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秘術使いの理想郷─ヴィルヘルミナの物語─  作者: 智慧砂猫


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第25話「芽生えつつある感情」

 何かを恥ずかしい、と思ったことはこれまで一度もない。失敗は日常茶飯事だ。何かをしてもらった「ありがとう」と言うのが普通だと思っていたので、食事をもらうときも、飲み物を淹れてもらった時も、研究に必要な道具を借りるときでも、何度だって口にしてきた言葉だ。なのに、なぜか今は言えなかった。


 言おうとすると、口を衝いて出るのは反抗的な言葉ばかりで、してもらったことに「ありがとう」と言えない。言おうとしてフランチェスカを見る度にどきどきして、うまく言葉が出ていかなかった。


「何を恥ずかしがっているんだ、私は……。馬鹿馬鹿しい」


 誰かから受け取る温かな気持ちが、むず痒かった。かつてマーロンから受けた恩とは違う、利益を完全に度外視した、ただ相手のためを想っての行動。理解ができない無駄にも感じることを平然とやるフランチェスカが眩しく見えたせいだ。


 それを何と表現していいかが分からない。とにかく、どうしても面と向かって礼を言うのが恥ずかしくて、どうしたものかと頭を抱えたくなった。新たな魔法を開拓するよりもずっと難しいではないか、と。


「なあ、おい。いつまで入ってんだよ?」


「開けるな、馬鹿」


 顔に投げられたタオルを掴んで、フランチェスカがヘヘッと笑う。


「男に見られたわけじゃねえんだ、減るもんじゃねえだろ」


「男に見られても減るわけじゃないが常識的な行動というものがある」


 指摘されても知ったことかとばかりにフランチェスカが狭いシャワールームに押し入ってくる。ヴィルヘルミナはさっさと追い出されてしまった。


「ったく、アタシだって寒いんだからな。カエデがココア置いてってくれたから飲んで待ってろ。後でまた食堂にでも行こうぜ」


「……あぁ、ゆっくり待ってるよ」


 替えの制服もないので、持ってきていた私服に着替える。いかにもお嬢様な雰囲気の、キャバリアブラウスに真っ黒のスカートを穿いて、コーヒーテーブルに置かれた湯気の立つココアのカップに手を伸ばす。


「今日は随分と疲れたな」


 いっそこのまま眠りたい、とも思う。喉に流し込むココアの甘ったるさが、より疲れを実感させた。緩やかな時間。耳に聞こえるシャワーの音とフランチェスカの鼻歌が、いつにも増して安らぎを与えた。


「……眠るには早すぎるか」


 時計はまだ昼間を指している。眠たくはあったが、眠るのは勿体ない。自分の机にココアのカップを置いて、魔導書製作に取り掛かろうとする。大事な自分の軌跡。積み上げてきた魔法の全てを記した本を。


「(今の魔法使いの在り方はよくない。だが、それを正したあとで私の魔導書はきっと役に立ってくれる。今はとにかく、がむしゃらに、やってみよう。かつての私が遺した自業自得の英雄の名ではなく、ヴィルヘルミナとして)」


 ひと息吐いてから、いつもより軽快に筆を走らせた。知識は永久に積み上げられていく資源だ。自分の全てが正しいとは思わない。ウォルターがそう言ったように、ヴィルヘルミナも自分の魔法が何もかも素晴らしいとは思わなかった。優れているだけで、いつかは塗り替えられることもあるだろう。だとしても、その種を撒くのは自分の仕事だ。英雄として祀られたのであれば、それに相応しいことを。


 今世の目的がハッキリ見えたおかげで、今は疲れていても気分が良かった。


「……ふふっ、なんだ。私も人間らしい」


 何事にも動じない人生を送ってきた。殺されたときですら仕方ないと思った。生まれ変わった時も、大して何も思わなかった。ただちょっと不満だっただけ。女性に産まれると魔法使いとしては、いまいち他者からの風当たりが冷たいところがあるから面倒だった。────そのすべてが、今はどうでもよかった。


 楽しい。嬉しい。些細なきっかけに心から感謝できる自分がいる。合理的でない感情も受け止めて、今という時間を手に入れた気がしたから。


「な~に、一人で笑ってんだよ?」


 背後から掛けられた声に、ばんっ! と部屋の外まで聞こえるほどの大きな音で書きかけの魔導書を閉じた。ぷるぷると震え、顔を真っ赤にする。


「お、お、お前……! いつからそこにいたんだ……!」


「あん? いつでもいいだろ。ところで、そいつなんだよ。日記か?」


「うるさい、見たら殺す。絶対に殺す」


「うおぉ……。わかったよ、もう気にしないから落ち着け。息が苦しい、このままだと本当に死んじまうって」


 胸倉を掴まれてフランチェスカが苦しそうに天井を仰ぐ。


「他人の日記覗き見る趣味なんてねーから安心しろ。たとえばそこに、お前らしからぬ超ぷりちーな言葉が書いてあったとしてもな」


「余計なことを言いふらしたら死ぬより恐ろしい目に遭わせてやるが?」


 流石にヤバいか、とフランチェスカはけらけら笑った。


「冗談、冗談。ほら放せって。腹減ったからメシ食いに行こうぜ」


「……チッ。仕方ない、今回はオムライスで手を打ってやる」


「あっはっは! オーケー、任せな。こう見えて料理は得意なんだよ」

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