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百奇夜行で鬼天烈な。  作者: 留龍隆
GW俗信編
13/38

十三題目 「危険な手なのだぜ」と廉太郎がぼやく

GW編最終章前篇。


「本当に?」


 重ねて確認を取る司に口論義はうなずきかけるが、踊場がうなずきの形を成す前に「いや、可能性のひとつとしてそういうものも考えられるということだよ」と早口に遮った。その反応にはっとした様子で、口論義はあらためて、踊場の言葉の方にうなずいてみせた。


「……そう。可能性のひとつ、ではあるわ。でも一番高い可能性だと思う」

「と言ったところで、その催眠実験の先にどういう目的があるのかわからないというのが問題なのだけどね。まあ、それについてはまた調べればいいだろう」

「捕まえたあとで、ですか」


 口論義と踊場が、今度は力強くうなずいた。そこでごそごそとサワハが自分の肩かけ鞄を探り、近辺の地図を出す。さらに赤いマーカーも取り出して、キャップをきゅぽんと引きぬいた。


「じゃ、はじめるヨ。小野ちゃん囮なって探すはどこそこ?」

「ふむ。そうだね。僕の調べたところ、これまでの事件で被害者が声をかけられたのは雨の日、人気の薄い場所のようだよ。人目につくのを恐れているのだろうね」

「んなの俺でも予想つくわ。範囲どこまであるんだよ」

「もちろんそれだけでは広すぎるだろうね。ただ他の共通項としては、被害者女性たちは皆若年層で、どこか家に帰りづらい事情を持った人物ばかりだったという。たとえば家出中だったり、親と喧嘩していたり。まあこの二つの理由は相互に関連性が高いと言えるけれど」

「……あん? まさか、話しかけられるのを待ってたってのか?」

「五月でも雨が降れば結構冷えるものだよ。若年層ともなれば所持金もそう多くはないだろうからね、ロハで一宿一飯にありつける場所を望んでいたというのは、言葉にこそしなかったらしいけれどほぼ確定なのだろうさ」


 というわけで、と前置きして、踊場は二か所の駅を指し示した。


「夕刻、人通りの多いこの時間に紛れてフォッグマンが獲物を見定めている可能性は十分ある。小野君には被害者の服装に似たものを着てきてもらったし、これよりこの駅近辺をうろついてもらい、それを僕らが尾行することでフォッグマンを捉える。という方向性で行くのだけれど」


 地図から顔を上げた踊場はじろりと廉太郎をにらみつけた。わけがわからないという顔で小首を傾げた廉太郎に、踊場は人差し指を突き付けた。


「その人目につく格好はどういうことだい」

「道場行った帰りだっつってんだろ、耳遠くなったのかよ」

「今すぐ適当な格好に着替えてきてもらおうか。小野君が連れ去られそうになった際、一番早く動いてもらうことになるのは戦闘しか取り柄の無いきみなんだよバカ。そのきみが一番最初から警戒されそうな格好してるってどういうことだいアホ」

「なんだと、お前だって時代錯誤の格好してやがるくせに。拍車のついたブーツはどうした」

「いいから着替えてきてちょうだい廉太郎くん」

「ぬ、会長が言うなら仕方ない……だが踊場も着替えるべきだと思うのだぜ、俺は。なんて言うんだったか、そう、フロンティア精神に充ち溢れすぎだろ」


 最近世界史で習ったばかりの単語をぶつくさと口にしながら、廉太郎は布袋を手にトイレへ消えて行った。残った五人で額を寄せあい、地図に覆いかぶさるようにして駅の位置を見やる。


「……んー、どっちも都市部の駅だけど、どうかしらね」

「こっちの駅のが通りから死角なるは多い場所と思うネ、連れ去るやりやすいよ」

「ですが雨天ならば傘を差している人ばかりですし、視界が狭くなっていますから。それだけでもかなり目撃される確率は下がっていると思いますよ」

「あと死角が多いとしても、そこって大通りから一本入った歓楽街だよね。相手がいるならともかく、相手を探してる最中の女の子が入るかな」

「奥までは入らず出入り口で相手を捕まえようとするのではないのかな?」


 ああでもないこうでもないと話しあいが続き、そこへカッタ―シャツとサマーセーターに着替えた廉太郎も合流して、さらに続く。

 だが時間帯がそろそろ帰宅ラッシュに近付いてきたので、暫定的に決めた駅周辺の数か所から、小野の判断で選んでもらうことにした。彼女が選んだのは駅から呑み屋が連なる通りまでのちょうど中間点で、そこは帰宅ラッシュの直前にして雨天である現在は、エアポケットのように人気(ひとけ)がなくなっていること請け合いだ。

 そわそわと口論義が時計を見上げて、次に小野と目線を合わせた。


「……じゃ、いきましょうか」

「はい」


 短いやり取りの中、二人の間でなんらかの意識が共有されたらしい。三歩後ろで踊場がそれを見て、何か言葉をかけようとあげかけた手を、すっと下げるのが司には見えた。


        #


 灰色の街にばさばさと、瑞々しい原色の傘が花開いている。

 ちらほらと人気が感じられるようになってきている通りの中、小野はシャッターの閉まった店の庇の下で雨宿りをしている、ちょっと不機嫌そうな顔の少女を演じていた。とはいえ元々表情の変化具合が希薄なので、遠くで見ていると普段となんら変わりないように司の目には映った。

 三十メートルほど離れた位置にある喫茶店に入った司と踊場は、窓の向こうでじっと獲物がかかるのを待つ小野を見据えて、温かいコーヒーをすすっていた。小野がじろっとこちらを見た気配がして、寒い思いをしている彼女に対して司は申し訳なく思った。


