十二題目 「追い込みを、はじめよう」と踊場が宣言した
GW編おわりかけ。
しとしと降り始めた水分は、狭い室内を満たして蒸すように、隙間からじくじく沁み込んできていた。そろそろ帰るべきだろう、と折り畳み傘を取り出したサワハと口論義が最初に外へ出て、踊場も自前の傘を掲げた。小野は踊場の横に入った。
廉太郎は近辺を見回して骨が何本か折れた傘を発見し、なぜか誇らしげにそれをさして歩く。少し嫌だったが他に方法も無く、司はその横に入って、後ろで手を振る赤馬に会釈を返した。
だが駅に着く頃には、廉太郎との身長差もあいまって横から吹き付ける雨にさらされ、司はすっかりずぶ濡れになっていた。仕方ないので犬のように身体を震わせて、廉太郎に水滴を浴びせてやった。
「なんだなんだ、せっかく横に入れてやったのに」
「あんた傘の骨折れてる方をこっち向けてたでしょ。おかげでほとんど傘の意味なかったよ」
「早く言えよ」
「言ったのに聞こえてなかったんだよ」
「そりゃそうだろ。雨音に耳を傾けてたんだ、俺は」
たたんだ傘を駅の片隅に放置して、廉太郎は澄まし顔だった。かすかにいらっとした感情を頬ににじませた司は、頭の上にも載った水滴をタイルの床に散らして言い返す。
「ポエミーなこと言ってないで反省してほしいんだけど。これ、同じこと会長にやったら男として完全にアウトだよホント」
「なに、それは真か。っていうかお前、なんでそこで会長が出てくるんだよ」
「会長からの好感度下がったら困るんじゃないの?」
「困るに決まってんだろ。いや、だから、なんでそういうの知ってるんだよ」
ずいっと進み出て、険しい顔になる廉太郎。小野から聞いたということを語ればどんな反応が返ってくるだろうかといたずら心が頭をもたげたが、廉太郎の陰で立てた人差し指を口元に当てている小野を見てやめておくことにした。
「廉太郎さんも踊場さんもわかりやすいから」
「ばかな。あの野郎はともかくとして、俺は巧妙に隠していたはずなのだぜ」
「そこはほら、隠しきれないくらいの感情だったんじゃない?」
「そうなのか? ……そうかもな、うん」
適当にはぐらかした司の答えに自分で解答を見出したのか、しきりに廉太郎はうなずく。
司を先頭に改札を抜け、階段を降りていく。先にホームで待っていた三人に合流し、小野が階段から降りてきたと同時にホームへ停まった列車に、ぞろぞろと乗り込んだ。降り出した雨と祝日の夕方という時間帯のせいか、少し車内は混んでいて空いた席は少ない。六人は散り散りに分かれて、司は小野と二人で腰かけた。
「ふう、ゴールデンウィーク初日からやたら働くことになった……」
「けれどこれで少しは、事件の全容に迫ることができそうです」
「ま、それはそうかもね。今日の日中は快晴になったりしてたけど、今は雨降りだし。フォッグマンの出現条件は整いつつあるよ。あとは、鬼が出るか蛇が出るか」
それから、帰り路が途中まで同じである司と小野は、各々の最寄駅で下車して帰っていく四人を見送りながら、最後尾車両の片隅でちんまりと座りこんでいた。小野はおもむろに携帯電話を取り出してみたりするが、走行中の地下鉄ではネットに繋ぐこともできず。溜め息と共に手持無沙汰になった右手を、ぽいと横に投げだした。
ぽすん、着地したのは司の膝の上で、ん、と反応する声をあげた司から、小野は慌てて距離をとった。
「? なんかあった?」
「いえ、気を悪くされるのではないかと思いまして」
「別にちょっと触ったくらいでは怒らないけど。でもそういう配慮をしただけってことは、そろそろ他にだれかいない状況にも慣れてきた?」
とられた距離よりも少し多めに、司は小野の方へ寄った。小野はおずおずと司の様子を伺うような所作は見せたものの、別段嫌そうな顔はしない。ただ左手で右腕を押えて、うーんとうなった。
「だいじょうぶ、みたいです」
「そっか。じゃ、ようやく親しい人間として認めてもらえたのかな」
「なんだかそういう言い方だと、わたしがやたらと相手に格付けをしているように聞こえます……でもそうですね、たぶんもう、一日中二人だけで行動しても、おそらく支障はないかと」
「あ、そう?」
