第5話「笑顔は苦手だ」
なぜ彼が笑顔を見せるのか、ヴィルヘルミナには分からない。
誰かに感謝されると嬉しい。たったそれだけで他人に手を差し伸べることを厭わない。なんとも理解しがたい感情で、その『ありがとう』のために、自己犠牲が成り立つはずがないと思った。
「感謝されることの何が嬉しいのか分からない」
「今はまだそうだろう。君が感謝されたいと思わなくてもいい。でもその代わり、誰かに手を貸してもらったら、笑顔でありがとうと言うんだよ」
幼い子供が世間の全てを理解しているはずもない。積み上げていくのは、これからの長い人生の中での最初の難関だ。不思議そうに、納得ができなさそうに眉間に僅かなしわを作っている少女に、マーロンはうんうんと楽し気に。
「これから君は子爵家に入り、多くのことを学ぶはずだ。大変だろうけど頑張るんだよ、ミナ。人の善意にも悪意にも触れて、誰が見ても笑顔が美しいと言われるような立派な大人になりなさい」
まだ腑に落ちないところはあった。多くの人間の善意にも悪意にも触れてきた。どちらとも、心を動かしてくれるようなものではなかったが、多種多様な人間を見てきて、それがどういうものかは理解しているつもりだった。
だから、触れたとて、成長するものが得られるのかと懐疑的だ。誰が見ても笑顔が美しい人間というのは、どれほどの善人であるのか。自分には未来永劫分からない感覚でしかないのかもしれない、と深くは考えなかった。
「そうだ、ミナ。まずは笑顔の練習でもしてみようか。別に本心でどう思おうと構わないが、愛想の振り方というのは覚えておいて損はない」
「社交界に興味がなくても?」
かつてヴィルヘルミナも、類稀な実力から多くの貴族の援助を得てきた。接触する機会も多く、社交界にも顔を出したのでどんな場所かは良く知っている。冷血な人間だがそれがまた良いのだと令嬢たちの注目の的でもあった。
しかしながら社交界に蔓延する悪意は、お世辞にも興味を惹くとさえ言えないほど退屈なものだ。富と名声、権力を誇示するだけで、何の成長性もない。そんな人間たちに愛想を振りまく理由がない、と切り捨てようとする。
マーロンは、そうだね、と申し訳なさそうに言った。
「確かに良い場所ではないし、君のような本の虫には価値すらないかもしれない。だけど、愛想よくしているだけで君の印象はがらりと変わるものさ」
そういうものか。ヴィルヘルミナも、なんとなく理解して納得する。
「さあ、ほら。笑顔だよ、ミナ」
「できなくない。これでどうだろうか?」
「……うん。何かを企んでるような良い顔だね」
明らかに褒めていない。気まずそうにされると、流石に感情の起伏が少ないヴィルヘルミナでも、少しは凹んだ。なんでも完璧にこなせると思っていたから。
「(そうか、私には笑顔の才能がないのか。当時はくだらない余興のひとつだと切り捨てたが、演劇も学んでおくべきだったのかもしれない)」
自分にとってメリットのないものには手を出さない。そうすることで時間の無駄を削減してきた。その判断が誤りであったと評価の再考をして、子爵家についたら最初の課題として自身の表情の作り方を学ぼうと決めた。
「ミナ。話しているうちに着いたようだよ」
馬車が止まり、マーロンは先に馬車を降りて、世間知らずの幼い少女を自分たちの暮らす世界へ導くために、エスコートする。優しく伸ばした手に、柔らかだが威厳のある言葉を乗せて。
「────ようこそ、デヴァル子爵家へ。盛大に歓迎しよう」
手を取って馬車を降りたとき、視界に飛び込んできた屋敷の巨大さときたら、外観の佇まいは大人しいのに、決して威厳を損なっていない。開かれた格子門の先に広がる庭園の美しさは、あらゆるものに価値を感じないヴィルヘルミナでも、これはよく手入れが行き届いていると感心を寄せるほどだ。
「子爵家にしては随分と大きいな」
「はっはっは! 初めての人には、よく言われるよ!」
大笑いをして嬉しそうにヴィルヘルミナの手を引いて、庭園を歩いた。
「デヴァル子爵家といっても、他に公爵位と伯爵位を持ってるんだ。なにしろ古くからある歴史の深い家門だからね。国の興りから在ると言われてる」
「ではなぜ、子爵を名乗るんだ。公爵家として名乗るのには不都合が?」
マーロンは首を横に振った。どちらかといえば何の問題もない。
「もともとは子爵から始まった家門でね。その後にどれほどの爵位を授かっても、これまでの歴代当主は全員が子爵を名乗ってきた。我が家門の誇りであり初歩を忘れないことを家訓にしているからだ。君も忘れてはいけないよ」
理由を聞くと、わざわざ深堀する必要もない。小さく頷いて────。
「わかった。子爵殿の言う通り、私も令嬢らしく振る舞えるよう努めるとも」
あまりにも大人に寄ったものの考え方をして、子供らしからぬ振る舞いをする。周囲からしてみれば可愛げのない子供のようにも映るが、マーロンはそれこそ子供らしい背伸びなのではないだろうか、と面白がって受け入れた。
「ああ、期待しているよ。あとで書庫の鍵をあげよう。きっと気に入るぞ」
「……む。それはちょっと嬉しいかもしれない」
────これが、ヴィルヘルミナの人生の始まりとも言える最初の出来事であった。