「小野君にはトランシーバーでも持たせておけばよかったかもしれないねぇ」

「踊場さん、さっきケータイ持たせてたじゃん」

「念のためGPS機能のついた奴をね。ただまあ、なんというか。じれったくはないかい」

「そりゃそうだけど。いちいち小野が『こちら変化なし、どーぞ』なんて言わされてたら気味悪がって誰も近付かないよ」

「……確かに。このメンツの中には遊びそうな人間が二名ほどいるというものだ」


 廉太郎とサワハが交互に小野へちょっかいを出すさまがありありと目に浮かんだ。


「しっかしホントに大丈夫かな。小野は相当強いらしいけど、それでも気になる」

「心配はいらないと思うよ。犬神使いの折には相手が霊体ということもあって対処に難ありだったが、人間相手なら彼女はめっぽう強いのでね。加えて廉太郎もいる。あいつは頭は空だけれど、だからこそ迷わない。ゆえに強い」

「そんなに強いの?」

「強すぎたそうだ。小野君と同じ中学に居た頃は、相当暴れたらしい。あまりに目に余るので倉内流にて鍛錬を積まされた結果、だいぶ更生して現在のアホなあいつが出来上がったそうだけれどね」

「アホって」


 今日廉太郎と最初に会った際に廉太郎の携帯電話で踊場の名が「クソヤロー」と登録されていたのを思い出して、二人の行動があまりにも似通っていることに司は呆れ笑いしか出て来なかった。見られることのないように、口元を隠して笑みを消す。踊場は外を見据えたまま、カップに手を伸ばして暗い面持ちで口の端を開いた。


「迷わないのは、強さに繋がるよ。良くも、悪くも……そう、悪くある時もある」


 踊場はそう繰り返して、残ったコーヒーを飲み下した。外の様子にできる限り注意を払いながら、けれど言葉だけは司に向けている。声音が、真剣さを帯びた。


「きみは――迷いなく目標を定めることはできているかい?」

「目標って、きてれつ研に入ってきた理由、とか?」

「そういうものだね。……ああいや、別段詳しい理由を聞きたいわけではなくてね。ふと気になっただけさ。僕の周囲にはどうにも、目標や道筋のブレそうな輩が多いから」


 誰のことを言っているのだろう、と司は思ったが、踊場が自分の理由を聞かないということが「互いにあまり踏み込まず会話しよう」との意であると理解したので、あえて尋ねるような真似はしなかった。

 少し考え込んで、司は思った。こうしてまた、不可思議な事件に相対している自分の目的。

 答はすぐに出た。それは追い求めるあの呪術師の村に対する目的意識が行動となって現れた結果であり、目標と行動の間には何も迷いや逡巡は無い、と。


「んー、目標と、そこまで行きつく目的はしっかり定まってるつもりだよ」

「そうかい」

「うん。でもそういうこと聞くってことは、踊場さんはなんか目標定まってんの?」


 聞き返せば、踊場は司より意識を逸らして黙り込む。なにか思うところあってのことだと判じて司も黙っていると、踊場は長い沈黙の後にようやく「いや」と否定の意を述べた。続けて小さくうなだれ、韜晦(とうかい)することなくつぶやいた。


「僕が一番、ぐらついている。なにせ、他人の目標に左右される目標なのでね」

「……会長のこと?」

「鋭いね。でもあいつに頼まれてのことではないよ。僕が……僕自身がただ、だいぶ昔に迷った代償を支払い続けているだけなんだ。そして口論義は、今も少しだけ迷い続けている」

「あんなに真っすぐ進んでるように見えるのに?」

「そうでもない。今回のこれも、口論義が目標に到達できないからこそ行っている、代替行為に等しいのさ。すべて、迷いだ。きみの目にも、いつかはあいつの迷いが映る時があるかもしれない。だから先に頼んでおく。あいつのこと、嫌わないであげてくれ」


 司の目を見て、懇願に似た頼みごとを言った。困惑する司は、返答より先に問いが浮かんだ。


「どうして今、突然」

「今回の一件では、あいつの迷いが顕著に表れていたためだよ。前回はむしろ小野君の方が不安定だったが……それは事件の内容が彼女の目的寄りだったからだろう。なんにせよ、これ以上は口論義と小野君双方の理由に触れてしまうから言えないのだけれど、とりあえず気持ちの隅においてほしい。あいつが迷い、弱みを晒すことがあっても。嫌わないであげてくれないか」


 まっすぐに言う踊場に――具体的な内容に触れないまま言うのは卑怯だ、と司は思った。

 でもそれ以上に踊場の真剣さが伝わってきて、無視するわけにはいかないだけの重さを伴って心に響くのを感じていた。できるかどうかわからないことを約束するのはあまり好きではなかったが、押しに弱い司はうなずいてしまう。踊場は苦笑いを浮かべて、ほっとした様子で「ありがとう」と言った。

 少し気が抜けて、二人は小野の方を見る。状況に変化はなく、廉太郎と口論義とサワハからも特に連絡などはなかった。司は肩の力も抜いて、角砂糖を口に放り込んだ。ついでに正面の踊場に口の端を釣り上げて相対し、踊場が戸惑っている様を観察した。


「……にしても、真面目な話をしてくれたあとでこういうこと言うのなんだけど、すごい必死だったね踊場さん」

「いやまあ、その、なんだ。あいつは昔から暴走しがちなのでね、放っておけないのだよ」

「昔って、じゃあそんな頃から好きなの?」

「ぐっ!」


 息が詰まった音をかなり大きく響かせ、踊場はカップに手を伸ばす。横目で司はその行動を見て、「間繋ぎに飲むのはいいけど、そのカップもうコーヒー入ってないよ」と声をかけ、踊場の手は空中で止まった。