そこで司は前納たちとの会話をふと思い出し「なら連休中に映画でも観に行く?」と訊ねようとして、映画というフレーズから先ほどの個室シアターを思い出して、さらには廉太郎との会話であった「やましいことにはうってつけ」というセリフも思いだして、そうこうしているうちに小野のセリフで誘いの言葉の出鼻をくじかれた。
「もともとわたしのこれは、引っ込み思案とか恥ずかしいとかではなく、どちらかというと警戒に近いものですから。司さんが害意の無い人だとわかったので今は平気です」
「……警戒……」
「ええ」
うすく微笑んで言う純朴そうな小野に、口に出しかけた言葉を投げかけるのは躊躇われた。特に、廉太郎との会話を想起しながら言うものではないと、自制する気持ちが生まれていた。
「どうかしましたか」
「なんでも……うん、なんでもない。いやあ、警戒はしておくに越したことはないと思うよ、はははは。はあ」
空笑いがむなしく響いた。そんな司の意図がわからず、小野が首をかしげたところで、列車は速度を落とし始め、次の駅へ着く準備をはじめる。降りるのであろう人々が、わずかに身じろぎするのも見えた。
「警戒しすぎるのも難ありだとは、自分でも思っているのですけどね」
「なんか警戒しちゃう理由でもあるの?」
「それなりには。警戒と一口に言いましても、内側にあるのはいろいろな理由でして」
「ひとつじゃ、ないんだ」
「はい」
口調が重たいものに変わる。あまり踏み込むような話題ではなさそうだ、と感じた司は話題を変えようと思案しつつ正面を向いた。真っ暗なトンネルの闇の中に浮かぶガラス窓には並ぶ司と小野が映り込んでいて、その中の小野は司の目を射抜くように見つめていた。
口を動かして、小野は司に自分の意図するところを伝えようとしていた。司は今度こそ目をそらすわけにはいかず、その目を見つめ返して、居ずまいを正した。
「――しかしその内のひとつは、もう憂慮する必要もない状況になりました。だから、ここで司さんにお尋ねしておきたいことがあります。……カノエ・ミフネという名に心当たりはありませんか」
「カノエ」
「字はわからないのです。その読み方しか、わかっていなくて」
期待を込めた視線が、ガラス越しに司へ届いていた。落胆させたくなくて、司は遠い記憶までさかのぼってその名を探したが、頭の中のどこを探しても見つかりそうになかった。幼少の頃、祖父母と暮らした記憶の中にも、見当たらない。
「…………いや、あいにくと聞き覚えないや」
「そう、ですか」
無念そうに、小野は顔を曇らせて下を向く。視線が逸れたのをいいことに、司もあさっての方を向いた。
だから小野の顔を目にすることはなかった、のだが。続いて聞こえた底冷えがするような刺々しく凍てついた声音は、表情を想像させてあまりあるほどの寒々しい印象を司に与えてきた。
「では、その名を覚えておいてください。それが――仇。わたしの追う呪術師です」
正面に視線を戻し小野の顔を見ようとした時には列車はホームへと入り込んでいて、明るいガラスの向こうに映る司と小野の像は薄れ消えていた。横を見ると、膝の上で拳を握った小野が語りかけてくる。
「家族の方やお知り合いなどからでも、話の上で耳にしただけの情報でもかまいません。もしなにか情報が入りましたら、お願いします。わたしに、ご一報ください」
「けど小野、」
「ではまた明日」
まだ小野の降りる駅ではなかったはずだが、ぱっと跳び出して閉まりかけた扉の向こう、ホームへと降り立つ。動きだした列車の中で腰を上げかけた司は、ゆっくりと元の位置へ腰を下ろした。そうしているうちにホームの雑踏の中へ、小野は歩いて消えていった。
夜。適当にありあわせの材料で自炊した夕食を済ませ、風呂からあがって部屋の布団に寝転がった司は枕元に置いていた携帯電話を手に取り、展覧列挙集にてここまでの事件のまとめを見ておこうと思い立った。
その際に、カノエミフネという名が気になり、試しに展覧列挙集の検索に打ちこんでみる。すると該当する項目はあるにはあったが、全文が『調査中』となっており具体的にどういう奴なのか、なにがあったのか、さっぱりわからなかった。
「あんまり出歯亀みたいなことすると、嫌われるかな」
