3 皇帝の日常世界
深夜の皇宮で、アドリアン・ヴァン・エルドラドは一人政務室に向かっていた。二十五歳の皇帝の顔には、年齢に似合わぬ冷酷さが刻まれている。
「陛下、本日の死刑執行のご承認を……」
宰相が差し出した書類に、アドリアンは迷いなく署名した。人の命を奪うことに、一片の躊躇も感じない。感じることができない。
「次は?」
機械のような冷たい声で次の案件を求める。側近たちは皇帝の前では常に震え上がっていた。十年前から変わってしまった皇帝に、誰も本音を言うことができない。
昼間の公務を終え、夕暮れが宮廷を染める頃。アドリアンの表情に微かな変化が起こった。
眉間の皺が緩み、氷のような瞳に僅かな温もりが宿る。まるで別人のような優しさが、彼の顔に浮かんだ。
「僕は……一体誰なんだ……」
鏡の前で自分の顔を見つめながら、夜の人格「アドリー」が目覚める。昼間の冷酷な皇帝と、夜の優しい青年。二つの人格が一つの身体を共有する苦悩は、言葉では表現できないほど深い。
「弟よ、今日も民の声に心を痛めているのか?」
ルシフェル大公が現れた。アドリアンの異母兄である彼は、表面上は弟を心配するふりをしながら、密かに操作を続けている。
「兄上……」
「君がもっと冷酷になれば、この国は安泰だ。優しさなど、統治者には不要なのだよ」
偽りの助言を囁くルシフェル。彼の言葉がアドリアンの心をさらに氷で覆っていく。
夜が深まると、アドリーは一人庭園に出た。月光に照らされた薔薇園で、誰にも見せられない涙を流す。
「僕はもう……人を愛することができない……」
十年前の呪いをかけられた夜の記憶が蘇る。両親の暗殺、そして最も信頼していた兄への絶対的な信頼の崩壊。あの夜以来、アドリアンは愛することを忘れてしまった。
「お父様、お母様……僕はどうすれば……」
星空に向かって呟く声は、風にかき消されて誰の耳にも届かない。
朝が来ると、再び冷酷な皇帝の仮面を被る。夜の記憶は霧の中に消え、感情の封印が完了する。宮廷の誰も、皇帝の本当の苦しみを理解することはできなかった。
廊下をゆく皇帝の足音だけが、冷たく響いている。




