第6話:高熱に喘ぐ師匠と、一切の粘膜接触を回避する完全気化式・投薬術
魔女の塔に、朝から重苦しい空気が漂っていた。
大魔女であり僕の師匠であるエレノア・ヴェルベットが、珍しく寝込んでしまったのだ。
「げほっ、ごほっ……うぅ、頭が痛いわ……」
薄暗い寝室。天蓋付きのベッドで、師匠は顔を赤くして荒い息を吐いていた。
無理もない。
いくら『大気中のマナを皮膚呼吸で取り込むための魔術的理論』とはいえ、連日連夜、極寒の石造りの塔で極限まで布面積を削った格好(ビキニアーマーや革紐)で過ごしていれば、肉体が悲鳴を上げるのは当然の理だ。
しかし、師匠はその不調すらも崇高な理由へと結びつけていた。
「ごめんなさいね、アルド……。昨日の霊泉での魔力拡張が過ぎて、一時的な『魔力熱』を出してしまったみたい……」
「謝らないでください、師匠。すべては高みを目指すための反動。弟子である僕が、全力で看病いたします」
僕はベッドの傍らに立ち、深々と頭を下げた。
今日の師匠は、熱を発散させるためか、いつにも増して薄く、そしてはだけやすいシルクのネグリジェ一枚という姿だ。汗ばんだ肌がシーツに絡みつき、荒い呼吸に合わせて豊満な胸元が上下している。
色香という言葉では生ぬるい、暴力的なまでの艶かしさ。
だが、今の僕は微塵も揺るがない。病に伏せる恩師に欲情するなど、言語道断である。
「師匠、特製の『月光草の霊薬』を煎じてまいりました。これを飲めば、熱などすぐに下がります」
僕は湯気を立てる小瓶を差し出した。
しかし、師匠は弱々しく首を横に振った。
「だめよ、アルド……。今の私は魔力回路が熱で暴走して、喉の粘膜が完全に閉ざされているの。普通に飲んでも、吐き出してしまうわ……」
「そんな。では、どうすれば」
「……『魔力結合』による、直接投与が必要ね」
師匠は潤んだ瞳で僕を見上げ、そっと熱い吐息を漏らした。
「貴方の魔力で薬効を包み込み、直接、私の粘膜から体内へ流し込んでほしいの。……そうね、最も効率が良いのは、口と口を重ねて、少しずつ注ぎ込む方法かしら」
「なっ……!?」
口移し。
その単語が脳裏をよぎった瞬間、僕の強固な精神防壁にピキリと亀裂が走った。
(ば、馬鹿な! いくら医療行為とはいえ、師匠と唇を重ねるなど! そんなことをすれば、僕の理性が吹き飛び、師匠を押し倒してしまう危険性が……ッ!)
僕は震える手で小瓶を握りしめた。
しかし、師匠は本気だ。彼女の瞳には「さあ、早く私の唇を奪って薬を飲ませなさい」という、切羽詰まった……いや、切実な訴えが宿っている。
「……早くして、アルド。熱で、頭がどうにかなってしまいそう……」
「っ!」
僕は極限の思考を巡らせた。
師匠の言う通り『粘膜からの直接投与』が必須なのだとしたら。
そして、僕の口から直接流し込む行為が『色欲による魔力ノイズ』を混入させる危険性を孕んでいるのだとしたら。
僕が取るべき行動は一つ。
『物理的な接触を一切絶ったまま、薬効成分を粘膜に直接届けるシステム』を構築することだ。
「師匠、ご安心ください。貴方の教えを受けた僕なら、もっと安全で確実な方法で投与できます!」
「えっ? ちょっと、アルド、何を……」
僕はベッドから一歩下がり、小瓶の蓋を開けた。
そして、空中に向かって術式を展開する。
「風属性魔法『微風』、並びに火属性魔法『温熱』、そして無属性魔法『念動力』の多重詠唱!」
小瓶から緑色の霊薬がふわりと浮かび上がる。
僕はそこに適度な熱を加え、霊薬を一瞬にして『超微細な蒸気』へと変換した。
さらに、風の魔法を使ってその蒸気をドーム状の気流に乗せ、ベッドに横たわる師匠の顔の周囲に展開したのだ。
「名付けて、完全気化式・強制吸入結界です!」
「けほっ!? な、何これ!? 息が、緑色に……っ!」
師匠の顔の周りだけが、濃厚な回復の蒸気で満たされる。
これならどうだ!
口移しなどという不純な接触をせずとも、呼吸をするだけで、鼻腔と口腔の粘膜からダイレクトに薬効成分と僕の魔力が浸透していく完璧な医療システムだ!
「素晴らしい……! 蒸気化することで薬効の吸収率が通常の三百パーセントに跳ね上がっている! さあ師匠、深く深呼吸を!」
「げっほ、ごっほ! む、むせるっ! アルド、煙い! 煙いわよぉっ!」
高濃度の霊薬の蒸気を強制的に吸わされた師匠は、ベッドの上でのたうち回った。
しかし、その効果は絶大だった。
咳き込むたびに彼女の顔色から不自然な赤みが引き、荒い呼吸はみるみるうちに正常なものへと戻っていく。魔力熱など、この高濃度吸入システムの前では数秒で消し飛ぶのだ。
「よしっ! 熱が引きましたね、師匠!」
僕は術式を解除し、換気の魔法で部屋の空気を入れ替えた。
ベッドの上には、熱は完全に下がったものの、薬の蒸気を吸いすぎて涙目になり、肩で息をしている師匠がいた。
「……はぁ、はぁ……」
「お見事な回復力です。やはり、粘膜からの気化吸入は正解でしたね。これなら、僕の邪念が混入する隙もありませんでした」
「…………」
師匠はゆっくりと身を起こし、乱れたネグリジェの胸元を力なく押さえた。
そして、僕を虚ろな目で見つめる。
「……アルド」
「はい、気分はいかがですか?」
「貴方、私とキスするくらいなら、私がむせて死にそうになる方を選ぶの……?」
「滅相もない! 僕の未熟な精神では、直接の接触は医療事故(不純な暴走)を招く危険があったため、最も安全かつ合理的な最適解を導き出したまでです!」
「その合理性が憎いわぁぁぁぁっ!!」
ボンッ! という音と共に、師匠が枕を投げつけてきた。
僕はそれを素早く身を屈めて回避する。
なぜ怒られているのかは分からないが、師匠がすっかり元気になったことだけは確かだ。
僕のステータス画面には、いつの間にか【微粒子操作(極)】と【状態異常回復(広範囲)】という高度なヒーラースキルが刻まれていた。
病の治療すらも、魔術の深淵に至るための修練へと変えてしまう。
師匠の底知れぬ指導力に、僕は改めて深い尊敬の念を抱きながら、床に落ちた枕をそっと拾い上げるのだった。