ひとりごちて、展覧列挙集から普通の検索サイトへ跳んだ。そして昼にネットカフェで開いたサイトの名前を検索し、〝夕べ〟と〝七無〟の会話に続きが出ていないかとスレッドを探す。幸いにも書きこむ人数が二人ということもあってか、まだ終わったり消えたりしていなかった。
そして、新たな書き込みがあった。
「ぜんぶ の選定が終わりました」
文面から察するにこれは夕べのものだ、と司は思った。しばらくすると七無からも書き込みがあって、「ご苦労様でした。全てが円滑に進むことをお祈りします」と励ましの言葉がかけられていた。これに対して夕べから「少々手間取ることもありましたが 協力者の男性は除いて、やはり女性のみで行うことにしました」とある。
(そういえば女性だけで行う方がいい、とかアドバイスされてたっけ)
こう思い返して、小野や口論義やサワハが誘われたりしないことを司は祈る。
スクロールしてみるとその後も二人のやりとりは少し続いて、男性がいない状況が好ましいと念を押す七無と、なんらかの過程で男性が協力していて、その彼らを除いて決行する方法について夕べが問う、という内容が綴られていた。
あとは、昼の書き込みにもあったように場所は峠が、加えて時間も夜半過ぎて二時ごろが良いと七無からのアドバイスがあって、新しい書き込みはそこで止まっていた。携帯電話を投げだしてごろりと大の字になった司は、今読んだ内容を反芻しながら天井の蛍光灯を見上げて、静かに目を閉じた。
(自殺ってのは、どうにもね……対処しづらいというか、なんというか)
どうせ死んでしまっても、そのうちのいくらかは霊体となってこの世をさまようことになる。ならば生前とあまり状況は変わらない、いやむしろ悪化とさえ言えるのだ。なにしろ霊になってしまえば司のように視える人間以外には、干渉することすらおぼつかないのだから。
(おまけに、集団自殺)
群集心理。踏みとどまれるところにいる人間が、集団となることで踏みとどまれないように自分と他人を追いこむ。それは自死でありながら、司には殺人につながる行動のように思えた。
またそれを幇助した〝七無〟が、とても恐ろしい存在に感じられた。
「一週間もしたら、女性ばかりで集団死、なんてニュースになっちゃうのかな。……女性ばかり、かぁ。ん?」
自分で口にした言葉に、司はまたもどこか引っかかりを覚える。喉元まで出かかっている言葉があるように思われたが、頭の中で何と結びつけた言葉なのかがわからないせいで引っかかったまま出て来ない。
自分の考えを正しく認識するべく再びスレッドを開いた司は、しかしそこに綴られる文面を見て、指が止まった。ここの書き込みであれば、この自殺を考えている人間に言葉を届けることはできる。それならばたとえ微力であるにしても思い留まらせる言葉を書き込むべきではないか、と考えて。
一分ほどの逡巡の後に、司はまた携帯電話を閉じた。
(…………これ、止めるべき、なのか? なんか違う、気がする)
この〝夕べ〟という人物も他に方法がないほど追い込まれているという点では、恨みを晴らすべく他者を呪い自分の情念を燃やし尽くそうと足掻く亡霊と、なんら変わりないと思えてしまったからだ。
自分の存在を認識されず追い込まれた亡霊と、自分で存在を認識できず追い込まれた人間と。その二つにさして違いはないように思えて、次いでそれが名を捨てた自分と重なった。嫌な気持ちになって、司は横になる。そこで玄関の方で鍵が開く音がしたので、長く垂らして寝転がったまま引っ張れるようにした電灯の紐を引きタヌキ寝入りをはじめた。
背を向けた廊下側のドアが開き、司の様子をうかがう視線が足下から頭まで廻った。無視を続けると、ドアは無言で閉じられる。
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翌日もまた、六人は喫茶アーガイルの最寄り駅までやってきていた。夕方の四時ごろ、司が改札を抜けて階段を上がると、構内に設置されたベンチに腰掛けた廉太郎が携帯電話で通話しながら片手を上げた。服装は道着に袴で、少しは周囲に合わせろと思わないでもない。
「土曜は道場で稽古あるんだよ。着替えるのがめんどかっただけだし、別にいいだろ」
