 かぶりを振って、小野は続けた。


「あいにくとわたしは母の職業にさほど興味がなく、母の持つ他の呪術師などとの繋がりについても一切知らないままでした。それは父も同じで、おそらくは母が意図的に隠していたのだと思います。だからわたしは仇を追うべく、様々な場を頼りました。末に行き着いたのが、きてれつ研だったというわけです」


 きてれつ研の名を口に出す時だけは緩んだ表情を見せて。

 小野は右腕をつかんだまま両腕を下ろしてうつむいた。


「……この話って」

「いいえ、みなさんにもわたしが仇を追っていること、奴の名がカノエであることについてはお伝えしていますが、ここまで詳しくお話したのは司さんが初めてです」

「いいの?」

「知っておいていただきたかったのです。司さんには、特に。今話すべきだと感じただけで、いつかはお話しておくつもりでした」


 腕を押え、西日に照らされた逆光の中で悲しげに笑う小野は、なぜ話したのだか自分でもよくわかっていない様子であった。


「……じゃあ、前に話してた『呪い返す』っていうのは」

「復讐のためならば、わたしは自分を害する術に頼ることも厭わないということです。……司さんは以前、『呪うのはもうそれしかできず、現実に関わる術を持たない幽霊にのみ許された行いだ』とおっしゃっていましたが。法に頼るわけにもいかず、力なく、財もなく、人脈もないわたしのような小娘には、霊と同じく手立てがありません。霊と同じく、先のことはもうあの時から一切考えることができません」


 悲しげな笑みのまま、小野の時が凍りついていた。

 彼女は比べ続けるのだろう。母がいた過去の時間と、いない今の時間とを。

 その行動は少しだけ司が過去を追い求め村を探し続けていることと似通っていて、思わず司は自分の抱えるこの名にまつわる真実を語りそうになり、慌てて口をつぐんだ。


「……だから呪い返すんです」


 それは悲しい独白だった。


        #


 川浪のキャンプ地に戻ってきたばかりの二人はぎこちない表情だったが、キャンプの雰囲気に少しずつ和まされ、いまは徐々に普段通りの空気を取り戻しつつあった。夕食の流しそうめん大会をくぐりぬけ、自由時間の今には前納たちと笑いあえるだけの余裕を持てていた。

 当然のこととも言える。人は、ひとつの感情だけで生きているわけではないのだから。


「ダウト」

「げっ、司やめろよ。まーたおれかよー。……この手札数を見てくれ、こいつをどう思う?」

「……お前は素直すぎる、ダウト」

「蓮向てめえええ」

「なんかつまんないの一周通り過ぎてこの出来レースが面白くなってきましたですね」

「倉内さん首位独走ですしね、ダウト」

「小野ちゃんてめえええええ」

「前納うるさいよ」


 夕方に暗い面持ちで会話していたのがウソのような、明るい時間を司と小野で共有していた。

 やがて入浴の時間になり、バンガローから小野と倉内が出て行く。


「では自由時間もお開きですし、これにて」「朝までさよならですー」


 手を振る二人に追い付くように、司も先に歯を磨きに行くと言い、バンガローをあとにした。残るは男子二人。寝巻のジャージに着替えた二人のうち、天然でパーマがかった方の男、前納がうきうきした様子でボストンバッグを漁った。もう完全に眠りにつくつもりであくびを噛み殺していた蓮向は、首をかしげて前納を見る。

 前納は蓮向の表情に答えるように、満面の笑みを浮かべてダブルでピースサインを出した。


「……前納、お前なぜうきうきしている」


 問うと、前納はいやらしい感じにダブルピースをくねらせくくくと笑いをこらえきれない。


「きーまってんだろー? おれ渓流釣りの間に、観測点探しといたんだぜっ」

「……星座でも観に行くのか?」

「ばか言ってんな、女湯うきうきウォッチングに決まってっだろ! ほらっ、こっから朝までは男女別れ別れになっだろ? だからせめておれはね、彼女らの一糸まとわぬ艶姿をこの目に焼き付けてから眠りにつきたくゆぅっ」

「……寝てろ」


 送り襟締めで前納を落とした蓮向は、ダブルピースのまま白目を剥き泡を吹いている前納を不快そうな面持ちで一瞥して、布団に寝転がると電気を消した。

 ……しかしもぞもぞとしばらく布団の上で転がった後に、ごそごそと外に出て行った。

 そしてバンガローの窓の外からは、背の低い人影が暗い部屋の中をのぞきこんでいた。




 倉内に先に浴場へ向かってもらい、さて右腕を隠したまま風呂に入るにはどうすべきか、と悩む小野。素直に事情を(火傷を見られたくないという部分だけ)説明して、教員の泊まるバンガローに備え付けのシャワーでも使わせてもらおうかと思ったが、この火傷のことを話すこと自体が嫌だった。

