第2話:深夜の寝室と、絶対不動の抱き枕
先日の『オイルマッサージ特訓(という名の背中流し)』から数日。
僕、アルドの魔力制御技術は飛躍的な向上を見せていた。
目を閉じた状態でも、周囲十メートル以内の魔力の流れを完全に把握できる。これはもう『心眼』と呼んでも差し支えないレベルだ。
すべては師匠、エレノア・ヴェルベットのおかげである。
彼女の過激……いや、合理的な指導がなければ、僕は未だに視覚情報に頼る三流魔術師のままだっただろう。
そして今夜。
僕は再び、師匠の寝室に呼び出されていた。
「……失礼します、師匠。夜分にどのようなご用件でしょうか」
重厚な扉を開けた瞬間、甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。
部屋の照明は極限まで落とされており、暖炉の炎だけがゆらゆらと壁に影を落としていた。
そして、天蓋付きの巨大なベッドの中央に、師匠はいた。
「よく来たわね、アルド。……寒くはない?」
師匠が身を起こす。
その瞬間、僕は反射的に瞼を閉じそうになったが、前回の特訓の成果か、なんとか薄目を開けて状況を確認することができた。
師匠は、着ていなかった。
いや、正確には着ている。着ているのだが、その素材が問題だった。
それは蜘蛛の糸よりも細い繊維で織られた、極薄のネグリジェだった。布地があまりにも薄く、透けているどころか、肌の色がそのまま透光している。まるで朝霧を纏っているかのような、儚くも暴力的な美しさだ。
「し、師匠……そのお姿は……?」
「ふぅ……。夜のマナは冷えるわね」
師匠は艶然と微笑み、ベッドの空いているスペース――彼女のすぐ隣――をポンポンと叩いた。
「単刀直入に言うわ。今夜はここで、私と共に眠りなさい」
「……はい!?」
僕の素っ頓狂な声が寝室に響いた。
一緒に寝る? 師匠と? このダブルベッドで?
「か、勘違いしないでね。これも重要な儀式なの」
僕の動揺を予期していたのか、師匠は流れるような口調で説明を始めた。
「魔術師の魔力は、睡眠中に最も無防備になり、外部へ拡散してしまう性質があるわ。特に私のような高位魔術師となると、寝ているだけで周囲のマナを乱してしまうの」
「そ、それは初耳です。さすがは師匠、規模が違う……」
「そこで必要なのが『魔力共鳴』よ。波長の合う弟子と共に眠り、互いの魔力を循環させることで、流出を防ぐの。……つまり、一種の魔力補給ね」
なるほど、完璧な理論だ。
確かに魔力枯渇の治療法として、他者と魔力を循環させる手法は聞いたことがある。それを睡眠学習に応用しようというのか。
「さあ、早くこっちへいらっしゃい。……それとも、師匠の体が冷えてもいいと言うの?」
上目遣い。
その破壊力は、戦略級攻撃魔法に匹敵した。
僕はゴクリと喉を鳴らし、一歩前へ出る。
これは修行だ。医療行為だ。師匠は寒がっている。弟子として、暖める義務がある。
だが、ここで致命的な問題が発生する。
(待てよ……。起きている間なら、理性で本能を抑え込める。だが、寝ている間はどうだ?)
睡眠中は無意識だ。
もし、夢の中で師匠を抱きしめてしまったら?
あまつさえ、寝ぼけて不埒な箇所を触ってしまったら?
ましてや、男としての生理現象が、神聖な師匠の太ももに当たってしまったら――!?
(ダメだ! それは万死に値する! だが断れば師匠は凍える! どうすれば……ッ!)
ベッドの端に腰掛けながら、僕は必死に思考を巡らせた。
師匠はすでに毛布を少しめくり、僕を招き入れている。その顔は期待に満ちて……いや、慈愛に満ちている。
無意識の自分を制御する方法。
睡眠中であっても、指一本動かさず、ただ魔力の循環だけを行う方法。
――あった。
禁断の奥義が、一つだけ。
「……師匠。光栄です。僕の未熟な魔力でよろしければ、いくらでも循環させてください」
「ええ、ええ! 遠慮しなくていいのよ。寒かったら、くっついても構わないから……」
師匠が顔を赤らめて囁く。
僕は覚悟を決めた。
横になり、師匠の方を向く。甘い香りが脳を蕩かそうとする。
だが、僕はその誘惑に抗うように、体内の全魔力を練り上げた。
展開するのは、土属性の上位防御魔法『金剛石の守り』。
さらに、自分自身に『身体拘束』と『感覚遮断』を多重詠唱。
(術式定義――対象、自分自身。効果、完全なる不動。解除条件、朝日が昇るまで!)
カチリ。
僕の体から生体反応が消えた。
筋肉は鋼鉄のように硬直し、呼吸は極限まで低下し、心拍数すら岩のように落ち着いた。
僕は今、人間ではない。
ただのマナ循環装置付きの『石像』となったのだ。
これなら、どんなに師匠が寝返りを打っても、僕が反応して襲いかかることは物理的にあり得ない!
おやすみなさい、師匠!
意識が急速に遠のく中、僕は自分の完璧な仕事に満足して深い闇へと落ちていった。
***
翌朝。
チュンチュン、という小鳥のさえずりと共に、セットしていたタイマー術式が起動し、僕の金縛りは解除された。
「……はっ! 朝か!」
僕はガバッと起き上がった。
体はバキバキに痛いが、精神は驚くほど澄み渡っている。
横を見ると、師匠はまだ眠っていた。
しかし、その顔色は優れない。目の下にはくっきりと隈ができ、髪はボサボサで、なぜか不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
「師匠? おはようございます。よく眠れましたか?」
「…………」
師匠が重たい瞼を開けた。
その瞳には、深い絶望と、行き場のない憤怒が渦巻いていた。
「……アルド」
「はい!」
「貴方、死んでたの?」
「いえ! 師匠に不敬を働かぬよう、自己石化魔法の応用で、一晩中『直立不動』を維持しておりました!」
「…………」
師匠は震える手で枕を握りしめた。
「……硬いのよ」
「え?」
「抱きついたら、城壁みたいに硬くて冷たいのよ! それに何あの呼吸法!? 一分間に一回しか息してなかったわよね!? 死体安置所で寝てる気分だったわ!!」
「も、申し訳ありません! まだ修行不足で、石化の質感までは調整できず……!」
「そういう問題じゃなぁぁぁぁいっ!!」
師匠の絶叫が塔に響き渡る。
僕は怒られながらも、密かにガッツポーズをした。
昨晩の過酷な『自己封印』のおかげで、僕のステータスには新たに【不動心(物理)】と【状態異常無効】というレアスキルが追加されていたからだ。
やはり師匠の修行は厳しいが、確実に実を結ぶ。
次はどんな試練が待っているのだろうか。僕は期待と不安を胸に、不機嫌な師匠のために淹れたてのコーヒーを用意するのだった。