と、通話が終わったのか、近付いてくる司を横目で見つつ廉太郎はそう言った。司はげんなりした表情を向けながら腰掛ける廉太郎を見下ろし、閉じる瞬間の画面に「クソヤロー」と表示されていたのを確認した。
「まだ、何も言ってないよ」
「目でものを言ってただろうが」
「あ、そう。でもそもそも、サワハさんのお見舞いとか、その他学外で見かける時、廉太郎さん大体道着か和装のような気がするんだけど」
「それがどうかしたか?」
「目立つ」
「無個性に埋没してる奴ゆえの言い分だな」
「いいじゃん。パーカ好きなんだから」
「パーカとか帽子の着用を好む奴は外部の視線を気にするためにそういう視線を遮るものを好み、また誰かに嫌われたくないっていう強迫観念から八方美人でいるが情は薄いために裏切ることが多い。と心理学の統計で出てるらしいぜ」
ぎくりとした司は自分の着ている七分袖で紺色のパーカの裾をつかんだ。と、そこでにやにや笑う廉太郎の顔が視界に入り、からかわれていたと気付く。司は無言で向こうずねを蹴り飛ばした。廉太郎は涼しい顔で口笛を吹いていた。
「効かんわ。こちとら日々ビール瓶で叩いて鍛えてんだ」
「なんて無駄な努力を」
「今お前の攻撃無効化して無駄じゃなかったことが証明されたじゃないか。けどまあそう怒んなよ、俺もさっき踊場の野郎に似たようなこと言われてむかっとしてたからついやっちまっただけなんだ。お前も誰かにリレーすりゃいい」
「さっきて。やっぱりあの『クソヤロー』って通話相手、踊場さんだったんだ」
「他にそんな呼び方されるべき性悪がいるか?」
「今目の前にいる、って言っていい?」
そんな益体も無い話をしているうちに、小野が階段を上ってきて現れる。小野はブラウスを着た上からサスペンダーをデニムのハーフパンツまで伸ばし、レギンスとミュールを穿いていた。普段はワンピースやスカートなどおとなしい印象の服装が多いので、なにやら司の目には新鮮に映った。
おまたせしました、とキャスケットを押えて言う小野に、少し考えた上で司は言葉をかける。
「あれ、なんか今日雰囲気ちがうね」
「……安い軟派の常套句みたいなこと言いますね」
「でも似合ってると思うよ? うん、活動的な感じで」
「普段は活動的じゃないということですか?」
「いや活動的でもそうじゃなくても、結構なんでも似合うなぁと」
「あの、司さん。言葉を重ねるほどに軽薄な印象を受けるのですけど」
からかい半分ではあったが、半分は本音で褒めたつもりだったので司は少し傷ついた。にやにや笑いをまだ続けていた廉太郎も、顎に手を添えながら屈んで小野を見た。品定めするような目だった。
「ほほう。中身が鉞でもラッピング上手く整えりゃ見れるもんだな」
「……廉太郎さん今日わたしワンピースじゃないので思い切りハイキック打てますけどいいんですか屈んでて。今の間合いでその高さだといい具合にこめかみに当てられますよ」
「うわあぶね、あっぶねっ! やめろその靴微妙に先端とがってんだろ抉る気か!」
失言のために廉太郎が追いまわされるのは、いつも通りな感じだった。司は笑ってそれを見て、少し落ち着く。じつは内心、昨日聞いた打ち明け話のために小野とうまく接することができるか心配だったのだが、それは杞憂であったと判じることができたためだ。
しかし、ちらりと小野と目が合う。軽口をたたく際には服を見ていたためわからなかったが、少し戸惑っているように見える目だった。
(……完全に気にせず済んでるわけじゃ、ないんだね)
それでも普段通りの振る舞いをできるよう努めてくれている小野に、司は感謝したい心持ちになった。その心情の変化に司は自身で驚いて、次いで、昨晩嫌なことを思い出したせいで自分も戸惑い、焦っているのだろうと思った。
「おまたせヨー」
気持ちに折り合いをつけようとあがいていると、今日はいつもの凝った髪型ではなくポニーテールにしたサワハが、裾を縛った半袖の黒いシャツとスキニージーンズに身を包んで歩いてくる。足下はかっぽらかっぽら、音を立てる雪駄が目に付いた。
逃げ回っていた廉太郎も柱の陰から顔を出して、サワハに声をかけた。
「よおサワハ。昨日と変わらずテキトーな格好だな」
「適当イイこと?」
「そりゃ、時と場合と場所によりけりだな」
