第4話:高濃度液状マナの泉と、完全同化する弟子
魔女の塔の地下には、広大な自然洞窟が広がっている。
そこには地脈から湧き出る、淡く発光する温泉――通称『霊泉』があった。
「いいこと、アルド。水というのは極めて優秀な魔力伝導体よ。この霊泉は、大地のマナが液状化した高濃度のエネルギー溜まり。ここに浸かることで、全身の魔力回路を強制的に拡張させることができるわ」
湯けむりが立ち込める岩風呂の縁で、師匠であるエレノア・ヴェルベットは滔々と語った。
その声は洞窟内に心地よく反響しているが、僕の耳には半分も入ってきていなかった。
なぜなら、師匠が一糸纏わぬ姿だったからだ。
「……当然、衣服は魔力吸収の重大な阻害要因になる。だからこうして、生まれたままの姿でマナの奔流に身を委ねる必要があるの」
「は、はい。理解しております、師匠」
僕は岩壁に背を預け、首までお湯に浸かったまま、引きつった声で返事をした。
師匠もまた、お湯に浸かっている。
しかし、霊泉の湯は透明度が高く、淡い発光のせいで、水面下のなめらかな曲線美が余計に強調されてしまっている。立ち上る湯気ごしに見る師匠の濡れた銀髪や、上気した桜色の頬は、破壊的としか言いようがなかった。
「ふぅ……でも、この霊泉は少しマナの波が荒いわね」
バシャッ、と軽い水音を立てて、師匠が僕の方へとにじり寄ってくる。
お湯の抵抗を物ともせず、たっぷりと水を吸った柔らかな質量が揺れる。僕は思わず息を呑み、視線を天井の鍾乳石へと逃がした。
「魔力酔いを防ぐためには、波長の合う者同士で手を繋ぎ、アンカーの役割を果たす必要があるわ。……ほら、アルド。私の手をとって」
「っ!」
差し出された白い手。
そして、あと数十センチで肌と肌が触れ合ってしまう距離。
師匠の甘い吐息が、温泉の熱気と混ざり合って僕の理性を容赦なく削り取っていく。
(落ち着け、僕! これは高度な魔術修行だ!)
心の中で激しく警鐘が鳴り響く。
師匠は「手を繋ぐだけ」と言っているが、この距離感だ。お湯の中では浮力もある。何かの拍子で密着してしまえば、先の『魅了魔法』をも跳ね返した僕の精神要塞すら、内側から瓦解しかねない。
僕は考える。
師匠から教えられた通りの手順をなぞるだけでは、この極限状態は乗り切れない。
安易な正解に頼るのではなく、己の頭で考え、この過酷な状況における『最適解』を手探りで導き出すのだ。それが、真の魔術師というものだろう。
(液状化したマナ……全身の魔力回路の拡張……そうか!)
僕は一つの真理に到達した。
師匠は「お湯に浸かる」と言った。しかし、それでは不完全だ。
外側から触れるだけではなく、内側から、文字通り『マナと一体化』しなければ、真の魔力拡張など成し得るはずがない。
中途半端に水面に顔を出しているから、視覚や聴覚といった『煩悩』に囚われるのだ。
「師匠。ご厚意には感謝しますが、手は繋ぎません」
「……え? どうして? 魔力酔いで倒れちゃうわよ?」
師匠がキョトンと首を傾げる。
僕は深く息を吸い込み、決然と告げた。
「僕は今から、この霊泉そのものになります」
「は?」
「ご指導、感謝いたします。――沈ッ!!」
僕は岩風呂の底へ向かって、勢いよく潜水した。
「ちょっ、アルド!? 何やって――」
水面上で師匠が慌てる声が、ゴボボボという水音にかき消される。
僕は水深二メートルほどの岩風呂の底に胡座をかき、目を閉じた。
熱い。そして息が苦しい。
だが、僕は肺の中に残った空気を少しずつ吐き出しながら、周囲の液状マナを皮膚呼吸の要領で体内へと循環させ始めた。
視覚を切り、聴覚を塞ぎ、ただひたすらに魔力の流れと同調する。
(僕は水……僕はマナの奔流……僕という個の境界線を溶かし、大いなる泉の一部となるのだ……!)
苦しさは最初の数十秒だけだった。
やがて、僕の体内を巡る魔力回路が霊泉の成分と完全に同期し始めた。
気道ではなく、魔力回路を通して酸素とマナが直接供給される感覚。脳髄が痺れるほどの全能感が体を包み込む。
チリン、と脳内で心地よい音が鳴った。
どうやら、新たなパッシブスキル【水棲】と【環境同化】、さらに【気配遮断(極)】を同時習得したようだ。
これで完璧だ。
僕はただの『魔力を帯びた岩』と同化した。
これなら、どんなに師匠が魅惑的な姿でお湯の中を歩き回ろうとも、僕の精神が乱されることはない。
僕は圧倒的な平穏の中、永遠とも思える深い瞑想の世界へと沈んでいった。
***
――約一時間後。
「ぷはぁっ!」
僕は勢いよく水面に顔を出した。
全身の魔力回路はこれまでにないほど拡張され、体の芯から力が湧き上がってくる。最高の修行だった。
「ふぅ、素晴らしい霊泉でしたね、師匠! おかげで新たな境地に――」
顔の水を拭いながら振り返った僕は、言葉を失った。
岩風呂の隅っこ。
そこには、バスタオルにくるまり、膝を抱えて小さく丸まっている師匠の姿があった。
その肩は小刻みに震え、ポロポロと涙をこぼしている。
「し、師匠!? どうされたんですか、そんな隅っこで震えて……! 湯冷めしてしまいますよ!」
「……っ、バカァ……ッ!」
「えっ」
「急に沈んだかと思ったら、いくら探しても底にいないし……! 気配も完全に消えるし……! 私、アンタが溺れて死んだか、排水溝に吸い込まれたかと思って、一時間も素潜りでお湯の底を探し回ったのよぉぉぉっ!!」
「はっ!? そ、それは申し訳ありません! 【環境同化】スキルが働きすぎて、ただの岩と認識されていたようで……!」
僕が慌てて近寄ろうとすると、師匠は「来ないで!」と涙目でバシャバシャとお湯をかけてきた。
「アンタなんか知らない! せっかく背中の流し合いっこしようと思ったのに……ただの冷たい岩と混浴してた私の気持ちなんて、一生分かんないわよ!!」
師匠は泣きじゃくりながら、脱衣所へと走っていってしまった。
残された僕は、ただ一人、お湯の中で首を傾げていた。
背中を流すなら、わざわざお湯に浸からなくても洗い場でやればいいはずだ。やはり、魔力拡張の修行に集中しなかった僕への厳しい叱責なのだろう。
(なんて深い愛情だ……僕が独自の術式開発に夢中になっている間、僕の身を案じて一時間も捜索してくださったなんて)
師匠の愛の鞭に、僕は胸を熱くした。
次こそは、決して師匠に心配をかけず、かつ煩悩を払拭する完璧な修行を見せなければ。
僕はさらに強くなることを固く誓い、誰もいなくなった霊泉で、再び静かに潜水を開始するのだった。