「……あのだね、きみ。まだ一カ月ほどしか付き合いがないというのに、そういう話題は」

「一カ月ほどしか付き合いの無い奴に、さっきあんな重そうな話題振っといてよく言うよ」


 窓の外のどこか一点を見つめ視線すら微動だにしない踊場は、司に呆れ声で言われて首筋からすーっと顔を赤く染めた。廉太郎の時とはまた違う反応を司は面白がる。

 が、そうこうしているうちに、踊場が目を細めて視線をぎゅっと絞る。口論義でもこっちに歩いて来ているのかと司も同じ方向を見るが、小野と似た格好の少女が歩いているだけだった。


「ちがう、そっちじゃなく手前だ」


 言われて手前を見ると、レインコートを着た大柄な男がいた。彼は小野の方へ向かっている。


「……これは」「ヒットしたかな?」


 急いで携帯電話を手に取り連絡しようとすると、二人がアドレス帳を開く前に電話がかかってきた。踊場には口論義から、司には廉太郎からだった。


《食いついてきたぜ。だがまだギリギリまで泳がせておく……そっちでも準備はしとけ》

「準備っても、なんの」

「雨天だと効き目が薄れるかもわからないが、司君はこれを持っておくといい」


 口論義も廉太郎と同じ内容を話しているのか、廉太郎の言葉を聞いていたかのように踊場が司に拳を突き出す。掌を出すと拳が開かれ、落ちてきたのは催涙スプレーだった。これを武器に足止めしろということらしい。


「でもこれこっちに渡しちゃったら、踊場さんの武器無くなるって」

「安心してくれて構わないよ。前回の反省から装備を追加した」


 ポケットにまた手を差し込み、黒いボールペンを取り出す。踊場はテーブルに置いてあった紙ナプキンにその先端を近付けると、スイッチを軽く押しこんだ。ビヂっと音がほとばしり、ナプキンには黒く焦げた穴が開いていた。


「……ボールペン型スタンガン……」

《あんだって? おいマルドメ、あの野郎またそんな危険物仕入れてやがるのか?》

「全身凶器に仕立て上げている武装人間に比べればおもちゃみたいなものさ」

《……参るぜ。そろそろあいつを危険性の高い人物として警察に通報しなくちゃならん。もしくは黄色い救急車》

「過剰正当防衛がスタンダードという奴よりはよほど安全性は確かだよ」

《なあ、正味な話、あいつ自分の危険性認識してんのかね?》

「しかしどうせ最初に手が出るくせに、どうしてあいつには無駄に口がついているんだろうね」


 互いに相手のセリフは聞こえていないはずなのに、ほとんど会話として成立しているのがある意味おそろしかった。けれど無駄話をしていようと真剣に会議を行おうと、平等に同じように時は過ぎる。

 大柄な男は、小野に接触し始めていた。肩に手を置く、たちの悪いナンパを思わせる素振りであり小野は嫌がっている。廉太郎に聞こえないように通話口を遠ざけながら、司は一瞬顔を歪めてぢっ、と紙が裂ける音に似た舌打ちをかました。


《ちっ、もうなんかヤバげな感じなのだぜ。おいお前ら! 一応用意しとけよ!》


 司の方で通話が途切れる。と同時に、五十メートルほど向こうの通りの角から廉太郎が駆けだし、小野に詰め寄る。窓越しだというのに、待てやこらああああ、という怒声がびりびりと空中を伝播してきた。向こうの方にいた小野に似た格好の少女が、怒声に驚き逃げて行く。


「僕らも出よう」


 踊場に言われて席を立ち、二人して外に出る。ちなみにこうなることは予期して、料金は先に払っていた。

 男は廉太郎の存在に気付くと身をすくませてから翻し、踊場と司のいる方へと走る。迎え撃つ二人はこれに対し何気ない通行人のフリをして道をあける、と見せかけて二人同時に足を出し男をすっ転ばせた。顔面をアスファルトですりおろしたのではないかと思われたが、油断なく武器を向けつつ男に近付く。


「……うううっうう!」


 突如として、大きなうめき声があがった。これにひるんで一瞬二人の前進が止まった隙に、男は立ち上がり片手で顔面を覆いながら逃げ出す。踊場が先に硬直が解けて、ついで司、廉太郎の順で追う。

 歓楽街の間にある狭い道を次々に選んで、男は逃げて行く。狭い道は曇天と相まって薄暗く、ともすれば男を見失ってしまいそうになるが、懸命に追いかけた。たまに人通りのあるところに出ると、周りの人間がどうしたことかと物珍しそうに四人を見てきた。

 が、男は道に慣れているのか、追っても追ってもほとんど距離は縮まらなかった。じわじわと距離と体力の奪い合いが続いて、追っている側の司たちが精神的には追い詰められはじめた。

 やがて最初に踊場の体力が尽き、司の前で壁にもたれてリタイアした。肩で息をするというよりも息を殺してしまっていて、喋ることもままならないのか手を振ってジェスチュアで先に行けと示す。仕方なく進もうとすると、少し目を離した隙に男が網かご状の大きなゴミ入れを蹴り転がしていて、司は慌ててその場で跳んだ。


「ぐげっ」


 ところが司の身体で隠されゴミ入れが見えなかったらしい廉太郎が、背後で轢かれて倒れる。どうすべきか少し迷うが、廉太郎も追い払うようなジェスチュアで司に前進を促している。ならばこれも仕方なしと判断して、司は男を追う。あっという間に一人になってしまっていた。


「あんの野郎!」


 悪態をつきつつ路地裏から出ると、右手に走る男が見つかった。すぐに追跡を再開すると、男も緩めかけていた足を再度全力に切り替える。まだあれだけの力を出せるのか、と正直もう息があがりはじめていた司は歯噛みした。

 直後、コンビニのゴミ箱が目に飛び込んできた。するとそこにはどういう廻り合わせか、昨日廉太郎が駅に捨て置いたはずの、骨が折れた傘が乱雑に突っ込まれていた。考えるほど余裕はなく、司は走りながらそれを逆手で持って引き抜き、勢いをつけぶん投げる。うまい具合にゆっくりと三回転半して、柄の部分が男の足の間に挟まり、二度目の転倒の間に稼いだ時間で距離を詰める。