「時と場合と。あー、TPOのコト?」
「……ん? 今なんか正しいゆえに違和感があった気がするのだぜ」
「気にする良くないのコト」
「ああよかったいつも通りだな、いてっ!」
妙な納得をしている廉太郎の背中に前蹴りを浴びせて、踏み痕を残した小野がやっとサワハに気付き、服装をじっと上から下まで見つめる。数秒で結論を出し、司に同意を求めるように振り向きながら告げた。
「いいと思いますよ。ねえ?」
「あははは。小野ちゃんもちょっとボーイッシュ格好、似合てるヨ」
「ありがとうございます。サワハさんも活動的でよくお似合いですよ」
「おう、褒められた褒められた」
照れた笑みを浮かべて、おばさんくさい所作で片手を振り「やーネー」とサワハがつぶやく。司は「自分が褒めるのとサワハさんに褒められるのはいいのか……」と小野に対してやりきれない気分になったが、サワハの乱入で悩んでいた気持ちがすっとどこかに消えていたので、仕方ないかと溜め息をついた。
「……じゃ、行くか。天候も、そろそろ頃合いだろうしな」
「そうしますか」「うん」「了解よー」
蹴りの衝撃でずれた眼鏡を元の位置に戻し、背中を押える廉太郎を先頭に四人は動き出した。地下鉄で移動するのはこの四人だけで踊場はバスに乗ってくるそうなので、司たちは先にアーガイルへ向かうこととする。
「近いんだから会長の家でもいい気がするけどなぁ」
「それは、少し厚かましいようにも思えますし」
「え、でもこの前訪ねた時はいつでもいらっしゃいって言われたよ?」
「社交辞令というものでしょう」
きっぱりと小野に言いきられると確かに自分が厚かましいようにも思えて、司は「反省します」と答えた。ところが小野はその対応には「いえあの、そこまで言わなくとも。会長は……その、良い人ですから」と慰めなのかなんなのかよくわからない答えを返してきて、その言葉尻は雨水を跳ねあげる車の走行音で掻き消された。
地上では雨が降りしきっており、街全体に染み込んだそれはビル群を灰にけぶる色合いに仕立て上げている。司は持参したビニール傘を掲げて進み、小野やサワハもそうした。
廉太郎は一人、蛇の目傘を差して口笛を吹いている。
「…………、」
半透明のビニール越しでも目立つ彼を振りかえり盗み見て、他人のふりをしたくなった司は歩幅を広くとる。すぐに小野も横に並んできて、ああ逃げたかったんだなと親近感を覚えた。
そのまましばし歩き、橋を越えたすぐのところに、アーガイルが見えてきた。店の前には赤い傘を差した口論義が立っていて、司たちに気付くと手を振る。
「先に、中入ってればよかったのに」
「ところが司ちゃん、今日臨時休業みたいなのよ」
革のサンダルで足下の水たまりを蹴る口論義は、湿気のためかしんなりした毛先をいじくっていた。わりと大きく跳ねた水が、彼女の穿く白いキュロットスカートにまで届きそうになる。
「機器の故障だって。残念だけど他に行くしかないわ」
「また昨日のファミレスか?」
「ドリンクバーも二日連続するは飽きるカモねー」
廉太郎とサワハが愚痴をこぼすように言うと、口論義は所在なさげに肩をすくめた。その動作がいかにも年長者の風格を漂わせて、若草色のキャミソールに薄墨色のドレープカットソーをまとった格好も、雨天の中で良い意味で浮いている。
「でもこの近所の他のファミレスとか喫茶店は長時間居座ると嫌な顔されるのよね」
「会長の家は?」
「あたしの家? ……っていうのは、ちょっとね。この人数だと手狭だし……そうそう、今日はお父さんも帰ってきてるから、うん」
なぜか小野の方を一瞬見て、口論義は幾度か小さくうなずいた。親がいるからという理由には司も思うところあったのでそれ以上の追求はせず、ドリンクバー目指して元来た道を歩き出したサワハを追って、全員で移動を始めた。
司の後ろ、殿で並んだ小野と口論義は、少しの目配せのあとに二言だけかわす。
「いい具合に、雨降ってるわね」
「はい。あとは追うだけかと」
――昨日の間にほぼ済ませた、被害者たちの共通項・失われたリンクの洗い出し。それら情報により割り出した、小さく些細なフォッグマンの規則性。
いよいよ本日は、小野がその規則に基づいて行動することで、核心に迫る。