 司と倉内など、親しい人間が近くにいたため先ほどは前納と蓮向を相手にしても談笑することができていたが。未だに小野は初対面の人間や、あまり親密でない人間の近くにいることが苦手なのだ。

 原因はやはり、夕方に司へ語った彼女の過去にある。母を頼りとしたにもかかわらず、罵倒し、なじるだけで帰っていった見知らぬ男たち。初対面の相手に対して彼らへのイメージが想起されて火傷がうずくたび、小野は傷跡を握りしめ見知らぬ人への不信感と戦っていた。


(……いずれは向きあって、直さなければ生活にも支障が出るかもしれませんが)


 今はまだ、周囲には隠していたかった。

 やはり人がいなくなるまで待ってから入り、ささっと洗って出よう。そのように考えて浴場前のロビーで椅子に腰かけた小野は、ふうと溜め息をついて右腕を見る。

 自分はなぜこのことを司に話す気になれたのか、そのことが不思議だった。付き合いの長さで言えばきてれつ研の他のメンバーの方が長く、廉太郎に至っては同門の兄弟子としても付き合いがあった一番親しい人間のはずだったのだが。


(よく、わかんないです)


 ぼんやりと中空を見据えて、目を閉じ、思いを巡らした。


「おい、風呂場ってこっちでいいのか」


 しかしすぐに横合いから横柄な声音で話しかけられ、目を開ける。


「……ええまあ。お風呂はこっち、に……」


 眼前の相手を見て目元をひくつかせた小野は、先ほどまでの自分の回想などが幻視として実を結んだのかと己を疑うこととなった。




 歯磨きを終えてからタオルを取りに行こうと浴場の近くを通りかかった司がそれを発見したのは、まったくの偶然だったと言っていい。


「……鎖骨から曲線を描く瑞々しい肌の内には、右に夢を左に希望を詰められて。腰から流麗に流れて落ちる脚部へ描かれる弧は神様の造形がごとく……引きしまった太腿からふくらはぎ、足首に至るまでが黄金比の均整を取り……そしてそう、こちらを向いてくれれば! 無毛の更地に刻まれたクレバスが陰影によって今まさに艶やかさを増し、おおう……」


 木の上、ちょうど屋外から浴場の窓を照らすライトの陰になる場所へ、坐して堂々とのぞきを敢行している者がいた。


「……『(のぞき)』って漢字、大っきらいなんだよなぁ……」


 自らの名前と照らし合わせてそう嘆息した司は、木の上に居る人間に向けて、警告の意味で幹を蹴り飛ばす。


「っトお、あっわわわ?!」


 間抜けな叫び声と共に落ちてきた人影は、いかにも痛々しい鈍い音を立てて尻餅をついた。腰をさすりさすり立ち上がって逃げようとする人影の前に回り込むと、司は詰め寄って屈みこんだ。観念したのか、覗き魔は頭を掻いて笑う。


「……なにやってんの、サワハさん」

「男湯のぞいてたネ! 大胸筋、脚線美、割れた腹筋見てうはうはヨ!」


 興奮冷めやらぬ様子で両拳を握り熱弁するサワハは、黒いシャツにジーンズという覗くためにしつらえたような格好で目を輝かせていた。


「まぎらわしい描写しないでよ。カタコト抜けてたし。ていうかレンズ使えばいいじゃん」

「ロマンなくなるは良くないのコトよ。スリルない覗くはワサビないお寿司に似たりよったり」

「知るか。……で、なに。他のみんなも来てるんでしょどうせ」

「――いやあ、期末まで間があったしねぇ。旅行にでも来ようかと思ったのよ、踊場が免許取ったし」

「いやいきなり長距離走らせるとかどうなの」


 背後からやってきた口論義に片手をあげて応じ、司は苦笑いを浮かべた。

 首に双眼鏡を提げた口論義はにやっと笑って懐中電灯で自分の顔を下方から照らし出す。

 たったの、十二時間ぶりの再会であった。



前納の失神描写を描くにあたってR15にするか迷いましたがこのままで行くことにしました



Name:倉内千影くらうちちかげ

Hobby:アウトドア、体を動かすこと全般

Weakness:あずき味とかキューカンバー味の例のアレ

Specialty:倉内流師範代の実力

Skill:小野曰く、「なにかある」。べらぼうに高い身体能力か。

Notes:廉太郎と小野の師、のようなもの。廉太郎の出番を削るので本編には一切かかわってこない



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