 さすがに観念したのか、男は地面に横になったままやめろ、やめろと叫んでいた。何をやめろというのかわからず、司は男に催涙スプレーを突き付けながらレインコートのフードをはいだ。そこにあったのは、擦り剥いた頬を押えながら片手を突き出して降参の意を示そうとする、気の弱そうな目じりの下がった少年である。司とさして年齢は変わらないだろう。


「……で、あんたどういう理由であの子に手を出してたんだよ」

「ちがう、ちがうんだ! 俺はただ、善意で」

「雨に打たれてた女の子を家に誘うのは善意じゃなくて下心だよ、フォッグマン」


 その異名を出されると、男の手が少し下がり、動きがゆっくりになった。やはりそうなのか、とどこか失望の混じった表情で、司は額に手をやった。こんなオチで、おしまいか、と。


「なんで色んな人にちょっかい出してたのさ」

「それは……ただ、違うんだ。今日のことに関しては、本当にフォッグマンの犯行とかするつもりじゃねえんだって」

「じゃあなんなんだよ」

「こんな時にあんなとこうろついてたら、あの女の子も、他の奴らと一緒に殺されちまうかもしれないから……」

「殺され……?」


 物騒なワードが現れたことに、驚きを禁じえない司。これまでのは全て予習に過ぎず、フォッグマンの本当の目的が誰かの殺人にあったのだろうかなどと考えて。


「そーだぜ、だから俺、昨日(、、)もわざと時間ずらして、晴れてる時にやって失敗させたんだ」


 ふてくされた少年のつぶやいた言葉のいくつかが頭の奥に滑り込み、司の中で他の言葉とつながろうとするのを感じた。他の奴らと一緒に(、、、、、、、、)


「……殺す……〝死ぬ〟? まさか、だよね」

「おーい」


 低い声に振り返ると、廉太郎たちが連れ立ってやってきていた。さらに増援が来たことに、少年が呻く。なにせ、増援は四人もいたのだ。

 四人。そう、小野を除いて、


「お手柄、マルドメくん。さすがネ」

「でかしたわね」


 サワハと口論義も、追い付いて来ていた。

 悪い予感が、古傷のようにじくじくと司の腹の内で自己主張しはじめていた。


「……この人お願い。たぶん、フォッグマンの実行犯だから」

「え? もうそんなとこまで聞き出せたの? ていうか、司ちゃんどこ行くの?」

「ちょっと……小野一人にしちゃったから」


 つぶやきを返すと頭の中で最短の道を考え、ひた走ることのみに意識を集中する。駆けだして、また狭い道を巡る。傘もささずに走る身体に打ちつける雨が肌まで通って冷たさを身の内に宿し始めていたが、気にせず駆ける。

 すべて杞憂で終わってくれることのみを望んで、失望のうちに全部終わることを願って。走って、走り続けて。行きでかかった時間の半分で辿りついた時、その願望は正に打ち砕かれようとする瞬間だった。


(いやな予感、第六感だったのかな)


 言葉にして口にすることはできないほど呼吸荒く胸を押えた司が目にしたのは、連れ去られようとしている小野だった。六人の女性に囲まれて、白いハイエースに押し込められそうになっている。女性たちはあくまでも表面上はにこやかで、それゆえに周囲を歩く人間もさほど違和感を感じていないらしい。

 けれど小野の瞳は虚ろで、どこを見ているのか焦点があやふやだった。駆け寄ろうとして、女性たちに阻まれる。そこから先の段取りは一切考えていなかった司は薄っぺらな笑みを浮かべて無言の圧力の下に制止をかける女性たちに、どう切り返すか考えて。

 いちかばちか、演技することにした。


「……あの」

「はい」


 冷たい声に、見抜かれているのではないかと心が折れそうになった。かといってもう退くわけにはいかず、司は小野と知り合いであると気付かれないように注意を払いながら、とうとう賭けに出る言葉を口にした。


「――〝夕べから奇異〟という方のスレッドを見てたものなんですが」


        #


「……くそっ! 出やしねぇ」


 廉太郎が乱暴に電源ボタンを押し、無機質な留守番電話センターの音声を掻き消す。雨の降る中で傘もささずに立ち尽くす四人は、周囲から奇異の目で見られながらも手掛かりを探していた。ただ一人、骨の折れた傘をさしている少年は、頬の擦り傷を押えながら恐る恐る四人に追従していた。


「しかし、ここの壁の辺りに残っていた赤い液体と臭いは僕の催涙スプレーのものだ。司君がメッセージのつもりで残したのだろうが……正直これだけでは『まずいことになった』ということ以外は何もわからないというものだね」


 落ちていた司の携帯電話と小野のGPS携帯電話を拾い上げて、踊場は悔しそうに言った。


「マルドメも電話はつながらんし、こいつは大して役に立たんし」

「はあ、まことにすいません」


 廉太郎の剣幕に押されて少年は思わず敬語になってしまう。ぶつくさと文句をたれながら、廉太郎は少年を指差した。水滴がついて鬱陶しいので眼鏡を外しているのだが、素の目つきがあまり良くないためか、廉太郎の目に射すくめられるたびに少年はおびえていた。