「今度こそ、なにかに繋がるといいですね」
「繋げてみせる、と信じましょうか」
角の席を占領した五人は、ウエスタンシャツに褐色のベストを合わせた踊場が「開拓時代か」と廉太郎からのツッコミを受けつつやってきたのを見てから手早く注文を済ませる。
届くまでの間に机の隅にスペースを作り上げ、踊場が昨日のうちにまとめあげた資料を置いた。そこにはフォッグマン事件の詳細な全容が調べ上げられている。それも五件のみならず、昨日起きたばかりの六件目についてまで、である。
「ホント、どこから仕入れてくるのこんな情報」
「知りたいかい?」
「……やっぱいいやめとく」
目の下にくまを宿して虚ろな目で笑う踊場を見ていると嫌な予感しかしないので、司は丁重に辞した。
広げられた資料の中には、被害者の連れ去られた状況、フォッグマンと共に行動した室内の様子、会話内容、会話時間、などが事細かに記されている。その中からまとめあげた情報の一枚を、踊場が取り出して読みだす。
「さて。こうして我々はフォッグマンの出現条件や目的を割り出すべく、被害者の状況などからその行動の規則性を割り出さんとしてきたわけだけれど。結論から言わせてもらうと、目的についてはさっぱりだったわけなのだよ」
左から右へ、視線をスライドさせて読みつつ踊場は断ずる。それについては皆も承知のことなので、それぞれからうなずきが返されるのみだ。踊場はわずかに紙から顔を上げて皆の反応をうかがってから、続ける。
「だが目標、というていどの小目的。それと思しきものは、少しだけ見当がついた。いや、目標というのも正鵠を射てはいないのかな……」
「早くしろ踊場。俺は道場行ってきたとこだから疲れて腹へってんだ。メシが運ばれてきたらお前の話を聞く余裕はないぞ」
「別にきみに話しているわけではないのだけどね。まあ言うこともわからないではないし、さっさと済ませてあげるよ。……調べたところ、フォッグマンは犯行の最中、音楽を聴いていることが多かったらしい」
「どこのどなたのどんな音楽なのカナ?」
「単調な繰り返し、それでいて気分への鎮静作用がある曲さ。自分でイヤホンで聞いていることもあれば、入った部屋の中でかけていることもあったらしい。メロディーを聴きだしてもわからなかったからマイナーな曲だと思いインディーズなども当たってみたが、どこにもそれらしき曲はなかったよ。恐らくはフォッグマンが自ら作り出した曲だろう。歌詞も多少は入っていたようだが、そのどれもが暗く、やたらと終わりを暗示するような内容となっていたらしい」
具体性は無いものの不気味な内容であることに、司は嫌な心地になった。
お冷の中で氷がからりと動き、踊場は目線をそちらに落としながら、窓の外を指さす。
「ところで雨音にも鎮静作用がある、という話くらいは知っているのではないかな? つまり、これは二重の鎮静作用なのさ。また単調な繰り返しの曲は聴く者の思考を鈍化させ、反抗する気力を削ぐ。その上で、暗い歌詞をも聞かされる。更に言うのなら毎度毎度、フォッグマンは誘う際の文句を除いて部屋に入ってからのパターンが同じ――口論義、もうわかったろう」
「識閾下投射法ね」
「なんですか、それ」
「サブリミナル効果って言えばわかるかしら。映像や音楽などにほんのわずかずつ、認知しづらいくらいの音や絵を織り交ぜることで刺激を与えて、無意識下にその印象を認識させて被術者の行動に反映させるって奴」
「わかりやすく俗っぽい説明をするならば、簡易版の催眠術というものだよ」
「催眠?」
問う司にうなずいたのは机に頬杖ついた口論義だった。どこか憂いを帯びた、なにか嫌気がさしたような表情で、お冷をあおって小さく溜め息をついた。また引き継いだ踊場。
「フォッグマンは毎回同じ会話をした。それは、パターンを外れるわけにはいかなかったからだろう。またその会話の中で時折、小さな命令などをしたそうだ。そして被害者たちはおおむねそれに対して、『反抗する気力自体が湧かなかった』という」
「……フォッグマンがやってたのはただの監禁じゃあ、ないの。おそらくはその相手になんらかの暗示を与える、催眠実験なのよ」
次回、GW編終幕。だれかのあくい。
その次は六月に入り、学習合宿編