「さっきの話がホントなら、お前覚悟しておけよ。人の生き死にに加担しちまったかもしれんのだからな」

「まじっすか」

「マジだよ。まさか被害者にまだ災難が降りかかってたなんざ、思いもしなかったぜ」

「……というか、わざわざ被害者さんに似た格好してこんなとこうろついてたなんて、みなさんはどういう関係の何をしているグループで、」

「あんま深く知ろうとするな。身が危うくなるぞ」


 片手を突き出して追求を制した廉太郎はうまく説明のステップを省き、圧力をかけるだけかけてから踊場、口論義、サワハの三人と輪を成して話をはじめる。


「要はこいつ、ただの実験のために駆り出された捨て駒だったってことだろ?」

「そのようだね……ああくだらない、くだらない奴のせいでくだらないことになってしまった」

「すんません」

「謝るするくらいなら、するしなきゃいいノに。ばかネー」


 三人にぼろくそに貶されながら、少年は肩幅を縮めて小さくなっていた。口論義は壁に背を持たせかけて灰色の空を眺め、自分たちがかなり見当違いの方向を追っていたことに嘆息した。踊場がその横に寄り添いながら、状況整理を始める。


「目的は次の行動にあって――六つの事件は、実験のための実験にして準備でもあったとはね」


 少年の言い分によれば、フォッグマンは全員ネット上で雇われた愉快犯にすぎなかったのだという。目的は明かされることなく、ただ「配布された音楽を雨の日に流しながら」「指定の言葉を指定のタイミングで指定の場所で言い」「相手の反応に応じて選択肢から言葉を選び直し」「時折簡単な命令を挟んで相手が従うか確認しろ」とのことだったらしい。


 その先にあったのは、実験結果を元にして行われる恐怖の本番(、、、、、)


「……して、そんなくだらない実験で、きみは一体いくら貰ったんだい」

「いやあ、そんなにもらってねっす。二万くらいっす」

「本当は五十万エンとかもらってたりするはないのカナー?」

「あははは、ないです、ないです」

「へえ……いい御身分ねぇ。そんな仕事で五十万もらえるなんて。あたしだってやりたいわ」


 虚言看破で発言の真偽を見抜いた口論義の発言に、少年は固まった。だが少年を驚かせるためだけに口論義が能力を使うはずもなく、さらにこの金額から推測をはじめた。


「一応犯罪、だけど安全度はそれなりに保障された仕事。で、五十万もらえる。黒幕はよほどの酔狂か、金の有り余ってる大富豪かってとこよね」

「人物像よりも着目すべきはおぞましいまでのその目的だと思うね。フォッグマン事件はただの催眠実験で、段階を踏んで行きつく先が……まさかこんな大問題とは」


 踊場と口論義が言葉をかわしていると、首を横に振りながらサワハが間に割って入った。


「答え探しあとあと。そんなんに必死なるで時間なくなってたら、それこそ笑えないのコト」

「だが追いかける手立てもないのだよ?」

「ん、そうでもないヨ?」


 サワハが言うと、四人から注目が集まる。頭を掻いてから顔に滴った雨水を拭い、サワハは片目を閉じた。そして開いたままの目の前に、左手をかざす。あ、と廉太郎が声を漏らした。胸ポケットに手を当てると、先ほどしまった廉太郎の眼鏡がない。サワハの口がにやっと笑みをかたどる。


「ぶっちゃけ、マルドメくん私生活覗き見しちゃおーかとも思たケド。正解だったのはあとにとっといたことだったネ」

「……おいまさかお前、先月入院した時に能力説明してからマルドメに触ってたが。冗談抜きでマジにレンズ設置してやがったのか」


 感づいた廉太郎が問いかけると、間の抜けた声でサワハはピンポーンとつぶやいた。

 そして眼鏡をかけ、かざした左手の向こう側に、彼女のみが視認し得る世界を見出し。脳内に鮮明に映し出される情報を取捨選択しながら、司の現状把握に努めた。


「んじゃいくヨ。追跡、開始」


 ぐぐっと、視界が移動する。そこは車内のようで、スモークガラスの向こうにはどこまでも続く壁が見えた。隣には小野が眠っているのか首を傾げた状態で司に向かって倒れ込んでおり、その向こうのガラス越しには追い越し車線をクラウンが走り抜けていくのが視えた。

 サワハの視界が正面を向く。頭上を看板が過ぎ去ろうとする。


「緑の看板……? 鳥森、って地名カナ。まっすぐな道……」

「その地名ならすぐそこよ。でもまっすぐな道って……ああそっか。現場(ここ)からならすぐに高速に乗れるものね」

「なに、もう高速に乗っちまってるのか?」

「そだネ。三重県の方にずーっとすーっと進んでってるヨ。乗ってるの人は隣に小野ちゃん、あとは知らない女の人たくさん」

「……その女性たちというのは」

被害者たち(、、、、、)。そうなのね?」


 確認をとるべく口論義が少年を見やると、彼は静かなうなずきと共に、罪悪感でいっぱいと言いたげな表情をみせた。終わってしまったことをとやかく言っても仕方がないが、口論義は一言「最悪ね、あんたも」と吐き捨ててからがしがしと濡れそぼった髪をかきあげた。


「まさかこんなことになるなんてね」

「だがどうする会長。追いかける方法がないぞ」

「こうなりゃタクシー拾うしかないでしょ。お金が心配だけど」

「へい、ツクツク!」


 サワハがレンズを発動していない方の手をあげた。三輪の車なんて日本じゃそうそう来ないだろ、とサワハを除く三人は思った。ところが、口論義たちから三メートルくらいの位置で止まる車があった。

 けれどそれはキャラバンだった。ヒッチハイカーかよ、とサワハを除く三人が思いながら、ワイパーで雨を拭ったフロントガラス越しに運転席の人間を見ようとした。ぎー、とゴムのすれる音がしてパワーウインドウが開かれ、雨の中に車内から煙が放たれる。


「――あれ、きみらそんなとこで雨に打たれて何してんのだね」


 乗っていたのは、空き缶の山を後部座席に積んだ赤馬だった。


        #


 ハイエースに乗せられた司と小野はじわじわと移動させられていく。司の肩に寄りかかっている小野はぐったりしており、意識はあるものの身体が上手く動かないようだった。腹部を片手で押えていたので司がどけてみると、ブラウスの隙間から肌が赤くなっているのが見えた。電流斑だろうか、と司はあたりをつける。


「すみませんが彼女には少々手荒なことをさせていただきました」


 助手席に座る女性が言う。歳は二十代半ばといったところか、薄茶色でカールしたショートボブの髪の隙間に、青白く痩せた顔が見え隠れしていた。質素で飾り気のない白いチュニックと、黄土色のフレアスカートを着ているが、その地味な服の印象にさえ埋もれ消えてしまいそうに思えるほど、生気のない顔色である。

 ぼそぼそと喋る声音にも張りが無く、見えるか見えないかわからないくらいに細い糸のように、ゆらゆらと車内の空間を漂うばかりだった。


「以前にお会いしました際にはこのようなことはなかったのですがね。日にちが経つにつれ精神に変調をきたしたのやもしれません……ところで、あなた様はわたくしと(なな)(なし)さんのやりとりを見ていらした一人なのだそうですね」

「あ、はい」

「わたくしは夕べから奇異という名であのスレッドを進行させておりました、加良部(からべ)(ゆき)と申します。短い間ではございますが以後お見知りおきを。あなた様のお名前はなんとおっしゃるのですか?」

「えと――丸留司(まるどめつかさ)。です」


 とっさのことで司は、廉太郎が呼び始めた名前を名乗っていた。加良部はふむふむと不思議そうにうなずいて、後部座席を向いていた首を正面に据え直した。その横顔を二度三度と見て覚えた司は、確証こそ持てないものの、やはり会ったことがあるように感じた。加良部とは、昨日訪れたネットカフェにて出会っているのだから。同じ245の部屋を使い、すれ違って。

 加良部の方は何も気づいていないらしく、ルームミラーに映る司の顔を見向きもしない。ただ平坦な声で、平凡な答えを返してきた。


「マルドメさんですか。良いお名前ですね」

「どうも。でも、いきなり参加する形になってしまってすみませんね」

「……そうですね。実を申しますと本来この道程には、そちらに居る橋本さん」


 と言って、加良部は小野を手で指した。被害者の服装に似せたことによる効き目は、こんなところで表れてしまったらしい。思い返してみると、出現したフォッグマンを追いかける直前に、司は小野に似た格好の少女を道の向こうに見た気がした。どうやら小野は、その橋本さんと間違って捕えられたらしい。

 そこで小野がぎゅっと、司の袖を引いた。……司は何も言わず、その手に自分の手を重ねた。


「――彼女をお連れすることでおしまいとなる予定だったのですがね。しかしマルドメさんは我々の立てたあのスレッドをご覧になっていらっしゃった御方のようですし、七無さんの条件にも合致しております。よって、この往路のみの旅に同行することになんら問題は発生いたしません」


 簡潔にそう述べて、加良部は深くシートにもたれた。長く、浅い溜め息がすうっと漏れる。

 退廃的な、気だるい雰囲気が車内を支配していた。誰もがそれに則って退屈そうに見せているかのように、司には感じられた。どの人物も顔色に生気がなく、苦しさに胸を圧迫されている悶絶の表情を浮かべている。

 そうした辛さが感じられないのは、ルームミラーに映る加良部だけだった。皆一様に死人に近い色合いの顔を晒している中で、彼女だけが異質だった。まるで、もう生きながらにして死蝋と化したかのような、行き着いてしまった表情を見せていた。


「ごゆるりとお(くつろ)ぎくださいな。これでおしまい。そう〝ぜんぶ〟がおしまいになるのです」


 濁りきった瞳は動かない。生きている人間の中でこれほど死を見越した目を見たのは、司としても初めての経験だった。それゆえに危うさを知らせる第六感が、皮膚の表面そこかしこに、ひどく濁った汚らしい泥がへばりつくような感覚を覚えさせている。

 とはいえ命の危険を知らせるその感覚から逃れたくとも走行中の車内から逃れる術があるはずもなく、司はその幻覚を「失せろ」との一言で掻き消した。……皮膚の内外を這う悪寒が消えたあとも、蔓延する淀んだ負の気は消えてくれなかったが。

 そこから意識を逸らすためにも、司は加良部に話しかけた。うろんな目つきの加良部は、若干疲れた色をかすれ声に孕ませてはいたが、律儀に丁寧に司に応じた。


「どこまで、走るんですか?」

「ああ……そうですね。けれど、どちらまで行くとて結局は同じです」

「おなじ?」

「ええ。方法の差異も些事にすぎません。わたくしたちの行き着く場所は、息つける場所は、今やこの世のどこにもないのですから。しかし七無さんのお言葉を無視するわけにもいきませんので、道の先にある峠に位置を定めようかと思っておりますよ。〝ぜんぶ〟であるみなさんのご意思にも、よりますが」


 ぜんぶ。加良部は車内の女性たち、一言も語ることなくただ望洋している彼女らを、そう呼んだ。それはあのスレッドにて七無と話し合っていた「同じ思いでいる人」であり、すなわち――加良部と共に集団自殺を行う仲間のことである。


(フォッグマン事件は、全てを実行に移せるか試すための実験であり――同時に実行に移す際の下ごしらえでもあったんだ)


 司はそう推測した。

 フォッグマン事件。催眠実験。それは今ここにいる〝ぜんぶ〟を作り出せるか試すためのものであり、作り出せた場合は〝ぜんぶ〟で実行に移ることができるようにするための下準備でもあったのだと。


(ちらっと見ただけだから確実にそうだとは言えないけど、たぶん合ってる。この〝ぜんぶ〟の人たちは――)


 車内を見渡して、女性たちの顔と頭の中に浮かべた写真の顔が脳内の画像と一致するか確かめる。その顔を以前見た(、、、、)のはちらりと一瞬、しかも一度だけだったとはいえ、見たのはついさっきのことゆえ容易に判断はできた。顔は全て一致している、と。

 踊場の持ってきた被害者女性たちの資料にあった、被害者たちの顔写真(、、、)と一致している、と。


(くそ。赤馬さんのとこでやった被害者たちの共通項洗い出しの時にも、昨日の夜スレッドを開いた時にも、妙に感じてた違和感……これだったんだ。フォッグマン事件も、七無のスレッドも、どちらも対象者が女性(、、、、、、、、、、)に限定されてること(、、、、、、、、、)


 事件の後に、被害者たちはこう語った。「いつの間にかフォッグマンはいなくなっていた」「いつ出て行ったかわからない」「霞がかっていて思い出せない」と。おそらくはその空白の時間こそがしっかりと催眠にかけられた瞬間のため、忘我の状態だったのでは、と司は推測した。そしてその催眠とは、フォッグマンたち、そして加良部が深層意識下に植え付けた命令である。

 命令とは言っても「共に死のう」などといったものではない。そもそも、人間には己の命を守ることが本能として刷り込まれているのだからそんな命令は土台無理な話なのだ。だからそこにあったのは、踊場たちが言っていたように「反抗する意識を失わせる」ことにより、施術者であるフォッグマン、ひいては黒幕である加良部の意に賛同させること。

 俗に言うところの後催眠暗示である。ただ、後催眠は一定の条件下で発生する無我の状態、いわゆるトランスに入らなければ発動しない。無意識下に刻まれた暗示は、通常の意識下では思い出すことすらないはずなのだ。ではそのきっかけは――


「雨、か」

「どうかなされましたか、マルドメさん」

「いえ、何も。今日も雨降りだな、と思って」

「左様でございますか。ええ、雨ですね。とても快い、心地良い雨の日です」


 暗示は、暗示をかけられた時と同じ条件下になった際に現れることが多いという。それ故に仕掛けた後に解除しなければ日常生活の中で支障をきたし、果ては人格の崩壊まであり得ると、雑談中に踊場と口論義から話を聞いたことがあった。

 フォッグマンが犯行時に雨天を選び続けた理由。それは雨のリズムとイメージにより自動的に発動する後催眠により、被害者の女性たちを意のままに操るためのものだったのだ。


(それら実験を行う場所を公共の場から他人の家まで幅広く用いたのは――あえて犯罪とすることで街中、もちろん被害者たちも含んだ街全体に警戒させてなお、催眠が有効か試すため。わざわざ監禁にしたのも、そういう意味かな。警戒させることが目的で、別にどんな犯罪でもよかったから)


 ついでに付け足すなら、逃げる途中で家主が帰宅してしまった場合、鍵が開かなければ時間稼ぎになるからだろうと司は思った。あれは閉じ込めるための監禁ではなく、フォッグマンたちが出払ったあとで後催眠をかける際に、家主と遭遇しないために用意した加良部の()だったのだ。

 ――事件の全貌は、裏側までようやく見透かすことができた。

 が、時すでに遅し。司と小野は敵地の真ん中に入り込むことで真相を手に入れたが、その真相を持ち運んで逃げる時間はなかった。一人の人間が生んだ死を求める意思が渦巻き、底なし沼のように司たちを絡め取っている。


「……良いですね。やはり殿方の存在しない空間というものは、落ち着くものです」


 加良部は何の感慨も湧かないという顔でつぶやき、ますます深くシートにもたれた。そのようなセリフを言われてどう対処したものかわからず、司は曖昧にはあ、と一息の返答を吐いた。加良部はそれにも動じず、応じる。


「心配なさらずともよいのですよ。おわりだけは誰にも優しく、等しいですから。無論、このことを理解することのできない方々が多くいるのも事実ですがね、本当は誰しもがどこかでおわりを求めているはずなのです」


 司は答えずに、隣で肩を寄せる小野を見た。ようやく身体の自由が利くようになったのか、彼女はふるふると青ざめた唇を震わせ何事か伝えようとしている。司は首と耳を、小野の言葉に傾けた。けれど音は耳で拾えず、目で見て口の動きで判断するしかなかった。


「終極でなく絶頂、逃避ではなく反抗だということを誰も理解しようとしません。理解が及んでも認めません、聞かず認めず知らんふりです。そうしてわたくしたちの何もかもが許され得ないというのに、最後の遺志にさえも皆が耳をお塞ぎになるのです。ではどうしろというのでしょうね?」


 鼻を突く臭いがあった。またも第六感に何か感ずるものがあったのかと思い周囲を見渡すと、何のことは無い。加良部の居る助手席から、ふすふすと湿気た煙が流れてきているのだった。一吸いしてしまっただけで頭の中で脳がぐりんと反転したような気分を味わった司は、耳を小野に寄せたまま袖で口元を覆い隠して、小野にも同じようにして煙を吸わせないようにする。

 そんな二人の様子も車内の女性も気にした風ではなく。加良部は沈んだ張りの無い声のまま、台本でも読み上げるように淀みなくすらすらと喋った。


「続きが続いてどこまでもいって、それでおわりが無いなどということがありえましょうか? ありえないでしょう。過去から続いてきた歴史に重みはあるでしょうが未来がきておわりがくれば無いも同然、だったらいっそ未来に抗って道を選ぶべきではないのですか? 困難に抗わないことは不幸で自慰に(ふけ)るに等しいと言うではないですか」


 わかりづらい主張を述べつつ、車の揺れとは明らかに違う周期で、加良部の首が揺れる。

 が、そこに紡がれる言葉には、納得しかけてしまう部分も多く含まれてはいた。とくに司にとっては、怨嗟のように言の葉を振り絞る加良部の姿が、これまで接してきた霊に重なって見えたのだ。

 世界を恨み、息絶えてからも恨むことで世界に執着した者どもの顔が、ふっと脳裏に浮かんでは消えた。辺りを見回せば、司には視えてしまう気がしてこわくなった。


(……きっとこれは死者の怨念と、変わらない。それしかできないから、精いっぱいそれを以てこの世に反抗しようとするという点で)


「わたくしは安い同情を煽るべく不幸を強調するのではありませんよ。決してそのような意図ではございません。わたくしはあくまでおわりを望むのみ。けれど一人ではいけない、それはいけない。同じ痛みを抱える者がいる限り、わたくしも辛い。だからこそ共に思い同じくする者を集うたのです」


(なら、それを止めるべきじゃない気がする。ここでおわるのかおわる先で長く待っておわるのかわからないけど――)


「このことのみが、わたくしの最後の遺志なのです」


(――それが、意思なら。遺志なら。邪魔するべきじゃ、)


「  、   。   」


 聞きとりづらい音が、思考の間を縫って現れた。

 加良部が語るその間も、小野のささやきは続いていたのだ。司は煙が染みて考える力の低下していく頭の中、おもむろにもう一度小野の言葉に耳を澄ます。しかし伝えたいものがあったというよりは、うわごとのように近くの誰かに話しかけているだけのようだった。


「もしくは、この世の他の人々がおわりも道の上であると認めないのなら。それは自らの足下を泥沼であると認めるに等しいのではございませんか。ああ。もういっそ、全部が〝ぜんぶ〟でわたくしと共に思いを同じくすればよろしいのに」


 ひふ、ひふっ、と痙攣した呼吸音を言葉の端に混ぜて、やがて加良部は窓の外へ燃え尽きた葉を捨てた。外からの風で少しは換気がなされ、司はせき込みながら新鮮な空気を取り入れた。だが一度頭まで回った煙は平衡感覚を蝕んでおり、車が少し揺れるだけで頭が左右に振られた。他の乗客の女性たちも、似たような状態にある。世界が、傾いていた。

 ……その中にあって小野がささやく言葉だけが、司にしっかりと足下を認識させていた。聞こえづらく、内容がつかめないにもかかわらず。ひたすらに、現実的な重さを伴って。


「少しつつけば皆、中身は同じではありませんか。ああ、これは貶すつもりではなく本心から、同一であるとの意味合いですよ。わたくしだけが特別どこか風変わりというわけではございません、皆様同様におわりを望む心持ちを有していらっしゃる」


 ともすれば口から臓器が漏れ出て、身のすべて裏返しになってしまいそうな吐き気の中で、確かに小野だけが現実の重さと一緒にそこにあると司には感じられていた。煙のために思考を惑わされ、刻一刻と移り変わる意識の奥底まで、小野のささやきのみが届いていた。


「皆様、生きながらに死んでしまっている不幸なる部分もあるのですよ。わたくしが正にそうですがね。そうであるならば――人を呪うこともあるでしょう」


 加良部の声が、遠く、響き、こだまして。


「……   、     。   、   」


 小野の言葉が、近く、弾け、目覚めさせた。


 司はポケットから小刀を取り出し、小野と重ねた左手を離すと自らの膝の上に下ろす。息を整え、その呼吸でまだ薄く取り巻く煙に意識を呑まれかけ。

 急ぎ鞘を払うと、親指の付け根の肉が厚い部分めがけて、短く構えた刃先だけを突き刺した。ところが浅めに刺すつもりだったが平衡感覚のみならず遠近感も狂っていたらしく、刃が骨にふれた感触が激痛として脳と神経をひっかいた。掌で血が噴き出し、視界に星が飛ぶ。貧血の予兆に似た感覚がぐっと司を通り抜けて。

 その衝撃で脳の位置が正常に戻った、とも感じられた。世界の傾きが、尾を引きながらも正常な位置を定めていく。とはいえ運転手も薬に酔わされたのか、ハンドルさばきが覚束ないので横揺れだけは残っていた。血と共に薬の作用が抜けていく感覚に、しばし司は身を任せた。


「…………あー、痛……」

「いかがされました、マルドメさん」


 掌を押えて止血する司に、虚ろな加良部の声がかけられる。

 本心から心配しているわけでもない、なんの感慨も無い声。希望も、展望もない。反抗する気力すら残っているか怪しい声である。惑わされるほどのこともない、催眠にかけられるはずもない。気付かないように少しずつ音量が上げられ、聴覚に訴え続けていた催眠用の曲目も、わかってしまえば跳ねのけることは十分できる。くだらないと断ずることも可能だ。

 ずっとそのことを教えてくれようとしていた小野に、司は感謝の目線を向けてから。

 向き直って、ルームミラー越しに加良部を睨みつけた。吹き出す不満に似た言葉を自分の中に押え蓄えて、まとめてから叩きつける。加良部に向けて。


「……ま、そうだよね。誰にだって不幸な部分はあるよね」

「そのとおりです」

「ならそれは他人には理解できない、自分だけのものであるとは思わない? 特別な、己をおわりに導く道しるべとしての、さ。……もちろん、決していいものじゃないけど。でも自分だけのものって意味じゃ、悪いものの中では良い方じゃない?」


 小野が薄く目を開いて、隣で険しい目をしている司を見る。

 その目にはどこか、見覚えのある鈍い輝きが宿っていた。

 そして司の問いかけにも、加良部はやはり、何も感じない、考えていない顔でつぶやいた。


「ええそのとおりだと思います」


「じゃあ――――人を巻き込むな、バカ野郎」


 吠えるように言い放った司に、何の感情も現さない顔で加良部は振り向く。ところがその後、凶悪なまでに歯をむき出した、嫌悪感に満ちた顔で司を見据えた。否、司の、後方を見ている。

 視線の先に気付いた司が振り向くと同時に、大きな震動が車体を揺るがし貫いた。


戦いの収束へ向けチェイスはさらに激化し、加速する。

次回GW編完結。結局最初の二日しか動いてないのは気のせい。


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